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2012年12月22日 (土)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(3)

そこで次に、19世紀の哲学がこれにどのように対応したのかを少し振り返ってみたいと思います。哲学の分野で、このように思潮に大きな影響を与えたのが、シェリング、それも独特の自然哲学を発展させた初期のシェリングです。この時期のシェリングは、スピノザが「所産的自然」から区別して強調した「能産的自然」、つまり自ら生み出し、創造する自然の考えをさらにひとつの体系にまで発展させようとしました。シェリングの自然哲学の要点を一言で言うと、無機物をも含めた世界の全体はひとつの動的調和のとれた有機体であり、その有機的自然の全体にはそれに内在する根源的で統一的な何かが働いているという考えです。この何かが「能産的自然」の核に当たります。ヨーロッパ哲学においては、世界ないしは宇宙を造り出し動かしている霊的ないし心的な存在という考えは、すでにヘラクレイトスやプラトンあたりから知られていますが、中世にキリスト教の教壇哲学が広がって、世界の外または上から世界を創造し支配する超越的な人格神の考えが主流になると、「世界霊」に類する考えは異端として排除されていきました。それが近代における自然科学の飛躍的な発展とともに再び注目されるようになります。そこでなんといっても大きな影響な影響を与えたのはスピノザでした。スピノザの「能産的自然」というのは、一種の汎神論で、いわば神の代理でもあるのですが、この考え方が革命的であったのは、創造主を世界ないし自然の外に置かないで、あくまでそれらに内在するものとして見るという立場です。言い換えれば、自然は自然自体に内在する目的性や法則性に従って動いており、それが結果として神の創造摂理と一致しているという考えに他なりません。この考えをさらに推し進めれば、自然科学は神学的偏見から離れて、あくまで自然それ自体に即して、その法則を解明してよいということになるわけです。シェリングもまたこうしたスピノザ以降の自然科学の発展を知っています。この発展方向は必然的にその神的性格を切り捨てていくことになりました。これに対してシェリング及びその影響下にあった当時のドイツのインテリ、とくにロマンティクの文学者たちが向かったのは、スピノザの「能産的自然」を踏襲しながら、あくまでそのなかにあった神的要素を保ち、それを現実の自然科学の進展と調和させる道といっていいと思います。もはや人格を備えた超越的な神が自然に介入してくるという神話的発想は意味をなしません。自然はそれ自体で自らの秩序を造り上げているのです。だからシェリングにとって体系とは「自らを担い、それ自体で完結し、自らの運動と連関の根拠を自らの外部に前提することのない全体」のことです。しかし、それはもはや人格を持たなくても、どこか創造主に相通じていなければなりません。これがシェリングにおいて再び「世界霊」という埋もれていた考えが復活する理由です。世界は「条件づけられることのない」匿名の「霊」ないし「心」によって造られ。また秩序づけられており、それはまた同時にその霊によって不断に再生産され続ける有機的な運動体でもあるわけです。「anima」の概念やカールスの「心理」がこうした考えと共鳴していることは容易に察せられるでしょう。こうした文脈でシェリングが『超越論的観念論の体系』において、根源的な自然の活動を念頭に置きながら「無意識的なもの」という言葉を使ったのも、ある意味必然だったといえるでしょう。ここでは無意識的な活動は「無形の」「自由に動く」「欲動Trieb」であり、それは知的直観によってのみ捉えられるものとされるのに対して、意識的な活動の方は「制止」や「抑圧」の結果とされるのですが、このあたり少なくとも表面的な言葉づかいはフロイトとたいへんよく似ていて驚かされます。

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