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2013年1月

2013年1月31日 (木)

チャールズ・ローゼン「音楽と感情」(2)

Ⅱ 古典派以前

音楽学を勉強する者なら、だれでも「情緒の統一」なる美学が18世紀はじめの音楽を支配し、世紀の終わりになってもなお、少数の重要作曲家に影響を与え続けたこと知っているはずだ。トッカータや幻想曲などの即興の印象を与えようとする音楽をのぞいた、正式に構築される作品は、単一の情動原則に従うよう要求された。正式構築作品では、「情緒の統一」はリズムや質感の点で時代の好みにぴったりとあてはまった。これに正式作品は、最後の終止までとどまることなく駆け抜けるリズムの連続体で、その連続体で、その勢いを中断させる区切りはまったくといっていいほど存在せず、表現的なわずかなぶれの強さの変化をつけている─響きの厚みの変化、和声の不協和部分の変更などのぶれは、不変という規則性に迫られた結果起こる単調さを避けんがための、すばらしく独創的な表層の現象であることが多い。

「情緒の統一」はかならずしも情動内容の退屈な表出だったわけではなく、微妙な抑揚変化を包含していた。ある短い作品を一見して見れば、そこで何ができたのか、そしてその限界は何だったのかがわかる。ここではたとえば鍵盤楽器の響きにすぎなくても情動的意味における寄与するような音楽のさまざまな局面のすべてや、たとえ音楽様式に感情表現の新たなプロセスが加わったとしても二世紀は有効であり続けるような音楽の局面を想起させるシンプルな例として、バッハの鍵盤楽器のための「パルティータ第1番からアルマンド」を選んだ。

このアルマンドは平均的、典型的な作品として取り上げたのではない。だがその風変わりな点が、当時可能だった表現の幅や、きちんと定義された枠組みに内蔵される情緒の微妙な抑揚の多様性を知るのに役立つ。リズムは確実で揺るぎない十六分音符の連続体である。冒頭の数小節はむらなく一様で、各アラベスクの最高音がFからBbまで一音ずつ上昇し、外声が小節ごとに根音に対して五度、六度、そして表現的な長七度、次いでオクターブへと連続した輪郭を描きながら、わずかに強さを増して行くだけだ。だが4小節目の最後でヴォイス・リーディングによって加わった表現的なアクセントが十六分音符の動きを中断し、それよりはるかに表現的な次の小節のアラベスクを準備する。この空隙はバスの和声変化で埋められる。十六分音符のリズムそのまま途切れずにつづくが、ソプラノに新しくゆるやかなリズムがあらわれ、私たちはついついソナタ形式の標準的な用語を使って、「属調の第二主題」と呼びたくなる。これは間違いなくその後の様式の発展を先取りするものだが、ソナタ形式の特徴である属調への動きという区切りは影も形もない。だが実はバッハは新主題の2小節目でそれをちらつかせている。言い換えると古典派システムの基盤がすでに存在しているのに、古典派システムで使う区切りを使っていない。ここではすべてが接ぎ目なくスムーズに仕上げられ、たえまなく前進する動きにすべての細胞が包み込まれているからだ。このあと十六分音符のたえまない動きはソプラノから継ぎ目なくバスに移る。バスのクロマティックな流れとともに局は短調に変わり、またふたたび長調にもどって終止に向かうが、これによってさらに新たな強さが加わる。前半の終わりで十六分音符の連続体は二声に分岐し、リズムのアクセントが倍加するので終止が切迫していることがわかるが、この新しい響きで増した重みのせいで終止へのプロセスがはばまれることはない。「情緒の統一」はここで動きの統一によって補強されるが、和声と質感の強さに起こるわずかな変化によって、またアラベスクのラインにふくまれる不協和要素が巧みに増すことによって、たえず抑揚の変化が起きている。後半では未来の様式変化の萌芽をもっとはっきりみることができる。後半はあたかも前半のパターンをくりかえすかのようにはじまり、属調から主調へ移るが、このパターンは新しい順序で根底から書き直されている。関係短調(ここではト短調)への本格的な解決は、やがてソナタ形式展開部の決まりごとになっていく。すぐに属調の「第二主題」がもどってくるが、これは主調ではなくハ短調であらわれる。このように曲の後半三分の一でサブドミナントの領域(ハ短調は変ホ長調の関係短調)をちらつかせるのは18世紀を通じて調性音楽の標準的慣習で、ベートーヴェンが現役生活を終えるまで支配的だった。主題をスーパートニック・マイナーというサブドミナント領域でくりかえすことには、表現の強さと再現部の解決力を増すという二つの機能があり、ここで低音域でいちじるしく強調されたあとすぐ、上のオクターブまで上昇していく。連続運動が中断しないのに、表現の強さの波動はすさまじい。にもかかわらず、まったく誇張がなく、劇的にきわだつこともない。この様式はけれん味なしに強さの変化を長い間持続させることができる。バッハほどスムーズかつパワフルにこれができる作曲家がほとんどいないのはたしかだ。これらの変奏はひじょうに重要なので、曲の進行につれて情緒が変化したといいたくなるのもたしかだが、ひとつの情動とべつの情動とを区別する一線の引かれる場は存在しない。たえず変わる明暗の配合のなかに基本的な情緒が提示されると考えるならば、「情緒の統一」という考え方は維持できるかもしれない。つまりは強さの陰影と和声構造が暗黙のうちに劇的シナリオをつくり、それが─揺るがぬ調性の基礎、感情の対比、高まりゆく興奮とパトス、最終的な解決をたしかなものにして─半世紀後にやってくる発展を予告するのである。

このアルマンドに見られる情動表現の技法には、容赦ないリズムが内包する強さの波動、最後の終止にいたるまで単調さに陥ることなく途切れずに進む楽章を統轄する力がおなじく存在する。この技法では二つの動機がすぐにではなくともやがて一体となって響くことと、統一を決定する基礎的情動がふたつの動機の組み合わせであることが必要だ。作曲家たちが複合的で正式な構造の中にバロック的即興のすばらしい対比を統合することを学んだ時、「情緒の統一」は強弱の対比を特徴とする新しい芸術に膝を屈するのである。

チャールズ・ローゼン「音楽と感情」(1)

この本は、音楽がわかるとは難解な暗号を覚えることとは違うという信念から書かれた。音楽の多くの局面はもちろん長い学習の成果だが、音楽の感情的、劇的な意味をとらえるのは瞬時のことだし、音楽に馴染みさえすればそれは出来る。最も初歩的な意味で、音楽がわかるとは聴いて楽しむことを意味するにすぎない。たしかに耳慣れない音楽や、はじめて聴いたときに違和感のある音楽だと、楽しめるようになるまでには何度かくりかえして聴く必要があるし、あえて新しい感覚を試みるには、そもそも多少の善意がなくてはならない。だが音楽の存在理由である自然な楽しみのために専門知識はまず必要ない。

私は音楽が表現する情緒とは何なのかをつきとめることよりも、その表現のしかたが二世紀かけい根源的に変わったことの方に興味があった。それが音楽様式の歴史の重要な局面を解き明かしてくれるからだ。それに、音楽を理解するには、その意味に名札をつけるより、情緒がどう表現されているかを知ることのほうが大切だ。音楽的な感覚の意味をはっきりさせるためには、それがどれほど多様なあらわれ方をするか理解するのがいちばんいい。

 

Ⅰ 複合的なシグナルの意味を決めるということ

音楽の感情表現を考えるとき、私はその感情に名前をつけようとあまり思わない。だから、ある音楽を聴いて感じるはずのものが何かを知りたい読者はきっとがっかりするだろう。しかし幸いにして、音楽から何を感じるかはふつうわかりきっている。つまり、ある音楽は悲しく、ある音楽は楽しい。ときに苛烈な、また葬送の音楽もあれば、優しくたおやかな音楽もある─つまり、それがどういう感情か、判断はそれほどむずかしくない。感情に名前をつけるのがなぜ浅薄か。それはおもに、こういうことにかけて、音楽は言葉よりもずっと雄弁だという事実からきているる言語のさまざまな機能のうち、情報の伝達はとりわけ重要なもののひとつだが、これはかならずしも音楽の得手とはいいがたい。だが、言語が音楽のもつ霊妙さや感情的共振のせめて足元にでも近づこうと思うなら、詩的な方法を模索するしかない。

たしかに音楽のもつ感情力については遠い昔から言い伝えられてきた。だが、ある感情を生活の中で実体験するということは、音楽作品に表現された感情を経験するのとはまるで違うことを忘れてはいけない。私たちが表現芸術を称えるのは実体からの乖離効果があるからだ。ヴェルディの「レクイエム」の「ラクリモーサ」を聴くとき、私たちは悲しむのではなく、悲しむのを楽しんでいる。

表現された感情や情動がはっきりしているときに、それに名前をつけるのをとりたてて避けようとはもちろん思わないが、いずれにせよ感情を特定することは私の本来の目的ではない。本書で問題にするのは表現の性質─つまりそれは統一された感情なのか、それとも対立する別の感情とセットになっているのか、表現の力は安定不変なのか、それとも動機の展開とともに強まるのか弱まるのか、強まるなら、急速になのか徐々になのか、といったこと─である。それはまた、ある感情をあらわす特定の動機が別の感情表現へどのように変容するかを考え、その変容の手法について知ることとも関係してくる。呼び覚まされた感情に名前をつけるのが問題なのは、音楽がはっきりと喚起したものを言語におきかえると、曖昧で品を落としかねないからだけではない。音楽の歴史がくだるにつれて感情表現はいよいよ不安定で流動的になりがちなうえ、動機が音楽形式のなかに占める位置しだいで異なる情動的意味をもつことがあるからだ。ごく単純な例だが、動機は反復して二度目にあらわれるとき、かならずしもおなじ意味ではなく、そのせいで聴き手の記憶にある初出の意味を少し変えてしまうことすらある。

本書の議論の核心となるのは、音楽史全体をつうじて感情表現の方法がたどった根源的な変化についてである。

18世紀の音楽では、情動の意味は協和と不協和の関係から生まれることをまず理解しておかねばならない。協和/不協和という用語は、心地よい/不愉快な音楽的ノイズのことではなく、18世紀的調性の語法のひとつだった。不協和音とは不快な音ではなく、協和音に解決されねばならない音程や和音のことである─基本となる協和音は主和音で、そのいちばん重要な音程はオクターブと五度だが、それは18世紀の調性音楽作品では、曲の最後の和音にはこれらの音程か、少なくともそれを暗示する音程がなければならないからだ。不協和音は緊張の高まりをつくりだし、協和音はそれを解放する。

不協和音は和声的(垂直)だけでなく、メロディ的(水平)にもとらえることが大切だ。1700年代本来の調性的メロディは主和音を輪郭として調性を決めた。メロディの音符は、各フレーズの示唆する基本の三和音と、冒頭で決まる主和音の双方に対して、たがいに協和/不協和の関係をくりかえしながら進む。そして作品の核セクションに生まれるすべてのフレーズは、そのセクションが示唆するどの副次的な調性の中心に対しても協和か不協和である。本来の調性的メロディにはみな、独自の和声構造が埋め込まれている。この緊張の度合いのちがいこそが、どんなたぐいの感情表現にとっても大元の土台となる。

音楽の感情についての議論は、どんなものでもその核心にこういう問いがある─18世紀の聴き手はどうやってこの複雑なシステムを学ぶことができたのか。音楽理論を学んだからではもちろんない。こういうシステムは子供が言語を習得するときのように、両親や兄や姉や友だちがしゃべるのを聞いて学ぶもので、文法や構文法を勉強して習得するのではない。むろん文学の様式がどう機能するかを理解するのに修辞学の勉強が役に立つのはたしかだが、隠喩、直喩、撞着語法、二詩脚併合などを論じなくても、言語文化のかなり高い水準を理解することはできるし、そういうものを知らなくても読書から深い感銘を受けることができる。一般聴衆がモーツァルトの作曲技法を説明できなくても、その感情表現に心から感動できるのとおなじだ。

音楽を聴くときに聞こえてくるのは単なるノイズではなく、さまざまな関係性、拍子の規則性、ルバート、均整、反復、不協和と解決といったもろもろのもので、私たちは詩の愛好家が韻、類韻、音の遊びなどの小道具に名前をつけずに楽しむのと同じように楽しむ。そして意味へのアクセスがあたえられれば、こういう楽しみ方は終わりを迎える。音楽を聴くとき私たちが意識的、無意識的に知覚するのはパターン、つまりサウンドの秩序づけである。

 

ひとつの音楽要素に決まった意味をしつこく与えたがるのは、要するに音楽を言語と混同するところから起きる。つまり、音楽はしばしば言語だと言われ、言語と同じように意味をもつらしい、であれば特定の語彙が可能でないはずがないではないか、というわけだ。それはまた音楽と絵画を混同するところからも起きる。

音楽同様、絵画にも話し言葉のような機能や能力すべてが具わっているわけではないが、中世やルネサンスの絵画は手の込んだ象徴的、図像的な語彙を発展させた。こういう標識のような印は音楽にも存在する。だが、こういうものはみな性格音楽の絵画的描写や擬音効果であって、かたや抽象音楽のほうは、特徴のない、ありふれた要素、フレーズのなかの単純なメロディのなかの単純なメロディ変化、いつでもどこにでもある動機によって感情を描き続ける。これらの要素に一定の情動的意味をくっつけようとすれば、失敗は目に見えている。こういうものは和声、質感、リズムに応じてあらゆるところで意味を変えていくからだ。和声の意味も同じように流動的で、作品やフレーズによって変わるし、ときにはひとつのフレーズの始まりと終わりで異なることすらある。ある色に、また様々なアラベスク形式に特定の情動的意味を与える絵画理論も同様に実用の役には立たなかった。シンボルの解釈に限って言えば、絵画ははっきりとエロティックな形状を取れる点で音楽より有利だが、画家が絵画の意味を解き放つ手段を見出さない限り、ロールシャッハ・テストの絵を眺める以上の効果はあるまい。音楽でも、特定のリズムやメロディの形に潜在的エロスを託すことができたとしても、ふつうそれが効果を発揮するのは、ハッキリしたテキストを伴う時に限られる。

特徴のない、ありふれた調性音楽の要素に意味を託そうとするひとつの言説についても述べておかねばならない。これにはまるで説得力がない。つまり情動的意味を特定の調や調性に帰する考え方のことである。調の性格をめぐる考察は音楽の伝統一般どころか特定の時期の音楽についてすらも、説得力ある説明をしてくれない。そのような議論は、個々の作曲家が特定の調を扱う時のごく個人的な点に注意を喚起した点にのみ意義がある。

2013年1月29日 (火)

あるIR担当者の雑感(112)~IRのホームページを考える(14)

おまけのつもりが長くなってしまいました。今回で、この一連のシリーズの最後としたいと思います。以前に、このブログで新しい方法としてSNSの活用を考えたことがありましたが、それについて考え、試行していることについて述べて終わりにしたいと思います。

最近では、企業がツィッターのアカウントを利用したり、フェイスブックのファンページを開設するケースも珍しくなくなってきました。IRにおいても、それを利用するケースが増えてきました。私が思うに、IRということに関して、SNSとホームページはフローとストックの関係になぞらえてよいのではないかと、漠然と考えています。そこに、両者の強みを生かした補完的な関係が築けるのではないか、考えています。そして、もう一つ言えば、SNSはパーソナルな方向で、ホームページはパブリックな方向という方向性の違いで、それぞれの方向性の違いがカバーする領域で棲み分けをしている。

SNSに対しても、IR関係の団体や識者みたいな人々は盛んに推奨しているようですが、とにかくやってみろとは言っていますが、どういうメリットとか特徴があって、どういう点で活用できる、という具体的な議論はほとんど聞いたことも、見たこともありません。今、やっている企業も少なくありませんが、取敢えずやっているというようです。しかし、私は個人的に、SNSというコンテンツには魅力、可能性を感じています。その点については過去にプログで詳しく書きました。その考えを前提にしてSNSの特徴を前述のように考えたというわけです。実際に、今、勤め先の会社について、試験的に始めているところです。とはいっても、企業のアカウントを正式に取得して、企業のページを作るということを、敢えて行わず、私個人が、勤め先のIR担当者であることを公にして、その担当者が企業のことを、折に触れて呟くという形式をとっています。前述のSNSのパーソナルな方向性を生かすには、こういうあり方もありではないか、ある意味では、この方がやりやすいし、見る方も、個人の一方向からの呟きということで、適当な距離感を保ちつつ、書かれたことを、受け取りやすいのではないか、と考えています。また、ここで呟くことは、公式発表に限るという限定が外れます。決算発表とか、説明会の告というような公式の発表は当然行います。しかし、このようなことは何もSNSだからこそ情報発信できるということではないのです。企業の中には、SNSをそういうもの、例えて言えばメールマガジンと同じように扱っているところも以外に多いと見受けられます。これは、私にはSNSの機能を見誤っているように見えます。というよりも、SNSを初めてはみたが、そこで何を書けばいいのか分らないので、公式発表をそこで出している、というケースが多いように見えます。

私が意図しているのは、そういった公式発表はホームページが担うべきだということです。SNSではそういう情報発信はすることはするが、それは一種のオマケのようなものと考えます。では、何を発信するのか。ホームページでは発信できないようなことです。今の文章で、私は「こと」と書いて「情報」とは書きませんでした。このことに端的にあらわれているのですが、情報にはなりえないような情報、つまり、ことという言葉でしか言い表せないことです。例えば、会社の空気とか雰囲気、そこでの人々の動きとか思いといったものです。実は、アナリストや機関投資家が企業を直接訪れて取材をするのは、実地でそういうものに触れたいという目的もあるといいます。有名な「スリッパの法則」も玄関のスリッパを見るということではなくて、実際に企業に行って見なければ分らないことがたくさんあり、それを馬鹿にするなという戒めであると思います。それを、アナリストや機関投資家のようなプロは平然と行っていますが、そうでない人々、例えば、個人投資家には中々できることではありません。(そのために、私の勤め先では、個人投資家を対象にした工場見学兼会社説明会を企画しました)その一部代替を果たす機能をSNSが担うことができないか、と考えています。そこで、企業内の一担当者が見たり感じた企業内の風景とか、ひとつひとつのエピソードを綴っていくことで、社内の雰囲気とか社内に浸透している文化をものがたりのように感じてもらおうという意図です。実際、先日の大雪の際に社員総出で雪掻きをしたとか、一見他愛のないエピソードです。でも大企業ならば、そんなことはしないでしょう。その雪掻きをしている人々の中に役員もいるとなれば、それはその会社の個性が図らずも顔を出している、ということになりませんか。そして、そういうことの公式な説明はホームページで説明されているわけです。つまり、そういう文化を生み出した沿革とか経営理念とか、です。

長々と書き連ねましたが、これらはすべて机上の空論ではなくて、実地で行っていることです。もし、これを読んで興味をもたれて実際に見たいと思われた方は、プロフィールを伝って探してもらうか、分らない場合には、プロフィールにあるアドレスのでメールで問い合わせください。

2013年1月28日 (月)

あるIR担当者の雑感(111)~IRのホームページを考える(13)

前回で、私の勤め先でホームページを作りながら考えながら、出てきたことを各ページの内容に即して述べてきました。現在も、これらのページは日々改善を続けています。最低1日に1回は、どこかしらのページを更新している段階で、毎日少しずつ動いています。おそらく、このブログで、これまでのことについて考えをある程度整理したことを契機にして、ページのつくりを見直すことになりそうです。そうなると、各ページの構成が変わってくる可能性があり、そうなるとホームページ全体の構成を再構築する可能性もあります。このような、作り方をしているため、ホームページ専門業者のようなプロの効率的なページ作りをしている人から見れば、非効率に見えるのかもしれません。お手本のようなものを求めず、IRのホームページというのは、こういうものではないかと本質を考え、それを実際に形にすべく試行錯誤を繰り返し、それが当初の考えた本質に修正を迫るという方法で、いうなれば、ビジネスの常識的なパターンであるPDCを回していると、こうなるというものではないか。私見では、もともと形のないものに形を与え、その過程で形を与えようとしたものを再検証することによって、そのものの本質を見つけようとするというのは、哲学の基本的な方法です。フッサールという19世紀ドイツの哲学者は現象学という新たな学派を創始したひとですが、そういう作業を何とも繰り返した人です。壮大な哲学体系を構築していく作業の中で、1点の疑問から、せっかく作り上げた体系を自分で壊して、最初からあらたな体系を再構築すると当初とは違った姿になってしまう。フッサールの哲学は3期に分けられるといいますが、それぞれが全く違う哲学に見えてしまうほどです。しかも体系を再構築などしてしまうと、弟子たちは今まで自分たちが教えられてきたのは何なのかと自己否定を迫られるようで、師のもとを去ってしまうので、フッサールは体系を作り直すたびに孤独になるのです。こうして、彼のもとを去った人の中には、ハイデッガーやマックスシェーラーといった現代哲学に多大な影響を与えた哲学史の巨人もいたのです。ここでやっていることが、それほど大そうなことではありませんが、やっている本人としては、ある程度の自負をもってやっているわけです。

また、この作業を続けている中で、新しいアイディアも出てきます。それは、これから試みても成功するか分らないので、ここでは明らかにしませんが、最後に、ホームページをそれ単独で考えるのではなくて、他の媒体との連携も考えているということを少しだけ触れたいと思います。これには、当然、他の媒体もホームページとの連携をしていくことにより、自身のあり方を見直すことになってくるということも含みます。

例えば、説明会については、説明会の動画と配布資料をアーカイブとしてホームページに掲載しています。これなど、やっている会社は多いのではないかと思います。それに加えて、当日の質疑応答を記録してアーカイブに加えています。また、毎回の説明会の出席者とその内訳、アナリスト、機関投資家、ジャーナリズム関係、その他と分けた内訳を載せ、別にFAQの中でも、毎回の説明会の概要を説明しています。これは、説明会に出席できなかった人への補完の意図と、説明会を開いているというのは企業情報として投資の対象として企業をみるときどの程度のことをしているのかというが重要な情報であるということ考えているためです。今、課題として考えているのは説明会の動画です。今年の英国IR協会のガイドライン等をみると動画の活用ということを強く推奨していて、動画を多く使ったサイトを表彰しているようですが、むしろ、ネットユーザーにとって動画というコンテンツで企業の情報を伝えることが適切か疑問なのです。動画というコンテンツ自体を否定するのではありません。ニコニコ動画の興隆や、そこに投稿して多くの人の支持を受けてメジャーとしてデビューした人もいるという事実もあるわけですから。しかし、例えば、ソニーのホームページで経営者が企業の方針や戦略を動画で語るなどというのは、果たして投資情報を得るために訪問した人に有効なのか、また、アップしているソニーはそれを検討して動画を作っているのか、私には、どうも、そうは見えないのです。しかも、スマートフォンでも見ることができるようにしている、と聞くとなおさら疑問を感じます。というのも、少なくとも企業の方針をCEOが語るということになれば、内容が伴っていなければ意味がありません。しかし、そういう内容がこもった動画を視聴するということは目と耳の注意を集中することが必要です。これに対して、パソコンで視聴するという場合、たとえ短時間であるにせよ、そこまで集中するのに適した環境なのか、説明は時間とともに流れていくので、大事なところを聞き逃してしまうと、視聴した意味が無くなってしまうのです。そして、スマートフォンともなれば、尚更です。スマートフォンを静かな室内の集中できる環境で注意深く視聴するということ、普通では考えられないことです。移動中とか、ちょっとした時間についでに視聴するというときに、緊張と集中を迫られる動画を見せるメリットがどこにあるのか。それを克服する手法のようがあるのか。私は、この疑問が解けないでいます。そして、このような動画を推奨する英国IR協会はそういう実務的な理由を何一つ説明していません。それはまた、バッと見て、分かりやすいという、それまでの主張と論理的な矛盾があると私には思うのですが、その場合のロジックが一言も説明されていないので、疑問を募らせています。これを紹介している日本の学者も知らん顔のようです。

ただ、私の勤め先の場合に、たしかに説明会の動画を集中して見て下さる方がいらっしゃるのです。それは、実際に数人のアナリストの人から聞きました。だから、この説明会動画に関しては必要とされているものではあるとして、当面このまま続けるというので十分ではないか、と思っています。

そして、印刷媒体とホームページの連携の一つの試みとして、株主通信のウェブ版をつくり、印刷したものと連動させて、相互に補完させることはできないか、ということを試みようとしています。これについては成果が出ていないので、上手くいった場合には、このブログで経過か結果を報告したいと思っています。

2013年1月27日 (日)

あるIR担当者の雑感(110)~IRのホームページを考える(12)

前回が長くなったので、今回は短めにしたいと思います。「リンク」の項目です。これは、そんな多くの会社がホームページに載せているわけではありません。載せてあっても、私には何のために載せているのか、意味不明なケースも結構あります。例えば、業界団体とか主務官庁へのリンクなど何を見せたいのか。それを載せた会社の意図が理解できません。

前のところで、何回も触れましたようにリンクという機能はホームページに特有で、ミーティングや紙媒体では実現不可能な機能です。しかも、会社のホームページ内に限らず、インターネットにある無数のホームページを、あたかも自分のもののように簡単に引用して利用できるという、まことに便利な機能です。だから、この機能を活用しない手はありません。

そして、私の勤め先のホームページを訪れる人は、とにかく会社のことを知りたいと訪れる人ですから、このリンク機能を縦横無尽に活用して、より会社のことを知ってもらうために、社内のホームページで説明できないようなことを、このリンクを利用して知ってもらうことができると思います。それが、ここ「リンク」という項目と捉えることができます。

では、会社のホームページで説明しきれなくて、会社のことを知りたい人が知りたいと思う情報には、どのようなものが考えられるでしょうか。どうやら、私の見た各社のホームページでは、そのような視点でリンクページが作られてはいないようです。どのような意図で作られているかは、最初に言いましたように、私には理解できませんでした。

そこで、本題に戻ります。そのような情報とは、端的に言えば、この会社でない情報です。つまり、私の勤め先は様々な会社と取引をし、また、顧客としています。それらの会社はどのような会社であるのか。それは、わざわざ、私の勤め先のここで説明するよりも、直接、その会社のホームページに行ってもらって、その会社自身による説明を見てもらうのが、手っ取り早い、確実です。だから、リンクでそれらのページを紹介して、知りたい人はリンクを伝って、情報を得てもらうことができる。私の勤め先のことを知りたいということは、関係する会社のことも知りたいわけで、それをリンクとして一覧にしてあれば、いちいち自分で調べることなく、ここにくれば労せずして関係する会社のページを見ることができるのです。

そして、さらに同じような条件で知りたいのは、何も顧客や取引している会社だけではなくて、私の勤め先とライバル関係にある競合会社のことは、もっと知りたいでしょう。ということはライバルのホームページをリンクで紹介すれば、ページを訪れる人にとっては至れり尽くせりになるはずです。

これで、ホームページの各ページ項目の説明はひと通り行いました。

2013年1月26日 (土)

ベルギー象徴派展(4)~フェルナン・クノップフ

Belgkhn5この展覧会は、私にはクノップフとそれ以外の画家を見るというもので、お目当てはクノップフでした。今回の展覧会パンフやポスターでも彼の「妖精の女王」(左図)が使われています。ここで描かれている人物、女性とも両性具有ともとれるような両性的で、しかも世紀末に盛んに描かれたファム・ファタールの要素もあるような、彼の独特のキャラクターともいえるこの女性は作品に様々な衣装をまとって登場します。それは、ラファエル前派のダンテ・ガブリエル・ロセッティが自分の妻をモデルにしたキャラクターの作品を多く描いたのにも似ています。ロセッティの濃いめのキャラに比べて、クノップフの描くキャラは薄味の味わいというのでしょうか。瞑想的というのか眼にあまり力が感じられず、多少虚ろな感じが現実から遊離した印象を強め、淡い色彩で、クノップフに特徴的な下あごの大きな顔の輪郭も定かに描かれないことも多く、まるで顔が宙に浮いているような重量感のなさです。

Belgkhn3でも、今回の展示では、このような人物画はスケッチとか下絵のようなものが多く、目に付いたのは風景画でした。彼の地元である古都ブリュージュの風景を描いた作品は、風景の写生をしているように見えながら、見ているうちに幻想の蜃気楼のように見えてくるという不思議な作品です。クノップフという画家が描いているからという先入観で見てしまっているからでしょうか。それとも、世紀末の小説としてよく言及され、クノップフも取り上げている、ローデックバックの「死都ブリュージュ」のなかで、主人公が霧のような現実とも夢とも見分けのつかない中で亡き妻と瓜二つの運命の女性を追いかけて歩き回る風景を連想してしまうからでしょうか。まるで写真のような正確で厳格なデッサンで、あたかも客観的に書かれた古いゴシック様式の寺院や運河わきの建築は、北欧独特の光というのか、印象派のような強烈な光と影の対比が見られない代わりに、鉛筆で描かれる建築物の壁はまるで光が粒子であるかのように、ひとつひとつの粒で構成されているように見えてしまいます。そこで、薄暗く、淡く、霞んでいるかのように見える風景は、測ったような正確なデッサンでありながら、どこか非現実的に見えてくるもので、グザヴィエ・メルリの描く風景にも似ています。しかし、クノップフにはメルリには明白に感じられた画家の作為が巧妙に隠され、ほとんど見えてきません。それは、彼が盛んに描いたキャラクターにも通じる雰囲気かもしれません。

あるIR担当者の雑感(109)~IRのホームページを考える(11)

「FAQ」はホームページの中で、最も力を入れたページです。代表的な質問と、それに対する答えというのが「FAQ」のページになっています。機関投資家やアナリストの方に聞いてみると、意外なことにFAQのページはよく見るようです。私としては少し驚きましたが、彼らは共通して不満を感じていることも分かりました。その理由は、どこの会社でもいいので、とりあえずFAQのページを見てもらうと一目瞭然です。つまらない。ほとんど中身がないのです。

最初にFAQというのは代表的な質問と、それに対する答えと言いました。代表的な質問ということは、このページを訪れる人なら誰でも質問するような質問ということではないかと思います。このFAQを訪れる人が多いというのは、個別の説明を探すのは面倒だから、多くの人が訊くような質問なら、このページに出ているかもしれないと期待してのことではないかと思います。しかし、実際に各社のページを見てもらうと分かるように、そこで質問と回答が載せられているようなことは、会社の設立年月日とか、決算日とか、発行済み株式総数とか、株式関係の手続きの問い合わせ先とか、多くの人が質問したいこととはズレている、ハッキリ言えばあまり重要ではない、端的に言えばどうでもいいようなことが多い、という状態にあると思いました。

そこで、訪問者が多いことなどから、他の会社と反対の発想で、会社のアピールをできるページとして積極的な位置づけをしました。つまり、代表的な質問ということで、会社について、先ず知りたいことということを、逆転の発想で、会社から訪問する人に先ず知ってもらいたいことを並べることができるページにすることができる、ということです。ただし、訪問者が知りたいことと、会社が知ってほしいことが、全く食い違っていたらお話になりません。そこは、訪問者が知りたがることに、寄り添うように会社が知ってほしいことを出していく、というやり方には注意しました。また、訪問者が知りたいことは、会社のホームページの項目を分けた分類とは無関係にあるものなので、言ってみれば、項目の分類によって載せにくくなってしまった事項をここで載せることもできるわけです。例えば、会社の設立年月日ということを、少しズラして、会社設立の経緯とか、その時創業者はどのような思い入れで会社を始めようとしたのかとか、それが現在の経営にどのように生かされているのか、といった会社の経営の特徴をある意味で側面から説明することにもできるわけです。

そう考えると、FAQでだからこそ、会社が話すことができることは沢山あります。そして、質問の項目は機関投資家とのミーティングの時の質問される最大公約数とか、初回のミーティングで必ず質問されることとか、まずはそのようなところからスタートして、徐々に追加していけば充実したものになってきます。私の勤め先のFAQで取り上げている質問は、代表的なものは次のようなものです。

1.会社について

・この会社を投資対象として見た場合の特徴

・社名やロゴマークの由来

・経営理念、経営方針

2.会社の沿革

・会社設立の経緯

・設立以来、どのような発展を遂げて来たのか

・海外進出はいつごろから始めたのか

3.人と組織

・経営者はどのような人か

・従業員構成

・社員はどのようなタイプが多いか

・社内の雰囲気は

・人事や組織戦略は

4.財務政策

・財務政策の基本方針は

・総資産の中で現金の比率が高いが

・最適資本構成をどう考えているか

5.株式・配当

・株主構成は

・配当の方針は

・株式市況に対する考えは

6.IR、開示

・IRの基本方針は

・説明会は行っているのか

・説明会では、どのような質問が出て来るのか

7.その他

・コーポレートガバナンス、環境への取組、CSR

8.事業について

ここにあげた質問事項は一部ですが、ページを訪れる人が訊く代表的なことになっています。これだけでも、とりあえず各社のホームページにあるFAQの比べてみてもらえば、違っているのか分かると思います。この質問項目以上に回答に力を入れました。例えば、IR開示の質問への回答では、説明会の毎回の出席人数、その内訳(アナリストや機関投資家の出席に人数)まで、細かく説明しています。これは、ミーティングの時に興味を持ってくれた人が必ず聞かれることで、このような情報を開示している企業は他にないと思うので、この部分を読むだけでも、このページに来る価値はあるのではないか、と手前味噌ですが、あります。ここにあげたものの全体的な傾向として、会社の姿勢とか方針とか、つまり、会社がどう考えているのか、ということを主に出しています。

実は、このようなことを項目として説明をしていくと、押し付けがましくなってしまいがちなのです。ところが、質問に答えるという形式にすると、押し付けがましさは薄くなり、あまり気にならなくなります。そして、質問への回答という形式はしゃべるような語り口になるため、親しみやすい感じとなり、受け入れやすくなるという効果もあります。説明の場合には事実を説明するという一方で、質問と回答はインタビューをうけるように訊かれたことをざっくばらんに話すという色分けをできる。その中で、他にない情報を多く入れこんでいくようにしているので、かなり充実したものになっている。ホームページへの訪問者と会話するような感覚です。

もちろん、回答の中で参照できる説明があればリンクを貼って説明ページに適宜とばすように設定してあります。だから、一つの質問だけでもみようとすると、そのページだけではおさまらず時には外部の含めてさまざまなページにリンクを伝って移っていくことになります。

2013年1月25日 (金)

ベルギー象徴派展(3)~ジャン・デルヴィル

Belgdel1ジャン・デルヴィルは1867年ルーヴェンに生まれ、1953年ブリュッセルで亡くなっています。1885年ごろから象徴主義的な作品を書き始め「20人会」に加入、1889年頃神秘思想家ジョセファン・ペラダンと出会って「薔薇十字会」の運動に参加、積極的に出品する。「芸術のために」展や「理想主義藝術」展を主宰し、審美的な象徴主義藝術を推進、ルーヴェンの市庁舎などの公共の場を飾る寓意的な作品も制作している。グラスゴーとブリュッセルの美術学校で教授を、モンスのアカデミーでは校長をつとめ教育にも貢献した。フラ・アンジェリコやワグナー、モローなどの様々な影響を受け入れたデルヴァルの作品では、異教的なテーマが甘美な色彩で表現されている。

カタログから画家紹介の一部を引用しました。ものの本によれば、クノップフと並んでベルギー象徴派を代表する画家ということです。しかし、私は知りませんでした。今回の展覧会で、とにかく名前だけでも聞いたことがあったのは、クノップフとアンソールだけで、あとは初めてのひとたちでした。しかし、このデルヴィルの作品を見るとどこかで見たような既視感に捉われます。知らないところで引用されたのを見ていたのか、それとも月並みだったのか。この月並みというのは、もともと個性がなかったのか、色々なところで真似されて本家より物真似の方が出回ってしまったという2通りの線が考えられます。しかし、クノップフだって亜流が沢山いたわけですし、それでも本家のクノップフは、こうして他に真似のできない存在としてあるわけです。ということは、それだけ、もともと陳腐化しやすい画家だったということでしょうか。

Belgdel5「死せるオルフェウス」という竪琴の上に首が乗せられ、漂うという衝撃的な構図は、どこかでまんがかイラストで見たような錯覚さえ覚えます。竪琴の上のオルフェウスの首というアイディアはギュスターヴ・モローの作品に先例があり、それを参考したと考えられますが、デルヴィルは一見海面にも見えますが、巻貝が周囲にあるので海底にも見えます。点々と星が瞬いているように見えるので夜空かもしれず、その判然としないところで、竪琴が海面に浮いているように境界が明確に描かれず、全体として故意にぼかされ幻想味の強調が為されています。無限の空間とでも考えればよいのか、それを印象的な青が使われ、海面でも海底でも夜空でもない独自の青がさらに印象的です。画面の上方からオルフェウス顔を照らし出すのは自然の光とは考えられず神秘的な光ということになるのでしょうか。それらが相乗効果となって、何かが隠されたような象徴性、漠然とぼかされた意味性が曰くありげな神秘性を盛り上げているといえます。何だかんだいっても、詩人という人にとってはコメントしやすい画面に仕上がっているといえのす。ということは、絵画として視覚的なことだけで独立完結しているのではなくて、手段となっていて、その手段を必要とする目的が詩とか神話とか言葉によってイメージがつくられている。そして、言葉が時代の変遷の中でステレオタイプ化と陳腐化していくのに合わせて、作品も陳腐化を免れなくなっていくというものでしょうか。もともと言葉に拘束されず、絵画としてそれ自体が完結自立していれば、言葉が鎮撫化しても、新たな言葉により新たな評価が為されるものですが、この作品はもともと言葉により拘束されているため、その言葉が陳腐化すれば、それに伴い陳腐化していく、そういう作品であるように思います。

ただ、見た目が派手で、彩もあざといくらいに鮮やかなので、飾ると見栄えがすることから陳腐化しても通俗的に重宝される、忌憚なく言えば成金趣味のニーズに対して応じられるものであるように思えます。他の作品も参考に並べますが、見る側からみるとステレオタイプのパターンとして見やすく、飾り映えのする作品ということでいいのではないかと思います。私個人の主観的な価値観でいえば、クノップフと同列にするほどのものではないと思います。

あるIR担当者の雑感(108)~IRのホームページを考える(10)

今回は「資本政策と株主還元」という項目について考えます。おそらく、このような項目を単独の項目としてページを作る企業は少ないのではないかと思います。だからこそ、こういう項目を独立させページを作ることだけで、特徴を打ち出すことができます。一部を除いて、ほとんどの企業が「資本政策」ということを表面に出していないのは、実際のところやっていない、あるいは、認識していない、というところではないかと思います。しかし、機関投資家、とくに海外、の人たちは、ここを一番気にしていると言っても過言ではないと思います。それはROEに関してです。

ご存知の通り、投資家の視点からみれば所有している資産をどれだけ生かしてリターンを産出させるかの機関として企業を見ていると思われます。ただし、企業や一国の経済が成長期にあり、高い成長率で規模を拡大している場合には、そのようなことは期待されていません。それが証拠に日本企業に対して、ROEということを強く要求され始めたのはバブル経済が崩壊し、長期停滞期にはいり日本企業が成熟期に入り始めてからではないかと思います。あるいは、インドや中国といった高い成長段階にある経済状態に対しては、あまりそういう要求が起こっているということは、あまり聞きません。

多くの名の通った日本企業は、売上高や利益が前年比で倍増を連続で何年も続けるなどということは、もはやありえず、せいぜいのところ20~30%の成長率がいい方というような業績に関しては低成長、あるいは停滞というようなら、効率よくキャッシュを創出していかなければならないのに、それがいっこうに進んでいないというのが現状です。その一方で、手許にキャッシュを内部留保として、経営の安定のためと称して保持している。これが投資家サイドからみればキャッシュ創出の可能性を企業自らが潰しているということになるわけです。とくに、欧米の価値観でいえばベストを尽くすという倫理があり、手許に活用できる材料であるキャッシュがあるのにチャレンジしないというのはベストを尽くしていないと映る。つまりは、経営者にベストを尽くしていない、サボっている、ということから保身に汲々としている、というように映るのではないか。そこで、コーポレートガバナンスを要求して、保身に汲々としている経営者を追い出しチャレンジングな人に経営をさせなさい、ということでしょうか。多かれ少なかれ、機関投資家の視点は、それに近いのではないでしょうか。それを端的に表わす指標がROEと言ったら語弊があるでしょうか。

しかし、それは一方で企業の経営にとって一概にマイナスとは言えないのも事実です。私に、企業の経営を云々する権限も資格もないので、外野の戯言になってしまうかもしれませんが、IR担当者として、機関投資家に対しての企業の最前線にいる立場の人間としては、少なくとも実際に投資をしてくれるかもしれない人々に対して、それを無視したり、誤魔化そうとしたり、明言を避けるということは、得策ではないと思っています。

資本政策というのは、企業が本腰をいれて取り組むことによって、時間はかかるかもしれませんが確実にROEが改善していくものだと言われています。だから、投資家の視点でいえば、企業が資本政策に取り組むことを期待されていると言ってもいいと思います。一方、企業側の視点から言えば、常識となっている経営の安定化と対立する要素もあってリスクを感じてしまっている。できれば、これについての議論は触れたくないというというのが企業側の代表的な姿勢ではないかと思います。私も企業の内部の人間として、デッドとエクイティの最適資本構成を考えて、敢えて負債を負う必要もないのにレバレッジを掛けるということには、どうしても賛成できません。しかし、それならばそれを、ロジカルな説明を試みることは必要なのではないかと考えます。それにより、企業の姿勢として賛成はしてもらえないかもしれませんが、少なくとも誠意は感じてもらえるのではないか、市場に対しての敬意は保っているという姿勢だけは評価されるのではないかと思うわけです。以前からも、ここで述べさせてもらっている通り、IRの立場から経営に対して提案をするということを考えれば、こういう点で経営に対する提案も伴って、開示を進めるということも考えられます。

一方「株主還元」については、多くの会社のホームページでも説明のページが作られているようです。株主還元の代表的なものは配当金と言えますが、会社によっては「配当金について」というように、これを単独で取り上げているところがむしろ一般的で、多くの場合は配当金額の推移や配当性向の推移を、あるいは配当金受取の手続きに関する説明を載せているところが多いと思います。その中で、配当政策として配当に関する方針を説明している会社も少なくありません。しかし、資本政策と一緒のページで扱っている会社は少ないと思います。そこで敢えて「資本政策と株主還元」として同一の項目の中で取り扱うことにより、株主還元と資本政策を関連付けて考えるという会社の姿勢を打ち出すためです。多くの会社では配当金の方針については安定配当というようなことを謳って、資本政策と関連させてはいません。多くの会社では、歴史的な経緯から安定配当ということが、いってみれば固定観念のようになって、前例踏襲となって、あまり考えることなく続けているのではないかと思います。たしかに、シグナル効果というような、かりに会社の業績が落ち込んだ場合でも、配当金額を減額させないでいると、その会社の業績の落ち込みについて会社は一時的と考えているというシグナルを発するような効果をあげて株価がそれほど下がらないということが実際にあります。日本の株式市場では自己株買いよりも高い配当金の方が株価の押し上げ効果があるという統計もあるそうです。だから、日本の企業の中では、配当金は安定配当と配当可能性が検討材料とされているケースが多いと思います。資本政策との関連、もしくは資本政策の一環として株主還元を考える会社は実際に少ないです。しかし、配当金の検討をする際に、最適資本構成に資することを考慮していくことによって、ROEの改善につながるようなら、それも株主にとって意味のあることです。一方、会社にとっても配当金というのが資本政策の手段の一つとして考えれば、資本政策のバラエティが広がることになって、こちらもメリットがあると思います。

2013年1月24日 (木)

ベルギー象徴派展(2)~グザヴィエ・メルリ

Belgmel1_2私には初めての画家でした。1845年にブリュッセルで生まれ1921年に亡くなっています。美術アカデミーで装飾デザイン、絵画と彫刻を学び、1879年にオランダ領マルケン島に滞在し、この島の風景や人々を描く。この時期以降、メルリの画風は簡素さ、静寂さ、豊かな詩情を特徴とする写実主義の方向性に向かう。日常的で身近な空間を神秘的に描くとともに、装飾的な寓意画を制作した。と、カタログの解説から引用しました。

まずは、上の象徴的な画風の作品ではなく、「ベギン会修道院」という鉛筆画にこの画家の特徴が表われていると思います。修道院の廊下を正面からスケッチしたような作品で、左右シンメトリーな廊下の構成で、ほの暗い柔らかな光線が左手の開け放たれたドアから差し込み、その奥のドアから部屋に入ろうとしている尼僧の後姿があり、その向かいの廊下の壁には大きなキリスト像があるという、ごくシンプルな作品です。その仄暗く、淡く柔らかな光の中で、光と影は対立するものではなく融合するように扱われ、そこに映し出されるモノや人の輪郭は淡く、この作品では輪郭は残されていますが、他の作品では輪郭は限りなくぼやけて、薄暗いなかで色彩は無彩色に接近します。日常の風景を写したような親密さの中に、モノや人の輪郭が、光と影の対比が、色彩の区別が、ひとつの融合した単一性の中に溶け込むような志向性を強く感じさせられます。一方、他の画家にあるような幻想的な小道具のようなものは一切加えられることはなく、むしろシンプルで写実的な描写は、その融合にむかうような志向性と相まって、瞑想的な静けさと、観る人もそこに対立的な要素を刺激的に受けることもないことから安心感に満たされるようです。メルリという画家は、親密な日常の風景に、現実の殺伐した生活という要素から、神秘性を抽出し、ある意味で日常の皮を一枚剥いた幻想世界を創り出そうとしたと言えると思います。

Belgmel4_2マルケン島の風景や人々の生活を描いた作品は、メルリが彼の上に述べたような絵画の傾向を自覚するに至ったものではないかと思えます。民族衣装を着て、近代的な都市生活とは異なる伝統的な生活を営む、当時の島の人々のなかにブリュッセルという都会から来たメルリにとって幻想世界のように映ったとしても不思議ではありません。島での人々の噛みしめるようなゆったりとした生活を見ている中で、自らの日常を、これまでとは違った視点で、つまりは幻想的に見ようとする視点を得たのかもしれません。また、付け加えれば、ヨーロッパがキリスト教に浸食される以前のゲルマンとかガリアに土着のアニミズム的な生活の個々のものに神秘を見るような視点で日常の空間を見るといいうことを発見したのかもしれません。そういう視点でみれば、あえて余計な作為でもって絵画作品を幻想的に仕立て上げる必要はなくなるわけです。そういう視点でみる日常の世界をそのまま写せば、そこに神秘が存在している、というのがメリルという画家の世界ではなかったのか。だから、展示されていた作品のほとんどが個人像だったのは分かるような気がします。つまり、公開の場で大々的に見る物ではないということです。

Belgmel2その中でも、異質に感じられるのが、「時の円舞曲」です。象徴的な図案で金色の背景に翼を生やした老人の天使を若い女性が円陣となって取り囲んでいる。まさに円舞曲を踊ろうとするかのような構図です。しかし、全体としての基調は、落ち着いた感じで、そこに装飾的なものは見当たりません。女性たちも、簡素な服装のどこにでもいるような隣のおネエさんのような人々です。

2013年1月23日 (水)

あるIR担当者の雑感(107)~IRのホームページを考える(9)

ここまでの議論は、既存の各社のホームページに対するダメ出しとか、文句を言っているだけに聞こえるかもしれません。もしそう聞こえたら、私の書き方がまずいのかもしれません。私としては、最初に打ち出した前提と私の勤め先が置かれた状況、そして実際にページを作っている経験をもとに、このように考えているということを、ここに書いているわけです。

今日は、「事業の特徴(強みと課題)」「売上構造」「技術開発」という項目、これは私の勤め先のホームページを作る時に考えた項目名ですが、言ってみればビジネスモデルに関する項目です。

「売上構造」という言い方をしていますが、例えば、メーカーが、そもそも、どのようにして製品を顧客にとどけ、どのようにして利益を産んでいるかという、いうなればビジネスモデルを、もう少し突っ込んだようなものです。企業の側では、当然のことなので、今さら説明するまでもないというほどの前提で、事業戦略とか、営業や製品開発、仕入れなどの企業活動はすべてこれをベースに考えられ、行動が為されています。しかし、企業の外側にいる投資家にとっては、実はほとんど説明が為されていないことではないかと思います。例えば、客が製品に興味を持ってから実際にその製品を手にするまで、どのような経路で、そこにどのような人々が介在するか、というようなことです。これは、今日紹介しようとしている「事業の特徴(強みと課題)」と密接に関係しています。例えば、自動車とう製品について、自動車メーカーが各社ありますが、それぞれのメーカーが自動車を作っていますが、その自動車を自社で生産して、自社で直接消費者に販売して直接代金を受け取る会社もあれば、自社では直接消費者とやり取りしない会社もあります。その違いによって各社の自動車の売り方や作り方に微妙な違いを生んでいるわけです。例えば、A社は販売会社が別にあって、専らそこが自動車を売っているという場合。販売会社自体が経営を成り立たせなければいけないわけですから、消費者に自動車を売ることを第一に考えます。売れない車から仕入れません。また、売れる車を求めて自動車メーカーに要求もします。これに対して、B社は生産も販売も自社内で行うとなれば、社内の力関係に製品が左右されます。上手く行けば営業がこんな車は絶対売れないと言うような革新的な車を開発が強引に販売させて大ヒットという可能性もあるわけです。その正反対の危険もありますが。それができる要因のひとつはモデルに由来しているといえます。しかし、こういう情報を正面から開示し説明している会社は、それほど多くはありません。また、アナリストが取材で質問することも多いとは言えません。求められなければ答えない、ということなのでしょうか。もしかしたら、これを知ることのメリットを投資家の方も気づいている人は少ないのかもしれません。一方、企業の中でも、有能な経営者は当然、明確に認識しているでしょうが、そうでない普通の社員は明確に言語化できていないかもしれません。多分、上場会社であれば、ISO認証やJSOXによる内部統制、あるいはコンピュータのよる業務システムなどのさいにフローチャートを作成しているはずで、そのエッセンスをシンプルにしたものを図として示して、説明を加えています。昨日も言いましたが、説明を簡潔にして字数は少なければ少ない方がいいというのが、これまでの常識的なホームページの原則でしたか、丁度企業を定年になるようなビジネスパーソンなら文字による説明に抵抗感を感じることは少ないでしょうし、最新のブラウザならば簡単に字だけを大きくするように設定できるため、紙媒体よりも、却って小さな字を詰め込んでも、読みにくくならないという利点があります。

そして「事業の特徴(強みと課題)」は、そのタイトル通りです。このような項目は企業にとって一番のセールスポイントで、機関投資家とのミーティングなどでも、この点に関する質問が一番多いと思います。そして、ここで説明されているとは、リンクで他のページに参照されることによって、説明を省略し、その代わりに全体をストーリーとして提示することにより、ページを見る人は興味を掻き立てやすくなるし、感情移入も可能になると思います。そして、このような項目では、決算短信や四半期報告のような制度的なIRや時間の制約のある決算説明会では表わすのが難しい企業の空気とか雰囲気を説明しアピールする絶好の場でもあります。

「技術開発」もそうです。メーカーの中には研究所の施設の紹介とか、どのような技術を持っているかという説明が多いと思います。ここでは、試みに読み物風に開発関係の技術者には、どのような人間がいて、どのように製品を開発しているかを中心にページを作りました。その中で、コア技術をもって、それを現場の人間が大切にしながら、いかに発展されて来たかとか、企業内の自由な空気のようなものをアピールしやすい場でもあると考えました。

2013年1月22日 (火)

ベルギー象徴派展(1)

Belgposter以前に見た美術展のことを書きます。  2005年5月3日 Bunkamuraザ・ミュージアム

生まれて初めて、美術館のハシゴをしてしまいました。以前は、映画のハシゴは何回かやったことはありましたが、映画は公開期間が短く、しかも時間を拘束するものであるため、どうしても見たい作品が重なると無理してでも、ということになり、体力と気力のある若いころならば、そういう無理をしてしまうものです。しかし、美術館での展覧会は映画に比べて、比較的長い期間開催されていますし、可能な時に美術館に出かけで作品を見ることができるので、ふつうは、ハシゴなんて考えもしません。では、なぜそんなことをしたのかと言えば、この日、いわゆるゴールデンウィークにあたり人手が異常に多く、そんなことを考えずに上野の国立西洋美術館に出かけたところ、山手線ではホームに降りるのもやっとで、公園口の改札を通れず、広小路口で降りてぐるっとまわって上野公園に入り、押し合いへし合いの状態で、開催中だったラトゥール展を見たという体験をしました。それで、かなり欲求不満が高じてしまい、それならと渋谷に回って、当初行くつもりのなかった文化村まで来てしまったという具合なわけです。結果としては教科書に載るような泰西名画とは一味違う世紀末の幻想美術ということからか、渋谷という場所のせいか、上野の混雑から想像できないほど静かで、展示をゆっくり堪能できた、ということとなりました。そのかわり、帰宅した時は、かなり疲れ果ててしまいました。

「19世紀末のベルギー。そこではそれまでになかった新しい傾向の美術が人々の心を捉えていた。その画家たちの関心は、目を閉じたときの闇の奥に隠された真実にあった。彼らは印象派のように目に飛び込んできた情報をストレートに送り出すのではなく、象(かたち)が直接的に表わすものよりも、それによって暗示的に間接的に徴(しる)されたものに辿り着こうとした。彼らは象徴派と呼ばれた。

メジャーではない、排斥されたいすべてのもの─。キリストや聖書よりも悪魔や聖書外典、社交界の優雅さよりもオカルトの儀式、太陽神アポロや女神ヴィーナスよりも酒の神ディオニソスや眠りの神ヒュプノス、そして活気づく都会よりも誰もいない森、豊満な若い女性よりも青ざめた死に顔の美しさこそが、表現すべきものであった。そして青空の下での監察よりは、部屋にこもっての夢想が出発点だった。また当時の新興国ベルギーには、こうした新しい美術の傾向を積極的に受け入れる開かれた機運が溢れていた。

象徴派が描き出した逃避的で幻想的な世界。その背景には、人類がはじめて経験する産業化の中で進行した人間疎外があると言われている。それはまた、慌ただしい現代社会に生きる私たちがふと訪れてみたくなるような、そしてどっぷりと浸ってみたくなるような、不思議な魅力を持った世界だったのである」

と展覧会チラシの惹句に書かれているとおり、当時はいわゆる世紀末芸術がヨーロッパのいたるところに点々と生まれていて、ベルギー象徴派もそのひとつでしょう。このほかには、クリムト等のウィーン分離派やロセッティ等のラファエル前派が有名だし、先駆者的な評価をうけているギュスターヴ・モローとか、シュル・レアリスム運動とかが思い浮かびます。

私個人の話ですが、何年もの間、年間数回、都内の美術館を中心にコツコツと暇を見つけては、気に入った美術展を回っています。今までに見てきた美術展をここに少しずつアップしていますが、そのリストをみると一般的に日本で人気のあると看做されているルネサンス期と印象派が全く抜け落ちていました。リストにあったのは、この美術展のような幻想絵画とか抽象画、ドイツ・ロマン派そしてマニエリスムからバロック期にかけてのものに集中していました。我ながら偏っていることを再認識しました。それらは、上に引用したような「目に飛び込んできた情報をストレートに送り出さない」という点で共通していると思います。しかも、その情報に何らかの操作をする際に、どちらかというと歪んだというか一様でない作為を加えた作品を好んでいることも、特徴的なことではないかと思いました。このような傾向は、最近でいえば、サブ・カルチャーとかカウンター・カルチャーといわれるいうなればメインのハイ・カルチャーにたいして距離をあえて置くような位置取りの作品にも通じていると思います。こじつけかもしれませんが、今回の展覧会で展示された作品の中には少女まんがの1コマに挿入しても違和感がない作品もありました。直接的な影響関係であるわけではないと思いますが、通底する何かがあるのではないかと思います。とくに、今回の展示の中でもクノップフ等を取り上げて行きますが、そこに共通しているのは、そういうサブ的な位置取りを自覚していて、古典的な作品にあえて距離を置いている人たちで、そういう認識が薄いアンソールやスピリアールトといった人々は、画家としては単独で回顧展を開くほどのものを残している人とは思いますが、あえて取り上げるつもりはありません。それは私の主観的な好みの問題です。

その辺のことも、印象に残った画家について、取り上げて感想を書き込んでいきたいと思います。

あるIR担当者の雑感(106)~IRのホームページを考える(8)

今日は、「今期の決算概要」という項目について考えてみます。これは、各社のページでは「業績ハイライト」とか「財務ハイライト」にあたるページです。これらのページは、一般的には売上とか利益とかの推移が過去5期くらいまで遡ったグラフが作成されていて、それが掲載されているという体裁になっていると思います。会社によって、利益率とか販管費とかグラフにする項目が多少異なりますが、売上と利益はどこの会社でも載せているようです。財務ハイライトは、総資産や純資産や負債などの推移が同じようにグラフになっているというものです。

これらを見ていて、私は素朴に思うのですが、これらは何のために掲載されているのでしょうか。ホームページの業者は、多分、こう言うことの専門家なので問うてみましたが、満足な答えは得られませんでした。英国IR協会のガイドラインも、載せられているのが望ましいとしていますが、その理由は明らかにされていません。分かりやすいとガイドラインに書かれていますが、何が分かるのが、分かりやすいということは、何かを分ろうとする際にそれが容易だということでしょうが、何が分かるのかハッキリしないのです。推移がよく見える、というのでしょうか。グラフというものは、変化率とか推移を比較して見るには、慥かに向いているでしょう。でも推移を見てどうなのですか。と、私は各社のホームページをつくった人たちに問うてみたいです。果たして、明確な意図なり目的を答えることができる人は、どれほどいるのか。あるいは、そういうページを評価している見る側の人たち、たとえばアナリストにも、これを何の目的で見ているのか、教えてほしいと思います。まさか、ないよりもあった方がマシだから、とか、そういうものだから、とかいう答えは返ってこないでしょうけれど。

そこで私なりに考えてみました。投資をするときに企業の決算数字を見る場合、そこから何を引き出してくるかです。端的に言えば、企業への投資はその企業が将来に向けて成長し、持っている資産価値を増大させていくからするわけです。そのほかに、企業が安定した経営を続け高い配当をすることでリターンを得るということもあると思います。それぞれの場合、そのベースとなるのは、今の状態はどうなのか、ということを客観的に知ることから始まります。そしてそれだけでは将来のことを推測できないのです。だから、そのためのスタートとして現在の状態は客観的な数字としてわかるが、その数字が企業にとってはどのような状態にあるのかを知ることが大切になってきます。つまり、今年の業績は、その企業にとって上がり調子なのか、下がり調子なのかということです。もう少し突っ込めば、企業自身はどのような自己評価をしているのか、ということです。そして、今期の業績が上がり調子か下がり調子かということは前期に比べて増加か減少かということで、もっとなら数年間の業績の推移を比較してみるのが分かりやすいということになります。そこで、売上高の推移をグラフにしてみれば変化の推移をパッと見てわかるというものでしょう。これは、私の想像ですが、業績ハイライトにグラフを載せている理由の一つは、そのようなものではないか。とすれば、それだけでは中途半端ではないかと、私は思います。もしかしたら、これだけでは物足りないと思う投資家も結構いるのではないか。それとも、ホームページなんてこのようなものと、そもそも期待されていないのか。そのような理由であるならば、単に推移を見るだけではなくて、どうしてこのような業績になったのか、市場環境とか、その環境の中でどのような企業努力をしてその効果がどうだったのか、その業績に対して企業はどのような自己評価をしているのか、それらの説明と一緒に見ることによって、はじめてグラフの利点が活かされて、投資家の理解も進むのではないかと思います。

そして、さらに株式投資は本来企業の将来の成長にかけるものといえます。そうだとしたら、企業の業績とか現在の状態だけに限らず、これから将来どうしていこうとしているのかをもっと知りたいのではないでしょうか。その説明や資料が少しでも入っていれば、ここで述べたことが一覧でひとつのページでコンパクトに把握することができるというわけです。そして、その説明の前提として、市場や競合あるいはビジネスモデル、あるいは強みやリスク等の説明がリンクを伝って、疑問を感じたことをすぐに解決できるということになるわけです。

そして、さらに、このような情報は通常の業績ハイライトでは、直近の業績に関する過去の推移のグラフを載せているだけですが、説明を加えているようなら、環境や企業の打ち手の推移を知ることができる方がいいに決まっていますから、直近だけでなく、過去の説明も一緒に掲載し、直近のものと読み比べをすることによって、企業の動きの推移や経緯をより理解できると思います。

業績の経過の説明というと決算短信の定性的情報という文章による説明のようですが、基本的には、私は、あれをベースにしてリンク機能を活用して参照しやすくすることで、理解しやすいホームページ向けの文章を作ることを試みてもいいのではないかと思っています。以前にも言いましたように簡潔でカット等を多用して一目で分かるというページが推奨されていますが、知りたいという目的をもって訪れる人にパット見だけで分かる程度の情報しか出さないで出し惜しみするならば、面白い、あるいは興味をそそるような工夫をして濃い情報を送り届ける努力をする方が、訪問者の満足度をアップさせることができるのではないか。ページの訪問者が多くないページならば、その訪問者のうち、どれだけを繋ぎ留めることができるかに工夫をすべきではないかと思います。その時に、他社のページとは明らかに異質であるという印象を与えることができれば、それはサプライズで、取敢えず印象に残ることでしょうし、ただし、そこで、そういうページが会社の熱意の現われであるということが理解されていなければ、うっとおしいだけ、ということになりかねないかもしれません。

2013年1月21日 (月)

あるIR担当者の雑感(105)~IRのホームページを考える(7)

前々回で紹介した個別の項目について、それぞれ考えていきたいと思います。まず、会社概要についてです。実は、このページは未だに完成していません。その他のページが全部出来上がって、最後に着手するつもりでいます。だから、作っていないものについて、述べても確かなことは言えないので、簡単に構想だけを書くことにします。一般にこの項目では、社長のあいさつがあって、基本的な情報、会社の名前や住所、沿革や役員構成というようなものが一覧で記されていることが多いようです。それなら、別に最後に作るようにことをせず、さっさとページを作ってしまえばいいのです。しかし、それをしないというのは、別のことを考えているからです。この会社はどういう会社かということを紹介するために、とくに投資家に向けて自己紹介するときに、今言った情報はなくてはならないものなのか、ということなのです。むしろ、最初に紹介すべきことというのは。この会社はこのようにして投資してくれた人に対してリターンを返しているというモデルを提示することではないかと考えています。それが企業の方針として具体的で、投資家にも分かりやすいし、そのモデルを基本に前々回に列記した項目が枝葉としてあってリンクを通じて、その枝葉の興味を持てそうな詳細の説明に移動できる、というものを考えています。企業の中にはビジネスモデルを作っているところはありますが、こういった投資リターン、カッコよく言えば価値創造モデルをつくって開示しているところはほとんどないのではないか。だからお手本がないのです。この項目については、この程度にしておきます。

「事業概要」については、各社のホームページでも説明のページがありますし、あって当然と思われるページです。しかし、ページの作り方は、そういうものとは結果として、違っているのではないかと思いました。多く見受けられるのは、その事業とはどういうものか、メーカーならばどのような製品を作っているのかということを紹介していることが多いようです。私の勤め先は、基本的にこの項目について、掲載する内容は機関投資家のミーティングやアナリストの取材で質問された事項を中心に組み立てました。つまり、投資する場合に事業について押さえておきたいことを情報として提供することを目的として、それに沿う書き方にしました。例えば、製品についての説明、どのような製品を作っているかよりも、その製品の市場とか競合している企業とか、競合に比べて強みとか、最近の業績とか、事業への貢献度合いとか、そういうことを中心に説明するようにしています。この中で、例えば、最近の業績の説明は、決算発表に伴うハイライトや補足説明ページとリンクさせています。また、製品の強みは「事業の特徴」のページにリンクされています。また、それぞれの製品は相互にシステムとして関連している場合には相互にリンクされています。そして、製品を作るには技術開発の結果開発されたものなので「技術開発」の項目ともリンクが張られています。また、製品自体のスペックとか外観とかそういうものは、ユーザー向けのカタログページの製品紹介にリンクを当然貼られています。ひとつの事業では製品は一つではなく複数あるので、それぞれの製品の説明が、そうなっており、同じように、もっと大規模に各事業の説明が為されています。多分、ホームページ全体の中でのボリュームも一番多くなっています。

このページを作りアップしてから分ったことですが、このページを訪れる人は、トップページから経路に従って訪問して来るケースは寧ろ少ないのです。多くの場合、例えば、製品名で検索して、その製品のページに直接訪れているケースが多いのです。また、最近は、そのページ直接リンクが外部から貼られているようで、そこを伝って訪問する人が徐々に増えてきています。そういう実績を見てみると、英国IR協会のガイドラインは、私の勤め先には、当てはまらないようなので、参考としないで、反面教師として適当に距離を置いて扱うのが頭のいい付き合い方だと思うようになりました。

以上が、大抵の企業のページでもメインとなっているページについてです。

2013年1月20日 (日)

あるIR担当者の雑感(104)~IRのホームページを考える(6)

今日は、個別の項目に行く前に、具体的なホームページの作り方について、どのようにページを作っていくかについて、少し細かいところも含めて全体に共通する方針について書いて行きたいと思います。(今回の一連の書き込みは寄り道が多いですね。)

ここでは、一般的な企業のホームページの常識と考えられていることとから外れたところがあるため、そういうものに対する多少の疑問も交えて考え行きたいと思います。今、ここで一般的な常識と書きましたが、形に残っていて権威もあると参照しやすいのが、英国IR協会が毎年作成するIRベストプラクティス・ガイドラインです。とりたてて、権威に反抗するような気は全くありませんし、ここで掲げられている主要方針は納得できるもので、対決とかそういうことではなくて、その方針に沿ってプラクティスをきちんと考えているか、というところで杜撰と思われる節が見られるのです。これは、私は実際にページを制作するようになって分ったことで、多分、このガイドラインを作っている人は、学者やマネージャーや投資家なのだろうから、そういうことは分らないのではないかと思います。それだけに、「プラクティス」とうたうことには疑問を感じます。それよりも「アイディアル」といった方が向いているのでしないか、と。余談が過ぎました。

まず、説明は簡潔でわかりやすく。というのが常識的になっているようです。私は、それらには敢えて異を唱えたり、無視するつもりはありませんし、結果的にそうなっているのはいいと思いますが、優先すべきことではないとして、ページを作りました。それよりも優先させたのは情報の量と質です。ただし、ホームページのもともとの特徴として情報を多量に高い密度で提供することには向いていないことは分っています。だから、できるだけ詰め込むことにしました。それは、錯綜した様々な情報を訪れた人が主体的に参加して解釈ということをしていくためには、どうしても一定以上の情報が必要で、その場合には、多い方がいいということからです。

そして、私の勤め先の会社の置かれている環境からも、それが適当と考えました。というのも、以前から何度も書いているように市場では地味な企業です。もともとの知名度もないので、冷やかしでページを訪問するということは想定しにくく、ホームページを訪問する人は、最初からこの企業に興味を持って、知りたいと、情報を得ようという目的をある程度持って訪問して来るケースが多いのではないかと思われました。そういう訪問者が期待するのは、ホームページから情報を得るということです。だから、その期待に応えるためには、情報の量は多い方がいいということに異論はないと思います。まして、前回もいいましたように、このページの対象は機関投資家も含めた投資家全般で、個人投資家を初心者と決めつけて見下すような姿勢をとらないと方針立てているわけですから、多少のハードルは高くても、その結果、得るものが大きければそちらを優先するというのが、ここでの基本方針です。実際に、ある機関投資家のアナリストとミーティングをした時に、初めてのミーティングだったのですが、そのアナリストは分厚い紙の束をもってきました。何かと思っていたら、事前に御社のことを予習しようと思ってホームページを見て、フリントアウトしたらこんなになってしまったと話してくれました。そして、その話しぶりは決して文句を言うような感じではなく、好感を持ってくれているような感じでした。事実、その後のミーティングは基本的にことは、ホームページで見たので、最初からかなり突っ込んだ質疑応答のやり取りを行い、アナリストも大変満足してくれているようでした。

次の常識として、図やグラフをもちいて分かりやすく、見やすいものがいいというものですが、これについても、ビジュアルなものは一見ではイメージを抱きやすいところが利点で、言葉で説明すると諄く分かりにくいには、一瞬でわかるので便利ではあります。しかし、例えば、グラフは比較や推移や変化率を見るときには分かりやすいという利点はあります。しかし、見せ方によって恣意的になってしまう可能性が高い。また、図は分かりやすいことは確かですが、言葉で言い切ることによる確度高い情報には確度という点では及びません。それを考えれば、あくまで補助的であることにとどまるべきと考えます。これも、情報を得ようとするニーズに応えるため、曖昧な情報で答えることは企業の誠意をむしろ疑われることになると考えるためです。

そして、ページの見易さとして目指すページに手間なく行けることが良いという常識。ある学者は3クリック以内で目指すページに辿り着くべきといっています。しかし、企業のことを知りたいと、初めてホームページを訪れた人が、その企業のことを知らないのに、これを知りたいと特定することができるのでしょうか。それが大きな疑問です。そういう人は目指す具体的なページはそもそもないのではないか。それなのに、すぐに辿り着けるという努力をしても無駄な気がします。また、ある程度企業のことを知っていて具体的にこのページに行きたいと目的を持っている人は、何度もページを訪問している人でしょうからページのことは、ある程度分っていて、自分で目指すページに辿り着いてしまうのではないか。この場合には、初めて訪れた人は、むしろページを見ていて思わぬ面白いところを見つけてもらって、驚いてもらうとか、自分で会社の魅力を見つけたような気になって企業への興味を引き出すような工夫、つまり、ページを面白がってもらう工夫をする方を優先させるべきではないかと考えました。その大きな要素として、ホームページ迷子になったり、寄り道してもらうようなつくりです。これは、先に述べた常識と相反するものです。前にも、何度も書きましたようにホームページの特性として情報を錯綜させた混沌状態を作りだすことができわけですから。それをスッキリ整理してしまうことは、折角の特性を殺してしまうことになってしまいます。だから、むしろ、ページの中で時間をかけてもらえるような努力をすることが本来のホームページに叶ったものではないかと考えられるからです。その点では、英国IR協会のガイドラインは、そもそもホームページの特徴とはどういうものかという考察が説明されていませんから、考えていないのか(それははっきり言って手抜きです)、些細なことでは原則を無視しているか(それも手抜きです)どちらかでしょうね。ただし、これは私の勤め先のような環境にある企業だから言えることであって、全ての企業に共通して言えることではありません。

これに付随して、ページの現在位置を明示するために「パンくずリスト」を推奨されていますが、これは上記のようなルートを特定しているからこそ言えることであって、原則を考えているか疑わしい。というのも、様々なリンクを通じて、あるページに行くことができる場合、そのページに行くための経路が一つではないのです。それなのに、パンくずリストとしてトップページ>●●ページ>という表示をいくつも付けることか果たして分かりやすいのか。今回、作成したホームページでは、あるページにトップから行く経路は10通り以上ありました。多分、英国IR協会はそういうことを最初から想定していなかったのではないかと思います。

ここまで、細かいところもありましたが、説明を読んだ方は、私の勤め先がホームページを作っているときに、ある程度ハードルが高くなるのを覚悟しているということを、薄々ご理解いただけたのではないかと思います。これは、もともと私の勤め先がマニア向けの企業であることを逆手にとったものとも言えます。訪れるのが少数で限定されることを覚悟して、そういう人に応えるものに、期待を上回ってサプライズ的にページに特化させていこうという作り方を志向しています。むしろ、そういう点で、あの会社のページはユニークだという評判でもたてば、あわよくば…という期待もあります。そういう点で、一般受けということは当初から想定していません。むしろ、そうならないように心掛けていると言った方が当たっています。

おかげさまで10万アクセス

アクセスカウンターを見ると、どうやら10万件を越えたようです。とくに、アクセス数を増やすことを目標としていたわけではありませんが、こうして示されてみると、うれしいものです。これもひとえに、このページを見に来てくれた皆様のおかげです。

といっても、それほど人気のあるブログというのでもなく、とくに変わることなく、このペースで続けて行こうと思っています。

CZT

2013年1月19日 (土)

あるIR担当者の雑感(103)~IRのホームページを考える(5)

今回から、ホームページ制作の現場で、個別具体的な課題を感じたり考えたことを書いて行きたいと思います。以前にも書きましたように、ホームページの制作については専門の業者は介在しておらず、IR担当者である私が、業務の合間や休日などの暇をみつけてコツコツ作ったものです。また、ホームページといっても全部ではなく、いわゆる「About US」の部分、企業が投資家に対して自社を紹介するページの部分です。

先ず入口のところですが、ホームページの制作を業者に頼まなかったこと、頼めなかったことについては、以前にも書きましたが、これまで書いてきたことを理解してくれた業者がいなかったことです。一応話は聞いてくれても、具体的にどういうページを作るかという提案になると、聞いた話を忘れてしまったような、こうはしたくないものした提示経出来ないものだったりで、具体的な提案に辿り着くことができた人は皆無でした。ということで、自分でやるしかないということから始めました。ホームページを制作するなどという何やら大変そうですが、ホームページを手軽につくるアプリケーションは沢山あり、そのうち目に付いたフリーソフトでトレーニングして、とにかく作ってみましたというのが、現ページです。で、やっているうちに少しずつコツのようなものも覚え、代表的なhtmlのコマンドも見よう見まねでコピーアンドペーストで試したりするうちに、業者のつくったホームページのhtml情報を除いて、真似したりするようになりました。私は50歳を過ぎた初老の人間で、頭脳の柔軟性は退化し、コンピュータ・ネイティブでもないのですが、それでも、試行錯誤で取り敢えずはできます。しかし、出来栄えは、たしかに素人くさいもので稚拙さは一目瞭然になっています。しかし、自分で覚えながら行った最大の利点は、作り方が分ってくることが、ホームページに載せる内容を考えることに直接フィードバックして、手法と内容が同時並行で試行錯誤できた点です。多分、業者に作成を依頼した場合には、テンプレートのようなものに情報を流し込み、そのプロセスでアレンジしていくような流れ作業に使い物になると思います。私の場合は、このテンプレートがなく、枠組みのようなものを内容を考えながら、作っては壊しを何度も繰り返すことができました。このプロセスが、ホームページというものに対する認識というのか、考えを深めていく絶好の材料となりました。前回まで書いてきたことは、机上で抽象的に思考したことではなく、このプロセスで試行錯誤を繰り返しながら固まってきたことです。

まず、ホームページを作る際には、全体の構成とレイアウト、つまり、全体の設計図をきっちり固めて、それに内容を流し込んでいくということを進められます。そういうやり方が一番効率的で失敗が少ないということなのでしょう。当初は、そう思っていろいろ考えましたが、考えているうちに、前回までに書いたような考えに方向性が固まってくると、カチっとした設計図は書けないことに気づきました。ある程度の混沌を許し、ページを見る人が主体的な解釈で参加できるということを目指すならば、構成がハッキリして解釈のストーリーを固めてしまうと、その余地が無くなる。また、リンク機能を生かして情報の多様化を図ろうとすれば、載せる内容によってリンクの貼り方が変わってくるため、事前に構造を決めることができないわけです。そこで、シンブルな構造で最初はスタートして、制作が進んで時点で、手直しを続け、場合によっては最初に戻って作り直すことも考慮に入れることにしました。多分、業者はこんな先の読めない、非効率な作業は行えないと思います。

で、最初にとった構造は、これまでの議論と矛盾するようですが、一般的な企業IRページの「個人投資家の皆様へ」とタイトルされたページの最大公約数をシンプルにしたものにすることにしました。この理由は、この構造に基づいてインデックスページ、あるいはトップページを作っていくことになるのですが、ここであまりに突飛なものにしてしまうと、ページを訪れる投資家の人がどう見ていいかわからず戸惑ってしまうと考えたからです。いくらユニークにページでも、見る人が見ることができることが前提です。一応、企業のホームページはこういうものだというイメージをもって訪れてくると思いますので、その許容範囲内にないと、ページを訪れても、その先へ進んではもらえなくなってしまうからです。そして、最初の設計図をきっちり固めるのとは反対の作り方をしようとしていたので、最初の構造の設計は後で、いつでも作り直しので、とりあえず作り奨めてしまおうということが先に立ち、作業に着手したというわけです。

しかし、全体のページタイトルは、多くの会社が採っている「個人投資家の皆様へ」というタイトルには抵抗がありました。たいていの場合、このようなタイトルに続くページは個人投資家というのは幼児ではないか思えるほど、見下したような噛み砕いた馬鹿丁寧な口調のページが続いて、馬鹿にしたような視線が目立つ多いのです。これでは、個人投資家を名目上は重視するという態度を表わしながら、実は与党株主(うるさくない株主)として、企業の都合のいいように利用すればいいというような下心が見え見えです。前のところで書いたような情報ノウハウをもった、いうなればプロ並みの人たちがそういうものを見れば、企業の姿勢を察知されてしまうことになるでしょう。もともと、以前の「個人投資家を馬鹿にしていないか」という投稿で書いたように、私自身、そういう風潮には与したくない思いが強いこともあって、「個人投資家」というタイトル文言は取りませんでした。それよりも、会社に興味を持ってくれた投資家の皆さんということで、機関投資家も個人投資家も区別する必要はどこにもないわけで、さらに株主というのは、投資家のうちで会社に投資してくれている人ということを考えると、ここでいう投資家と一緒に考えていいと思いました。今は、企業の株を持っていますが、後で売却するかもしれない。それで企業との縁が切れるかというと、その後に、再び株を買ってくれることもある。だから、ある時は株主、ある時は投資家というように考えられるわけです。そう考えれば投資家と株主を同列にしてもIRというところでは良いのではないかと思いました。そこで、「株主・投資家の皆様へ」というタイトルにすることにしました。

そして、会社について紹介していく項目としては、次のようなものに分けて、それぞれについて個々のページを作っていくことにしました。

会社概要

事業概要(この下に主要事業別に枝分かれして説明ページが、各々続く)

今期の決算概要

事業の特徴(強みと課題)

中期経営計画

売上構造

技術開発

資本政策と株主還元

IRカレンダー

IRの方針と活動

FAQ

リンク

次回以降は、このそれぞれの項目について考え行きたいと思います。

2013年1月18日 (金)

あるIR担当者の雑感(102)~IRのホームページを考える(4)

今日で、抽象的な議論をまとめてしまって、次回から具体的な話に入って行きたいと思います。そこで、今日は昨日までの議論してきた理由の前提となっている、インターネットによる情報伝達の特徴、とりわれ他の媒体と違うのは、どのようなところかということを考えていきたいと思います。

まず、ネガティブなところから考えていきますが、ホームページというのは、単位内で伝達できる情報の量と質の関しては、ミーティングや紙媒体には圧倒的に負けるということです。これには異論がある人が多いと思います。例えば、投資家が実際に企業を訪問して、5分間、IR担当者と社内で話をすることと、5分間ホームページを隅から隅まで見て回る、ということを、投資家の人にどちらかを選択してくださいと問いかけると、企業の実力を真面目に評価し投資しようという人なら、間違いなく前者を選択すると思います。それは、訪問して、実際に話をすることで得られる情報の質と量が段違いに多く密度が濃いからです。実際にホームページを作ったことのある人なら分かるのですが、ホームページの画面は制約がかなり多いのです。これは情報をデジタル化させる時点でアナログの情報を切り捨てて行かなければならないという、デジタル情報に本質的な制約があります。例えば、音楽が好きな人なら、デジタルで録音された音楽の情報とすべて10に音の情報を二元化されてしまうので、原音の曖昧な音の情報が切り捨てられてしまって、極めて貧弱な音になってしまうのです。ネットに流れているオフィシャルな音楽ソースは人間の脳の錯覚を利用してそう聞こえるように人間の想像力を刺激している、いわば誤魔化しの音質でデータを分析すれば情報量についてはアナログ録音に敵いません。

もっと直接的な例でいえば、紙媒体の場合、説明会を聞いて補足的にメモを書き込んだとします。その場合、書き込んだインクの古び方によって、後で見た時にいつ頃書き込んだのかということが、だいたい分かる。あるいは手書きの字の状態から、書き込んだ時の気持ちも想像できます。しかし、コンピュータに画面に入力しても、そういう情報はすべて切り捨てられてしまいます。私は以前採用担当をしていたことがありますが、今の新卒の場合はエントリーシートをインターネットで送るようになりましたが、以前は紙に手書きの履歴書を書いて送ってきたのを見ていましたが、それを見ると、書いた人の空間のデザイン力とか企画力、あるいは緊張感を持続できるかという能力がある程度把握できてしまうし、大抵の場合本気度が推測できてしまうのです。しかし、デジタルのエントリーシートではそういう情報は伝わらないでしょう。

しかし、ホームページの場合には、単位当たりの情報量と質では他の媒体に劣るのですが、これを利用する方法が多彩だという点が優れている点だと思います。つまり、単位を組み合わせて構造的なものにすることに適しているのです。その代表的な機能がリンクと検索です。単位当たりの情報は劣りますが、その一部や全部をリンク機能を使って直接的につなげることができる。リンクの凄いところは方向性の制約がないことです。たとえば、ミーティングは一度にやり取りされる情報はすごいものがありますが、1度きりで繰り返しができません。一度逃したらお終いなのです。また、印刷媒体は索引とか注記のようなリンクに近いものはありますが、手間がかかるのと量も質も限定されて、あまり機能していません。ホームページは様々な単位を様々に組み合わせて、情報の関連性を追い求めて、あらたな関連をつくりだすことによってひとつの情報が何重にも生かすことが可能になるのです。それも、関連付ける範囲に制約がないのです。インターネットを通じて、全世界と関連付けることができるわけです。

実際の生活を考えてみてください。われわれは実生活の様々な場面で、様々に情報が錯綜し混沌とした中から、その都度何らかの情報をピックアップして判断を繰り返していると言えます。インターネットでリンクや検索の機能を通じて、ネット上の他の情報と何重にも関連付けられた情報は、一見無秩序に見えて、実は実像に近いということが考えられるのではないか。これに対して、紙媒体の冊子のようなものでは、一つ一つの情報を掘り下げて密度の高いものになっていますが、インターネットのような重層的な厚みは物理的に追求できません。また、部分的な深さを追求していくためには、深く掘り下げる経路が必要で、そのためには混沌として状況を整理し秩序づけることが必要になってきます。古代ギリシャ哲学でいうカオスに対するコスモスという操作です。それを徹底的に進めて行ったのはプラトンでイデアという理念形をつくりましたが、抽象的すぎて、実生活者から見れば多少嘘くさい、綺麗ごとに見えてしまうという点も現われて来てしまうものでした。そういうことを考えると、ホームページで、インターネットの特徴を活用することによって、説明会で紙媒体のような会社側が、会社側の視点で整理し秩序つけられた情報を一方的に提示させられるのではなくて、投資をする側が部分的個別的な情報が提示され、それがリンクという関連の網の目の中から、他の情報との関連も探しながら、投資家自身の視点で切り取って解釈することができる、つまり、一方的に受ける側ではなく、双方向で会社像を自分で作っていくことができる、結果についてはある程度の客観性も担保できるという企業情報のやり取りの可能性があると考えます。

このとき、既存の他の媒体は、ここで得られた会社像にしたがって、更に深く会社を知ることや、自身の会社像の検証をするために役立てることができる。うまくいげば、本来、投資をするということは、その会社に主体的に関わっていくことですが、その前段階で会社を知るということにおいても、インターネットの特性を生かすことによって主体的に関わることのできる機会を作ることができるのではないか、と思うのです。

これを読んだ人は、何か抽象的で非現実的というのか、一般的なインターネットとは企業のホームページの議論と毛色が違うので、変に思われるかもしれません。しかし、前々回で少し触れた、企業の対する情報収集のノウハウやインターネット活用ノウハウをもった、プロの投資家とは別の次元で投資能力をもった潜在的な人々がこれから市場に参入してくることをかんがえれば、そのような人々をターゲットとして考えてみたときな、あながち的外れとは言い切れないのではないか、と考えたりします。

次回から、私の勤め先で、実際にホームページを制作しながら考えたことを具体的に書いて行きたいと思います。

2013年1月17日 (木)

生誕100年髙山辰雄・奥田元栄(4)~『聖家族』

Takafa3髙山辰雄の聖家族の連作から5点が展示されています。これが今回の美術展の目玉ひとつでしょう。今回の美術展は、この5点のみが他所から借り受けた作品で、その他は自前の所蔵品からの展示です。悪意にとれば使い回しです。そういう意味で、敢えて借りてきたという作品ですから、美術館としても今回の展示に無くてはならないと思ったのでしょう。展示室に入るとすぐ目の前に展示されていました。この連作は、製作年代から言うと、これまでに感想を述べてきた作品から少なくとも7年以上後の作品で、それだけ晩年に近いというものでしょう。

一見モノクロのようですが、なとか絵の具を焼いたものだそうで、しかも画面におおきな凹凸があり、絵の具を塗るというより、物質化した絵の具を置くといった感じでしょうか。私の周囲にいた二人連れが、これは絶対に筆で塗ったものではないと議論していました。この効果としては、もともと流麗という感じの絵ではなく『坐す人』に典型的にゴツゴツした印象の強い作品が実際にもゴツゴツしてしまったということで、見の目の触感というのが全く他の作品と違う印象になったということです。そして、モノクロームに見える色遣いで、例によってグラデーションの使い分けを駆使していますが、画面に凹凸ができたことで、陰が生まれ、それがグラデーション使いと相まって複雑で微妙な段階を生じさせています。そして、少し茶系の色が出てきているようなところが彩となっています。これも、後日浮き上がってくるように画家が工夫したと展示の説明にあれましたが、そういう点も、この画家が効果ということに、かなり注意を払っていることの現れではないかと思います。

さて、聖家族という連作ですが、今までの作品を見た印象では、この画家が果たして関係を描き分けることができるのかということがありました。これまで感想を述べてきた作品は、たいていが単独のモチーフで、しかも背景に融合させてひとつの雰囲気としてしまうような構成をしていました。それは、人間の内面の真実を描くというイメージでいえば、往々にして、この場合の人間は個人、もっとも手近な私という個人を題材にするのが一番手っ取り早い。見る方も分りやすいわけです。

Takafa7しかし、あえて家族と銘打って作品を制作するということであれば、家族とは一般的には一人の人間では成立しないので、複数の人間、つまり複数のモチーフを描き分け、それぞれの関係を表わす必要があります。全く同じコピーのような人が何人集まっても家族ならないし、違う人間をただ描いても、それらの異なる人間がひとつのまとまりとなっていないと家族とならないわけですから。複数の人間の内面の真実を描き分けるというのは、単独の場合に比べて、どれほど困難か。

そんなことを考えて、作品を見てみると、5点ありましたが、そのどれも、ポーズを見るとみんなくっ付いていることに気が付きました。つまり、一体化しているのです。ということで、他の作品は見ていないので軽々には言えませんが、これらの作品を見る限り、聖家族というのは一体化して、これ自体で一つということのようです。だから、描かれている人々は同じ顔をしているのでしょう。だから、髙山にとって、家族の人々を描き分けるとか、そう人々が相互に様々な場面で色々に関係を変化させていく場面を様々に描いて行くことで現われてくる真実を見せるというのでないようです。どちらかというと、家族が一体となって姿を様々な効果をつかって変化を持たせて描く、様々な角度から作品にしていくという連作のように見えました。

おそらく、私の個人的な想像ですが、真実はひとつというのでしょうか。ある唯一絶対的なものを追求するというイメージに近いものではないかと思います。おそらく、見る側もそれを期待しているのではなかったか。画家はそのことを敏感に感じ取っていたように思います。ニーズに応えなければ作品を供給しても受け入れられませんから。需要と供給です。

そういう意味で、髙山の姿勢は一貫していると思います。そして、これまで見てきた作品よりも、技法の熟練は進み、さらに探究心怠りなく、新たな技法も取り入れ、新たな効果も加味しています。作品の完成度を問うといった性質の作品ではありませんが、可能性をさらに進めた作品であると思います。

ただし、『坐す人』の直接性に比べて、何かが間に挟まって間接的になったような気がします。牙が鈍くなったとも印象です。しかし、これはこれで、他の日本画家の作品とは明らかに違うし、画家の差別化という点では、分かり易いし、特徴は鮮明だし、親しみ易さもあるし、いい作品ではないかと思います。

2013年1月16日 (水)

生誕100年髙山辰雄・奥田元栄(3)~『緑の影』『春を聴く』『中秋』

Takamidori髙山辰雄の効果の画家ということを申しました。このような言い分には異論のある方も多いのではないかと思います。これはあくまで、私の個人的な感じ方と弁解をするのもみっともないことですが。このようにことを述べたことがよく現われているように見えるのが、彼の人物以外の風景や花鳥を題材にした作品です。例えば、『緑の影』という作品です。紫陽花が咲くさまを描いた作品です。ですが、『緑の影』というタイトルの通り全体が緑色で覆われていて、紫陽花の花だけが青みが入っている。しかも、背景の草や花は土植えの茎や幹があるのに、紫陽花だけは花瓶に挿してある。窓際に置いてあるのかもしれませんが、どうも変な感じです。しかも、言ってみれば自然の風景をバックに細長い花瓶(縦の線)に挿してある紫陽花は横に広がる横の線で、垂直と水平の広がりの交錯した形状は、の中で違和感ありありです。そして、全体が緑色の薄ら寒いようなグラデーションというのも何か変ですが、似た系統のさらに寒い青みかがった紫陽花の花が浮き上がっている。なんか異様な世界のように見えます。この絵を見る人は、この異様さに何かあるのではないか、とくに髙山辰雄という画家にある先入観を持った人は、何か裏読みをしたくなるような欲求を煽るのではないでしょうか。そういうこの作品、色彩でこのような効果を出すためには、同系統の色を目立たないように、しかし、違いがよく分かるようにというかなり繊細な配慮を求められるはずです。また、自然の草木の風景の中に花瓶に挿した紫陽花という人工的な形相を微妙な違和感を感じさせつつ、それが微妙に納まるように配置しなくてはなりません。また、普通なら紫陽花の花は5月から6月という暖かな時期に咲くものですから、画面全体にこのような寒い感じというのはちょっとおかしい。そこでの紫陽花の青を生かすという色遣いで、このような色調で、らしく作品をつくるのにも、かなりの配慮をしていると思います。そういう点で、この作品を見た時、何点もの画家の配慮(作為)を強く感じました。

Takaharu『春を聴く』という作品では、二羽の鳩が薄い灰緑色の草原にうずくまっています。遠景には木々がシルエットになって、わずかな光がみえる。その間をつなぐのが、漸くそれと分かるほどの細くくねった小道。それを点描で描いています。点描の効果もあって全体として輪郭の線が隠れ曖昧になった中で、白かクリーム系統のグラデーションが全体にもやっとした印象を与えます。うずくまる鳩の姿勢とあいまって、何かが湧いてくるような印象を観る者に与えると言えるのではないでしょうか。ここでも、点描という非常に手間のかかる手法や白系との微妙な色の使い分けが十分な配慮のもとに為されているということを強く感じました。

『中秋』という作品では、金を大胆に使いながらも、不思議と素朴な雰囲気をつくっています。画面中央にぽっかりと浮かぶ大きな満月。全体を覆う金色は、その月明かりを意味しているのでしょうか。小さな川に一本の高木、そして人気のない一軒家。それらが全て音を立てないで静かに佇んでいます。そしてタッチはまるで点描画のように精緻です。また、『春を聴く』にもありましたが、前景と遠景をつなぐ道が何か、髙山をあるイメージで見る人にとっては、どこかに向かって分け入っていくような印象を与えるかもしれません。

これらの作品から、共通して感じられるのは、色彩に対する微妙な効果を醸し出そうする、繊細でしかしかなり根気強い努力の後です。どれもが基調となる色をひとつに絞り、同系統の色を配し、あるいはグラデーションを効果的に用いている。安易に対立関係の色を使って対立関係を利用することはせずに、グラデーションの効果を積み重ねて、じわりじわりと盛り上がるような効果を狙って、しかも一定の成果を上げている。このような点に気づく人は気づくけれど、そうでない人には何となく、というのでしょうか。そこが何かあるのかもしれないという、言いたいことを全部言わないで、一部だけ仄めかすと、もっと聞きたくなるという感じというのでしょうか。一種の飢餓感を見る人に煽り、画面から読み取らせようという効果が周到に計算されている、というように見えました。

かなり突飛な比較ですが、ドイツロマン派の画家、CDフリードリッヒは風景に人間の内面を投影したような風景画を描いた人ですが、そのフリードリッヒの作品と比べて見ると、髙山の特徴が目立つと思います。出来上がった作品は全く違いますが、志向は相通じるところがあると思います。フリードリッヒの風景画は画家が選択する題材が、既に画家の意図を反映した特徴的なもので、廃墟だったり、峩〃とした山脈だったり、暗く深い森だったり、氷山の海だったりと、その題材が既にある何ものかを暗示しています。それに大胆な構図で強い印象を与えますが、手法とか技法の点では、特徴的なことは行っていません。それが、見る者にとって絵の間口を広げることになったのでしょう。これに対して、髙山の場合は、取り上げる題材は日本画という制約もあるのでしょうか一般的なものと言えます。しかし、フリードリッヒの場合とは逆に、手法とか色遣いとか描き方の点で特徴的といえます。それが、髙山を効果の画家と私が考えている所以です。

これ以外に、『聖家族』の連作が展示されていますが、これは別に綴りたいと思います。これで、展示されていた全部の作品を取り上げてしまうことになります。それだけ、私が髙山の作品を気に入っているということでしょう。

あるIR担当者の雑感(101)~IRのホームページを考える(3)

前回に続いて、ホームページを作る理由について考えてみます。昨日は、その理由の一つはホームページを作ることによって、企業の情報の伝わる範囲が拡大するということでした。このことにも関連していますが、インターネットというのは、それ以前のメディアに比べて劇的に情報の伝わる範囲が拡大し、伝わるスビードが加速しました。その理由はメディアの構造がこれまでと異なるものだったことによって、情報の質が変わったということが考えられます。単純に言えば、新聞などの活字に印刷される情報とインターネットを流れる情報では、同じ事項が取り上げられていたとしても、実は伝わり方、伝え方が全く違うものになっているということです。当然、そこで人々が受け取ることは違ってきます。メディアとしての新聞が衰退しているのはスピードだけではなくて、そもそも新聞の活字という形態で表わされる情報に対して人々のニーズが無くなってきているからです。つまり、インターネットというのはメディアとしても、単なる伝わり方にとどまらず、いかに伝えるか、何を伝えるかという点でも、以前のメディアと違う異質なメディアであるということです。だから、ホームページで如何に伝えるか、それによって伝わるものというのは、従来の活字の冊子や説明会で伝えていたこととは異質なものになる可能性をもつているということです。そこで、端的に言えば、従来の媒体では伝えることができなかった会社の情報を開示し伝えることができない。もっと掘り下げれば、もともと企業が出していなかった情報ですが、それはもともとあった情報を出せないでいたというのではなくて、そういう情報の出し方という切り口がなかったので、企業自身が気づいていなかったことがあるのではないか、ということでするもっと穿ったことをいうと、そこに経営上のヒントが埋もれていないと誰が断言できるでしょうか。IRということの本来的なあの方を考えれば、ホームページを作ることによるフィードバックをそこまで考えてもいいのではないか。大げさとか、ポジティブすぎるという批判はあるかもしれませんが、インターネットというのは大きなリスクの可能性も秘めていると考えられるわけですから、そこからリスクに見合うリターンが得られるはずだというのは、投資という視点でみれば当然のことで、そういうリターンを考えない方がむしろおかしいのではないか、です。何のためのインターネットなのかということを、果たして本気で考えているのか、ということです。最初のところで少し書きましたが、インターネット業者の人たちは、こういう議論が全くできない人たちばかりでした。

少し抽象的な話になりますが、伝え方が違えば伝わるものが違うということについて考えてみましょう。一般的には、伝える内容というものがまずあって、それを伝えるために手段がいろいろあると考えられているのではないかと思います。結論から言えば、そうではないのです。いかに伝えるかと何を伝えるかというのは、実は表裏一体で相互規定するような関係にあるというのです。それは、たとえば、記号学という分野で記号であるシーニュはシニフィエとシニフィアンの相互関係によって成立しているという議論があります。例えば、日本人は虹は7色といいますが、欧米人は5色といいます。なぜかというと欧米人の言葉には藍色というのがないのです。つまり、彼らにとっては藍色という概念がないから藍色という色を見分けることができない。彼らにはそういう色は存在しないのです。多分、彼らには虹という光のスペクトルのなかで青と黒の間にグラデーションのなかで見分けられないのでしょう。

単純で無理な当て嵌めかもしれませんが、ホームページを作ることによって、ここでの藍色という言葉のような、いままで青と黒の間で見分けがつかなかったことを見分けることで新たな情報を発見できるのではないか。そういう可能性が秘められていると思えるのです。そのためには、単に既に活字やミーティングで開示したものをそのままアップするとか、効率的に載せていくということはナンセンスであること。そういう情報をベースにホームページを構築していくことは折角のインターネットの可能性を自ら塞いでしまうことになりかねないのは、明らかであると思います。そして、思うにほとんどの企業のIRホームページが、そういう点で自暴自棄に自ら進んで陥っているように見えるのも、そういう理由です。

そして、第3の理由はホームページ自体に限らないところでの理由です。第2の理由で、インターネットという新たな媒体で、伝える対象範囲と伝える方法・内容が拓かれたことによって、既存の媒体である活字媒体や説明会との関係を新たにつくることで、既存の媒体の位置づけや方法を考え直すことになるということです。ちょっと理解しにくいかもしれませんが、ホームページで、これまでに届かった人に情報が届くことになるなら、その人に対して説明会で面前のコミュニケーションのやり取りをして興味から企業の支持者に変わって行くことを促すような、つまり、媒体相互の連携やあるいは補完といったように各媒体を有機的に連動させることが考えられることです。これによって、既存の媒体をレベルアップあるいはスケールアップできる糸口が見つかるかもしれないし、あるいは、いままで無理な苦労して表わしていたことが、インターネットでは簡単にできるのであれば、分業ということも成立するだろう。その結果、重層的な情報開示ができるようになるのではないかということです。サッカーで単発的な攻撃よりも、フォワードやバックスが一体となって波状的に攻撃を繰り返していく方がゴールしやすいのと同じです。その点で、より戦略的にIRを考えることができるのではないか、ということです。

2013年1月14日 (月)

あるIR担当者の雑感(100)~IRのホームページを考える(2)

最初に遠回りに思われるかもしれませんが、原則論を考えて行きたいと思います。

なぜ、IRのホームページを作るのかということです。流行だから、他社もやっているから。それも大きな理由でしょう。こういう理由でホームページを作った企業の場合は、理由が理由ですから、目的も他社と同じようにページを作るということになって、それが同じようなホームページを作るということには一息です。取り立てて批判するつもりはありません。このような理由と、結果としてできたページとは論理的に整合しているわけです。逆に言うと、だから、原則を無視できないということです。理由や目的が明確であれば、その後で作られるホームページに結実すると言えます。ただし、今言ったことと矛盾するようですが、ホームページを作る前に、これをガチカヂに固めるほど突き詰めて考えることはないと思います。というのも、実際の作業を進めて行くと、思っていたことが実際上できないという壁に何度もぶつかり、また、作業を進めて行くうちに、それまで分らなかったホームページの新しい可能性─「こんなことも出来るんだ!」という発見─もあったりして、作業の中で、このことが何度も考え直され、揉まれて行くからです。だから、自然に固めすぎてしまうと、そういう時にフリーズしてしまって動きが取れなくなってしまうからです。しかし、事前に何も考えないで始めてしまったら、作業のプロセスのなかで、このような考え直しの契機も起こらないはずなので、事前に考えているということは必要です。

ここで、私がやっていったことをひとつのケースとして取り上げていきますが、これはあくまでもケースであって、モデルではないことを、ご承知おきください。私の勤め先でのホームページの場合、なぜホームページをつくるのかという理由として考えたのは次の3点です。

まず第1点目は、情報提供の対象の拡大です。なあんだ、と思われるでしょう。そういう一般的なことでも、一度は明確に打ち出しておいた方がいいのです。決算説明会を実施し、できる限り機関投資家を訪問し、取材には応じ、といったことを重ねても情報を提供できる人数はたかが知れています。また、株主あてには株主通信を制作し、送付していますが、その数も1,000人足らずです。それも、範囲が狭い中で限定されてしまっています。これに対して、インターネットは対象が無限定に近く、そのためより多くの人と繋がる可能性があります。ミーティングとか株主通信といった媒体とは異なるメディアで、いわば、別のルートを介して、それら以外の人との接点を開く可能性があると考えられるためです。かといって無制限に広げられるかといえばそうではなく、このことはどのような対象をターゲットして接点を広げていくかという大事なことを考えることに関連して行きます。これについては、後で改めて考えていきたいと思います。ここで、ひとつの話を、以前のIRのニッチ戦略のところで考えたように、私の勤め先は一般的な人々に名の知れたメジャーな企業ではなく、業種もB to Bに分類されるため、投資の対象として、私の勤め先を知るとか興味を持つ人というのは、かなり限定されて来るはずなのです。そういう人は100人の中に1人いればいい方で、砂漠の中から1粒の砂を探すようなことではないかと思います。説明会とか印刷媒体というのは、基本的に人と人との実体的関係(面前─実際に会って話をする)に準ずる関係で広がっていくので、情報の使わり方も一歩一歩という形でスピードも遅くなります。これに対して、インターネットの場合は、ネットワークというのが実体を伴わないというのか、AさんがBさんに紹介していって、それが次々にといったような順番だてていくような伝わり方ではなくて、情報の伝わり方は双方向で、拡散したり、順番を飛ばして思わぬところに飛んで行ってしまう傾向にあります。そのため、これまででは伝わらなかったところに企業のことが知られていく可能性があると思います。ただし、もともとがターゲットが限定されているので、情報の伝わり方の確実性は低下すると思います。というのは、人の紹介を介して情報が伝わっていく場合には、情報の伝える側、伝えられる側でそれぞれにセレクションが働き、その情報に興味を持ちそうな人が選ばれていく可能性が高いため、スピードは遅いでしょうが伝わり、広がる確度は高いでしょう。これに対して、インターネットでは、そのようなセレクションかせ働くことは期待できないので、空振りにおわることも多くなるでしょう。それゆえに、ターゲットを限定して、こちらで絞込み、伝えるべき情報を鮮明にしていく必要が生まれると思います。また、私の勤め先を投資の対象として興味を持つような人はマイナーな人でしょうが、そういう人は、おそらく既存の証券会社とか投資サービスとかメディア等の網からは隠れている可能性が高いと思われます。その一方で、その人自身は興味ある分野に対しての情報収集能力は高いは推測できます。そうでなければ、独自にマイナー企業に敢えて投資することはできないでしょう。その場合、インターネットに企業の情報が流れていれは、それをそのような人が何かの折に捕捉する可能性が出てきます。ここで興味ある見解をひとつ紹介しましょう。ベル投資研究所の鈴木さんという有名なアナリストが講演で仰っていたことです。企業でビジネスの実務経験を積んで、パソコンやインターネットに通じた中高年の人たちが定年や早期リタイヤで企業を退職し始めている。この世代は、ひと世代前と違ってインターネット等の情報機器を駆使できるようになって情報収集能力が格段にアップしているし、預金などは低金利であるのを身を持って知っているし、業務の中で企業どうしの付き合いも経験しているので会計数字にも明るく、投資に対して前向きである。そういう人たちは一般的に、老後に備えて資金の準備をしていたり、退職金が入ってきたりして比較的資金を持っている。今後、そういう人が、企業をどんどん退職して増えて来るだろう。しかるに、証券会社や金融機関は、そういう個人投資家に算入して来るであろうという人を把握していないということです。私に勤め先にとっては、この中の技術とか、ものづくりに明るい人というのは、明らかにターゲットとして一本釣りしたいと考えたくなります。その時にインターネットというは今までにない有効なメディアとして機能する可能性があると思います。ただし、鈴木さんが言っているように証券会社等の既存の機関が把握できていないということは、今までのやり方では掴まえにくいという推測が働きます。つまり、このような人々のアンテナに引っかかりやすい形のインターネット利用を考えていく必要があるということです。これは、ホームページを作る理由の第2点にも関連しています。今日は、長くなってしまったので、続きは明日にしたいと思います。

2013年1月13日 (日)

あるIR担当者の雑感(99)~IRのホームページを考える(1)

一昨年から、私の勤め先で実際に携わっているIR業務で課題となっていることを考えながら、ここにそのプロセスを書き込んできました。時には、まとまったことを考えたりすると、何回かに分けて連載のような形で書き込んだこともありました。説明会のことや、株主通信、個人投資家向け説明会のこと等についてでした。それらのことを考え、そして実際に業務を進めていくと、これに全部と関連して、しかもなかなか手をつけられないものがありました。それがホームページです。以前に、日興IRのホームページ表彰に対する疑問を書き込んだことがありましたが、では、自分はこうだというポジティブなものはなかなか、打ち立てられませんでした。その間もああでもない、こうでもない、と色々と考えましたが、まったく進みませんでした。その理由(弁解?)のひとつとしてお手本がなかったということです。そんなことを言っても、上場企業のホームページが何千社もあるではないか、といわれそうですが、でも、どの企業のホームページも同じに見えて面白くないのです。個人で運営しているホームページやプログが個性豊かで、更新が楽しみなところが多いのに、IRページはどうしてそういう興味を掻き立てる魅力を感じないのか、不思議なほどでした。それで、一般的というのか、数多あるIRページは反面教師のように映っていました。だって、私が投資家として、ある会社に何となく興味をもってウェブで検索してホームページを訪れてみて、整然としているようだけれど、一体この会社は何を見る人にアピールしたいのか何も伝わってこないと、その会社のことが分からないひとがインデックスからどこのページを見ていいのか分らないじゃないですか。それで迷っているうちに飽きてしまって、じゃいいや、という気になってしまう。そうすると、二度とそのページを訪れることはない。私の見たIRページはそういうものばかりでした。優秀IRページと表彰されたページも一部を除いて、そんなものばかりでした。

そんなことを考えていると、企業のIRページというのは、そもそも最初から語義矛盾なもので不可能なものではないかとも考えました。それで袋小路にはまり、ずっと抜けられないでいたという状況です。

では、そんな状態で、ここで何が書けるか、と不審に思われるかもしれません。袋小路からの脱出はできていませんが、とりあえずの現状は冷静に分析できて、原因も考え始めることができたということからです。その理由は、うじうじ考えていてもしかたがなく、いつまでも放っておけないので、ホームページの作業に取りかかり始めたことです。一旦作業を始めてしまうと、作業を進めなければならず、実際上の作業課題の解決を考えことに迫られて、結果として個別の細部からホームページを考えるという視点を得ることができました。これから、この作業報告かたがた、そのときに考えたことを何回か書き綴ってみたいと思います。

なお、ここで最初にことわっておきますが、ホームページの作業に関しては、ホームページ作成業者のような人たちには一切お願いしていません。ホームページの最初の企画やページの体裁、内容を考えたり、そして実際ページ作りやウェブへのアップロードもすべて他人を介さず、自分で行いました。その結果、色々なことを自分なりに考え、発見することができました。そのため、私の作ったページは他社のページに比べると、かなり拙いページになっていますが、一見して明らかに他社のページとは違うということだけは自信をもって言えるものにはなっています。

なお、ホームページを業者に頼まなかった理由は、一つとして予算がなかったことがあり、これが一番大きいです。そして、何社か、そういう業者の売込みを受けたり、話を聞いたりした結果です。業者の人の話を聞いた印象ですが、基本的に知識がないのではないかということと、本気でやっていないのではないか、というのが明らかに感じられたためです。たまたま、私が話をきいた数社がそうだったのか分かりませんが。かれらが、一応提案はもってきますが、どうしてそういう提案をしてくるのか、こういうページつくりが良いですよ、と勧めてくるのはいいのですが、その理由をキチンと説明できる人は誰もいませんでした。ほとんどの人はホームページとはこういうものだ、というところで説明が止まってしまい、それから先の理由に詰まってしまうのでした。そういう作り方があるのはいいとして、それがどうして私の勤め先にフィットするのかの理由など、考えたこともないという感じでした。まるでプラットフォームにルーティンで企業についての何らかの情報を手際よく流し込んで、効率よく出来上がりというパターンが見え見えに思えて、これでページを作っても、面白いわけがないと思ったためです。次回以降、私がページを作りながら色々なことを考えざるを得ないところに何度も追い込まれましたが、その時考えざるを得なかった疑問を業者の人にぶつけて見ても、おそらくは答えられないのではないかと思います。別に自慢するわけではありませんが、いかに作るかということは、何を作るかということと密接に関連していて、それぞれが相互に影響することに、私はこの作業のなかで初めて気が付いて、この作業のもつ本質的な効率の悪さを実感したためです。多分、作業を効率化させるには、そういう課題に触れないようにすっ飛ばしてしまうことがコツではないかと思います。

2013年1月12日 (土)

生誕100年髙山辰雄・奥田元栄(2)~『坐す人』

Takazasu“「命あるものの、何をしたいのかを、絵の上に探している」と語り、人間の内面的実像を追い、深い画境を切り開いた”とチラシではコメントされています。展示されている作品は60歳以降の作品が9点。少し調べて見るとゴーギャンへの傾倒が強い時期があったりして、画風が変遷していた人のようですが、ここに展示されているのは、そういう苦労を通過して画風が固まった以降の作品のようでした。ここで展示されている作品には引用したチラシの文句も、それなりに言えてるものかもしれません。日本絵具の、光沢を抑えた特徴を生かし、無彩色の系統の色遣いが、一見モノクロームで禁欲的な印象を受けます。光沢を抑えた画面がまるで光を吸収しっ放しのようなイメージで見る人の視線を吸い寄せる感じがします。例えば、一見禁欲的な色遣いで、チラシの言うように“人間の内面的実像を追い”かけたということをイメージしやすいのが『坐す人』という作品もそうだと思います。花鳥画とか美人画とかいうような一般的な日本画のイメージとは違って、水墨画のような突き放した静謐さとも違う、修行僧が苦行している大きな画面で間近にとらえたアングルは、何かありそうな、訴えかける題材と言えると思います。「苦行荘のような表情で座して瞑想する人物は、周辺の岩肌に溶け込むように描かれ、静寂さを際立たせている。背後には一筋の滝が描かれ、唯一画面に清涼感と動きを与えている」と言うコメントを見つけましたが、まさに精神性とか内面性という言葉が好きな人は、そういうように見るのだろうと思います。苦行している修行僧ということで、あばら骨が浮いて見えるほど瘠せて、こころもち顔も縦長で通った鼻筋が目立ち、落ち窪んだ眼の奥に光っている印象を受けます。瘠せて縦長の人物は、そこまで極端ではありませんがジャコメッティの人物彫刻像のように贅肉を削ぎ落とした実存の真実を露わにした姿を連想するかもしれません。細長い腕の先の大きな掌が、そういうイメージを助長させるかのようです。全体をグレーの色調で統一し、岩肌と土気色の修行僧の肌が同系統の色遣いにより、まるで人物が背景に融け込んでしまうようです。それは厳しい修行で彼は我欲を捨て無の境地に近づいたのか、いずれにせよ人物全体は無機的に、まるで存在そのものになっているかのように描かれています。そのなかで、大きい両手だけがやけにはっきり描かれ目に付きます。その手は何かを握り締めているようで、それは捨てようとしても捨てきれない人間の業のようなものなのか。修行僧の表情が無表情に何も語ってくれないのが、観る者の解釈を煽るようです。高山はその後に描いた作品(少なくとも、今回の展覧会で展示された作品)では、このような人物の造形をベースに発展されているように見えます。

画家はどこまで自覚して意図的に描いたかは分れませんが、このような作品にある種の傾向を持った人を引きつけるトロがあると思います。最初に解説に書かれているようなことを追い求めているような人々です。いったい、人間の内命的実像っていのは果たして存在するのか、存在するとして明確な形象をもっているのか分かりません。絵と言うものに、個人がこのような形にならないものを読み込むことを求める、ということは近代以降の最近の傾向ではないかと思います。仮に、祭事に使われた絵画が何ものかを象徴させられることはあったにせよ、その場合は明確に意図されたものであったと思います。しかし、近代以降の孤独な近代的個人というものが生まれ、宗教とは切り離された世俗化が進んだ。その動きをさらに進めたのがデカルト以降の近代哲学ではないかと思います。なにもすべての人がデカルトを勉強したというのではなく、そこに底流する考え方が人々に浸透していったということです。例えば身体と精神を分けて考える二元論です。そこで人間の精神と言うものが個人のレベルで独立して考えられることが一般化したと思われます。神という絶対的な、そういうことも考えてくれていた存在が、もはや現実的でないとなったときに、神に代わって自分で考えなければならない。しかし、現実に手に取って確かめることができないことを考えようとすると、自分の頭の中で考えを弄ぶ傾向が進み、主観的で考え自体がどんどん先走っていく。そのようなものに形を与えようとしたのが理想というものでしょうか。語りえない、見えないものにできるだけ形を与え、現実の身体をそれに目指させようとする、あこがれ、という行為です。そこから、絵画は現実を映したり、現実をベースに空間を構成したりするものから、現実にない形なきものを表わすことを目指すことになったと思います。その流れで、かたちのないものを表わすのだから、形のない絵画だっていいわけです。抽象画もそういう視点で捉えることも出来ると思います。そういう抽象画が現われると、逆の動きとして敢えて形を与えようとする動き、具象という絵画が意識的につくられるようになったと考えます。この高山の絵は、本人が意識しているかいないか分かりませんが、観る方はそういう流れの中で見ていると思います。もともと、形のないものを形のある絵画として描こうとするところにもともと無理があるわけです。そのものズバリで、これが人生の真実という形あるモノがないのですから。そこで考えられるのは、象徴的な表現です。古代のアニミズムが神とか精霊といった見えないものを別のもので象徴させたように、シンボリックな表現をすることです。もう一つは、効果を最大限に活用する表現です。例えば寒暖は触覚で感じるもので、視覚では感じることができないものですが、象徴的な表現では雪を降らせることで寒さを想像させ、効果を活かした表現では寒色と言われる色遣いで寒い雰囲気を感じさせるというものです。

さて、この作品を見てみると、高山は、まずシンボルとして修行僧を題材として取り上げました。宗教者の一種ですが、一般的には真理を追い求めるとか、最低限、現実の生活から離れて世俗とは違う何かを追い求めるというように見られています。とくに、苦行というように修業は厳しいものと考えられているので、極限の状況に直面した時に、人間の上っ面の虚飾がはがれ剥き出しの人格が露呈するというイメージがあります。その剥き出しの人格こそが人間の内面的真実の一端。と言うストーリー。そこまで想像を働かせるかは分かりませんが、ある程度そういうイメージを持っていると思います。そういうシンボルとして修行僧を題材にして、そういうイメージを煽るような効果を巧みに施している。例えば、肌の色を背景の岸壁と同系統で、まるで融け込んでいるように同化させてしまっている。これは、自然から遊離した欲望や煩悩に満ちた社会的人間としての色を落とし、自然の一部であった本来的な人間にもどるというシンボルとも取れます。そこで現われてくる方向性が、「削る」という方向です。このような追及の場合、往々にして俗世間の垢を落とすとか、煩悩を振り払うという表現にあるように、現実の生活は余計な要素がどんどん追加されて身動きが取れなくなってしまっている。だから本来の人間の真実にアプローチするためには、後で追加された余計なものを「削る」ということが志向されます。だから、高山のこの作品では、「削る」という要素がそこここに効果的に使われています。例えば修行僧は肋骨が浮き出るほど瘠せています。また、顔つきもふくよかではなく面長に描かれ、縦長が基本に画面が構成されていると言えます。

こういう意味で、私は高山辰雄という画家は、効果ということに巧みで、その追求に努めた画家というようなイメージを強く持ちました。

2013年1月11日 (金)

生誕100年髙山辰雄・奥田元栄(1)

Takapos2都心でセミナーが中途半端な時間で開かれるので、時間調整にちょうどいいと、以前から気になっていた山種美術館を覘いて見た。恵比寿の駅から坂を上がって、自動ドアを開くと、やたら係員が目に付く、美術品よりも建物と社員が前面にある感じがした。入ったロビーは喫茶スペースが大きな面積を占め、展示室は階段を下りて地下へ。大がかりな自動ドアが観音開きで展示室へ、ここでも係員が多い。そのわりに展示室は狭い感じで、コセコセする感じだった。日本画、とくに近現代の日本画の美術館として評判は高いと思っていたけれど、私の個人的印象はちょっと違った。私自身、日本画の展覧会へはあまり行ったことがないので、そういうものへの戸惑いかもしれない。平日というのに参観者は多かった。どちらかと言うと年齢の高い人が多いようだった。それも数人連れでおしゃべりしながら見ているようなので、静寂という雰囲気ではなかった。

肝心の展示について、展覧会のタイトルが高山辰雄・奥田元栄 文展から日展へとなっているので、この二人の作品を沢山見せられるものと思っていたら、全体の三分の一程度、19点だった。後は、約30点は美術館のコレクション。何か、コレクションを展示するのに、適当に組み合わせて体裁を整えたという感じがしないではない。そもそも、この二人を並べて美術展のタイトルにする必然性はどこにあるのか、未だに分らない。ひとつ思いつくのは、一人では展示点数が足りないので、二人にした。二人とも生誕百年だから、それだけで並べたという感じ。いままで、見てきた美術展でカタログも作っていないというのは初めてだった。驚いた。

とはいっても、二人の画家の作品は短い時間だったけれど、それなりに楽しめたので、それぞれ簡単な感想を少しばかり書いて行きたいと思います。

2013年1月 9日 (水)

あるIR担当者の雑感(98)~IR担当者がIR担当者を見つめる

私の勤め先の決算説明会では、知り合ったIR担当者を招待するようにしています。そして、できれば来ていただいた方の会社の説明会に出席させていただくようにしたいと思っています。未だ数社ですが、他社の説明会に出席させていただいたところ、大変勉強になりました。その理由をいくつかあげてみます。まず、鏡像効果とでもいうのでしょうか、ラカン派の精神分析で乳児が鏡に映った自分を自覚することで自己というものを認識するという有名な概念にちなんだ言い方をしましたが、自社の説明会に関わって準備や運営を行っているのを、他社の説明会で他社の担当者が動いているのを見ることで、改めて客観視するきっかけを得ることができたというのが第一点です。次に、日頃は説明する会社の側に座っているのに対して、出席者の席に座ることでアナリストや機関投資家の側に立って説明会を見ることができたことで、ここから見える説明会は説明者から見えるものと違うということが分かったことが第二点です。この第一点と第二点についてはIRコンサルや支援会社などのアドバイスやコンサルティングや説明会後の出席者に対するパーセプションスタディによって一部を代替することは可能です。

しかし、第三の点については私が、直接、他社の説明会に出席することではじめて可能となることではないかと思います。それはIR担当者として現実に説明会の準備や運営でそれなりの苦労をしていてはじめて分かる実感レベルのことです。100%というわけではありませんが、他社の説明会が行われているのを資料を目で追いながら観ていると、担当者や経営者の息遣いがライブで分かるので、おおよそ、担当者はどの点で苦労して、どこで工夫しているか、説明者である経営トップとの位置関係とか、裏方の動きがだいたい想像できてしまうというという点です。単に説明会資料を見ただけでは、そこまでは穿つことはできず、そういう視点にまで掘り下げて気が付いた点を参考に出来るということです。これは些細なノウハウの点から、例えば、このような時に担当者はどうしている、というようなことから、明確に言葉に出来ない心情レベルの実感によるところまであります。他社の担当者でも、このようなところで悩んでいるらしいということを、目前にすることができて共感することができるだけでなく、彼なりに苦労しているのを想像すると自分にとってのヒントになるわけです。そして、多分、これは現場で実際に業務に従事している者でないと分からないのではないかと思います。そして、このようなことは、その場ではたいしたことのないように見えますが、あとで今度は自分の会社の説明会を始めようとする時に大きな糧となっていることが分かります。そのときに、私個人としては、このIRの説明会の業務に対して畏れを実感しました。何か宗教っぽいですが。

そして、他社の担当者が説明会に出席して、私と同じように、そうではないかもしれませんが、担当者として、こちらの裏方を見抜いてしまうような目で見られていると思うと、正直おそろしくなります。ごまかしや手抜きなどしてしまえば、即座に見抜かれてしまうでしょう。

『建設業者』という大工や左官といった職人へのインタビューのなかで、あるウレタン吹きつけの職人が「現場に行って古い壁を剥がしてみると、当時の工事の様子が分かります」「いま自分が吹き付けたウレタンは、20年後か30年後、将来改修する職人が必ず見ます」「たとえ今は見えなくても、未来の職人に対してだけは恥ずかしくない仕事をしておきたい」といいます。これは、仕事に就く者のひとつの倫理であるとともに、同業者の厳しい目、これは同時代という横軸でも将来という縦軸で時間を切った時にも、強く意識されているのがすごく印象に残っています。これはIR担当者にも、言えることではないか。言えるような世界であってほしいと思っています。

いま、優秀IR表彰とか、ホームページやアニュアルレポートを評価するイベントがあっても、それを審査するのはIR協議会であったり証券会社が主催して、アナリストや投資家、あるいは学者やジャーナリストという、つくる側でない人々によるものです。これに対して、IR担当者同士の口コミで、あの会社の説明会は良い、とかそういうことがあってもいいのではないか。おそらく、担当者としては、そういう評価は胸に沁みるのではないか。そういうのがあった方が、商売半分?の表彰などよりも余程、IRの向上に資するのではないかと思ったりします。そのためには、IR担当者のつながりとかネットワークができていることが前提になって来るのでしょうが。単なる懇親だけなら、どうでもいいですが、情報交換とか切磋琢磨のような関係はあったらいいなと思います。

あるIR担当者の雑感(97)~法務部員の存在感の自己放棄?

昨年、あるセミナーを聞いてきました。講師は国内トップのビール会社の法務担当者でテーマは、内部取引規制、いわゆる役員や従業員が自社株を売買する際にインサイダー規制に抵触しないように対策を講じるというものでした。で、その講師の会社のとった対策とは、役員は任期中には一切自社株の売買は禁止、従業員は原則として従業員持株会を通じて購入する。何かの都合で、例えば子供の学費とか、で自社株を売りたいと言われてもできないので、これでは従業員の福利厚生にならないのが悩みというものでした。単純化すればそういうことになりますが、そういうことができるためには、内部取引規制の社内規程を整備し、役員にも従わせるためのオーソライズ、例えば取締役会での承認をえるとか、そのためには役員や関係者の根回しや説明等の手間がかかったでしょう。さらには、規程ができても、それが正しく運用されるためには、役職員に規程を浸透させ、自社株の売買を把握する、あるいは必ず事前に会社に届けさせることを徹底させなくてはなりません。それにも労力がかかったと思います。そこでの苦労やノウハウは、他社の担当者は知りたかったのではないかと思います。それで出来上がった体制は水も漏らさぬ、事故は起こらない体制です。

しかし、と中小企業の兼務担当者は思うのです。部分最適を追求して全体最適を見失っているのではないか。それよりも、法務担当者として自分の存在を否定している、というのか会社に対して貢献できる道をわざわざ自分で潰しているように、私には思えてなりませんでした。これは、私の個人的な考えなので異論も多いと思いますが、こういうことです。中小企業では、経営者が株主の立場を尊重することを身を持って示すということを進めて行かないと、投資家や株主の納得を得ていくことが難しくなってきています。投資家や株主の支持をえるということは、経営上必要なことで、これがあるとないとでは有利さが違ってきます。そのひとつの経営者の姿勢を表わす手段として、あるいはコーポレートガバナンスという点からも経営者が自社の株式をある程度身銭を切って所有させて、株主と共通の利害に立たせる。これは会社の経営を考える上で、必要なことです。まあ、メジャーな大企業でそんなものは不要だというなら、そこで議論は終わってしまうのでしょうが。たとえ、緊急の必要性は感じられない企業でも経営上有効なものであることは変わりありません。オーナー企業で経営者が大株主の会社は別ですが、そういう株式の分散が為されていない会社が上場すること自体が、そもそも自己矛盾ではあります。そういうときに、役員の自社株売買は一切禁止ということになると、経営上必要な施策を打てなくなるということです。しかも、この施策は違法な目的というよりは適切なガバナンスを目的としている、いうならば法に適うはずのことです。

そこで、どうすればいいか、後はケースバイケースで白黒をつけにくいグレーな状況のなかで形式的な要件をわきまえて、その時々に売買できるかどうか、その都度判断して行くほかありません。もし判断を間違えて、万が一当局の規制にひっかかれば、判断した者は会社に多大な損害を与えてしまうことになります。そのようなリスクを負って判断するのは、スペシャリストでしかできないでしょう。しかし、企業にとっては必要だし、価値のある判断のはずです。そういうリスクは経営リスクと考えてもよく、そのリスクを負って企業の経営を左右しかねない判断をするのが法務部が企業に対して貢献できるものではないかと、私は思います。

しかし、このセミナーでは、そういう貢献できる途を自ら閉ざしてしまっている。そういう経営リスクを負わなくてよいほど順風満帆な経営の企業なら別にいいのですが、リターンはそれに見合うリスクを伴うというのは投資の常識です。法務等の事務系、管理系の仕事はリスクを無くすことではなく、リスクを避けたり、リスクに伴う被害を最小限にとどめることで、そうでなければ、企業はリターンを得ることができなくなってしまうのではないかと思います。あえてリスクを求めるのは愚かですが、リスクを負わないことで、何がしかのリターンを逃している、と講師をしている担当者は考えないのか、ひいてはその上司は担当取締役でしょうから、経営の一翼として考えないのか、疑問を多く感じました。そのとき、官僚化という言葉を思い浮かべたりしました。

2013年1月 7日 (月)

去年のベストセレクション

このブログを始めてから、新年最初の投稿は、昨年を振り返ってのベストセレクションが恒例としています。(とは言っても、今回で3回目の新年ですが)というわけで、簡単に振り返ります。昨年も、一昨年と同じように音楽についての投稿がほとんどありませんでした。それは、音楽を聴く道具の変化にも起因していると思います。というのも、依然はポータブルCDプレイヤーで音楽を聴いていたのを、ハードディスク内蔵の携帯音楽プレーヤーに切り替えたのです。この方が、よりコンパクトでハードに沢山のソフトを記憶させ好きなものをその都度選べるので便利、音質さえ我慢すればよい。とたしかに重宝していますが、以前のCDプレイヤーではいったんCDをセットすると途中で換えることはできなかったので、自然と「今日は、このCDを聴くと」意気込んで聴いていたような気がします。かりに、その時の気分にそぐわないときでも、とりあえず聴いていました。これに対して、今では手軽に換えることができてしまうことから、CDを通して聴くということがなくなり、自然と身構えることがなくなっていきました。そのため、まとまった感想とか印象を書きとめるほど聞き込むことがなくなったと思います。聴く方の私自身にも気力が続かなくなったこともあるかもしれません。聴いている音楽についても、大曲よりも小品を好むようになってきているようです。

一方、本については、相変わらずです。読了したものについてはマイリストにその都度アップするようにしていて、その中からプログに読書ノートをアップしています。一昨年、昨年と特定の作家について書かれたものを集中的に読むという傾向にあるようですが、とくにそうしようと意識しているわけではなく、いつの間にか、一つの本を読んだら関連して次へという具合に、興味の泥縄を伝ってそうなってしまったということです。ただし、その作家の原本にはほとんど手を触れていないので、周りをうろうろしているだけ、と言われればそれまでです。とくに、昨年はスピノザについて書かれた本をとっかえひっかえ読みました。ひとつには、スピノザの研究者がおそらく少ないので、あえて取り上げようとする人はそれなりの覚悟というのか、スピノザにのめり込んでいる人が多いみたいで、生半可でないということがありました。それだけに、どの本も読み応えがありました。しかも、これらの人たちは単にスピノザをお勉強しているというのではなくて、アクチュアルに、現代で敢えてスピノザに取り組む意味を考えて、それを現代にフィードバックしようとしている姿勢が鮮明で、それだけにスピノザに対して門外漢の私にも、とっかかりの糸口がありました。

これら人々を読んだ私のスビノザの印象は、この人は徹底して「いかに」ということを考えた人だったのではないか、ということです。ものを考えるときには、「なぜ」とか「何」といった切り口もあります。「なぜ私はここにいるのだろうか?」とか「私がここにいるというどういうことだろうか?」とかいった問いかけが代表でしょうか。しかし、スピノザは「私は、いま、ここに、どのようにしていることができるのか?」あるいは「どのようにいるべきか?」を考え、それを考えていると派生的に、「なぜ私はここにいるのか?」とか「わたしがここにいるのはどういうことか?」が分ってくるのです。スピノザの主著は『エチカ』で倫理学の書とい分類されていますが、「いかに」という問いが出発点になって哲学や政治学も含む内容になっています。つまり、スピノザの切り口は既存の学問の壁を取り払ってしまうものだったようです。だから、当時彼の生きていたオランダでの思想対立を彼は超越的に眺めながらそれぞれに対峙するという微妙なスタンスをとることができた。それゆえに、かれの思想は異端として排斥させることになってしまうのですが。既存の枠組みの乗っかっていながら、その枠組みを超えて無効化してしまう破壊力を彼の思想は持っていた実践的なものだったのではないかと思います。そういう性格がアクチュアルな視点で生かすことができるのではないか。少なくとも、私のようなものでもヒントぐらいは得ることができるかもしれない。ごたいそうな言い方ですが、そんな気がしています。

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