続々・山への思い出
だんだん、自分の中で加速度がついてきました。お調子者です。昔から、丁度良い頃合いというものを知らないので、よく失敗します。それさえなければ、もっと出世できたのに…などと恨めしいことを考えてしまいました。
私も、そういう傾向がないわけではありませんが、山にガンガン登っている人は、特に男性は、大変な困難を克服したとか、山は危険なところだとか、そういう話が好きです。遭難なんてことがありますからね。また、山の景色のことなんか、非常な困難を乗り越えて、普通ではいけないところへ行って見る景色は、そういう経験をした人しか味わえないとかいいます。中には、ケーブルカー等で行って見た来た人なんかに対して、楽して行っても本当の良さは分からないと言ったりします。しかし、楽して行っても、苦労して行っても、そこにある景色は同じですから。たまに、写真なんかを否定する人がいますが、こんなものに、あの風景は映っていないとかいいます。そういう人に、具体的に何が違うのですか、と聞くと答えられないのが普通です。ただし、私は実際の風景と写真に写った風景では、情報量が格段に違うので、そこに作為が生じてしまうことは否めないと思います。例えば、写真では焦点は1点にしか合わせられず、焦点以外では少しずつボケてきます。しかし、実際の風景を目で見ていれば、瞬間ごとに焦点を当てる対象を変えているので、全てに焦点が合っているように見ています。映画でいうパンフォーカスがこれに近いです。まあ、一般的に山での風景は特別と言う人は、そういうことを言っているわけではないので、苦労とか、困難を克服したという付加価値をつけて、風景の価値が高いと言っているわけです。よく新聞などで、日本企業の電機製品や自動車は中国製や韓国製に比べて値段が高いけれど、それは品質が高いとか、様々な付加価値をつけている等と書かれます。だけど、自動車は自動車です。移動の手段という本質は変わらないので。だから、その本質だけが求められるなら安い方がいいに決まっています。しかし、お金に余裕のある人は快適さとか、故障しないとかいろいろ便利さを求める、それが付加価値です。身も蓋もない言い方をすればオマケです。余談ですが、付加価値と言っている日本の有名なメーカーはオマケで勝負しているので、「グリコのオマケ」と同じなんです。脱線から戻りますが、ケーブルカーで行っても、苦労して登っても、本質は同じです。違うのはオマケの部分なのです。要は、そのオマケをオマケとして真剣に遊ぶという無意味さが分っているかどうかです。登山でオマケを突き詰めると、途中の難しい岩場を登ることだけに精魂を傾けるまで行きます。そういう場合は山頂に行くことは目的ではなくなります。そういう山登りをする人達も少なくありません。同じことはスキーやスノーボードを楽しむ人たちだったゲレンデに何度も通う人たち、ゲレンデとは練習場の意味です。では何ために練習するかというと、この場合の練習に対する本番というはツアースキーというのが本来です。ゲレンデに通うというのは本来の意味からすれば、本番へのプロセスに過ぎない筈です。しかし、ゲレンデに通う人の、果たしてどのくらいの人がツァーに行こうとしているのか。整備されてゲレンデから出なければ、スキーを履いているからこそ、足を踏み入れることができる、普段では見ることのできない冬の景色を見ることができません。これは手段が目的化したというのか、それ自体を楽しむということに変質したということです。
また、脱線しますが、ケインズという経済学者は、株式投資のことを美人コンテストと言いました。株式投資をする人は株価の値上がりで儲けようとして株を買います。その時、どのような会社の株を買うのかというと、実力があって業績が上がっていく優良企業でしょうか。違うんです。彼らは、人々が優良企業であると思って株をこぞって買うだろうと予想できる企業の株を買うのです。美人コンテストで優勝するのは、その人が美人であるということではなくて、みんなが美人だと思うだろうということだからです。株を買う人は、だから企業そのものの価値というよりも、その企業の株の値段にみんなが期待する価値を予測して、上がりそうだという株を買います。それをリターンと言います。この場合、他人の動向を推測するから外れる可能性も大きいわけです。そこで、今手許に100万円を持っていて、投資をしようと思うと銀行の定期預金に預ければ確実に利息が付いて損はしません。しかし、1年後の利息は微々たるもの。それに比べて株を買うと予測がはずれれば損をする可能性があります。だから、成功した時は、すくなくとも安全な定期預金より儲からなければ、定期預金ではなくて株を買った苦労が報われない。そこで、株を買う人は最低限のリターンを求めるのです。それがいつしか「大きなリターンを求めるには大きなリスクを覚悟する」という理解がうまれました。これは、他のことでも通用すると思います。「あんなに苦労したのだから…」という言い方はそうだろうと思います。
そこで、山に戻ります。苦労して登ったひとは、それに見合うリターンを当然求めるのです。ケーブルカーで楽に登った人と同じリターンでは納得できないのです。そこで、何らかの付加価値を加えて、あたかもこっちが偉いとでも言うようなことになるのです。
そこでまた脱線です。理論的にはそうなるかもしれません。しかし、現実はどうでしょうか。リスクをとってもリターンを得ることができるとは限らない。(だからこそリスクなのですが)苦労をして後輩を指導しても、期待したほど成長してくれるとは限らない。一生懸命受験勉強したからといって、第一志望に合格するとは限らない。現実とは、努力とか苦労をして期待しても、必ずしも、応えてくれるものとは限らないのです。少々、個人的事情もあり、入れ込み過ぎました。そうであるのを、分っているのです。心のどこかでは分っているのだけど、認めたくない。認めると、自分の苦労が否定されたように思えてしまう。そこで、幻想にすがってしまう。こういう言い方は身も蓋もないでしょうか。
話を山に戻すと、あんな苦労して登ったのだから、そこで得られたものは、ケーブルカーで楽して登ったような人と同じものであるはずがない、と思いたいのです。その願望の「思いたい」が確信に変質し、事実に置き換わってしまう。それを似たような人との中で確認し合う。昔の人の言葉で言えば「共同幻想」です。
かなり長い前置きになってしまいました。いただいたコメントとコラボしてくださったpoemさんの文章に刺戟されて、つい書き込みたくなってしまいました。そして、前回の続きです。大学2年になり、下級生という後輩ができた私は、個人的な山行に出掛け始めたのを周囲から誤解され、山好きと見られるようになってしまい、とくに、ある下級生の後輩から目をつけられたのでした。彼は、高校時代は山岳部で本格的に鍛えられたが、体育会の体質にどうしても馴染めず、大学では山岳部に敢えてはいらず、私のいたサークルに入ってきました。しかし、如何せん、彼にとっては、このサークルの活動は物足りなかったようです。そこで、私に目を付けたようでした。山が好きそうな先輩をけしかけて、個人的な山行に引き摺り込もうと。かくして、経験や力量が上回った後輩に、巧みにチヤホヤされて、私は山行に連れて行ってもらいました。形式的には、私が後輩を連れて行くという名目で。「センパイ、こうしましょう」「ハイ」というような乗りで、実のところ、私の関心の重点は相変わらずバテないことでした。そして、その何度目かの山行で、沢登りに行くことになりました。彼としては、私に沢登りの技術を教え込もうとしたのかもしれません。最初ですから、入門編として丹沢山塊の東側、水無川水系の沢に連れて行ってもらいました。この沢登りというのが、上で長々と書いたプロセス自体を目的とした楽しみ方の典型で、山頂に行くということを考えない山の楽しみ方でした。川の上流の源流に近いところというのは、山並みから落ち込んだ渓谷となっていて、その谷底を歩くということなので、景色とか展望も望めません。ハイキングとか山歩きの一般的な楽しみがほとんどない世界なのでした。
何度か渓谷の遊歩道を歩いた人は分かると思いますが、谷底は視界を遮られ、谷が深ければ日陰となって薄暗いほどです。しかも、沢登りの谷ともなれば当時はマイナーだった登山のそのまたマイナーの沢登りと、あとは渓流釣りの人が訪れるくらいなので道もないところ、河原を流れに沿って登っていくというものです。しかも、川の上流の屈曲を繰り返すので先が全く見通せないので、初めてのときは、まるで迷路を行くかのようでした。しかし、これが逆に先が分からず、屈曲地点に着くたびに先の世界が現れるという、まるで本のページをめくるごとに世界が広がっていくような体験でした。しかも、屈曲地点で現れる世界はそのたびに変化するのです。突然、滝が現れたとか、次は流れがよどんで池のようになっているところが次に現れたり。滝を登ったり、池のようなところを腰まで水に浸かって歩いたり、息つく暇もない、スリルと緊張の連続でした。それは、いままで「何でこんなこと、やってんのか」という問いに「何なんだ、これは!」という驚愕の問いが、加わった時でもありました。この時の極め付けが、秋の紅葉シーズンに行った奥秩父の甲武信岳を源流にする笛吹川東谷でした。とりわけ「千畳の滑」という一枚岩の上を数十メートルに亘って川が流れるところで、一枚岩の上を流れるのでほとんど波が立たず滑るように水が流れので瀬音も立たず、波の白い水泡も立たないため、川面が鏡のようになって、谷間に射し込む陽光を反射してキラキラ光るようでした。しかも、川が流れているのでその光のきらめきが絶えず変化していくのです。そしてさらに周囲の木々の紅葉が川面に映り、光と織りなすさま、そして、その川面の真ん中を歩いていくと、自分が歩くに従って光景が変化していくのです。その間数分間は、桃源郷にいる気分でした。
それは、山へ登るという目的のための手段である行為そのものの存在を認識した時でもありました。
だんだん、山へ行っている時の描写が相対的に減ってきているようです。最初のスポ根ストーリーから、本人的にはビルドゥンクス・ロマンの味わいを加えてきてしまっているようです。
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コメント
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CZTさんはおもしろい人ですね・・・私もまた明日お山つながりで何か書いてみます。CZTさんとのコラボブログ楽しい~!何かよくわからんが私が封印しているミョーなもの刺激される方だな・・・貴方は(笑)またまた勝手にリンク貼りますのでヨロシク、コラボブログですのでね。
投稿: poem | 2013年2月11日 (月) 19時26分