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2012年12月 3日 (月)

浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(8)

第4章 <組織化>集団的協同の理論

周知のようにスピノザの存在論は、実体・属性・様態の三つの組から構成されている。すなわち実体とは、「それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもの、言い換えれば、その概念を形成するにあたって他のものの概念を必要としないもの」であり、属性とは「知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの」のこと、そして様態とは「実体の変様、言い換えれば、他のものの内に存在し、また他のものによって考えられるもの」のことである。

 

様態とは具体的には、自然界のあらゆる個物及び私たち個々の身体や精神を指すが、その本質はある度合いの力能であり、神=実体の力能の内包的部分、すなわち一定の強度である。しかしその本質が現実の個物として実現するためには、その力能の度合いに応じて、無限に多くの諸部分を帰属させなければならない。例えば人間なら、無限に多くの分子レベルから細胞レベルに至るまでの結合が血液や神経を形作っているように、それらの無限に小さな諸部分は、個体の本質を成す一定の構造のもとに配置・集結され、個物を表現する外延的な部分を構成するようになる。この構造ないし構成関係をスピノザはRATIO(比率・割合)と呼んだ。それは個物の本質そのものであり、このような本質が無限に重層しあってこの世界のあらゆる具体的個物の多様性を形作っている。

ところが、この様態的世界は、実体の中に何の積極性もなく溶解してしまう静的な世界でもなければ、神なる自然の懐の中で各々の個物が自らの本質を本分として安らう牧歌的世界でもない。むしろそれは絶えざる闘争の場に他ならない。というのも、様態の本質は現実態となるやコナトゥスとして、つまり自らの存在を維持しようとする自存力として規定されるからである。個物における各々のコナトゥスは、自らの構造に帰属する外延的諸部分を包摂し、更新し続けようとする。したがって、様態上の世界においては常に、ある様態が他の様態の諸部分を引き入れて自らの構成関係の一部となす事態が起こっている。その場合には他の様態は、自らを構成していた諸部分を解体され、消滅するのではなく、別の新たな関係の中に入っていくことになる。個々の様態はこのように、自らの本質である構造を維持しつつ、その外延的部分の帰属をめぐって絶えざる闘争関係にある。

このような様態的世界はホッブスの言う「万人の万人に対する闘争」の自然状態と似ているが、次の三点でまったく異なる。第一に、とりあえず「闘争」と表現したこの関係は、スピノザの場合、同時に、自分のみならず相手を活かす関係であるということである。第二点は、スピノザにとっては、ホッブスが「万人」と表現したように人間をアトム的な還元不能の実体として捉える見方が存在していないことである。第三の違いは、この自然状態が社会状態になっても消滅しないという点である。

 

スピノザにおいて、個々の様態は自らの本質を実体のうちに有しており、その本質は端的に実体の絶対に肯定的な内包量・強度としての量であった。むろんスピノザの実体は現実態に対応する可能態ではなく、様態において無際限に自らの存在を維持しようとする力(すなわちコナトゥス)としての力能が実現されることによって実在性が明らかになり、その無限な生命の活動性が証明されるような現実的存在である。このようなコナトゥスは、私たちの日常的な経験のレベルでは端的に「活動力」としてとらえられる。したがってスピノザにとって活動力は「喜び」という情動の源泉であり、個体の本質がより多くの外延的諸部分を自らに帰属させる際の原動力としてとらえられている。そしてこの活動力と切り離せない「喜び」とは、「人間がより大きな完全性へと移行すること」を意味し、これは様態が自らのコナトゥスに従ってより大きな実在性を獲得していくことに他ならないのである。

この「活動力」をただ精神の「観想」によって増大させたり、減少させたりというのではなく、精神と身体は同一の秩序・連結を表現するから、この活動力は身体の側での遭遇や連結によって増大し、精神の側で対応する思惟の能力に反映されるのである。

スピノザによってコナトゥスとしてとらえられた能力は、人間においては意志であり衝動であり、欲望と同義である。従って活動力というタームは、私たちが自らの内的必然によって何かをなそうと意欲することであり、自らの能力を発揮しようとする欲望であり、力の増大と喜びを味あわせてくれるような自らの愛するものと可能な限り一致しようとする衝動である。したがってこの活動という言葉には、人間が自由で能動的に生きようと欲するときのすべての活動の源という意味が含まれている。それは、創造し享受する能力・欲求であり、虐げられている人が人間として対等に自らの能力を行使したいと望むときの力であり、それが桎梏とあらば共同体の諸々の枠組みや規制や抑圧を払いのけ、新しい社会的諸関係を創出していく際の原動力に他ならない。それゆえにこの活動力の問題は、善悪という倫理的な問題に関わると同時に、必然的に政治的な問題となる。

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