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2013年2月15日 (金)

最後の山への思い出

今回で、一応の区切りとしたいと思います。前置きは省略して本題に入り、今まで散々勿体ぶってきたので、最後は単刀直入に結論めいたことから始めます。

これまでの文章の中で、少しずつ形を変えて呟いてきた「なぜ山に登るのか」という問いかけです。この問いかけに対する明確な答えはありません。拍子抜けしたことと思いますが、この問いかけは答えを求めていないのです。多分、この説明では釈然としないことと思います。そこで、そもそもこんな問いかけが、なぜ発せられたか、ということを考えてみましょう。たいていの場合、このような問いかけをするのは、実際に山に行かない人です。会話の席等で、ある人が山登りが趣味と話しているのを聞いて、事情が分からないまま、「なぜ?」と訊いてしまう。いわば野次馬です。このように場合には、問う人は説明を求めているわけではないので、センスよく躱してあげるのがカッコいい処し方と言えるのではないでしょうか。マロリーというエベレストの頂上に向かったまま還らなかった登山家が残した「そこに山があるから」という回答が有名です。(ちなみに、マロリーがエベレストの頂上に立ったかというのは20世紀の登山の世界での最大のミステリーで、もし、彼が頂上に達していれば、ヒラリーとテムジンより数十年前にエベレストのみならず8000m峰の最初の征服者として、アムンゼン等と並び称せられると言われていました。)では、野次馬の他に、このような問いかけをする人がいるのか、というと当の山に登っている本人が問いかけることもあるでしょう。しかし、考えてみてください。例えば、好きな人ができて恋愛の真っ最中に、「何でこんなことしているのか?」などと思う人はいるでしょうか。だいたい、熱中しているとか、充実感を感じている時には、それ自体を問うことはない筈です。ではどのような時に問いが生まれるのか。一番分かりやすいのは恋愛が突然終わった時、つまり失恋したときです。多分に後悔を含んでいるでしょうが、「何で、こんなことをしたのだろうか?」と真摯に問われるわけです。ことは他のことに対しても通じると思います。そして、その答えを悶々と考えているうちに、新たな恋人ができて、そんな質問は、どこかへ吹き飛んでしまう。「なぜ山に登るのか」も同じに考えていいと思います。私が、初めて北アルプスに出掛けて、その登りのきつさに、「何でこんなことやっているのか?」と考えたのは、問いというよりは、辛いと感じたことから逃げ出したいと思ったことからでてきたものに他なりません。そこで、無理やり言葉を取り繕って答えを提示しても、辛さが消えるわけではないので、当時の私なら、どんな答えを聞いても納得することはできなかったでしょう。

そして、ごくまれに、こういう場合があります。それは感動した場合です。感動などと一口に言いますが、そう簡単なものではなく、それこそ天地がひっくり返るような場合、極端なことを言えば、それまでの人生はなんだったのかと否定されるほどの衝撃を受けたような場合です。そうでなければ「何なのだ?」という根本的な問が発せられることはないでしょうから。20世紀を代表する哲学者と言われている、ヴィトゲンシュタインとハイデガーの2人のやっている哲学は全く違うのですが、彼ら二人に共通していることがあって、普段の日常生活では触れることが無いのだけれど、そして、一生遭遇することが無い人もいるかもしれないが、極限的な状況に出会った時、人は自分が「いま」「ここに」いるという事実の不思議さ、奇跡的なことに直面することになり、その時人は驚く以外にない。哲学とは、そもそも、その驚きであるという認識が出発点であるということです。この驚きとは、絵や音楽に出会った時の感動とも言えるでしょうか。哲学者は哲学をはじめるのなら、音楽家は音楽をつくり、画家は絵を描き、詩人は言葉を紡ぐ、そういうではないかと思います。私も、長くはないこれまでの生の中で、一度だけ、そうではないかという時がありました。ポゴレリッチというクラシックのピアニストのリサイタルの後半だけでしたが、時間を忘れ、緊張で身体全体が金縛りにあったような30数分間でした。会場全体曲が終わった後でもしばらく緊張が解けず、誰も身動きが取れないような張りつめた数分が続き、誰かがプログラムを床に落としたバサッという音で皆が我に返り、ようやく拍手が起こったという体験でした。それまで聴いてきた音楽がその場では、全て糞に思われたような体験でした。それこそ、「そんな音楽しか聴いていなかった自分は何なのだろうか」とか「今まで、何をやってきたのか?」と問わざるを得ない感じでした。その後、数日間は音楽を聴く気が起こりませんでした。このピアニストのリサイタルには、その後、何度か聴きに行きましたが、音の立ち上がりの見事さ、とくにピアニッシモの危険なほどの美しさに魅入られることはあっても、二度と、その強烈な体験はありませんでした。山で、そういう経験をする可能性はあり得ると思います。私の場合は、ありませんでしたが。それが良かったのか、悪かったのか。

そして、今、私が、ここでこんなことを書いているのは、それら以外のところで、私自身が、もう山へ行くことは無くなり、当事者ではなく、野次馬のような立場になった時です。老い先短い老人が、自らの半生を振り返って回顧録とか半生記などというものを書いて見たくなったようなとき、「これまでの人生は何だったか」という問いをあらためて発するのと同じような場合です。そこには、諦めと、一抹の後悔、そして、ちょっとしたスパイスとして人生への満足感のようなものが起因していると思います。そのように振り返ってみたとき、「山へ行く」とは、どのような体験だったか。それをこの一連の投稿の結論として書いて区切りとしたいと思います。これまでの投稿の中に小出しにしながらストーリーを作ってきたつもりですが、後で、そうだったのかと思っていただけると嬉しいのですが、それだけニュアンスというのか、明確に言葉で語っても伝わりにくいことと思いますので。

山に登るというのは、決して頂上に達するというものでもなく、景色とか、高山植物とか、山での出会いとか、おいしい空気とか、森林浴とか、様々な魅力的なところがありますが、それらは私にとっては本質的なものではなくて、身も蓋もなく言えば、付加価値、つまりオマケです。それでは、つまらないではないか、山で苦行するとか、困難を克服するのがいいのか、といわれても、それも違います。何も残っていなさそうです。では何かというと、山に登るということ、そのこと自体、プロセスです。これは、山歩きでも、稜線散歩でも、沢登りでも、ロッククライミングでも、それをやっていること自体です。そこで感じることのできる全身的な感覚です。伝わりにくいかもしれません。山ではありませんが、ダンスをすることの楽しさは踊っていること、リズムに乗って身体が自然に動いているというそのことではないかと思うのです。他に様々な要素はあると思いますが。で、ひとつの例として、こういうのを考えてみましょう。私は、今、旧い峠道を歩いています。かつては人々が往還し人通りが多かった時もありましたが、今では麓に便利なトンネルが開通し、通る人は稀になり、道は寂れてか細い踏み跡になってしまいました。そこを、今、私は歩いています。この、今私が歩いているのは、峠に至る沢とか尾根といった地形に沿って、人が歩き易いところを先人が踏みしめて行き来をするうちに踏み固められて径をかたちづくってきたものです。この一連の投稿でしつこいほど書き込みましたが、私は山でバテないためにペース配分とか、歩くリズムとか歩き方をテクニックとして意識して練磨しました。かつて、この峠道を歩いた人も意識してか無意識にか、険しい登りを自分のペースで歩いて、峠を越えて行ったはずです。その軌跡が踏み跡として残され、の踏み跡の蓄積が径となったものです。だから、このような径はかつてそこを歩いた人の記憶の集積なのです。そこでは屈強の強力もいれば体力のない人が苦しみながら峠越えをしたかもしれません。それぞれの人が径を踏んできました。だから舗装道路のように真っ平ではないのです。だから、そういう凸凹を踏んでいくということは、かつてそこを踏んだであろう先人たちと同じところを踏んでいくことになるわけです。全く同じ踏み跡をなぞっていくことができれば、同じ歩幅で同じ歩数で歩くことになりますから。ペースもリズムも同じようなものなる、つまりは同じような息遣いでそこを歩くことになる。というと想像が飛躍しすぎかもしれません。現実には、他人とおなじ息遣いで歩くことなどできないし、個人の痕跡がそこまで明確に残っているわけではありません。しかし、どういうわけか、そういう道では歩く人の傾向がでてきて、踏み跡の個性が出てくるのです。これは実感としてあります。それは、そこを通る人たちの個性であったり、その地形や土の柔らかさ、植生、様々な要素で違いが出てくるのです。そこを実際に歩いて、踏み跡を追体験する。その踏み跡のリズムやペース配分の痕跡を実感しながら、そして、今、ここを歩いている私の痕跡が、これに加わっていくということ。この場合、面白いもので、私のリズムなりペース配分と、ここの踏み跡に残されているものとの相性がでてきます。感覚的なことですが、歩き易い道とどういうわけかバテてしまう道があるんです。かりに、歩き易い道に遭遇したときの調和した感覚、ホントにハマるという実感があります。そういう感覚は離したくない、ずっとこのまま歩いていたいと思わせるものなのです。小説なんかを読んでいて熱中してはまりこんでいると、クライマックスがあって、そろそろ終わるのが分ってくると結末に行きたいけれど、もうちょっと読んでいたい、というアンビバレンツな願望に捉われることがあると思います。この瞬間がずっと続いてほしい「時よ止まれ、君は美しい」とファウストが最後に叫んだアレですね。それを瞬間ではなくて、持続した時間のなかでずっと続けていられる。(それが山に登るということです。これは、峠道に限らず、ロッククライミングでも沢登りでも、冬山でも全部に通じます。ロッククライミングならば人跡はないですが、自然の刻まれたリズムとの対話や調和を身体で感じることができます。岩登りの基本の一つはリズムとタイミングです。また、これは私自身のコンディションによって歩くリズムが変わったり、峠道も天気や季節によって様相が変わりますから、仮に一度は調和できなくても、違ったコンディションでは調和できるかもしれません。だから一期一会と言えるかもしれません。)カッコいい言葉でいうと、ハレの瞬間というような非日常ということではなくて、日常の延長の中で、というよりは実は日常の中にあって日頃は気づかないで過ごしている至高さをつぶさに経験している時間とでもいうのか、持ち上げすぎかもしれませんが。かなり宗教っぽくなって、教祖さんが騙っているようになってしまいましたが、今は山に行っていないので、理想化しすぎたかもしれません。

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