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2012年12月 6日 (木)

浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(10)

第5章 <強度> <成熟>の主題

伝統的に、理性の行使と意志とは切り離せないものとしてとらえられている。スピノザは、事物を捉えるということが、私たちの意識や主体の行う作業ではないということをはっきりと主張した。あらゆる出来事は、それを把握する主体の意向にかかわらず、おのずから私たちに生起して来るのであり、こうした出来事についての観念の総体が私たちの精神なのである。認識はするものではなく、生起するものである。

この点を踏まえた上で、まずスピノザの認識論の極めてポレミカルな立場を確認しておく。それは、ある観念が真か偽かという古典的問題に対してスピノザが立てた、十全性・非十全性という戦略の意味についてである。というのも、スピノザは十全・非十全という基準を採用することによって、認識論に<力>の問題を持ち込むことに成功し、それが彼の認識論全般、ひいては理性の役割に、ダイナミックで経験論的な側面を付与することに貢献したからである。

スピノザは、「真の観念はその対象と一致しなければならない」と、一見、伝統的な真理の一致説に依拠するかのような記述をしている。一致説とは、対象とその観念との形式上の一致、すなわち対象についての名目的な定義、外在的な名称を問題にする。つまり、対象と観念とを別々の次元におきながら、それらが互いに一致しているとかいないとかと言う場合に前提とされる真理観のことである。しかしながら、彼にとってそのような真理観は、真理の外的特徴を問題にしているに過ぎない。スピノザが真理の内的特徴を備えたものとして挙げるのは、真の観念ではなく、<十全な観念>である。十全な観念とは、自らが産出される原因を表現している観念に他ならないということである。つまり、十全な観念において初めて、観念の内容と形式との分離が克服され、単なる外的表象ではなく実在の表現としての認識の条件が用意されることになる。

外在的な名称ではなく、事物の存在そのものの構造や連結や産出のありようを、その生成因の表現を通して直接教えてくれるような観念。スピノザは十全な観念の特徴をこのように捉え直すことによって、真理の一致説でも一貫説でもなく、「存在論的真理」の概念を提示するようになる。つまり、事物を真にとらえることは、何らかの意志の作用とは関わりなく、真なるものがある種の仕方で産出されるプロセスの問題であるという立場を彼はとるようになるのである。スピノザにおいては、意志を使って、あるいは理性を働かせることによって真理が発見されるのではない。十全なものは表現され産出される。真理の一致説からは導き出されない、力の問題がここに導入されるというのはこの意味においてである。一言で言えば、十全な観念とは、存在し活動する力が精神のうちに自律的に展開を見せることである。存在し活動する力が、一つの産出性ないし能動性として、自己展開するメカニズムとして私たちのうちに定立されるとき、私たちは十全な観念を持つ。というより、私たち自身のありようが十全な観念となるのである。

私たちは、自らの許容能力を超えた表象像についてはその部分あるいは全体を捨象し、それを一般概念ないし超絶的な名辞でどうしてもくくり直してしまわざるを得ない存在である。そのような非表現的でスタティックなイマージュを、揺さぶり、解体し、組み換える力。そしてそのような力そのものとなった私たちのありよう。それが十全な観念であり、スピノザの実践的認識論の持つ破壊力なのである。

 

スピノザは十全な観念の代表的な例として「共通概念」をあげている。具体的な例を考えてみる。ある二つの身体が出会うということ、これは換言すれば、二つの力が出会うということと同じである。例えは、ある人間が別の人間と出会う場合、私とその人間は力を合わせて一つの新たな関係を作り上げ、より大きな力の集合を作り出すことができる。しかし、私たちはいつも力を高める身体と出会うとは限らない。力には二つの力が合成し合ってより大きな力を形作る場合と、互いの力が相手の力を解体する場合との二つのケースが必ずある。

もし、二つの身体が出会って、そこに部分的にでも構わないから互いの組成を破壊せず、むしろ双方の力が組み合わさってより大きな全体を形作るような関係が生じるような場合がある。その時その関係は双方の身体にとって「両立可能性」を持っていると言える。すなわち、スピノザの言う「共通のもの」がある。そしてその限りにおいてそれら二つの身体は、互いに包含する一つのより大きな関係のもとへ移行する。この関係は力の減少ではなく増大を伴うがゆえに、自らの作用因としての力を表現している。従って十全である。

このように考えてみるとスビノザの十全性の議論は、「何が真実か」に答えるものであると言うよりは、「何が本当か」という問いに答えるものであるような、さらに言えば、「何が生き生きとしたものか」と言う問いに答えるものであるような性格を持っていることが分かる。あるものが真理か否かという問いは、主知主義的な問であり、ともすれば観念論的な議論に私たちを導いてしまう。身体と経験にとっての確かさを問う後者の問いかけの方が、活動し思惟する力に関わる存在論的な議論へと私たちを進ませる糸口となり得る。

 

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