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2013年2月 7日 (木)

ルートヴィヒ・クラーゲス「リズムの本質について」(2)

第2章 拍子についての暫定的所見

時間的現象要素の規則的な反復という命題によって定義されているものはもちろん現実に経験可能な何かである。たたしかしそれはリズムではなく、単なる系列あるいは拍子である。もしあらかじめ拍子の最重要な属性について簡単な予備考察を行わなかったなら、始めから方向を間違える危険があるであろう。拍子は、音響芸術においてはもともと弦を規則正しく打つことあるいは爪弾くことあるいはまた時間の歩みを打楽器によって強調することに用いられるものであった。

機械仕掛けで動くハンマーで三分の一秒おきに金属製の台を同じ強さで打つようにする。聞き手が音の大きさや間隔を見積もろうとしないで素直に印象に身を委ねるときには、バラバラの音の系列ではなく二音ずつに分節したとりわけふつうには長短格の音群が聞こえる。それゆえその聞き手は隣り合った音が二つずつの音群であるように聞こえるのである。

振り子時計の音に耳を澄ませていると「タックタックタック」と言い表されているような音が聞こえるのではなく、間違いなく「チックタック」という語で表わされるような音の交代を聞く。つまりわれわれがいまチックタックとタックチックタックとが規則正しく交代しているのが聞こえると思い込むことを妨げるものは何一つないはずなのである。しかしそうはならずにチックタックを聞くので、そのことからすぐに次のことがわかる。つまり、聞こえるものを拍子で区切ったり拍子に合わせて「朗誦したり」するように促す力や威力がわれわれ自身の内部にあって、それが可能な限り単純な音群形成を志向しているということである。このことと一致してほとんどのすべての研究者たちが、拍子づけの中に何よりも意図的であったりまったく無意識であったりする作業を見てきた。この作業は印象を分節化することで把握能力を助け、そのことによってこういってよければ感知界を精神に同化する。しかし精神に同化する。しかし精神への同化の研究は根本的に誤った道に踏み込んでいた。というのもそれは、感知形象を加工することとそれを生み出すこととを混同する傾向にあったからである。精神への同化はその本質つまりそれが区分する作業であるという本質が認識されないまま、形を与える作業であるとこれまでも受け取られている。この作業によって、それなしにはいわば現象界のカオス的曖昧さであったものに初めて形(エイドス)が与えられるというのである。

さてわれわれが四つの規則的に繰り返される音の代わりに二つの音群を聞き取り、そのどれもが時計のチックタックに似ているとすると、その場合われわれはいったいどんなことを行っているのであろうか。二つの音をそれらの間にある時間の推移の境界にしたのである。いまやどの音群も一番目の音で始まり二番目の音で終わる時間的区間をつくり出している。そしてまさにそのことによってもう一つの序列の時間的区間つまり一定の長さをもった休止期間が作り出される。それは終わりつつある音群の音で始まりつつある音群の音で終わるあいだの時間である。区分する作業は分割する作業である。そして分割はすべて境界設定によって生じる。「現象における逃走」に境界線を引くこと、そこに精神の唯一の本源的な行為の本質がある。そして18世紀の後半三分の一以降有名になった「多様性の中の統一」とはそれゆえさしあたりただ概念と同じように精神の境界設定によって手に入れることのできる形象を要素とした統一を意味しているに過ぎない。しかしそれは少なくない例においてもっとそれ以上の何かを意味してもいる。拍子の場合がその例である。

聞き手が規則的な音の継起に単純に身を委ねることをしないで、音が等間隔で鳴っているのかを確かめようとすると、その人にとって拍子は消え失せてしまう。そして代わりに即物的基盤としての系列を知覚する。彼に二拍子を聞き取らせた精神の行為的活動は意識されることはない。しかし彼に一音系列が現象している知覚するようにさせた精神の行為的活動は少なくともこの場合意識的なものである。何と言っても彼はそれを把握するためには音群にまとめようとする傾向を排除しなければならないからである。それゆえにこの単純な系列とともに初めて概念と同じようにもっぱら精神の行為的活動のおかげで成立するあの「多様性における統一」が登場する。それに対して明らかに音群系列の成立にはそのほかになお別の何かが同時作用している。分割するそれゆえ規制する行為的活動はむしろ形成的活動であるとする精神の傲慢に由来する太古のナンセンスな思想のせいで、つぎのようなことになったのである。すなわちわれわれがさきに念頭に置いたあらゆる研究者たちリズムを研究していると信じていたが、実のところ拍子を研究していたのである。われわれの知る限り、彼らのうちリズムと拍子をはっきり区別していない人は一人もいない。しかしその区別とは二つの基本的種類あるいはまた段階の区別に過ぎず、それ以外の区別をした人は一人もいなかったし現在もいない。注意深い読者にとっては、いますでに我々の答えが本質的な点で疑いの余地のないものであるかもしれない。つまりリズムは生命現象に普遍的にあるものであり、自明のように、人間もまた生きている性情としてはリズムの一部である。それに対して拍子は人間の作業である。リズムは拍子がまったくなくてももっとも完全な形で現象しうるが、それに対して拍子はリズムが同時に働いていなければ現象できない。

もし拍子を規則の現象と考えるならば、拍子の完全性は一つには規則が単純になればなるほど、もう一つには現象の規則性が明瞭になればなるほど増すことであろう。もしリズムが拍子と同じものであったなら、リズムの完全性という点で、メトロノームに従ってまったく正確に演奏している初心者がメトロノームどおりに正確には決して演奏しない名手を凌駕し、詩を杓子定規に韻律に従って読む子供が決してそのようにはしない朗読家を凌駕することになってしまうであろう。そして結局はリズム的完全性に達すると人間のあらゆるリズム的作業は何であれ作動中の機会と同じものになってしまう。振り子時計のチックタックという音の交代と比較すれば、舞踏や歌は下位段階のリズム的現象であると解されることになってしまう。こんなことを認める人は一人もいないであろう。すぐさま、楽曲のメトロノームに正確に従う演奏のようなものを敢えて言えば心情を持たない死んだ物として体験し、そのような作業を「機械的」と呼ぶのが普通であることに注目しよう。そうすると次のように表現できるであろう。もっとも完全な規則現象は機械であり、機械的運動はリズムを抹殺する、と。

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