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2012年12月26日 (水)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(7)

第3講 反復強迫の射程

ここではまずフロイトがその究極概念に思いいたることになった具体的なきっかけを検討してみたいと思います。

第一次世界大戦に際して、フロイト自身はウィーンにいて戦地に出ることはなかったのですが、そのかわり医師ないしカウンセラーとして多くの帰還兵の面倒を見る立場にありました。なかでも、トラウマに襲われる神経症つまりノイローゼを得意分野とするフロイトの関心を引きつけたのは「戦争神経症」と呼ばれる心理傷害です。

それまでの精神分析理論によれば神経症というのは、基本的に「自我と自我によって斥けられた性的欲動との葛藤」から生まれる、言い換えれば「不首尾に終わった愛」または「満たされないリビドー」が原因となって神経症が発症するという立場でした。この型に当てはまるのが「転移神経症」と呼ばれるものです。とご戦争神経症をはじめとする外傷(トラウマ)性の神経症にはこのテーゼが簡単に当てはまらないのです。同時にリビドー論が他の病理にも一律に有効でないことを確認させられる機会でもありました。このことをフロイトは正直に認めながらも、普通の転移神経症と戦争神経症を含む外傷性神経症の両者を統一的に解釈できるような理論の必要性を訴えます。彼は言います。

「いずれの場合にも、自我の毀損に対する恐れがある─それは転移神経症にあってリビドーによる、外傷性神経症や戦争神経症にあっては外的暴力による。戦争神経症で恐れられているのは、純粋な外相神経症とは異なって転移神経症に近く、むしろ内的な敵だと言えるかもしれない。こういう統一的把握を妨げるような理論的困難は克服不可能なものではないように見える」

ここでフロイトはいったん戦争神経症を外傷性神経症と並べて、それらは「外的」な暴力に対する恐れに発すると言っておきながら、同時に戦争神経症には転移神経症と同じように「内的な敵」があると言っているのです。この「内的な敵」としての「暴力」こそ、フロイトがまもなく「死の欲動」として仮説的に想定するものに直結していくからです。要するに、この文章の意味こういうことにあります。苛烈な戦場での体験がその後外傷(トラウマ)となって患者をたびたびパニックに陥れるという事態を前にして、フロイトはそれまでの性愛(リビドー)を中心にした自分の欲動仮説に疑問を抱き始めました。というのも、それまでの仮説では、たとえば夢の本質は基本的に性愛を中心とする願望の充足ということになっていたのですが、そうだとすると、戦争神経症の患者たちが願望どころか忌避すべきはずの恐怖をわざわざ夢に見ることの説明がつかないからです。それとも人間の深層すなわち「内部」には、あえて恐怖をも願望してしまうような何か暗い性格が宿っているのか、フロイトは考え始めたということです。

その1年後、フロイトは『快原理の彼岸』で、「快原理」というのはそれまでの精神分析理論を支える中心仮説としてのリビドー論です。快・不快の量やそのやりとりが問題になるリビドー論がエコノミー論と重なっていることは見易いでしょうるただし、フロイトはこの頃には、性愛に基づく快原理をそのまま放任すると個体を危険に陥らせることになるということから、それを抑えるべく「現実原理」がはたらき、いわばその両者の拮抗関係において快・不快が生じるという立場を確立していました。いわゆる快原理と現実原理の二元論的立場です。問題はこうした仮説理論で外傷性神経症や戦争神経症において著しい「不快」が充分に説明できるかということです。

ここで、フロイトがとったのは迂回戦術です。この迂回路の最初に出てくるのが、「いないいない・ばあFort-Da」遊びです。ことはフロイトの個人的な体験に起因しています。あるときフロイトは生後一年半になる男の子と数週間ほど一緒の時を過ごす経験をします。この子は母親に可愛がられた行儀の良い子だったのですが、時々手に持ったおもちゃを放り投げるのでした。そして放り投げるたびに「オーオーオーオー」という声を発します。フロイトと母親はこれを「いないFort」の意味に解釈し、この声を伴った放り投げを一種の遊びとみなします。あるときこの個が糸巻を持って同じ遊びに興じます。この時は紐の端を持って糸巻だけを投げたので、その紐を引っ張ると、いったん消えた糸巻がまた姿を現わします。そしてそれが現われるたびに子供は「ばあDa」という声を発したというのです。こうしてフロイトこの一連の行為が「いないいない」と「ばあ」、すなわち消失と再来がセットになった遊びであることを確認します。フロイトはこの子供の「いないいない・ばあ」の遊びは母親が「いないいない」になる現実を自分なりに加工演出して受け入れる方法だったと解釈します。だとすると、母親がいなくなることはこの子にとって決して好ましいはずではないにもかかわらず、なぜこの子はそれを喜んで遊ぶのかという疑問です。フロイトはとりあえず二つの推理を行います。ひとつはこうです。この子供は初めは受動的な形で母親の不在という体験に見舞われたのであったが、やがて自ら能動の側に転じ、不快に満ちたその体験を遊びとして繰り返したのでしないかという推理です。この場合には背景に「占有欲動」が働いているのかもしれないと言います。もう一つの推理は、子供が物を投げることによって、自分を置き去りにした母親に対して抱く「復讐衝動」を表わしているかもしれないという推理です。これらはあくまで既成理論の範囲内で解釈可能な解答を試みたものです。

外傷神経症や戦争神経症とこれらのエピソードに共通するのは、当人にとって不快や苦痛であるはずの事柄を自ら進んで繰り返してしまうという事態です。自分の意識は望んでいないにもかかわらず、そうせざるを得ないように「強迫」が働いてしまうということです。「強迫」というのは精神病理で当人にとっても不合理と思われる観念や行動が支配的になって取り除けなくなってしまうことをいう言葉ですが、その取り除けなくなってしまった観念を「強迫観念」と呼びます。さらにその観念がもたらすのを「恐怖症」ないし「フォビー」と呼びます。フロイトが関心を向けるのは、この恐怖をもたらす強迫が当人の意志に反して反復されてしまうという事態です。いわゆることが「反復強迫」と呼ばれる症状に他なりません。この反復強迫はこれまでの快原理の枠に収まらない、すなわち「快原理の彼岸」あると仮説を立てますが、これは普通にある確かな実証に基づいて立てられる仮説とはやや違うものです。それは大胆な想像的解釈を駆使した「Spekulation」であり、勇気のいる決断だと言います。ここからフロイトの本論がスタートするところに来ました。

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