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2013年2月 8日 (金)

続・山への思い出

前回は、めったにいただかないコメントをいただいて、私は勝手に好評だったと解釈をしました。好評ならば、これに応えねば…と、分かり易い性格と職場では言われています。

前回の話を読んだ方は、辛くて苦しいばかりだったように思われたかもしれません。あと、コメントいただきましたが、夏山に一週間いって一度もトイレに行かなかったことがありました。ウンコもオシッコも出なかった。飲んで食べたものを全部汗とかエネルギーで使い切ったか、それで1回の山行でだいたい4~5㎏は体重が減りました。山中では、俗に食いシゴきというのがあって、無理して食べさせられたのですが、それでもです。山行ではみんなで食料を分担して背負います。食料は重い荷物です。だから食事のときには少しでも余計に供出して荷物を軽くしたいのは人情です。それでいつも食事は多めになってしまう。かといって、食事を残してしまうと残飯はゴミとして別の荷物になる。それで無理して食べるわけです。大学1年生のとき、これだけが理由ではありませんが、私は浪人生活で弛み切った体重を1年間で30㎏減らしてしまいました。その太った時に買ったジーンズを、翌年からダブダフではけなくなり、中年太りで下腹が出てきた今、ちょうど穿けるようになりました。

シモネタついでに山の隠語でトイレに行くことを「雉撃ち」といいます。昔の北アルプスの山小屋はトイレのないところもあり、屋外で用を足すことが少なくありませんでした。北アルプスの稜線は森林限界を越えて這松のような灌木しか生えていない見渡す限り遮るもののない世界で、そこで用を足すには茂みにしゃがんで隠れるしかないのです。その恰好が藪にかくれてそっと雉を狙撃するのに似ているため、そういうのです。バリエーションとして用を足す内容によって、大キジ、小キジ、空キジと言い分けることもあります。また、女性の場合は「花摘み」ということもあります。

さて、脱線が長くなりました。2年生に進級した私は、1年生が新たにサークルに入ってきて、彼ら(今の、このサークルは女性の方が多いそうですが、当時は男しかいませんでした。例外的に女性もいましたが、男として扱われて、彼女ら本人もそのように振る舞っていました)から「センパイ」などと呼ばれて、あることに気づき愕然としました。それは、2年生となり、後輩を指導したり、フォローする立場になったからには、合宿でヘバることはできない、ということでした。しかし、もともと、ヒヨワだった私がたかだか1年のサークル程度のトレーニングで屈強になれるはずもありません。多少は引き締まりましたが、筋肉が付いたというのとは程遠い身体でした。では、ヘバらないためには、下級生の前で恥をかかないためには、どうしたらいいか。ここまで読んで下さった方は、「山はすばらしい」とか「山は楽しい」とかいうことが全く書かれていないので、「この人何で、こんなことやっているか」不思議に思われると思います。ホント、今思うと、馬鹿ですね。他に楽しいことがいっぱいあったのに、特に私のいた学校はテニスサークルが多かったり、合コン天国のような学校で、そういう楽しみの誘惑は沢山あったのでした。東京の「浜トラ」のメッカのようなところで、それなりにJJに載ってもおかしくないような女子学生が多かった学校でしたが、何とつまらない、暗い生活だったのでしょう。

で、当時の私が必死になったのはイメージトレーニングでした。山へ行くのにイメージトレーニングというのも変ですが、1年間の経験で、山中でバテないためには、限られた体力をいかに効率的に使うかが鍵だということを、何となく理解していました。つまり、登山コースというのは一様ではなくて、キツい登りもあれば、自然と足が前に出るような下りもある、同じ登りでも日陰か日なたかで疲れ方が違います。そこで猪突猛進で全力疾走で体力を使えば、途中で使い切ってしまいます。そこで、体力を使わざるを得ないところは仕方がないとして、それ以外のところではできるだけ消耗しないように、歩いていて先の予定がたてば、それなりに使い方を配分できるし、キツい登りでも、どの程度続くかが分かれば、気分的にメゲることはなくなります。そのためには事前、地図を出来るだけ読み込むようにしたのでした。等高線の詰まり具合から登りの傾斜や高低差は分かります。植生記号をみて日の当たり具合を見る。また方向をみて歩く時間から陽光がどこから差すか想像できる。となりの山並みとの距離や高度差も考慮して日陰か日なたか判別できる。ケムシ記号、岩場のことです、があるかないか。点線で表わされる道の屈曲度合いで、登山路の形態、例えば階段状か行ったり来たりの電光のぼりかがわかります。まだまだ他にもありますが、そういう要素を考慮して地図をみながら、体力の使い方をシミュレートしてみるのです。

そしてまた、パーティの先頭を歩く人によって、歩くペースが決められてくるのと、休憩は一定時間歩くと取るようになっていますが、人によって休みやすいところの基準が違うので、微妙に休むペースが変わってきます。例えば、あと5分あるくと良い休憩場所があるからそこまで無理しようという人もいれば、その5分が嫌でとにかく時間で休むという人もいます。そのように人によってペース配分が変わって来るので、サークル内の人物観察も、結構シビアにやるようになりました。何せ私のメンツがかかっていましたから。このように地図での登る登山道の状況とそこを登って行く登り方の状況をシミュレートして、そこで一番効率的に体力を使うことができるためにイメージトレーニングを繰り返しました。

それを合宿でぶっつけ本番で試すのは心許ないので、個人的な山行をして、実践の場で練習もしました。そんな山行でよく行ったのが八ヶ岳という山域です。北アルプス等に比べるとスケールは小さいのですが、こじんまりとまとまった中に、数多くの要素が詰まっている山です。だから、地図でよみとったことを容易に実地で確認できたのです。行程も1泊2日であらかたは見ることができるという手軽さも魅力でした。それは、外からみれば、ほかのメンバーよりも山行に熱心のように見えてしまうわけです。その結果、サークル内で、いつしか私は山好きと見なされるようになってしまったのでした。「何で、こんなことしてまで、山に行くのでしょうね」と思うでしょう。今、こうして思い出しても、馬鹿だとしか思えません。書いていて恥ずかしくなってくるほどです。

これは、今だから言える後知恵のようなことです。このように山に行く前に、出来る限りのイメージトレーニングをすることで、現実の山の前に、想像の山が聳えていたわけです。現実の山は、私がどうであろうと、私とは別に客観的にそこにあるわけです。しかし、想像の山は地図やその他の情報を頼りに私が作り出した、私の主観による山です。客観的に私とは関係なく存在する山にたいしては向かっていくとか、とにかく山に対してこちらから積極的にアプローチしていく姿勢をとることになります。ところが、現実の山の前に想像の山があると、その想像の山は私の主観であるので、私の思い通りに想い描くことができるのです。強い言葉でいえば、そこで私が支配しているということになります。想像の山と言っても地図をべースにしていたりするので現実とかけ離れたものではないわけです。実際に山に行けば、現実と想像が重なるところになっているということです。その場合は、山は、私と無関係というのではなくて、ある程度私が山を支配しているというように姿勢になってきます。

もっと、こじつけを極めさせてもらうと、山という客観的な存在というのは、私がそこに登ろうが登るまいが、そこに存在しているわけで、私がどうであろうと関係ありません。そういう客観的な存在に対して、あまりのスケールの大きさに私は、せいぜいその一部を切り取って見るとか体験するとか全部というのは不可能な話です。これに対して、想像の山というのは、私が想像することによって初めて成立するものです。私という視点が存在の根拠になります。だから、その存在の全部とか一部というのではなくて、私に属するということになります。端的に言えば客観に対して主観です。もし、私ではなくてAさんというひとが想像すれば、それはAさんの山で、私が想像した山とは別の山ということになります。そうなった場合、山のある要素、つまり一部を切り取って、良いとか辛いというのは前者の場合ですが、後者の場合では私はその想像した渦中にいるわけで、良いものとか悪いものとか切り取るというよりもそこに浸っているということに近いと言えます。

別の点でいうと、山でヘバらないために、当時の私がやったことはテクニックを磨くということでした。その際に、意識はしていなかったでしょうが、テクニックで対処できるものという認識が底流にあったのだと思います。テクニックというのは徹底的に人工的なもの、技術です。そして、地図というテクストを介して想像の山という解釈をつくり出していく、こじつけですが、美学理論でいう創造的な鑑賞者というものに近いではないかと思います。例えば、音楽の演奏を例に取ると、ステージでミュージシャンがやっていることは現象として見れば単に空気の振動を起こしているだけです。その振動を音として聞き取るのは聞いている人です。もしそこに一匹のハエか飛んでいれば、ハエは空気の振動は感知するでしょうが、音を聞くということはできないでしょう。つまり、音は存在しないのです。音が在るようなのはそこにいる人が音を聞くから、そう言うことになっているだけです。さらに、聴く人は、その音の連続に何らかの意味づけをします。それが音楽です。つまり、音楽というのは、聴く人がそこに起こった空気の振動から創造しているというわけです。山がもともと存在しない、ということはないので、あてはまるかどうかは議論が分かれます。しかし、山というのが、山登りをする人にとっては、人工的で主観的だ、というのは、今の私が、このブログで美術展の感想などで、主観的にこう見えたということの記述に努めていることにも通じているのではないか、と物語を作っています。

「何で、山なんかに行くのだろう?」というのは、この前者の立場に立った時に、出てきやすい問いといえます。まず、こういうことを真っ先に、質問するのは、野次馬というのか、当事者よりもそれを周りで見ている人達です。実際のところ、それに熱中している時などは、そういう疑問を持つことはなくて、むしろこういうことを本人が疑問に持つのは、何か山に行くことに熱中できず距離を持った時とか、全てを成し遂げて引退などして来し方を振り返ったとき、といったいずれの場合でも、山に行くということに対して当人が距離を持った時、つまりは傍観者に近づいたときです。多分、山登りにそういう問いがよく為されるのは、いくら頻繁に山に行く人でも、山に行っている時と山と離れていくときを比べると圧倒的に山から離れている時間が多いことからではないかと思います。現在の私は、完全に山から離れてしまっています。しかし、当時の私の意識の中では、四六時中、山の中にいるようだったと思います。

そして、このように私の想像する山ということを追求していくうちに、個人的な山行を独りで行くことが、だんだん増えて行きました。

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コメント

CZTさんとっても今回もおもしろいよっ~私もマネしてお山ネタでブログ書いてみました。山ハマリレベルが違いますからね・・・大した事は書けないケド(笑)。「雉撃ち」なんて言うのですね・・・ほー!山では超人的なパワーがでるのですね、一週間もトイレに行かないと死んでしまうのではないかと思っていたけど、そうではないのですね~驚きです。トイレに近いのは身体がなまけて弛緩しきっている証拠なんでしょうか?

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