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2012年12月 8日 (土)

浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(11)

私たちの本性の必然性に基づいた欲望は十全な観念から生じたものである。これに対してそれ以外の欲望は、ものを非十全にとらえる精神に由来し、そのような欲望は、人間の能力によってではなく、私たちの外部の力によって規定されてしまう。十全な観念を持つとき私たちには、私たちの本性に基づいた能動的な欲望が生じる。反対に、非十全な観念を持っている時には、私たちは自らの本性に基づかない外部の力に受動的に依存していることになる。ここで、喜びとは「人間がより小さな完全性からより大きな完全性へと移行すること」であるから、私たちは、十全な観念を持ち、自らの本性からから生ずる欲望に従っている時には、喜びを味わい、非十全な観念を持って自らの本性から切り離された状態でいる時は、悲しみを味わうことになる。このような意味で、共通概念という十全な観念を私たちが持つとき、私たちは喜びの情動に満たされる。私たちは、人間の本質であるコナトゥスの働きによって、それが外的な理由で阻害されない限り、自己の存在し活動する力を増大するのに役立つ他の有益なものと結びつくことを止めない。この衝動=欲望を解放すること。これがスピノザの実践哲学の要である。スピノザ主義者である限り私たちは、自らが喜びを感じ自らの活動力を高めるものと結びつくことを、まるで子どもがそうである様に、止めようとしない。

 

非十全な観念とは、原因から切り離された、すなわち自らの生成因としての力を表現しない観念であり、私たちの表象・知覚・記号などすべての日常的なイマージュがそこに含まれている。スピノザは、私たちの意識のほとんどはこの非十全な認識によって覆われており、十全な観念に出会う頻度の方がずっと少ないことを強調していた。それはなぜかと言えば、私たちが諸々の身体と出会う際の原理が、「偶然の遭遇性」に任されているからである。行き当たりばったりの出会いを重ねている限り、私たちは自らの身体に適合する身体と必ずしも出会うとは限らず、その力を弱め、解体する諸力との遭遇に絶えず悩まされ、場合によってはそれによって死に至ってしまう。

スピノザが『エチカ』の中で繰り返し訴えているのは、束の間の刹那的な喜びをいくら積み重ねても、人は能動的にはなれない、ということである。自らの本性に基づいて行動するということは、自らの力を真に自身のものとして所有することである。偶然の出会いによって外から到来した十全な観念、そしてそれに伴う喜びの情動を、確実にそしてできる限り永続的に味わうことを通して一層能動的な存在になっていくためにはどうしたらよいのか。こうした問題を熟慮して行動するということが、スピノザ主義にとっての、大人になること、なのである。スピノザの理性とは、自らの身体のためにこのような要請をする内在的な力である。

スピノザは共通概念を理性と等置している。とするなら、私たちが他の身体と出会い、その間に共通するものの表現を見る時、すなわち十全な観念が生じる時、そこにはすでに理性があることになる。スピノザの理性は、私たちの日常的な営み─人々と出会い、喜びや悲しみを感じ、食べ物や労働を通して自然と関わるごくありふれた日常的な営み─の中に、すでにして内在している。後は、そこに表現されている理性を、より強固で確実なものにしていこうとする欲望に気づくことであり、一時的な喜びではなく、強固な喜びを求める自らの本性に従うことである。そのためには支離滅裂な出会いではなく、できる限り喜びを多く味わえる出会いが増えるような一定の仕組みを作る必要がある。社会が自然発生的に成立する理由、そしてそれが絶えず改変されなければならない理由はそこにある。人間が連合することによって形作られる社会は、私たちの能動的諸力が展開し、私たちの強さがより一層確固たるものになっていくための基盤を整備する。

日常的なレベルに議論を移せば、私たちはこの社会ないし国家が何かしらフェアではないと感じる時がある。そのような時、私たちは自分たちの社会ないし制度に対し、そして自分自身に対し、何がしかの悲しみを感じないだろうか。スピノザはその感覚を大事にせよといっているのである。それが「正義」だから立ち上がるのではなく、この私に悲しみを引き起こす具体的な相手がそこに存在し、そしてその相手の悲しみ─それが私の悲しみなのだが─を持続させるような仕組みがそこにあるから、それをなくすように私は行動する。いかなる社会制度であれ、それが作られたものである限りにおいて変更可能である。この当たり前の事実を認識しつつ、たとえささやかでもそのような改革的かつ実効性を持った行為に参与しているという実感を持てる時、私たちは、自らがよい出会いを組織化していること、喜びの情動を増殖させようと努めていること自体に、おのずから喜びを見出して行けるはずである。

スピノザにとって理性を行使できる成熟した大人になるということは、いたるところで喜びを増殖させ、より強力な身体、より強力な社会的結合を形作ろうとする内的衝動としてのコナトゥスに最大限の実在的な表現を与えようとすることである。子供になることと、子供が受動的な隷属状態から解放されて能動的な存在になっていくこととの間に矛盾はない。それらは共に、一つの強度の状態を作ろうとする存在の表現に他ならないからである。ただ、自覚的に喜びを組織化するシステムを作る努力をしない限り、強度が持続され、真に能動的な状態を存続させることはできないという点のみが、子供と成熟した有能な人間とを分かつ違いなのである

私たちの日常的な社会的平面のただ中で、他の人々と共に強さを構成していくこと。スピノザにとっての成熟の主題は、決して思弁上の問題ではなく、あくまで具体的かつ政治的な実践の問題なのである。

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