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2013年1月12日 (土)

生誕100年髙山辰雄・奥田元栄(2)~『坐す人』

Takazasu“「命あるものの、何をしたいのかを、絵の上に探している」と語り、人間の内面的実像を追い、深い画境を切り開いた”とチラシではコメントされています。展示されている作品は60歳以降の作品が9点。少し調べて見るとゴーギャンへの傾倒が強い時期があったりして、画風が変遷していた人のようですが、ここに展示されているのは、そういう苦労を通過して画風が固まった以降の作品のようでした。ここで展示されている作品には引用したチラシの文句も、それなりに言えてるものかもしれません。日本絵具の、光沢を抑えた特徴を生かし、無彩色の系統の色遣いが、一見モノクロームで禁欲的な印象を受けます。光沢を抑えた画面がまるで光を吸収しっ放しのようなイメージで見る人の視線を吸い寄せる感じがします。例えば、一見禁欲的な色遣いで、チラシの言うように“人間の内面的実像を追い”かけたということをイメージしやすいのが『坐す人』という作品もそうだと思います。花鳥画とか美人画とかいうような一般的な日本画のイメージとは違って、水墨画のような突き放した静謐さとも違う、修行僧が苦行している大きな画面で間近にとらえたアングルは、何かありそうな、訴えかける題材と言えると思います。「苦行荘のような表情で座して瞑想する人物は、周辺の岩肌に溶け込むように描かれ、静寂さを際立たせている。背後には一筋の滝が描かれ、唯一画面に清涼感と動きを与えている」と言うコメントを見つけましたが、まさに精神性とか内面性という言葉が好きな人は、そういうように見るのだろうと思います。苦行している修行僧ということで、あばら骨が浮いて見えるほど瘠せて、こころもち顔も縦長で通った鼻筋が目立ち、落ち窪んだ眼の奥に光っている印象を受けます。瘠せて縦長の人物は、そこまで極端ではありませんがジャコメッティの人物彫刻像のように贅肉を削ぎ落とした実存の真実を露わにした姿を連想するかもしれません。細長い腕の先の大きな掌が、そういうイメージを助長させるかのようです。全体をグレーの色調で統一し、岩肌と土気色の修行僧の肌が同系統の色遣いにより、まるで人物が背景に融け込んでしまうようです。それは厳しい修行で彼は我欲を捨て無の境地に近づいたのか、いずれにせよ人物全体は無機的に、まるで存在そのものになっているかのように描かれています。そのなかで、大きい両手だけがやけにはっきり描かれ目に付きます。その手は何かを握り締めているようで、それは捨てようとしても捨てきれない人間の業のようなものなのか。修行僧の表情が無表情に何も語ってくれないのが、観る者の解釈を煽るようです。高山はその後に描いた作品(少なくとも、今回の展覧会で展示された作品)では、このような人物の造形をベースに発展されているように見えます。

画家はどこまで自覚して意図的に描いたかは分れませんが、このような作品にある種の傾向を持った人を引きつけるトロがあると思います。最初に解説に書かれているようなことを追い求めているような人々です。いったい、人間の内命的実像っていのは果たして存在するのか、存在するとして明確な形象をもっているのか分かりません。絵と言うものに、個人がこのような形にならないものを読み込むことを求める、ということは近代以降の最近の傾向ではないかと思います。仮に、祭事に使われた絵画が何ものかを象徴させられることはあったにせよ、その場合は明確に意図されたものであったと思います。しかし、近代以降の孤独な近代的個人というものが生まれ、宗教とは切り離された世俗化が進んだ。その動きをさらに進めたのがデカルト以降の近代哲学ではないかと思います。なにもすべての人がデカルトを勉強したというのではなく、そこに底流する考え方が人々に浸透していったということです。例えば身体と精神を分けて考える二元論です。そこで人間の精神と言うものが個人のレベルで独立して考えられることが一般化したと思われます。神という絶対的な、そういうことも考えてくれていた存在が、もはや現実的でないとなったときに、神に代わって自分で考えなければならない。しかし、現実に手に取って確かめることができないことを考えようとすると、自分の頭の中で考えを弄ぶ傾向が進み、主観的で考え自体がどんどん先走っていく。そのようなものに形を与えようとしたのが理想というものでしょうか。語りえない、見えないものにできるだけ形を与え、現実の身体をそれに目指させようとする、あこがれ、という行為です。そこから、絵画は現実を映したり、現実をベースに空間を構成したりするものから、現実にない形なきものを表わすことを目指すことになったと思います。その流れで、かたちのないものを表わすのだから、形のない絵画だっていいわけです。抽象画もそういう視点で捉えることも出来ると思います。そういう抽象画が現われると、逆の動きとして敢えて形を与えようとする動き、具象という絵画が意識的につくられるようになったと考えます。この高山の絵は、本人が意識しているかいないか分かりませんが、観る方はそういう流れの中で見ていると思います。もともと、形のないものを形のある絵画として描こうとするところにもともと無理があるわけです。そのものズバリで、これが人生の真実という形あるモノがないのですから。そこで考えられるのは、象徴的な表現です。古代のアニミズムが神とか精霊といった見えないものを別のもので象徴させたように、シンボリックな表現をすることです。もう一つは、効果を最大限に活用する表現です。例えば寒暖は触覚で感じるもので、視覚では感じることができないものですが、象徴的な表現では雪を降らせることで寒さを想像させ、効果を活かした表現では寒色と言われる色遣いで寒い雰囲気を感じさせるというものです。

さて、この作品を見てみると、高山は、まずシンボルとして修行僧を題材として取り上げました。宗教者の一種ですが、一般的には真理を追い求めるとか、最低限、現実の生活から離れて世俗とは違う何かを追い求めるというように見られています。とくに、苦行というように修業は厳しいものと考えられているので、極限の状況に直面した時に、人間の上っ面の虚飾がはがれ剥き出しの人格が露呈するというイメージがあります。その剥き出しの人格こそが人間の内面的真実の一端。と言うストーリー。そこまで想像を働かせるかは分かりませんが、ある程度そういうイメージを持っていると思います。そういうシンボルとして修行僧を題材にして、そういうイメージを煽るような効果を巧みに施している。例えば、肌の色を背景の岸壁と同系統で、まるで融け込んでいるように同化させてしまっている。これは、自然から遊離した欲望や煩悩に満ちた社会的人間としての色を落とし、自然の一部であった本来的な人間にもどるというシンボルとも取れます。そこで現われてくる方向性が、「削る」という方向です。このような追及の場合、往々にして俗世間の垢を落とすとか、煩悩を振り払うという表現にあるように、現実の生活は余計な要素がどんどん追加されて身動きが取れなくなってしまっている。だから本来の人間の真実にアプローチするためには、後で追加された余計なものを「削る」ということが志向されます。だから、高山のこの作品では、「削る」という要素がそこここに効果的に使われています。例えば修行僧は肋骨が浮き出るほど瘠せています。また、顔つきもふくよかではなく面長に描かれ、縦長が基本に画面が構成されていると言えます。

こういう意味で、私は高山辰雄という画家は、効果ということに巧みで、その追求に努めた画家というようなイメージを強く持ちました。

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