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2012年12月 2日 (日)

浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(7)

幾何学的秩序とは、人間が能動的になるとき、身体の能力と思惟の能力とも、あたかも「自律的な機械」ように展開していくという意味に解釈されなければならない。思惟と延長とは唯一の実体の同一の運動表現であるがゆえに、ちょうど精神においては、幾何学がモデルとなって一つの単純な定理から次々とその論理的帰結を導き出すことがその能力であるように、身体においては、内部に原因を持つ最も単純で能動的な力が基点となって、同様の演繹的プロセスを通して多様な身体的能力が展開されていく。スピノザの思想が近代の他の思想と際立って異なるのは、彼がこの身体の自律的な運動に対して、精神における十全な観念の源としての正当な地位を与えたからである。つまり、彼は合理性というものを、超越的に上から到来する精神的な原理でではなく力学自体の必然からすなわち身体の内在的な力の展開そのものとして考えているのである。

ここで述べられている理性が、自然と分離し、それに対して何らかの超越的な権限を持つ力としての理性ではなく、自己の内在的な力の展開の内に能力の実現をみる、自然あるいは実体の一部としての理性だからである。そして、自然はいわゆる所産的自然ではなく能産的自然だからである。したがって極めて抽象的な概念に見えた共通概念が、ここで身体的基礎を獲得したように見えても、そこに矛盾はない。

 

したがって、理性なし共通概念に経験的・身体的プロセスが帰属するという事態は、精神が身体を支配するということではない。理性はここで、身体の活動を増大するような変様を求め、理解し、確知することしかとていない。理性によって確実に把握された身体の変様プロセスは、いわば「それ自体の法則性によって」さらに一層活動力を高めていく。身体の活動力を増す変様を肯定し、より豊富にしていくよう促すのが理性の役目であって、決して身体を一定の目的のもとに統制することではない。この点に、どこまでも内在的なスピノザにおける合理主義の特異な性格がある。スピノザにおいて一切の目的論は、表象知に属するものとして斥けられている。身体の活動力を増大させる変様が喜びの情動に他ならない以上、理性の役割とは外的な目的に奉仕することではなく、喜びの感情に奉仕し、それを増殖させるものとしてしか規定できないのである。

ここから理性の情動的な性格が明らかにされる。

 

さらにスピノザは、人間の理性は、私たちの能動的欲望と不可分のものとされるのである。スピノザの世界観においては、人間も含めあらゆる個物はそり本質としてのコナトゥス─自らの存在を保持しようとする努力─の重層し複合する過程であってみれば、そのコナトゥスが欲望と等置されている人間においては、理性の営みも人間の本質としてのコナトゥスの結果でしかない。つまりそれは、自らの本質を実現しようとする能動的な欲望のプロセスの一つに過ぎないのである。

一方、スピノザは人間の本性を「活動力」と理解している。この活動力の増大とは、端的に「喜び」であり、減少とは「悲しみ」である。従って理性による認識が善とされるのは、決してそれが何らかの道徳規範に合致するからではない。この認識が活動力の増大─すなわち「喜び」─という効果を帰結するからこそなのである。

 

このようにスピノザの理性に関する議論には、決して通常の意味での<合理性>には還元されない、ある種の経験的・身体的側面が存在している。これは、スピノザにおける合理主義が単に経験手記でき傾向との折衷の上に成り立っているということではなく、まさにスピノザの合理主義的体系そのもののなかに、その体系を内側から裏付け、それなくしては体系の存在根拠がなくなるような、身体の能動的プロセスについての理論が組み込まれているからである。

したがってこの合理主義は、スピノザが言う意味での<生>そのものの肯定、すなわち、感覚的なものや経験的なものに対立するのではなく、ただ自由で能動的な生の展開を妨げるものにのみ対立するような合理主義であると主値擁することができる。

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