無料ブログはココログ

« 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(8) | トップページ | 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(10) »

2012年12月 4日 (火)

浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(9)

自然権は所与のものとして、人間に生具しているものとして捉えられている。ホッブスの場合、人間は自然状態においては自己保存の原理に基づいて、ありとあらゆることをなす権利を生得的に有しているが、まさにその故の状態は果てしのない人間の人間に対する闘争に至ってしまい、超越的な第三項と調停的権力の招来を契約によって要請することが必然的に伴う。そしてその場合、各人の自然権は国家という新たな権力のもとに放棄され、成員は何が自己保存の手段であるかを判断する自由を放棄して、権威の命ずるところに従わなければならない。しかしながら、自然状態から契約を経て国家状態へという移行のプロセスは一つの擬制である。そもそもあらゆることを為す権利を有する個人が、他人も同時にその自然権を放棄するのだからという理由で、自らの自然権を放棄するということ自体が、論理矛盾である。ホッブスの論理には、相手も全く同時に、自分と同じように自然権を一挙に放棄する「はずである」という他人に対する信用ないし善意という、ホッブス自身の自己保存の考えから導き出されないはずの観念が導入されてしまっている。

これに対して、スピノザの場合は、例えば、自然状態においてすら、人間は「眠る」という生きていくのに最低限の事柄を為さなければならず、そのためには他者の保護を必要とする。従って孤立した個人の「自然権」は、実質的な意味においては<事実上>全く存在しないのである。自然権が社会化されているということ、というより社会化された自然権以外に固有の自然権というものは全く想定できないということ、このことは情動と活動力の理論からの必然的帰結である。自然権とは活動力の謂いに他ならない。自然権が個物を存在し活動させる力として規定されているということは、私たちは存在しているからには、どんなに低いレベルであれ自らの活動力を得ているということである。

ここから重要な政治的帰結が導き出せる。それは、私たちがもし自然に対してより大きな権利を有するようにするためにはどうすべきかという問題に対するスピノザ主義的な解答である。私たちがより大きな権利を持とうとすること、それはとりもなおさず、自らの活動力を増大させようとすることである。従ってそのためには、私たちは自らの喜びの情動を増大させるものとの出会いをできるだけ増やしていくことを為す以外に方法はない。個体を構成している諸関係の合致の度合いが、その個体の活動力を決定している。人間にとっては自らの構成関係ちと合成し合い、それを補強するような他の身体との出会いが、自らの活動力の増大を保証する。

私たちの自然権すなわち活動力は、私たちの能力そのものである。そうした能力を増大させるためには、自然権が社会化されたものとして以外規定できない以上、他者との間での集団的協同を自身の最も身近な地点から積み上げていくしかない。権利とは諸々の個人といった単位を越えて貫通する群衆的諸力の結果であり、その成果である。そして重要なことは、スピノザいとって国家の力能とは、このようなミクロな喜びの実践の積み重ねの結果として析出されるものであって、ホッブスにおけるような外圧的で超越的な権力ではないということである。スピノザの主張は、国家の力能の規定が内在的な諸力の合成のプロセスから要請されたものであって、それ以上でもそれ以下でもないということを意味している。少なくともその成員に定位した場合、国家の目的は、私たちが自らの活動力を維持し、それが増大するようにするための確実な保護と集団の力によって与えることである。したがって、私たちの活動力の増大に奉仕しない場合、国家は転覆される危険を常に内側に抱えていることになる。

« 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(8) | トップページ | 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(10) »

スピノザ関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(9):

« 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(8) | トップページ | 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(10) »