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2013年1月31日 (木)

チャールズ・ローゼン「音楽と感情」(1)

この本は、音楽がわかるとは難解な暗号を覚えることとは違うという信念から書かれた。音楽の多くの局面はもちろん長い学習の成果だが、音楽の感情的、劇的な意味をとらえるのは瞬時のことだし、音楽に馴染みさえすればそれは出来る。最も初歩的な意味で、音楽がわかるとは聴いて楽しむことを意味するにすぎない。たしかに耳慣れない音楽や、はじめて聴いたときに違和感のある音楽だと、楽しめるようになるまでには何度かくりかえして聴く必要があるし、あえて新しい感覚を試みるには、そもそも多少の善意がなくてはならない。だが音楽の存在理由である自然な楽しみのために専門知識はまず必要ない。

私は音楽が表現する情緒とは何なのかをつきとめることよりも、その表現のしかたが二世紀かけい根源的に変わったことの方に興味があった。それが音楽様式の歴史の重要な局面を解き明かしてくれるからだ。それに、音楽を理解するには、その意味に名札をつけるより、情緒がどう表現されているかを知ることのほうが大切だ。音楽的な感覚の意味をはっきりさせるためには、それがどれほど多様なあらわれ方をするか理解するのがいちばんいい。

 

Ⅰ 複合的なシグナルの意味を決めるということ

音楽の感情表現を考えるとき、私はその感情に名前をつけようとあまり思わない。だから、ある音楽を聴いて感じるはずのものが何かを知りたい読者はきっとがっかりするだろう。しかし幸いにして、音楽から何を感じるかはふつうわかりきっている。つまり、ある音楽は悲しく、ある音楽は楽しい。ときに苛烈な、また葬送の音楽もあれば、優しくたおやかな音楽もある─つまり、それがどういう感情か、判断はそれほどむずかしくない。感情に名前をつけるのがなぜ浅薄か。それはおもに、こういうことにかけて、音楽は言葉よりもずっと雄弁だという事実からきているる言語のさまざまな機能のうち、情報の伝達はとりわけ重要なもののひとつだが、これはかならずしも音楽の得手とはいいがたい。だが、言語が音楽のもつ霊妙さや感情的共振のせめて足元にでも近づこうと思うなら、詩的な方法を模索するしかない。

たしかに音楽のもつ感情力については遠い昔から言い伝えられてきた。だが、ある感情を生活の中で実体験するということは、音楽作品に表現された感情を経験するのとはまるで違うことを忘れてはいけない。私たちが表現芸術を称えるのは実体からの乖離効果があるからだ。ヴェルディの「レクイエム」の「ラクリモーサ」を聴くとき、私たちは悲しむのではなく、悲しむのを楽しんでいる。

表現された感情や情動がはっきりしているときに、それに名前をつけるのをとりたてて避けようとはもちろん思わないが、いずれにせよ感情を特定することは私の本来の目的ではない。本書で問題にするのは表現の性質─つまりそれは統一された感情なのか、それとも対立する別の感情とセットになっているのか、表現の力は安定不変なのか、それとも動機の展開とともに強まるのか弱まるのか、強まるなら、急速になのか徐々になのか、といったこと─である。それはまた、ある感情をあらわす特定の動機が別の感情表現へどのように変容するかを考え、その変容の手法について知ることとも関係してくる。呼び覚まされた感情に名前をつけるのが問題なのは、音楽がはっきりと喚起したものを言語におきかえると、曖昧で品を落としかねないからだけではない。音楽の歴史がくだるにつれて感情表現はいよいよ不安定で流動的になりがちなうえ、動機が音楽形式のなかに占める位置しだいで異なる情動的意味をもつことがあるからだ。ごく単純な例だが、動機は反復して二度目にあらわれるとき、かならずしもおなじ意味ではなく、そのせいで聴き手の記憶にある初出の意味を少し変えてしまうことすらある。

本書の議論の核心となるのは、音楽史全体をつうじて感情表現の方法がたどった根源的な変化についてである。

18世紀の音楽では、情動の意味は協和と不協和の関係から生まれることをまず理解しておかねばならない。協和/不協和という用語は、心地よい/不愉快な音楽的ノイズのことではなく、18世紀的調性の語法のひとつだった。不協和音とは不快な音ではなく、協和音に解決されねばならない音程や和音のことである─基本となる協和音は主和音で、そのいちばん重要な音程はオクターブと五度だが、それは18世紀の調性音楽作品では、曲の最後の和音にはこれらの音程か、少なくともそれを暗示する音程がなければならないからだ。不協和音は緊張の高まりをつくりだし、協和音はそれを解放する。

不協和音は和声的(垂直)だけでなく、メロディ的(水平)にもとらえることが大切だ。1700年代本来の調性的メロディは主和音を輪郭として調性を決めた。メロディの音符は、各フレーズの示唆する基本の三和音と、冒頭で決まる主和音の双方に対して、たがいに協和/不協和の関係をくりかえしながら進む。そして作品の核セクションに生まれるすべてのフレーズは、そのセクションが示唆するどの副次的な調性の中心に対しても協和か不協和である。本来の調性的メロディにはみな、独自の和声構造が埋め込まれている。この緊張の度合いのちがいこそが、どんなたぐいの感情表現にとっても大元の土台となる。

音楽の感情についての議論は、どんなものでもその核心にこういう問いがある─18世紀の聴き手はどうやってこの複雑なシステムを学ぶことができたのか。音楽理論を学んだからではもちろんない。こういうシステムは子供が言語を習得するときのように、両親や兄や姉や友だちがしゃべるのを聞いて学ぶもので、文法や構文法を勉強して習得するのではない。むろん文学の様式がどう機能するかを理解するのに修辞学の勉強が役に立つのはたしかだが、隠喩、直喩、撞着語法、二詩脚併合などを論じなくても、言語文化のかなり高い水準を理解することはできるし、そういうものを知らなくても読書から深い感銘を受けることができる。一般聴衆がモーツァルトの作曲技法を説明できなくても、その感情表現に心から感動できるのとおなじだ。

音楽を聴くときに聞こえてくるのは単なるノイズではなく、さまざまな関係性、拍子の規則性、ルバート、均整、反復、不協和と解決といったもろもろのもので、私たちは詩の愛好家が韻、類韻、音の遊びなどの小道具に名前をつけずに楽しむのと同じように楽しむ。そして意味へのアクセスがあたえられれば、こういう楽しみ方は終わりを迎える。音楽を聴くとき私たちが意識的、無意識的に知覚するのはパターン、つまりサウンドの秩序づけである。

 

ひとつの音楽要素に決まった意味をしつこく与えたがるのは、要するに音楽を言語と混同するところから起きる。つまり、音楽はしばしば言語だと言われ、言語と同じように意味をもつらしい、であれば特定の語彙が可能でないはずがないではないか、というわけだ。それはまた音楽と絵画を混同するところからも起きる。

音楽同様、絵画にも話し言葉のような機能や能力すべてが具わっているわけではないが、中世やルネサンスの絵画は手の込んだ象徴的、図像的な語彙を発展させた。こういう標識のような印は音楽にも存在する。だが、こういうものはみな性格音楽の絵画的描写や擬音効果であって、かたや抽象音楽のほうは、特徴のない、ありふれた要素、フレーズのなかの単純なメロディのなかの単純なメロディ変化、いつでもどこにでもある動機によって感情を描き続ける。これらの要素に一定の情動的意味をくっつけようとすれば、失敗は目に見えている。こういうものは和声、質感、リズムに応じてあらゆるところで意味を変えていくからだ。和声の意味も同じように流動的で、作品やフレーズによって変わるし、ときにはひとつのフレーズの始まりと終わりで異なることすらある。ある色に、また様々なアラベスク形式に特定の情動的意味を与える絵画理論も同様に実用の役には立たなかった。シンボルの解釈に限って言えば、絵画ははっきりとエロティックな形状を取れる点で音楽より有利だが、画家が絵画の意味を解き放つ手段を見出さない限り、ロールシャッハ・テストの絵を眺める以上の効果はあるまい。音楽でも、特定のリズムやメロディの形に潜在的エロスを託すことができたとしても、ふつうそれが効果を発揮するのは、ハッキリしたテキストを伴う時に限られる。

特徴のない、ありふれた調性音楽の要素に意味を託そうとするひとつの言説についても述べておかねばならない。これにはまるで説得力がない。つまり情動的意味を特定の調や調性に帰する考え方のことである。調の性格をめぐる考察は音楽の伝統一般どころか特定の時期の音楽についてすらも、説得力ある説明をしてくれない。そのような議論は、個々の作曲家が特定の調を扱う時のごく個人的な点に注意を喚起した点にのみ意義がある。

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