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2013年2月14日 (木)

ルートヴィヒ・クラーゲス「リズムの本質について」(7)

第7章 リズムの時空性

リズムはこれまで前提されて来たように現象の時間性だけを貫き支配しているのかあるいは空間性もまた貫き支配しているのかを決定して、この枠を考え方の上でも急いで一掃しようと思う。造形芸術家ならためらうことなくリズムが空間性をも支配していることに賛成するであろう。建築物のリズムや筆跡のリズムあるいは樹皮の模様のリズムや木の葉の葉脈の李図家について語れば、彼はそれを理解しそれがあまり気づかれていないと思うであろう。これは単なる比喩があるだけなのであろうかあるいはとりわけ時間的な韻文のリズムと同じような何か原初的なものがあるのであろうか。次の命題をもって答えよう。空間的現象でもないような時間的現象などありはしないし、時間的現象でないような空間的現象などありはしない、と。そして現象の時間性のリズム的分節化はしたがって常に現象の空間性のリズム的分節化であり、逆もまた同じである。

誰かがフルートの音を聞くとすると、その人はそれをどこかある場所から聞こえてくる音として聞く。しかし、その源をどこに置くにしても、フルートの音の発生個所が特定のどこかに位置していることに疑いを抱くことは決してない。ここで問題にしているのは、その音の物としての発生基盤ではなく現象自体である。そして音の現象に関して不可避的に確信されることは、音形象は空間内で起こっているものとして把握されるということである。音を聞く人にとって聞くことができるのは必然的に聴空間に属し、聴空間は再び視空間、嗅空間、味空間、触空間、寒暖空間等とともに同一の感知空間に属しているとするなら、そのことから、どんなに奇妙に思われるにせよ、我々は音を聞き取りながらとりわけ現象する空間そのものに気づいていると結論するよりない。事実さらにそれ以上のものを聞いているのである。

聞こえるものを空間内で起こっているもの生起するものと呼んだことには、意図がないわけではない。雑音であれ響きや楽音であれ聴覚に現象するもので、その瞬間に作用的威力の表現とならないものは一つもない。そしてその上このことは聞こえる音について例えば単なる色彩印象よりも本質的にずっと多く妥当する。音の世界は色や影や光の世界よりもはるかに高度に力動的な世界である。そしてこの点でこれに比肩し得るものは運動形象だけである。したがって音と運動のとの間にはいわば心情的な引力があって、その結果、音が奏でるリズムはどんなものでもリズム的な運動を生み出さずにはいられないし、リズム的な運動はリズム的な音を生み出さずにはいない。そもそも耳が聞こえなかったなら人類が踊りを思いつくことなど決してなかったことであろう。音はときに煩わしくときに魅惑するように我々に迫るが、常に多少に関わらずわれわれを揺さぶる。響きのリズムは時間現象を分節化するばかりでなく、それを越えてさらに空間現象をも分節化するのである。というのも、響きのリズムが空間現象を生命的威力の交代運動で満たすからである。

瞬間的なものの現象と持続するものの現象という二つのもので時間性の印象が作られている。空間の任意の二点は互いに別のものとして在り、しかし同様にまた時間の任意の二点も互いに別のものである。そして例えば遠と近との対立は、空間と時間という二種類の別異のうちの一方にだけ認められる対立であるとはっきり言えるようなものではない。むしろ直接体験された類似性に基づいて時間的な先後になる。ただし空間的前後に対してだけは、さらにそれをそれ以外に並立の観点から見ることも許されているという重要な点で区別されてはいる。

現象空間は時間の表現領域であるとまとめてもよい。二つを結ぶものは再び運動体験にある。この運動体験にために任意の線がそれを体験するものに対してある生起の現象となって現れるのである。まとめると、空間と時間とは現実の現象における分かち難く結ばれた二つの極である。そのようにして聴覚形象においては空間極が時間極に依存し、視覚形象においては逆に時間極が空間極に依存する。したがって現象面から見れば空間的分節化なしにはどんな時間的分節化も生じないし、しかし同様にまた時間的分節化なしにはどんな空間的分節化も生じない。そしてリズムの本質の指標は空間的形によっても時間的経過によっても同じように論じることができるのである。

さてリズムの空間的分節化が時間的分節化と並ぶくらい安定的に現われるときには、そこに絶え間ないリズム的交代が含まれている。ありとあらゆる自然の対称性のなかでそれが実現されているのがわかる。ある装飾の一部である分節がそれとしてはまだ対象的ではなくても、それが列をなすとリズムが生じる。それに対して対称的な形をした造形は、それだけですでにリズムを持っている。しかし対称的に分割できることに物理学のいわゆる「対称的対立」しか見ようとしないで満足するとしたなら、本当のリズム的空間現象をただの拍子の反復のような複製と取り違えてしまうことになるであろう。例えば、動物や人間の身体を前から見た像を垂直面で左右が同じになるように分けると、その鏡像的な半身像は互いに異常なほど似ているが、しかし決して交換可能なほどの同一性を持たない。機械の運動で運動のパターンが連続的に繰り返されているのとは反対に、自然の過程は常に類似のものが回帰するだけである。それと同じように個体生命の身体においても対立する半身の片方がもう片方の正確な写しであることは決してない。自然から取り出した我々の例は、拍子めいたものを全く示さず感受者の心情にリズム的な振動を引き起こす疑う余地のない能力をもつ現象的出来事を見せてくれる。人間の随意の拍子をつけられた作業が拍子とともに、われわれが拍子との対立からリズム値をもつと述べておいた二つの現象特徴を含んでいるまさにその限りでのことである。

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