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2013年2月17日 (日)

ルートヴィヒ・クラーゲス「リズムの本質について」(9)

第9章 拍子の生命的内実

いつの時代にも、人間はもっぱら生命だけの担い手であることは決してなく、その上にまた精神の担い手でもある。したがって先史民族や非歴史的民族の作業の結晶でさえ、自然に成ったことを示す特徴が優勢であるが、それと並んで人為の結果としての痕跡もまた認められる。今日ではもはや達成不可能なリズムの壮麗さと並んで規則と拍子が暗示的に認められるのである。しかし、未開人はいわば遊び半分に拍子を無秩序に投げ散らしていながらそのために拍子を失うことがない。このようなことを可能にしたものは彼らの内的なリズムの豊かさであること、他方反対にわれわれが内的にもつリズムははるかに衰弱したものであるために、拍子を保ちそれによってリズムを保つために出来るだけ秩序だった拍子を必要とするということである。従ってリズムは拍節が極度に強調されることによって間違いなく抑制されるが、そのことは別にしても、リズムは明らかにまた拍節が放棄されることによっても消えてなくなるのである。

実際無数の機会に拍子は心情と融合して造形作品をなし、その「リズム的韻律」あるいは「韻律的リズム」は徹底的に完全に一体化した全体をなすものとなって現れているためにあらゆる研究者がその内部における分裂を見逃してしまったほどである。拍子自体にすでに分裂があるのでなければこのことは確かに理解しがたいことであろう。疑いなく拍子を含んでいるはずの未開人のある種の歌謡からどんな拍子ももはや聞き取れないということは一体全体どういうことなのか。拍子配分の異常な不規則性、加えて拍子の長さやその多様性が大きいこと等がある。三つのすべての要因は規則を把握することを困難にするものであり、したがって本質的に反規則的なものであることを熟考すると、拍子における規則の現象とは系列の現象である、ということである。

繰り返しは系列でありそしてそれだけにあるものである。そして分節が単純なものとなり互いの間隔が正確に均一になればなるほど系列はそれだけ明瞭に繰り返しとなって現象してくる。規則正しい一音系列があり、それに続いて初めて拍子の手本となる二音系列が来る。こうして二拍子においては繰り返される間合いが同一であるところに精神が証明され、それに対して上昇と下降とが交代するところに生命が証明されるのである。規制する境界を設定することと、揚音と抑音の交代やアクセントの強弱の交代によって設定された境界に向かって駆り立てられるように感じることとはそれぞれ別のことである。単に精神だけでなくなおそのほかの何かが二拍子には関与していなければならないのであるが、いまやこれこそリズムであることが分かった。そのときには未解明のままにおかれた疑問、つまり受動的に聞き取る人は確かに系列は聞き取るが、なぜ一音系列を聞き取らないのかという疑問に対する回答はこうである。なぜならその人の中で行われる境界を区切る精神の行為は拍動の上昇と下降とによって同時に規定されているからである。もちろん本物の脈拍は韻律的にチックタックとは全く異なるものであり、むしろ急激に上昇し砕け散って下降する波に似ている。聞き手が機械が打つ拍子の規則的な継起を聞いてときおりそれを意識しないでイッチニ、イッチニと言うふうに数を数えるきっかけを与えるようなものではまったくない。このことからはっきり言えることは、分節化はたとえ生命的搖動を必要としてはいても精神的加工のために行われるのである。そのようにして発生した系列が拍子の系列になるためには、この生命的搖動が精神的加工に劣らず同じように意のままになり効力をもつものでなければならない。

もう一度まとめておこう。二拍子における精神について問題になるのは、方向の転換点を標識することとそれによって初めて数を数えることが可能になるということ、また二つの終端のあいだの運動が直線的ではないことに対して精神は盲目である古都、決定的には規則的な系列を作るために音群を利用することである。それに対して二拍子における生命について問題になるのは、その拍動する上昇と下降である。このような二重の性質のために、生命と精神とを幾何学的な場所として表現すれば、拍子はリズムと抗争しながらしかしなおリズムと結びつくことができるのである。

原始民族の音楽に固有な特徴に導かれて考察を進めてきた。そして原始民族の音楽においてもまたもちろん拍子が現存することは明らかになってきた。まず最初に指摘されたその固有の特徴を解明することが困難なのである。その特徴とは未開人の打拍が非常に正確さで打たれかつしばしば長時間同一形態のまま続けられること、それもとに未開人の舞踏に際してそうであることである。しかしここでは鉄道旅行の際に車輪の拍子に関して取り上げた疑問と同じ疑問が生じる。つまり疑いなく「音によって告げられている」拍子は、そう要請しなければならないと思うが、いまや同時にリズムを助けて確かに圧倒的な強さをもつ表現を与えているのではないかという疑問である。すなわち、ガラガラ、リンリン、ガチャガチャ鳴るこれらのあらゆる音の自然音のような音色の中に我々はあの様々な形態をした音がもつリズム値を見出していると信じているのである。変化に富んだ単調さがしかしとりわけ密かな振動が共通していることを見出すことであろう。この振動によって上に述べたもろもろの音は、たとえそれがもっと未開な民族のものであろうとどんなメロディの音とも区別されるのである。この舞踏に伴う音についてカタカタする、カチャカチャいう、ゴウゴウ鳴るなどの動詞で描写しているものは、途方もない速さの振動というその独特さのおかげで心情を振動させる音なのである。それはあまりに内的なものとしてとどまるために普通にはそれについて説明することができない。未開人の打拍はそれが厳しく節度をもってなされてもその音色の力で過程全体が大気的な振動で充満されてしまう。この振動は部分をなす印象を一つ残らずそり息吹で包み込んで、嵐のようなリズムの息遣いの波浪の中に飲みこんでしまうのである。

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