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2012年12月25日 (火)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(6)

こうした眼をもってもう一度フロイトの「Spekulation」を見直してみると、それはフロイトなりのパラダイム・チェンジへの挑戦であったと言えるかもしれません。フロイトがここで脱却しようとしたのはどんな既成パラダイムだったのでしょう。簡単に言うと、それは「自我/意識中心主義」に基づいた人間精神の理解です。我々の精神が「我々の意識」なよって担われ、それを前提とした発想法とそれに基づく理論が哲学や心理学の分野で一種のパラダイムとして長らく機能していました。しかし、「無意識てきなもの」への注目とともに、フロイトはこの一見自明に見える前提そのものに懐疑の目を向けたのです。つまり彼の無意識的なものに向けての「Spekulation」とは、自我/意識中心的なパラダイムからの転換の試みでもあるのです。それがパラダイム・チェンジにも匹敵する大胆な挑戦であったことはだれもが認めることでしょう。

Spekulation」や仮説に基づいて精神分析というひとつの新しい「学」ないしは「科学」を打ち立てることがフロイトの目指したことでした。ただ単に具体黄な精神病理現象を記述するにとどまらず、その現象を超えて、その背後にあると推定されるメカニズムや力学構造を想像的に打ち立てること、この新パラダイムに向けての挑戦が、フロイトにおいて「メタサイコロジー」と呼ばれるものに他なりません。与えられた精神病理学的経験を超えてその原因やメカニズムを掴まえることが必須の課題でした。そもそも原因が突き止められない限り医者にとって治療も何も不可能だからです。ここで与えられた経験的事実というのは病者たちの言動と彼らに対する様々な治療実験の結果を意味します。そうした諸々の経験的事実からどのような着想を得て、それを学的検証に耐えられるような仮説にまで発展させていくか、フロイトの一生は専らそういう課題に向けて費やされたと言っていいでしょう。

このメタサイコロジーが「メタ」と呼ばれるのは、単に経験的事実を「超える」からだけではなくて、それまでの心理学が「意識」の領域に留まっていたのに対して、メタサイコロジーが意識の背後にそれとは別のメカニズムを備えた「無意識的なもの」という領域を仮定するからです。要するに「無意識的なもの」を想定する事自体がすでに「メタ」なのです。したがってその無意識的なものの核をなすという「欲動」もまた当然「メタ」レベルの概念ということになります。つまりそれらは決して経験的事実そのままのものではなく、あくまでそこから試みに想定された「仮説」だということです。

フロイトはこの「欲動」を核とする「無意識的なもの」へのアプローチとしてのメタサイコロジーを大きく三つの方向ないしパースペクティヴから構想しました。三つのパースペクティヴとは力動論、トポス論、エコノミー論です。

トポス論は、場所とか空間を意味するギリシャ語の「トポス」に由来します。フロイトがいうのは、様々な心的装置の区別とその配置関係のことです。トポス論とは、心的な装置を空間的場所的にイメージの助けを借りて規定しようとする観点です。その心的装置の区別とは、まず「意識」「前意識」「無意識的なもの」の三つの装置の区別を言うのですが、こり区別とはまた別の系列として「自我」「エス」「超自我」の組み合わせもあります。

力動論は、心理的現象を最終的には欲動に発しながら何らかの圧力を加えるような葛藤や力関係の結果として見る立場を表わす、ものです。基本的には、様々な症状や心理現象をトポス論にいわれる様々な心的装置の間に起こる葛藤や妥協の産物と見る立場といってもよいと思います。

エコノミー論は、心的な出来事は、増減可能でかつ他のエネルギーと対等になりうるような測定可能なエネルギー(欲動エネルギー)の流通や分配のなかで起こるという仮説すべてのことがこの言葉で言い表される。ちょうど経済が金銭のやりくりであるとするなら、ここでは何らかの「心的エネルギー」のやりくりややり取りが問題になります。このエネルギーは増減可能で測定可能、しかも、流通や分配もされるというわけですから、その意味で確かに経済現象に似ています。

こうして見てくると、これら三つのパースペクティヴに共通するものがあることが分かります。それはいずれにおいても心的な「装置」と心的な「エネルギー」が問題になっているということです。トポス論では主に「装置」とその配置関係が、また力動論とエコノミー論ではその装置内または装置間での「エネルギー」の運動および備給関係が探索されるというかたちになっています。その意味では、フロイトのメタサイコロジーの発想は基本的に「形而上学」というよりも、むしろ一種の機械論─それも非常に抽象化されたかたちでの─に近いと言ってよいでしょう。

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