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2013年2月24日 (日)

熊代亨「ロスジェネ心理学~生きづらいこの時代をひも解く」(5)

さらに団塊ジュニア世代以降では両親のウェイトが高くなりますが、これは父親と母親の双方が子育てに平等に参与していればの話しで、母子家庭や父子家庭の場合など、片親からのウェイトが圧倒的に多くなります。このことを踏まえながら団塊ジュニア世代以降が育った昭和後期~平成前期を思い出してみると、子育てに父親が参加する割合が非常に低い時代だった、ということが思い出されます。モーレツ社員や5時から男といったキャッチフレーズに見られるように、父親が家庭を顧みないようなワークスタイルは、それなりに社会的なコンセンサスを得ていたと考えられます。当時は「子育ては母親の責任」という意識の強かった時代でした。そのなかで一人で気負って行わなければならない子育ては、かなりの負担とストレスを母親に与えていたのだろうと思います。また、母親の気負いや使命感が強くなれば、いきおい、子供に対する「こうしなきゃダメよ」という規範意識の提示も、そして拘束力の強いものになりやすかったと思います。このような負担やストレスを解決しつつ、一人で子育てを一生懸命行うための方便として有効だったのが、教育ママ的処世術でした。これは、子どもの巣○アップや学力向上に熱心に取り組むというものですが、子育ての責任をきっちり果たすだけでなく、少なくとも以下のようなメリットがあった点も見逃せません。

①教育熱心な母親という世間体が得られる

②教育熱心な母親という自意識が得られる

「こんなに子育てに頑張っている私」という自惚れに似た心理的メリットがあるということです。

③子どもとの一体感をいつまでも手放さずにいられる

教育という名のもと、子どもが大きくなってからも生活や教育に介入し、まめまめしく世話を焼けば、このようなメリットもあります。実よりもいなければ、夫の帰りも遅いニュータウンに暮らす母親にとって、寂しさを解消し、一体感を得られる第一の相手は子どもです。人は、自分に自惚れたり誰かにほめられたりしなくても、誰かと一体感を感じてさえいられれば、自己愛を充たすことができます。ほとんどの人間は、自己愛を全く充たせなくなると精神的にしんどくなってしまいますから、孤独な母親ほど、子どもとの一体感を手放さないよう密接に関わり続け、自己愛を充たそうと躍起になります。

このような教育ママ的な処世術は、子育てを立派に果たそうという責任感を充たすと同時に、孤独な子育てのストレスに曝されがちな母親の心理的ニーズをも同時に充たす、一挙両得なものだった言えます。

 

こうした母親側のニーズに上手く対応してビジネスとして成功したのが、学習塾や稽古事といった教育産業だと思います。ただし、母親の教育ママ化に加えて、こうした学習塾や稽古事の利用が増えたことによって、ニュータウン育ちの子どもは大きな問題に直面することになりました。ニュータウンにおける子育ては、個々の核家族の自由裁量が尊重されます。そのため親の裁量次第で子ども時代の生活や体験が大きく偏ってしまう、という事が起こりえます。例えば放課後の過ごし方も、その気になれば毎日塾や稽古事に行かせることも可能です。問題は、そうやって塾や稽古事に時間を費やす子どもでも、自主性や自発性が従来までと変わらず育てられるか、ということです。塾や稽古事に行けば、子どもが自主的に遊ぶ時間はそれだけ少なくなってしまいます。大人のインストラクターの指示通りに教わる体験をしている時間は、自分の判断や欲求のままに過ごす時間ではありません。もちろんニュータウンの子どもとて、子ども同士で自主的に遊ぶ機会はあるでしょう。しかし、子ども同士で一緒に遊ぶといっても、遊びの中身は旧来の地域社会の子ども達のそれとは少し異なります。昔の子ども達は、遊ぶ場所も、遊び道具も、遊びのルールも、概ね子ども達の自主性に委ねられていて、それらを大人が指定したり強制したりする拘束力はあまり強くありませんでした。これに対し、ニュータウンでの子ども遊びは、大人が決めた場所・大人が決めたルール・大人が用意した遊具で専ら遊ぶことになります。自分たちでクリエイトする自主性・自由度は相対的に少なくなっていました。結果として、ニュータウンで育った子どもは、地域社会で育った子どもに比べると母親の意志や大人の承諾の内側で多くの時間を過ごしやすくなり、自分達の自主的な判断に基づいて過ごす時間が減少しがちになりました。おおまかな傾向として、子ども時代の体験が、自主的なものから受動的なものへと質的に変化した、とも言えます。このような、いうなれば透明の檻に閉じ込められた子ども時代を過ごした世代が、放課後散々自分達で遊びをクリエイトしていた世代と同じくらいの自主性や自発性を持てるでしょうか。こうした自主性よりも受動性の先行しやすい生育環境からの影響は、私達の世代の問題であると同時に、これからの世代の問題でもあります。

 

こうした自主性の問題に加えて、私達の世代はコミュニケーション能力の乏しさもよく指摘されます。こうした能力の原因については、テレビゲームやアニメといった子供向けメディアによる影響が盛んに語られてきました。そのシンボルがファミコンです。ファミコンが爆発的に売れた第一の理由はゲームが面白かったからでしょう。しかし、当時の子どもにとって、ファミコンは色々な遊びのうちのワンオブゼムでしかなかったのですが、ファミコンには他の遊びに無いメリットがありました。ファミコンなら一人でも十分に遊べるのです。皆が学習熟や稽古事に通い始め、友達と一緒に遊ぶためのスケジュール調整が難しくなったころから、「独りでも遊べる」というファミコンのメリットが効いてきました。従来型の遊びは友達が集まらなければ楽しくありませんが、ファミコンなら一人でも遊べるのです。地域社会からニュータウンへと街が移り変われば、小学生が集団で自由に遊べる場所が少なくなりますし、塾通いや稽古事が日常化していけば、集団で集まれる時間も少なくなります。そうなると子どもの手元に残るのは、「一人ぼっちの自由時間」ばかりですから、一人でゲームという遊び方が定番化するのも仕方ないでしょう。ですから、「ファミコンが流行ってコミュニケーションの技能を奪った」と考えるよりは、「ファミコンが流行るような一人遊びの時間がコミュニケーションの技能を奪った」と考えた方が、事実に即していると私は思います。

 

「地域のルールから親のルールへ」「集団の子どもの遊びから、一人の子ども遊びへ」「家族でテレビを見る時代から、一人でテレビを見る時代へ」子どもの生育環境の変化としてどれも無視できないものばかりですが、20世紀後半の日本では、これらが一気に進行したのです。このため私達の世代は、親世代に比べると主体性やコミュニケーションの体験蓄積が少なく、後発世代に比べると現代社会を前提にした割り切った価値観も処世術もインストールされていない、宙ぶらりんな境遇を生きることになりました。親の世代にあった能力を欠き、親の世代が働いたような社会状況を失っているにもかかわらず、いまだに心のどこかで親の世代のような暮らし・親の世代のような成功を夢見ているのが私たちの世代ではないでしょうか。

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