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2013年2月28日 (木)

熊代亨「ロスジェネ心理学~生きづらいこの時代をひも解く」(9)

21世紀になると、もっとゆるく、もっと気楽にモノを消費するだけで自己愛を充たせるようになっていきました。そうなった理由の第一は、キャラクターコンテンツが急速に発展したことによって、他人を介するまでもなく、コンテンツの中のキャラクター達が自己愛を充たしてくれるようになった、というものがあります。第二に、サブカルチャー領域にあまりにも多くの作品が蓄積し、沢山のサブジャンルに別れてしまったために、長短を誰も判断できなくなってしまった、というのがあります。この場合①の他人を映し鏡にするより、③の自分に似た対象を通して自己愛を充たす方がはるかに充たしやすくなります。そして、第三に、ここまでサブカルチャー領域が細分化して、誰にもヒエラルキーが分らなくなったことを逆手にとって、自分の好きな作品やジャンルこそが最高とめいめいが勝手に思い込んで、他のジャンルを見下すことが可能になった、というのもあります。そこで、自分のジャンルに引きこもりながら優越感を充たしても何の不都合も発生しないわけです。

 

こうして、共同体のなかで集団的に自己愛が充たされる時代は終わり、個人的な成功やコンテンツ消費を介して自己愛を充たす時代がやってきました。しかし、自己愛に飢え、自己愛に振り回されて社会適応の幅が狭くなったり歪になったりしている人は年々増大しているように見えます。景気の悪化もありますが、自己愛を充たす方法が変化しているだけでなく、世代を経るにつれて、私たち自身のメンタリティそのものが自己愛に飢えやすくなってきている。それを考える上で参考になるのは自己愛パーソナリティ障害です。自己愛パーソナリティ障害とは、自己愛を充たすために社会適応に極端な支障や歪みを来してしまうような性格傾向を指しています。自己愛に飢えやすいメンタリティが最も極端に現われている人達と考えて差し支えないでしょう。自己愛パーソナリティは、見かけ上、大きく分けて二つのタイプをとります。傲慢でプライドの高い態度ばかり見せる「顕示型」と、恥に敏感でプライドの傷つきを極度に避ける「過剰警戒型」です。「顕示型」は有名人などにもしばしばみられるタイプで栄華を保てるうちは社会適応もそれほど悪くはありません。しかし、傲慢でプライドの高い態度ゆえに敵を作り易く、他人のアドバイスに耳を傾けることが苦手です。ですから表面的なイエスマンに囲まれることは多いのですが、打ち解けた友人や家族に恵まれにくく、しばしば孤独です。対して「過剰警戒型」は、対人関係のなかで恥をかく可能性のある場所では自己主張を避け、ブライドが傷つけられないよう振る舞おうとします。そのせいで人間関係や興味の幅が狭くなりやすく、やはり孤独に陥りがちです。この二つのタイプは状況によって入れ替わることがあります。特に、状況に合わせて「顕示型」「過剰警戒型」をスイッチングできる人の場合、社会適応を比較的維持しやすく、自己愛パーソナリティ障害の障害という言葉があまり似合いません。「顕示型」「過剰警戒型」のどちらかに著しく傾いてしまっている人や、切り替えがへたくそな人でもない限り、自己愛パーソナリティ傾向が少々強いとしても、意外と社会適応もメンタルヘルスも保ててしまうものなのです。

 

自己愛パーソナリティ障害に代表されるような、自己愛を充たすことに汲々としやすい性格傾向は、どのように生まれてくるのでしょうか。多くの心理学者は「幼い頃に自己愛を充たす機会に恵まれない人は、自己愛パーソナリティ障害になりやすい」と指摘しています。コフートの学説を要約すると以下のようになります。

・幼児期~学童期の間に、極端に自己愛を充たせない時期があると、自己愛の要求レベルはその時期のものに止まってしまいやすい。そのまま歳を取ると、自己愛を幼児レベルに充たさないと充たした気持ちになれない大人になる。

・幼児期~学童期にかけて、まずまず年齢相応に自己愛が充たされていれば、自己愛の要求水準は下がっていく。

・自己愛を充たしてくれる相手との人間関係しだいでは、自己愛パーソナリティ傾向の強い人でも自己愛の再成長が進むことはあり得る。ただし年齢が上がるほど、再成長は難しくなる。

・自己愛の要求水準が年齢相応に下がっても、自己愛を全く充たさなくて済むには至らない。人間は、最低限の自己愛の供給源を生涯必要とする。

逆に言えば、自己愛の要求水準が年齢相応に軽くなり自己愛を求めすぎない人に育っていくためには、両親なり友達なりとの一体感を感じられるような体験が必要不可欠という事になります。

そして、重要なことですが、次のようにもコフトは付け加えています。

・単に自己愛が充たされるだけでなく、まずまず年齢相応な、失望しすぎない程度の齟齬や摩擦を含んだやり取りのなかで、自己愛の要求水準はちょっとずつ下がる。

・満足のいく水準で充たされていた自己愛が、あまりに急に充たせなくなると自己愛の要求水準はそこで止まってしまう。

まとめると、小さい頃から年齢相応にたくさん自己愛が充たせるほうが望ましく、なおかつ自己愛を充たしきれていないような齟齬や摩擦が、年齢に合わせて少しずつ体験されるぐらいが望ましい、ということになります。

 

以上を踏まえた上で、私達が育った生育環境を振り返ってみましょう。私たちの世代、特にニュータウンで育った世代は、母親一人に子育てが任されがちな環境で育てられました。ということは、子ども時代に自己愛を充たして貰えるか否かの大半が母親次第の環境で育てられた、ということです。もし、母親が疲れ果てていたり、母親自身が自己愛に飢えていたりしたら、子どもの自己愛は充たせなくなってしまいますが、そうした事態に際して自己愛充当を保険的に補ってくれる人物はいません。母親として人間ですから、どこかの誰かから自己愛を充たして貰わなければ心が折れてしまいます。父親は留守がちで、親族や学生時代の友達から遠く離れたニュータウンで孤立した母親は一体どこで誰との一体感を介して自己愛を調達してくれればよいのでしょうか。こうした母親にとって、第2章で紹介した「教育ママ」はかなり優れた処世術でした。子供をしっかり教育してピカピカに磨き上げるほど、そのピカピカに磨き上げられた子どもとの一体感を介して母親自身の自己愛もハイレベルに充たせる、というわけです。こうした子どもの磨き上げは、母親の自己愛充当への飢えが激しいと、等身大の子どもを置き去りにして理想の子どもという名の蜃気楼を追いかけてしまうリスクを孕んでいました。

こうした「母子密着」になりやすく「教育圧」のかかりやすい状況下で、おそらく母親の苦労と愛情のもとで私達は育てられました。母親自身の自己愛を充たすために子供が必要とされたことは、私たちの世代の自発性の足りなさと、マザコン息子が多いこととも、それなりに関連しているでしょう。そして父親不在の家庭環境で、「個性」「末は博士か大臣か」と吹き込まれながら、ろくに同世代との集団遊びをせずに育ったような人が、①ばかり求めて②③に不慣れで、自発性もコミュニケーション能力も足りずに社会適応に行き詰ってしまうのも、無理ならぬことだと思います。

 

かくして、私達の多くは自己愛にとても飢えやすいパーソナリティ傾向を身に付けて社会に進出しました。母親の、そして私達自身の自己愛を充たす手段を恒久的に提供するように思えた学歴は、空手形に過ぎませんでした。世の中の方も心得たもので、そんな私達の過剰に自己愛を充たしたがるメンタリティに付け込むように、多くの夢売り商売や自己実現ビジネスが登場しました。こうした私達の自画像を見ていると、平成時代の私達は、昭和時代の日本人と比べてずいぶんとひどい「自己愛人間」になってしまったように思えますし、実際その通りなのでしょう。しかし、自己愛に飢えやすくなっているのは私たちの世代だけではありません。世の中全体が自己愛に飢えやすくなっている点にも留意する必要があると私は思います。21世紀の日本社会は、過去の社会システムに自己愛充当を強く依存していた人達にとっても、自己愛に飢えやすい社会なのだと思います。

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