無料ブログはココログ

« あるIR担当者の雑感(96)~説明会で共感 | トップページ | 手島直樹「まだ「ファイナンス理論」を使いますか」(1) »

2012年12月 9日 (日)

浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(12)

第7章 <民主主義> 国家論の異例性

スピノザは『エチカ』の中で国家の規定をしているが、注目すべきは、国家が人間の理性的な企ての実現に必要な環境を創造するために不可欠のものとして作られたものとは一言も言っていないということである。むしろ彼は、至高の善や理性的な欲望などとは全く関係のない、受動感情の理論をその規定に援用しているに過ぎない。人間がもし理性に導かれて生きるのだとすれば、人々は国家などなくても自発的に和合して生きることだろう、しかしながら受動感情に支配される人間たちの間での和合は、これとは逆に、国家ないし社会による何らかの制度的枠組みが形作られなければ不可能であろう。

しかし、ここでスビノザは、国家がそれを強いるために存在するとは言っていない。同時にまた、国家が人間本性の倫理的目的の実現を保証するために存在するとも言っていない。つまり、国家は、何らかの目的や理念によって形作られたのではないし、そうである以上は、いかなる形であれ国民に何らかの目的や理念を強制するために作られている装置ではない、ということである。

 

スビノザは国家を社会の中から生じるものであることを主張している。しかしながら、スピノザの国家は、その根拠を受動感情に従う人間行動の中にしか求めていない。「諸感情に必然的に隷属しかつ不安定で変わりやすい人間」が、「いかにしたら相互に保証を与え相互に信頼し得るということが可能か」という『エチカ』のくだりで、スピノザが参照を促している定理は「感情はそれと反対で、かつそれよりも強力な感情によってでなければ抑制されることも除去されることもできない」というものである。

周知のように自然状態とは、ホッブスやロックらの社会契約説において国家の成立を説明する前提となる、政治的社会すなわち国家が成立する以前の状態を指している。この中で、ホッブスは自然状態を絶対的自由の状態とみなし、そこから国家状態を形成するにあたっては、コモンウェルスとしての公共的な権力に、全員一致して、人々の持つありとあらゆる強さを譲り渡してしまうことが必要であると考えていた。スビノザの想定する自然状態は、こうした考え方とは全く異なるものである。ある者が権利を持っているということは、彼がどれほどの力を行使できるとかということと同一である。したがってスピノザは、自然正体においては、実質的な人間の自然権というものを想定する事は不可能だと主張しているのである。このような悲惨な状態から抜け出すために、自然状態にある人々は何らかの合意なり意志なりをもって、ある種の社会制度ないし国家を作り上げなければならないのだろうか。すくなくともスピノザにとってはそうではない。社会はあくまでも、感情と言う何の規範性も前提とされない所与を素材に、このような一見混沌とした状況より、自ずから生起する。それにはまず、個体の自己保存の法則を最小限の仮定として導入するだけで十分である。すなわち、人々は好むと好まざるとに関わらず、自らの存在を維持させないものに執着しない。人間は本性的に平等でも対等でもない。従って自然状態にある人々は、たとえ自らが隷属的な状況に置かれるとしても、その生存を保障してくれる強者に従い、一方、強者は自分が利用できる限りにおいて弱者を自分の手元で保護することになる。このようにして「暴力による国家の成立」とも呼ぶべき強者を中心とした階層が形成されていくが、人々は、自らの力すなわち自然権を保持し、より強力なものにしていくためには、どうしても国家状態としての共同性を構築しなければならなくなる。このような共同性が確立されるためには、何の規範性も必要ではない。ただ単に各個人ないし集団が、ある個人ないし集団から自らの権利を守るために、その他のより多くの個人あるいは集団と結託して、一つの多数者を形成すればよい。

 

このようにスピノザの国家の生成プロセスには、国家を自分たちの意志やよりよき理念によって形作ろうとする倫理的意志の介在する余地は全く存しない。それは自ずから生成するものであり、私たちの諸々の感情に、そしてそれのみに依存する。ある国家が維持される理由は、契約によるものではなく、まさに感情的なレベルで一定の信任を成員相互が与え合っているからであり、成員の恐れと自己利益という支えがなければ国家は維持できない。

スピノザの政治論には、自然状態の仮説は存在しても、いわゆる社会契約は存在しない。契約は守られなければならないという規範性が存在しないため、国家の基礎を契約に求めることはできないのである。国家は成員の感情にのみ依存しているので、国家の力と権利は、成員が一致した感情を持つ度合いによって減少もし、増大もする。国家が曲がりなりにも維持されているのは、成員の全員が一致して、国家に一切の力を認めないと言う感情に支配されることか稀なためである。

スピノザは、国家が、とりわけ感情の諸法則としてとらえ直された人間の本性─自己保存の努力─に反して行動すれば、それが消滅することがあり得ると主張し、いかなる力をもってしても変えることのできない人間の適応力の限界が存在することに言及している。つまり国家が従わなければならないのは、人間の立てた何らかの理念や規範ではなくて、人間の自己保存の努力ないし自然の法則という最高の法なのである。もし国家が、長期間成員の必要と利益に反した施策を進めたり法律を作ったりすれば、成員の自発的な服従はもはや全く当てにできない。かくして国家の最高権力は、権利上は制限されないにも関わらず、実質上は制限されることになるのである。国家の基盤を倫理におくのではなく自己保存の欲求に従う個々の成員の感情に置くこと。もちろんこれは要請ではなく、事実、国家がそのようにして存立していることをただ追認しているだけなのだが、これによって国家は実質的な意味では、個々の人間の欲求に対応し、それを実現するシステムを作ることに専念せざるを得なくなる。

このことから、スピノザが倫理と政治を分離した第二の意味が導き出される。伝統的に成員の倫理意識に送り返されてきた問題を、結果が倫理の要請に基づくものと同様に導出されるシステムの構築の問題へと移行させたのである。

スピノザは、幹事用を抑制し得ない理性に基礎を置く国家は不安定なのであり、成員がいかなる感情に駆られようと、理性に従うのと同じ結果を得るように制度を整えることが、国家自体の存続のために不可欠であると指摘している。国家の目的は、強いて明言するなら、人々が不合理な行動も含め、何らかの行動や発言を自己の裁量に従って行いながらも、結果として社会全体のとしての人間の活動力が増大し、自由が確保されるような空間を組織化することである。

はじめに国家があったのではなく、人間が国家を形成したのであり、人間が国家を維持しているのであり、その人間のために国家は存在する。スピノザによれば国家は、いわば人民へのサービス機関として構想されている。

スピノザは、思考する力や行為し活動する力も含め人間に自然的に備わった諸能力が十全に開花されるような状況がより多く設定されればされるほど、人々は自らの自己保存の本性に従って自発的な和合を行うようになるだろう、と考えている。国家が人々の欲望を整序する装置である点ではいかなる政治体制でも変わらない。

かくしてスピノザにおいて政治の課題は、倫理的是非の問題というより、成員の能動性と喜びを増大するような仕組みや制度を成員自らが実験的な態度で構成するという、純粋に力学的な折衝の問題に移される。

« あるIR担当者の雑感(96)~説明会で共感 | トップページ | 手島直樹「まだ「ファイナンス理論」を使いますか」(1) »

スピノザ関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(12):

« あるIR担当者の雑感(96)~説明会で共感 | トップページ | 手島直樹「まだ「ファイナンス理論」を使いますか」(1) »