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2013年2月10日 (日)

ルートヴィヒ・クラーゲス「リズムの本質について」(4)

第4章 意識と体験

ここでは、さしあたり生命と精神の根本的な相異を想定する事がなぜ必然であるのかということの説明を挿入することにしよう。

精神の概念をどのように把握するにせよ、その定義は精神が意識の共働原因でもあることを認めさせるようなものでなければならない。意識とは何をおいても判断能力である。判断を下すことができるなら我々は生きている。しかし逆に、生きているなら判断を下すことができるとは必ずしも言えない。深い睡眠、麻酔、失神では完全に意識喪失状態で経過するとすれば、思考する覚醒状態を生命だけから理解しようとすることは誤りであろう。そうするとどうしても第二の威力が必要になる。この第二の威力が生命内に侵入したために生命の担い手が生命内容を意識できるようになったのである。しかしこの第二の威力について解明することは不可欠ではあるが、生命概念もそれと同じように解明しておかなかったなら、得るところはほとんどないことであろう。生命という名の自室が何であるかと問うことは生命過程という名の事実が何であるかと問うことと全く同じことである。そしてこれに対する答えは、さしあたり、生きた肉体の研究者が関わりを持つ対象の外にある。その答えはこうである。生命過程は体験過程要するに体験以外の何ものでもない。したがって我々の肉体の細胞はどれも疑いなく生きているので、それゆえ直接知ることは決してできないことではあるが細胞もやはり体験している。そして同様にまた全肉体の細胞集団においてもまた細胞は疑いなく生きているので、細胞は体験しつつ肉体の体験に関与する。そして逆にまた肉体の体験は肉体の中の一つ一つの細胞の体験に関与するのである。とにかくそのことから生じる結果が外部のきっかけによっては理解できない感情の形で我々の意識に告げられるのである。例えば睡眠はそのような意味で眠る人の体験であろう。おそらくは疑問の声が上がるであろう。眠りながらまったく意識を伴わないような状態にある時、どのようにしてそれが体験であることが立証されるというのであろう、と。もっとも直接的には感情の次のような側面の変移によって睡眠が体験の一形態であることがわかる。それはドイツ語で気分といわれる感情の側面である。寝入った時とまったく同じ気分で目覚める人は一人もいない。過ぎ去った睡眠は目覚めのはるか内部まで体験の方向を変化させることができる。しかし睡眠中に我々の生命と共に体験もまた流れ続けているのでなかったら、目が覚めた時我々の気分は寝つくことによって中断されたまさにそのところから再び始まらなければならなかったことであろう。

しかし、睡眠の体験内容を想起することよりもっと重要なことは、そのことに基づいて初めて確信される体験一般の無意識性を洞察することである。このことが誤解されるようなことがなぜ起こり得るのかということを理解するため、感覚主義の罪を想い起こしておかなければならない。感覚主義は、自分たちが研究しようとしていると称している印象体験と、少なくとも人間では把握という精神的行為なしには生じない知覚過程とを混同したために、感性過程の理論と認識獲得の理論とを果てしない混乱に陥れてしまった。

体験は意識されず、意識は何ものも体験できない。それゆえ覚醒の生命状態と睡眠の生命状態とが区別されるのは、覚醒体験が意識された何かであり睡眠体験が無意識的な何かであることによるのではない。そうではなくつねに無意識な体験に、専ら覚醒の生命状態に置いてだけ、体験されたものを覚証する能力が付け加わるということによるのである。したがって二つの生命状態が相違するからといって、その二つを切れ目なしに互いに結びつけて考えたり、二つに共通するものをまさに睡眠の生命的性格に求めたりしても全くさしつかえない。我々はこの場所で覚醒において精神が付け加わることは別にして、覚醒と睡眠との交代を基礎づける体験特徴を詳しく述べることができないので、なるほど覚醒は睡眠から切り離されるが、しかし同じように睡眠が切り離されることわけではない。覚醒の浪打ち、つまり肉体的感覚の波打ちの下を睡眠の流れつまり心情的観得の流れが途切れることなく流れ続ける。そして両者の時間的交代の基礎は生命のリズムの交代にあるのであり、決して睡眠の連続的な流れの中断にあるのではない。

我々が見出したところによれば、拍子づけはある時は不随意的にまたある時は意識的に遂行される作業である。緊張が絶え間なく繰り返されると、緊張している個人は絶え間なく力を消費しなければならないので、拍子を体験する人あるいはそう言いたければリズムに拍子を体験する人は、行為的活動がつねに新たに始まろうとする状態にある。覚証することができるためには覚醒していなければならないことは疑いない。しかし行動することができるためには同様に覚醒していなければならないことは疑いない。精神的行為が行われていることを体験している拍子の体験は目覚めさせ覚醒を維持する。それに対してリズムの体験は、もしそれが実際いわば意識の下部で経過するなら、それが優勢になればなるほど緊張が緩みそしてそれゆえにとりわけ睡眠状態に導くことになるだろう。生命の担い手が体験の中に「吸い込まれている」、その中に完全に「没入している」、完全に「沈潜している」、そして生命の波が静まった後に初めて「ふたたび我に返った」と言葉がわれわれに判断させるとき、言葉はそのとおりのことを意味しているのである。

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