無料ブログはココログ

« 小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(10) | トップページ | 小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(12) »

2012年12月30日 (日)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(11)

第6講 攻撃するタナトス

フロイトは死の欲動と攻撃欲動を同一視していました。そして愛と憎のアンビヴァレンツの憎もまたこれらの概念と重ねあわされていました。普通に考えて、この二つの欲動仮説を同一視することはそれほど容易なことではなかったはずです。性的欲動によって変容され、外部に向けられた死の欲動、すなわち、破壊欲動がサディズムの根源であり、またそれが器官の内部にとどまって性的変容を受けるのがマゾヒズムだと説明されるのですが、多細胞化に伴ってできた筋肉組織によって死の欲動が外部に向けられ、それによって死の欲動の破壊欲動への転換が可能になるという論理は同じです。ここで興味深いのは、この論理を一貫させると、性欲動のエルネギーであるリビドーはその反対欲動である死の欲動を破壊欲動に変換させる中心的役割を担っているということになります。言い換えれば、エロースの活動が外界ないし他者の破壊や攻撃を生み出すという新たな疑問を呼び起こす帰結が出てきてしまうということです。この帰結はフロイトのメタサイコロジーの中で最も根拠づけが不明瞭で、多分に矛盾を孕んだ部分です。

死の欲動と攻撃欲動の同一視問題には疑問が残りますが、取敢えずそのままにして、死の欲動の変容態であるとされる攻撃欲動を前提にしたその後を追いかけます。メタサイコロジーの第二トポス論では自我・エス・超自我の三つの審級が問題になっていましたが、問題の攻撃欲動はこの中の超自我の形成に直接関わってきます。超自我というのはエディプス・コンプレックスを抑えこんだ結果生まれ、自我を道徳的に監視し拘束するものです。このコンプレックスが形成される過程で子どもは母親への愛を断念し、父親、しかも自分に懲罰を与えるかもしれない父親に自己同一化をしながら、その同一化した父をジブの中に取り込み、それを超自我として一種の超越的な審級として打ち立てるのでした。ここには死の欲動の変容である攻撃欲動がごく初期に発令された例を見ることができます。しかもこの攻撃欲動は、権威すなわち父親の側からの攻撃に対する不安と表裏をなすものです。ここには互いに敵対する力関係と子供の側における葛藤処理が起こり、その結果として超自我が生まれることになります。だから超自我とはもともとは自分の欲動断念の結果取り入れ似れた父親像であるわけです。それは無意識的なものの中に形成されます。この超自我の実質は父親による叱責ないし懲罰としての攻撃性なのですが、無意識の中で匿名となったこの審級は人格性を失って漠然とした禁止、戒め、疾しさとなって子供の自我を拘束します。だから原始宗教の多くが「父」または「父祖」の名において戒律を守っていることも精神分析的に見れば、不思議な偶然ではないのです。こうした子供の中に生じた、本人の意識にとっては出所不明の禁止や戒めがさらに洗練されたもの、それが「良心」であり「罪悪感」、ひいては「モラル」ということになります。さらにフロイトは自問します。罪悪感とは一種の「後悔」だが、この後悔はその発端となるエディプス・コンプレックスとどう関係しているのかと。ここで持ち出されるのがあの「愛と憎しみのアンビヴァレンツ」です。攻撃欲動はとはそもそも内に在った死の欲動が変容され、外向化されたものでした。まずそれが父親という自分の外部に向けられたのですが、今度はその外部である父親が同一化によって内面に取り入れられます。そしてその取り入れられたものがあくまで内部で自分自身を拘束する仕組みです。死の欲動が攻撃欲動に変容される時にリビドー、すなわちエロースが関与するのでした。そして今また、外部としての父親への同一化とその内面化のプロセスにおいて、愛すなわちエロースがベースとなって働くと言われているのです。父親を憎みながら、同時にそこに愛がなければ、その攻撃性に対する後悔は出てこないし、ひいては内面化も起こらなかったでしょうから。

このような超自我と罪責感が成立する仕組みについての一見独創的な推理は、思想史的にみると、フロイトのオリジナルではなく、ニーチェがモデルになっていると考えられます。ニーチェはドイツ語の「Schuld(罪)」という言葉が文字通り「Schulden(借り/負債)」という物質的な概念に発することに注意を促します。つまり罪とはもともとは貸し手と借り手の間の交換関係から生じた概念だということです。借り手は負債の返却が済むまで借りたという事実を記憶にとどめ続けなければなりません。それは貸し手に対する一種の負い目となります。そしてさらに負債が返却できなかった場合には、貸し手に有利なように何らかの処罰や報復が課せられることになります。ここでのポイントは借り手に負い目ができることと、貸し借りが上手くいかなかったときは処罰という一種の暴力と負債とのバランスを取るということです。ニーチェは人間が社会と平和を知った時、それまでの「本能」の行き場がなくなる。この「本能」がフロイトの「欲動」に当たる破壊欲動ないし攻撃欲動でうり、それが内面に向かって疾しさを生むといいます。

このような罪責感が成立する論理構造を精神病理に適用したのがフロイトのメランコリー論です。フロイトは悲哀とメランコリーという一見よく似ている二つの現象を比較しながら、悲哀が愛する対象を失ったことに対する反応であって自分が何を失ったかもはっきり意識されているのに対して、メランコリーは、同じように愛する対象の喪失に起因しながらも、本人には何が失われたのかが自覚されない状態で、自己卑下や自己処罰という特徴を指摘します。しかし、これらには本来外に向けられた攻撃欲動が内面化して自分自身に向かうというニュアンスを指摘しています。外に向けられていたリビドーが自分の方にリターンしてくるといっても、たんなる折り返しではありません。この折り返しは超自我を媒介とする間接的な道になります。超自我というのは、子供がエディプス体験の克服過程で同一化して自分の中に取り込んだ無意識的な「父親」のことでした。それはもはや具体的な父親から離れて訓戒や禁止を中身とする広い意味でのモラルや良心のことです。言い換えれば、自分でもなぜかわからないまま、とにかく自分の行動や考えを拘束するものです。だからリビドーが内に向かうとは、この監視する超自我が自我に対して拘束力を発揮するということに他なりません。フロイトによれば、メランコリーの最も特徴的な罪責感とか自己処罰の感情とは、さしずめこの超自我が強すぎて自我を委縮させてしまうような状態ということになります。だからフロイトは、メランコリーにおいては、「超自我が自我そのものを強奪してしまった」という印象が強いとも言うわけです。

« 小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(10) | トップページ | 小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(12) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(11):

« 小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(10) | トップページ | 小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(12) »