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2013年2月13日 (水)

しつこく 山への思い出

三木清の『人生論ノート』(私の若い頃は「新潮文庫の100冊」に入っていました。学校で夏休みの読書感想文の宿題になったりして、難しくて難渋した思い出があります)の中に「旅について」という掌編のエッセイがあります。教科書にも使われたりして、割合有名なエッセイで、名文ということになっていますが、名文というのは響きはいいのだけれど、大体において読みにくい。何を言いたいのか、かえって分かりにくいケースが多いです。この三木清の文章も、その典型のようなもので、いろんなところに話題が飛び、読む者は振り回されるのですが、私なりに要約すると、旅というのは、「ここ」から「あそこ」へという移動ではない、目的地があるのは旅とは言わず旅行というのであって、その移動するプロセスが旅なのだ、ということです。そこで、三木は有名なテーゼ「人生は旅と同じだ」を言います。それは、人生に目的があるように見えて、実際のところはあっちへ行ったり、こっちへ来たり、日々の目前のものにかまけて、あるいは振り回されている。それは旅の漂泊(行き当たりばったり)、観照(意外と見えてきちゃう)、感傷(悲しかったり、嬉しかったり)という要素に通じている。

これは、poemさんが取り上げたように芭蕉の句に、日本人が感じるものに通じているものではないかと思います。

「この道やゆく人なしに秋の暮れ」

だったと思いますが、一人旅で歩く道を詠んだのか、人生の道行きを指しているのか、どっちともとれる句ですよね。芭蕉ではないのですけれど牧水の

幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく

なんかもその部類ではないでしょうか。

いまでこそ、山ガールとかいってメジャーになりましたが、以前は山をやっているというと、マイナーとか、遭難しそうなとか、親不孝とか言われたり、私の数世代前では山岳遭難が多発した時などは反社会的とまで言われたこともあったそうですが、それなりの覚悟が必要で、それなりに理論武装をしていた時代もあったのでした。多分、自分はマイナーであると自覚したときに、その裏返しとして「自分は他の人とは違う」とでもいうような転倒したエリート意識のようなものがあって、そこに、冒頭で紹介した「旅」という概念が使われていた。今でも、登山のハウツー本には、多少でもそういう記述が含まれているようです。私が、この一連の書き込みのなかで「何で山に登るのか」的な問いかけを毎回、どこかに置いているのは、私もそういう考えから逃れられていないためでもあります。

さて、今回は格調高く始めてみました。かなり背伸びしてます。なので、通常にもどります。後輩に様々な山行に連れて行ってもらった1年が過ぎて、サークルの中ではアイツらは別格の山好きのような見られ方をするようになっていました。3年生になると、4年生は就職か進学で忙しくなるのでサークル内でのリーダーの役割を任されることになります。そうです。1年の時について行くのが、やっとだった私が、初心者の1年生を山へ連れて行かなければならない立場になったわけです。それだけはカンベンというのが、本音偽らざるところなのですが、だってリーダーがバテたらみっともないどころではなくて、パーティ瓦解ですから、別格の山好きと見られてしまっては逃げられません。そして、こともあろうに、珍しくも入部した女子部員を連れて行くことになってしまいました。今なら差別でしょうか、当時は女子部員はおミソが性別を見ないかどちらかで、あらたに入部した女子はおミソと(その女性は女の子していたから)見られていました。それで、とにかく、私はバテずにパーティのメンバーを無事に山行を経験させなくてはならなくなりました。そして、できればおミソの女子部員に辞めようとは思われないように山は楽しい、あるいは何かしら魅力があるということを感じ取ってもらうことも課せられることになりました。山行のあとに彼女が退会すれば、私が責任を追及される(笑)ことになるのは必定ですから。自分一人だけでも手に余るのに、複数の人間を山に連れて行って、無事に帰ってくる、しかも、その人たちに山を好きになってもらいたいという課題を課せられた形になってしまったわけです。といっても、あんまり深刻に考えるのは苦手なたちの私です。そうでなければ、お荷物になりながらも、こんなサークルに図々しく居続けることなどできはしません。余計なことは考えず、自分がバテないことと、安全に終わることだけを考えることにしました。ですから、自分が1年生の時に経験したことを反芻して、それを基本にしてどうするかを考えたわけです。

しかし、目論見通りに事態は進まず、本番の夏山への準備として行ったトレーニング山行で、リーダーでもあろう私が他のメンバーにおいて行かれてしまったのでした。バテました。その時は。パーティのメンバーに軽蔑されているように思えて、メンバーの顔をまともに見ることはできませんでした。週明けの授業で学校に行けば、パーティのメンバーに会うことになります。どのツラ下げて…というのが正直なところです。結局、時間は経ってキャンパスでメンバーに会いました。しかたなく、何事もなかったかのように接してそのまま通しました。メンバーたちがどう思ったか、分かりません。しかし、これに懲りて山で背伸びするのはやめて、このパーティはリーダーがバテるおそれがあるから、安全第一でキツいことはしない、という方針を打ち出して開き直りました。そのときの選択肢は、それ以外に考えつきませんでした。その時の1年生に、あとになって話を聞いたら、それが却ってよかったようでした。山をバリバリやる人のパーティになったのでコワそうだったのが、違う(?)ようだと思ったということでした。その時に、お恥ずかしい話ですが、下級生たちは私にとって他者であることに気付きました。当たり前のことですが、考えてみれば、それまでの私には上級生は山に連れて行ってくれるもので、遅れないようについて行かねばならないものでした。そして、下級生は連れて行かねばならないものだった。しかし、上級生とか下級生とかいっても、一人一人はそれぞれ違う登り方をするし、山に対して違った向き合い方をします。それを、私は自分が行動するためにこの人達を十把一絡げにして、抽象的な対象としてしか見ていなかったのでした。前に、想像としての山という考え、主観的な山への対し方を考えたことを書きましたが、それは私が主観的に対する姿勢であるので、当然、私以外の人間がいるわけで、その人たちはそれぞれに主観的に想像の山を持つことがありうるはずです。三木清は「旅は自由なものだ」と最初に紹介した「旅について」で書いていましたが、私が私の想像の山を通そうとすれば、同じようにAさんはAさんの想像の山を通そうとする。そうなった以上、私はAさんを尊重せざるを得ない。多分、三木はそれぞれが尊重するところに自由が生まれると言いたかったのかもしれません。このことは議論として展開させると、言葉が独り歩きしてしまいそうなので、ここでやめます。

そして、そのことに気付いたとき、初めて調和ということを考えました。違うものがあるから、その違うものが調和できるのです。例えば、音楽のハーモニーは違う音を合わせることで生まれるのです。同じを無限に重ねてもハーモニーは生まれません。それは、単に揃った音でしかありません。例えば、山で歩くペースは人によって違います。各人が自分のペースをもっていて、それを強引に特定のペースに合わせることを強要すると無理が生まれてくる。私が、上級生について行こうと無理をしたのも、そういうことがあるかもしれません。(しかし、自分とは異質のペースを体験することで、自分のペースの幅が広がる可能性もあるわけで、何よりも山では安全なところに出来るだけ早く着いた方が危険を免れる可能性が高くなるので、このことを一概に否定するつもりはありません。)音楽をプレイしていて、ピッタリ合った時と、とても気持ちがいいものです。同じように、パーティの人達のペースが調和した時は、気持ちがいいのかもしれない。その試みとして、パーティが一列に並んで歩く場合、リーダーかサブリーダーがトップに立って先導します。これは、道を探しながら、あるいは危険個所を最初に察知するということとパーティ全体のペースを作るという意味があります。それを1年生にもやってもらうことにしました。もちろん危険が少ないところでトップの後ろに熟達者がつくことはしましたが。それが上手く行ったかどうかは分かりませんでしたが、トップを経験した1年生たちには自分で考えながら行ったと好評だったように感じました。それが調和という結果を得られたかは分かりません。

そして、そこから、もうひとつひっくり返して、パーティの人々が調和するという、そのベクトルを別の方向に向けることも可能ではないか、ということに気付きました。

山のことを話しているのか、だんだん分らなくなってくるようです。ヘンな宗教っぽくもなってきているみたいです。修行の話のような。段々と屁理屈の部分が増えてきて、読みにくくなってきているかもしれません。

最初は、とにかくpoemさんの巧みな扇動の乗せられて始めてしまって、行き当たりばったりだったのですが、あと一回でまとまりそうです。

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また書いてるウ・・・(笑)本来のCZTさんの好きなテーマとは違うものに脱線させてしまって・・・でも読んでて楽しいよ~。私もまたちょっと書いてみたよ~。

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