無料ブログはココログ

« 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(5) | トップページ | 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(7) »

2012年12月 1日 (土)

浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(6)

第3章 <理性>合理主義のメタモルフォーズ

スビノザの言う理性は、第二種の共通概念による認識すなわち自然的物体における運動と静止の客観的認識であるばかりでなく、欲望や感情=情動と密接に絡み合った、経験主義的とすら言える性格を持っている。こうした多様性を持ったスピノザの理性を、一貫した見方で捉えていくことはできないだろうか。

まず理性的認識に至るには、「すべてのものに共通で部分にも等しくあるもの」を理解する<共通概念>を経由しなければならない。ここでは理性的認識の対象は、運動と静止の<比率・割合>の認識であるとされ、私たちはあらゆる個性に共通に存在するものを認識するように要請される。ここで、この認識が第一種の認識を越える地位を与えられているのは、その第一種の認識が一般概念を生み出す限りにおいて、すなわちそれが身体をもっとも多く刺激する一致点だけによってあるものを表象する限りにおいてである。

スピノザにとって、一般概念とは、個物の像が人間の表象力を越えた刺激を与える場合、つまり精神が個々の事物の微細な差異を表象することができずに、ある特定の記号によってそれらの事物を代表してしまう場合に生ずる認識である。それに対して共通概念の認識は、一切のものが運動と静止、速さと遅さの様々な非率から成る集合でしかないとすることによって、現象に過ぎないものを実体視する見方を批判する原理として機能する。つまり、この認識は、私たちの記号や感覚による認識の多くが、流動する運動を任意の一点で抽象化した固定的なイマージュに過ぎないことを私たちに気づかせてくれるのである。そこには形態や有機的器官からではなく、それが何を成し得るかという力の観点から個物を規定する思考の現われが見られるのである。したがって第二種の認識が認識論上の実践的な課題として要請しているのは、一般概念に基づく思考をいったん解体し、現実を諸力の結果として、その相互の触発関係においてとらえようとする思考であると言える。

 

しかしながら共通概念の認識には、さらに進んでもう一つの実践的な役割があることに注意しなければならない。共通概念は、事物の間にある運動と静止の割合というものが、具体的に何であるかを認識することを要求する。それは、個体の個物性を構成する諸部分の<比率・割合>の認識に他ならない。スピノザは個体の本性をまさに要素間の一定の<関係>として考えた。つまり様態としてのすべての個体は、運動と静止の一定の割合を持った集合として捉えられ、それらは速さと遅さ、運動と静止の割合、つまり<関係>の差異によって互いに区別されたのである。ここで言う割合とはその意味で、個物の個体性を規定する<構造>でもある。

スピノザによればこの世界は、個物の本質を成す一定の構造が、互いに自らの割合を維持するような外部の力を獲得しようとしてせめぎ合う合成と解体のプロセスなのである。全く同じ割合を持った二つの体=身体が存在することは決してない以上、それらは自らに固有の力能を保持しつつ、ある局面において別の体と合致し、合成しあい、互いが互いの成分となるのである。

 

これらの体相互の認識が「共通概念」とよばれるのは、少なくとも二つの構造が組み合って合一をする共通の関係を捉える認識であるからに他ならない。極めて重要なことだが、スピノザは、表象や一般概念を市販する理性の基礎を語る場合を除いて、共通概念によって語られる二つの項のうち一方を、必ず自らの身体を意味するものとして指示している。すなわち共通概念はここで具体性を獲得し、ある人間の構造が自らの<割合=構成関係>を補強し拡張する側面にのみ関わるようになる。

スピノザの理性的認識は、抽象的なものではなく身体の変様の認識に他ならない。こうした理性が、表象に基づきながらも一般概念を批判する原理として機能するのは、これが力の場から切り離された静的な記号による認識ではなく、ある体と他の体との間に共通に存在する関係を表象した認識であり、その限りで私たちの能動的な思惟する力の展開の結果として、私たちの体と他の体の間に共通する一定の関係が新たに表現されるためなのである。

 

« 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(5) | トップページ | 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(7) »

スピノザ関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(6):

« 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(5) | トップページ | 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(7) »