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2013年2月11日 (月)

ルートヴィヒ・クラーゲス「リズムの本質について」(5)

第5章 リズムに拍子をつける可能性について

拍子体験は目覚めさせかつ覚醒を維持するが、リズム体験は緊張を緩めて夢に移行させることがあり、それどころかついには確かに睡眠に沈みこませるということであった。しかし列車に乗って車輪の立てる機械的な音の拍子を聞くともなく聞いているうちに、しばしば緊張が緩んで夢の中に落ち込んだり、ついにはまどろみの中に沈みこんだりしなかったひとがいるであろうか。そのような事実はある。しかし、車輪の拍子それ自体が緊張を緩めるのではない。そうではなくてこの例では拍子と不可分に結びついた前方へ動かされている体験が緊張を緩めるのである。列車の走行のリズム的作用に車輪の拍子は関与しているがリズム的作用は車輪の拍子だけから生じるものではない。線路の継ぎ目の上を回り続ける車輪がガタゴトと立てる音は、我々にとってその瞬間ごとに驀進していることの標識である。何ら精神的努力しないでも前進運動は車輪の立てる音の中に聞き取られる。そうであめからこそ他にみられないほど高度に機械的な拍子でもリズムの緩めるような波打ちに我々をゆだねるのである。この機械的拍子が前進運動を標識することができなくなると、この効果はすぐになくなるかかなり減退する。

リズムと拍子とが対立しているからといって、運動の連続性がリズムとして体験されるためにそこに拍子が加わらなければならないような特定の場合があることはまったくないことが分かるだろう。それゆえやはり決定的なのは運動なのである。

非随意な拍子とは精神に由来するものばかりではないと述べた。リズムに拍子をつける可能性についての話を挟んだことで、それよりもう少し明確に、その発生源の本質的相違にもかかわらずリズムと拍子とは人間の中で互いに融合しうるということが示された。というのもすでにあるリズムでさえ拍子をつけることによって場合によってはリズムの作用が強まることがあるからである。

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