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2012年12月16日 (日)

河井徳治「スピノザ『エチカ』」(2)

第1章 在ることの始源は神という自然─『エチカ』第一部

無限という概念がないと『エチカ』は読み取れないと言ってよい。スピノザは無限なるものこそ真実在という形而上学樹立に向かったのである。無限が有限よりも積極的に捉えられているのだ。デカルトは物体は有限でつねに分割可能であると考えた。創造主である神は物体ではなく被造物である自然とはその点で峻別された。しかしデカルトは無限と有限の関係を類比の関係で橋渡しできると考える。

ところがスピノザは、有限性と無限性は根本的に異なるから、絶対に橋渡しできないと見た。スピノザの主張は「無限なるもの」、数には表わせない「無限量」が存在するという積極的な肯定であり、同時にその主張は延長するものに無限性を肯定するものになる。延長実体は本来無限であるはずだ、物体は有限化した在り方だ、と。スピノザからすれば無限な物体的実体が存在するということになる。無限なるものの存在を積極的に考えることがなぜ困難であるかと言えば、我々の感覚の対象として知覚する確かさに頼り、知的な本質の洞察よりもそれを優先させるからに他ならない。無限量は知性で捉える他はないのである。

スピノザは無限性を三つに分けている。「或るものは、その本性上無限であり、いかにしても有限とは考えられない」。これを仮に無限性の第一規定とすると、第二規定に当たるものとして、「それに対して、或るものは、それが依存する原因の力によって無限であるが、しかし抽象的に概念するならば、部分に分割され、かつ有限であると見なされうる」。有限なものに内在化した無限性の在り方を指している。そして第三規定は、「最後に、或るものは、いかなる数にも等値することができないために無限、というより無際限とよばれるが、これはしかし、より大きいもの、より小さいものが考えられうる」。つまり無際限と言い換えられるような無限性である。そして次のように付言する。「数に等値できないものが、必然的に等しくなければならないという結論にはならない」、と。つまり、無限なるものを消極的に扱えば、それは無差別に一様に見える。だから積極的に扱い三つの規定に沸けたが、数(有理数)に等値できないものも、これまた無差別に扱ってはならないと言うのだ。ここで仕分けられた無限性の第一規定は、「無限で唯一で不可分なものとして現われる」無限性を指し、そして第三規定は、数で表現しようとすれば無際限となり、より大きいもの、より小さいものが考えられる無限性であるから無理数があげられる。問題は第二規定の無限性である。これは或る意味では第一規定と第三規定の間に入り両側面の特徴を持っている。だからこの領域では量は「二様の仕方」で現われることになる。部分に宿る無限なもの、これが第二規定で示そうとした無限性である。これは自然についても言えないか。自然を自然にする起成因、それをスピノザは能産的自然と言い、その起成因が内在する自然を所産的自然と呼んだ。人間もその所産的自然の一部分にすぎない。しかし、そこには無限なるものが宿っていることになる。「我々は量を二様の仕方で考える」と言う観点の二重性は、この根拠の違いからであった。無限概念の逆説が教える無限性についてのこの数学的確信がなければ、スピノザはこうした形而上学的テーゼを導くことはできなかったであろう。

そもそも数はスピノザにとって理性が有するだけの「理性の有」であり、理性も共通認識に替わる。つまりわれわれは便宜上設ける概念に過ぎない。例えば水を例に挙げて「水は水である限りにおいて分割される」。その水は「しかし実体としては産みだされも滅ぼされもしない」先の二様の仕方で水を見るならば、一つは知性的に、もう一つは表象の対象となる有限な様態の側面から水は見えることになる。水を水にする起成因であり、形成因となるものは、現象としての一杯のバケツの水が土壌の植物に吸収されて変化したとしてもなくなりはしない。しかしそれはしかじかの量をもつバケツの水であり、それを数量化できる。

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