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2013年2月16日 (土)

ルートヴィヒ・クラーゲス「リズムの本質について」(8)

第8章 分極した連続性としてのリズム

極とはもともとは回転中心を意味する。球状描かれた宇宙の回転軸の両端に用いられ、主にただ一緒に出現する時に何らかの対立する作用として現われる「力」に転用された。したがって、特定の条件のもとでは二つの極の一方がもう一方なしに在ったり生じたりすることがありうるとしても、分極した事態とは常に双極的事態なのである。ここまでは生命学的な極概念と物理学の極概念とは合致している。しかしそこから道は分かれる。生命学においては双極的全体のどの極ももう一つの極と質的に対立している。それは現代人の耳にもわかりやすく言えば喜びと悲しみという対立的感情値を負わされた双極に比べられる。

ロマン主義の哲学は、的確にも三という数の古代的聖性にいたる基盤となる誘因を突き止めた。というのは、あらゆる生命体的生命の現象は双極性の観点からとらえなければならず、それゆえこの双極性に対すれば全体は第三のものであることを示したからである。したがって両極は、どちらもがそれが現にあるためにそれを補完するもう一方を必要とするが交換は不可能な相異なる二つの事態であることに自ずからなるであろう。さらに、両極の重さは決して平衡状態に達することはなく必然的に異なっており、そのために依存関係もまたその程度変化するのである。ロマン主義は、極性思想を宇宙の極性思想にまで拡大することに何のためらいも見せていない。リズム的交代の中に何よりも生滅に従って分極した宇宙的生起を見出すことに何の疑念ももたない。そのような現象のリズム性は大部分は推測されたリズムに過ぎない。しかしそれは現象界の領域にあり、我々に直接現象するリズムについてその本質的指標をいわば巨大なまでに拡大して見せてくれる。それに従えば、交代的生起をリズム的な交代的生起にするものは、原則的に測定可能なあいだではなく、上昇と下降の、そして下降と上昇の質的対立であることが反論の余地がないほど明らかになる。したがって類似の期間に類似の新しいものが生じるためには、更新されるべきものは滅びなければならない。それこそがまさに、拍子を伴うか否かに関わりなく、リズムの名を担うに値するすべての先後あるいは並存の意味である。

出会うことと別れることという人生の免れがたい交代につれてあらゆるリズム的な脈打ちを何よりも人間の生命を映し出す深い感動にかえるものは、ただそのような分割規則には含まれていないものだけなのである。我々はまた生命の悲哀に満ちた喜びとこの喜びとのあいだにある裂け目もまた知っている。

今や一つには分割不可能の動かされ方と、次いで常にただ類似したものが常にただ類似の回帰を示すこととがともに不可欠であることのより深い根拠が、どの程度明らかにされたか、あれこれと話を展開する必要はない。

もし拍子が規則の現象以外の何ものでもないとしたなら、この間に明らかにされたことのすべてに従って、リズムを破壊することなしには拍子はリズムとは結びつき得ないということになるであろう。なるほど不完全な特徴づけで一応満足することにしたということは繰り返し述べておいた。つまりもし表紙も韻律も繰り返されることがなかったなら、拍子は拍子でなく韻律も韻律ではないという事実である。さてしかし、拍子づけられたリズムがあるだけでなく、さらに拍子を導入することによってリズムが強められることさえ起こる。根本的な解答はただ次のように表わすことしかできない。拍子の名に負わされている規則現象は何らかの性格特徴によってリズムに関与していなければならないのであって、そうであれば確かにその特徴は精神の生命への侵入を物語るものであると同時に敵対する二つの威力の結合箇所を意味するであろう。

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