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2013年1月16日 (水)

生誕100年髙山辰雄・奥田元栄(3)~『緑の影』『春を聴く』『中秋』

Takamidori髙山辰雄の効果の画家ということを申しました。このような言い分には異論のある方も多いのではないかと思います。これはあくまで、私の個人的な感じ方と弁解をするのもみっともないことですが。このようにことを述べたことがよく現われているように見えるのが、彼の人物以外の風景や花鳥を題材にした作品です。例えば、『緑の影』という作品です。紫陽花が咲くさまを描いた作品です。ですが、『緑の影』というタイトルの通り全体が緑色で覆われていて、紫陽花の花だけが青みが入っている。しかも、背景の草や花は土植えの茎や幹があるのに、紫陽花だけは花瓶に挿してある。窓際に置いてあるのかもしれませんが、どうも変な感じです。しかも、言ってみれば自然の風景をバックに細長い花瓶(縦の線)に挿してある紫陽花は横に広がる横の線で、垂直と水平の広がりの交錯した形状は、の中で違和感ありありです。そして、全体が緑色の薄ら寒いようなグラデーションというのも何か変ですが、似た系統のさらに寒い青みかがった紫陽花の花が浮き上がっている。なんか異様な世界のように見えます。この絵を見る人は、この異様さに何かあるのではないか、とくに髙山辰雄という画家にある先入観を持った人は、何か裏読みをしたくなるような欲求を煽るのではないでしょうか。そういうこの作品、色彩でこのような効果を出すためには、同系統の色を目立たないように、しかし、違いがよく分かるようにというかなり繊細な配慮を求められるはずです。また、自然の草木の風景の中に花瓶に挿した紫陽花という人工的な形相を微妙な違和感を感じさせつつ、それが微妙に納まるように配置しなくてはなりません。また、普通なら紫陽花の花は5月から6月という暖かな時期に咲くものですから、画面全体にこのような寒い感じというのはちょっとおかしい。そこでの紫陽花の青を生かすという色遣いで、このような色調で、らしく作品をつくるのにも、かなりの配慮をしていると思います。そういう点で、この作品を見た時、何点もの画家の配慮(作為)を強く感じました。

Takaharu『春を聴く』という作品では、二羽の鳩が薄い灰緑色の草原にうずくまっています。遠景には木々がシルエットになって、わずかな光がみえる。その間をつなぐのが、漸くそれと分かるほどの細くくねった小道。それを点描で描いています。点描の効果もあって全体として輪郭の線が隠れ曖昧になった中で、白かクリーム系統のグラデーションが全体にもやっとした印象を与えます。うずくまる鳩の姿勢とあいまって、何かが湧いてくるような印象を観る者に与えると言えるのではないでしょうか。ここでも、点描という非常に手間のかかる手法や白系との微妙な色の使い分けが十分な配慮のもとに為されているということを強く感じました。

『中秋』という作品では、金を大胆に使いながらも、不思議と素朴な雰囲気をつくっています。画面中央にぽっかりと浮かぶ大きな満月。全体を覆う金色は、その月明かりを意味しているのでしょうか。小さな川に一本の高木、そして人気のない一軒家。それらが全て音を立てないで静かに佇んでいます。そしてタッチはまるで点描画のように精緻です。また、『春を聴く』にもありましたが、前景と遠景をつなぐ道が何か、髙山をあるイメージで見る人にとっては、どこかに向かって分け入っていくような印象を与えるかもしれません。

これらの作品から、共通して感じられるのは、色彩に対する微妙な効果を醸し出そうする、繊細でしかしかなり根気強い努力の後です。どれもが基調となる色をひとつに絞り、同系統の色を配し、あるいはグラデーションを効果的に用いている。安易に対立関係の色を使って対立関係を利用することはせずに、グラデーションの効果を積み重ねて、じわりじわりと盛り上がるような効果を狙って、しかも一定の成果を上げている。このような点に気づく人は気づくけれど、そうでない人には何となく、というのでしょうか。そこが何かあるのかもしれないという、言いたいことを全部言わないで、一部だけ仄めかすと、もっと聞きたくなるという感じというのでしょうか。一種の飢餓感を見る人に煽り、画面から読み取らせようという効果が周到に計算されている、というように見えました。

かなり突飛な比較ですが、ドイツロマン派の画家、CDフリードリッヒは風景に人間の内面を投影したような風景画を描いた人ですが、そのフリードリッヒの作品と比べて見ると、髙山の特徴が目立つと思います。出来上がった作品は全く違いますが、志向は相通じるところがあると思います。フリードリッヒの風景画は画家が選択する題材が、既に画家の意図を反映した特徴的なもので、廃墟だったり、峩〃とした山脈だったり、暗く深い森だったり、氷山の海だったりと、その題材が既にある何ものかを暗示しています。それに大胆な構図で強い印象を与えますが、手法とか技法の点では、特徴的なことは行っていません。それが、見る者にとって絵の間口を広げることになったのでしょう。これに対して、髙山の場合は、取り上げる題材は日本画という制約もあるのでしょうか一般的なものと言えます。しかし、フリードリッヒの場合とは逆に、手法とか色遣いとか描き方の点で特徴的といえます。それが、髙山を効果の画家と私が考えている所以です。

これ以外に、『聖家族』の連作が展示されていますが、これは別に綴りたいと思います。これで、展示されていた全部の作品を取り上げてしまうことになります。それだけ、私が髙山の作品を気に入っているということでしょう。

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