無料ブログはココログ

« ルートヴィヒ・クラーゲス「リズムの本質について」(5) | トップページ | しつこく 山への思い出 »

2013年2月12日 (火)

ルートヴィヒ・クラーゲス「リズムの本質について」(6)

第6章 反復と更新

数学的正確さで動く振り子時計はない。しかしそれの誤差はふつうの人の気づくことのできる限界の彼方にあり、したがって現象の領域にはない。それに対して自然の水の波は、どれもその前のどの波とも目に見えて異なっている。拍子が同一のものを反復するとすれば、リズムについてはこう言わなければならない。リズムでは類似が回帰する、と。さてまた類似のものの回帰は流れ去るものとの関係ではそれの更新考えられるので、端的にこう言わなければならない。拍子は反復し、リズム更新する、と。拍子が精神に所属しリズムは生命に所属するという対立が、連続性という事態よりも更新という事態においてもっとくっきりと現われる。何かが反復されるとすれば、反復されるべきものはそれに続くもが右に倣えする手本を意味することであろう。右に倣えすることができるとしたら、模倣像を生み出すか手本と模倣像の両者を生み出すかする知性が働いている。精神をもつ性情だけが、拍子を前の模倣像にし、尺度を基本尺度の模倣像にすることを可能にする。それに対して精神を持たない自然には模倣像や反復といったものはない。どんな水の波も前の波を模倣しない。宇宙の運行は新たなものをそして繰り返し新しいものをもたらす。しかしその無量の系列の区別することのできる一つ一つの分節は互いに似ている。

我々はすでに類似体験の中に生起の感知性の基礎を認めた。そしていまや類似体験の可能根拠が次々と続く体験内容の現実的類似の中にあることを認めるのである。同一のものとは思考が産み出した思考物であるそれは人為によって、決して厳密に正確ではないがしかしほとんど正確に感知的物質の中で実現される。類似のものとは精神の行為的活動とは独立に生じる体験内容であり、我々の思考はそれをただ指示するだけで、把握や測定によってそれをわがものとすることはまったくできない。しかしどんな任意の感知形象においてもその区別可能な部分あるいは側面が互いに似るということは、おそらくそもそも区分可能な感知形象同士もまた互いに似ているということであろう。そして、一つの宇宙的リズムを推測させるものであろう。

現象学者は、まずは現象からそこに現象しているものへ、さらには直接感知される自然な推移を見出したが、躊躇することなく我々の感知的な記憶の助けを借りてリズムに関する我々の知識を拡大することにしよう。肉体のリズムに対しては近似値を見出すことを望むことはできる。しかし慣用的な言い方で機械的と呼ばれる抽象的な過程に対してするように、生命過程を計算しようとしてはならない。生命体生命においてはすべてが更新されるのであって、反復されるものは一つもない。反復は計算可能である。更新はただ見積もることができるだけである。したがって列をなす渡り鳥の羽ばたき等にリズム的な拍動を見ていると思うことは容易に理解できるのである。しかしまた、拍子に従って飛ぶことは動物には出来ないのは、我々がただの一時間でも拍子に従って呼吸することができなかいの同じである。

いまや、何によってことさらな慎重さで拍子をつける初心者の機械的演奏から完成された芸術家のリズム的な演奏が区別されるのかがわかる。後者では一つにはメロディの運動があらゆる節目に橋を架け、休止さえ生き生きとした振動で満たすことである。次にまたリズムが妨害されるまでにはならないかすかに感じ取れる範囲内で、テンポが絶え間なく動揺することである。この動揺に対しては決して推移の法則を見出すことも、もちろんずれの大きさの法則を見出すことも出来ない。そして常に、連続的な移行の中で更新されるもろもろの要素同士の相違は気づくことはできるがつねにただ感じ取れるだけの動揺範囲の内部にあるのである。このことは生命的作業を機械的作業から際立たせているものであり、そしてそれがないために結果として機械的作業には、拍子づけられた歩みをリズム的な振動で満たすことができる唯一のもの、つまり拍動する波立ちが欠けるのである。

« ルートヴィヒ・クラーゲス「リズムの本質について」(5) | トップページ | しつこく 山への思い出 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ルートヴィヒ・クラーゲス「リズムの本質について」(6):

« ルートヴィヒ・クラーゲス「リズムの本質について」(5) | トップページ | しつこく 山への思い出 »