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2013年3月

2013年3月31日 (日)

中岡哲郎「近代技術の日本的展開~蘭癖大名から豊田喜一郎まで」(6)

製糸業と織物業の原生的産業革命が進行を始めていた時期に維新政府は成立したわけだがその前途は洋々ではなかった。1877年の西南戦争は、その後に戦費調達のために不換紙幣の乱発がひどいインフレを招き、これが地税収入の実質価値の目減り、そして維新後続く貿易赤字の累積の三重苦に襲われる。その後、松方正義による所謂松方財政を展開する。その政策は松方デフレと呼ばれる深刻な不況を呼び、当時発展を始めていた製糸業や織物業までも苦しめた。しかし、その底をくぐり抜けたところから、紡績業、鉄道業、鉱山業など西欧からの設備・技術輸入と結びついた産業と、在来産業の発展が相互補完的に噛み合って、奇跡のように活力を帯びた持続的経済成長が開始され、世紀の代わる頃、造船業に代表去る機械製造業の発展も見られるようになったのである。

この経済発展は、多くの歴史家によって「日本の産業革命」と呼ばれてきた。「日本の産業革命」を主張する多くの人は、厳密にイギリスを先頭に西欧で進行した社会経済の発展過程を研究し、そこから抽出した世界史の発展法則のさまざまな指標にあてはめて、この時期が産業革命期であることを示そうとする。だが、最初に工業化した国の発展過程と、すでに工業化した国々の影響を受けて工業化を開始する国の発展、すなわち「後発工業化」は決して同じにならない。そこから見えてくる違いが、後発工業化の個性であり独自性である。明治35年の「工場通覧」つまり、工場数と工場労働者数の産業別統計を見ると、繊維業の圧倒的な比重で、そのほとんどか女子労働者だった。そして近代産業のシンボルとも言うべき機械産業の労働者は繊維産業の13%に過ぎなかった。こうした数値は、開港以来の産業発展と整合的である。開港とともに発展を開始したのは、製糸業と織物業を中心とする在来繊維産業であった。製糸にせよ織物にせよ、農村副業あるいは都市の家内労働として女子の労働に大きく依存していたことが、これらの主要労働力が女子になった理由である。このうち織物業の発展が輸入紡績糸の使用を生んだ技術革新効果により、これが綿糸輸入の急増を生み、貿易収支を圧迫し、紡績綿糸の国産化が緊急の課題となり、政府主導と民間主導による国産近代紡績工場建設の試みが始まる。前者は成功せず、後者は日本綿に適した紡機を選定して、株式会社により資本を調達し、大工場を建て、設備稼働率を高めるため昼夜二交代制を採用して成功する。だから、持続的産業発展を主導した繊維産業は、対照的な三つの部分から成り立っていた。輸出を主導し、最も多数の労働者を擁した製糸業は、桑栽培、養蚕という農業と一体の産業であり、小規模器械繰り工場や、集合座操作業場に支えられて全国展開した農村工業であった。一方、紡績業は、大都市およびその周辺に立地する株式会社の大工場で、資本主義的労使関係の下に働く女子労働者によって支えられる近代産業で、産業革命のイメージの源泉であった。対する織物業は、主として江戸時代に形成された都市またはその周辺の産地を中心に、小工場と問屋制家内工業を基礎に発展した在来産業が中心であった。地域的には鉄道の普及とともに全国的な展開を進めた。つまり、明治13年に株式会社による民営鉄道の参入を可能にしたことが、北関東や東北の県令たちを巻き込んで日本鉄道株式会社に結実する。この日本鉄道は、日本の養蚕、製糸地帯を南北に貫く鉄道であった。この時期、製紙業は発展を取り戻しつつあったが、発展とともにネックとなったのは、産地から輸出湊横浜までの生糸の輸送であった。日本鉄道の建設は沿線の製糸業の好況を巻き込みながら進行し、それに比例した生糸輸送量の増大は日本鉄道の好業績を支えた。この好循環が同種の民営鉄道計画を励ましたのであった。こうした事実が「日本の後発工業化」にとって、どれほど有利であったかということは、比較の対象がイギリス産業革命に置かれている限り見えてこない。日本とほぼ同じ時期に後発工業化の道を模索していたメキシコでは、時期も状況も日本とよく似た鉄道の建設を行ったが、国内経済をまったく活気づけなかった。こうした事実を見ると、当時の日本各地が万遍なく、農村製糸業や産地織物業や多様な手工業で覆われていたことが、鉄道建設の進展と産業発展との好循環を支える前提条件であったことが見えてくる。

 

この後は、軍需産業を包み込んだ重工業の進展が分析されていきますが、経済オンリーではなくなっていくので、メモは八幡製鉄所関係のところ以外は省略します。ただし、中岡氏の分析は、技術とか経営とか経済とかに特化せずサイクルとして見ていく視点がとても興味深いものです。

 

日本の西洋製鉄技術へのキャッチアップ努力は、佐賀藩はじめ多くの藩の蘭学者たちの反射炉で鉄を融かして大砲を鋳造する試みとして出発した。しかし反射炉で鉄を融かすことは無理で、大島高任が蘭書を頼りに釜石につくった木炭高炉が成功し、銑鉄を湯の状態で得る技術が確立した。ヨーロッパの12~13世紀ごろに到達したのである。維新後、工部省がつくった釜石製鉄所は産業革命期イギリスの標準的製鉄所であった。この製鉄所が失敗し田中長兵衛に払い下げられ、田中は大島の木炭高炉から再出発して、一定の成功をおさめた後、野呂景義の指導で、コークスを用いた操業による銑鉄製造に成功する。このときが日清戦争の1894年で、田中製鉄所の年産額は12,735トンで、そのころまで日本の鉄鋼生産を支えていた。たたら鉄の年産量をここで抜いた。

高炉でコークスを用いて銑鉄を作る、たたら鉄を原料としてルツボ製鋼で鋼をつくる、というところまでは到達していたのである。しかし、この時期、西欧の製鉄業は鋼を大量の溶鋼の状態で作り出し、その過程で成分を調整して様々な合金鉄を得る、ベッセマー転炉法やシーメンズ・マルタン平炉法の時代に入っていたのである。

野呂は釜石で初めて大型高炉のコークス操業を開始する。さらに、工部省製鉄所のパドル炉を改造して、各種銑鉄から粗製錬鉄を作り、あるいは砂鉄鋼を還元して粗製錬鉄をつくり、それをマルタン平炉の原料として利用する可能性を探る多様なテストを行っている。これらの実験を通して得られた平炉鋼の最終製品は、レール、板鉄、丸鉄、角鉄、平鉄の五種だった。

野呂は製鉄所創立案をまとめ議会の承認を得た。しかし、彼は疑獄事件に巻き込まれてしまう。建設が始まる中、技師長の大島は異例なことに欧米の視察に出てしまう。野呂のまとめた創立案は、日本製鉄技術の水準を熟知する野呂がその最初の跳躍目標として選んだ製鉄所案は、若手技術者からみても時代遅れと映ったようだった。そこで、野呂案を大きく上回る規模の新しい製鉄所案がつくられた。

こうして、八幡製鉄所の建設が始まる。だが、初操業は順調ではなかった。原因について長期検討後、再火入れされたのは、1904年だったが、17日後危機的状況で吹き止めとなるなど、暗中模索が続いた。実際に2つの高炉の稼働が軌道に乗るのは1905年に入ってからのことになる。

技術において世界水準に並ぶということは、単に世界水準の高炉を働かせばそれでよいというようなものではない。日本の製造業が世界水準の製鉄業から学ばねばならないことは、まだ無数にあった。

 

2013年3月30日 (土)

中岡哲郎「近代技術の日本的展開~蘭癖大名から豊田喜一郎まで」(5)

輸出の生糸から、輸入の綿織物、綿糸に目を転じよう。開港と同時に大量の綿織物と毛織物が輸入された。これによって在来手工業が壊滅的打撃を受けたとよく言われる。しかしこの議論は、競争の細部を見落としている。輸入綿織物の主力は薄手のキャラコであり、厚手の日本の綿織物とは競合しない。毛織物については、そもそも毛織物は幕末日本にはなかったのである。これらの織物は何故大量に輸入され、そしていかなる在来手工業と競合したのか。主な輸入品としてキャラコなどのようなものは江戸時代を通して長崎経由で唐物として知られていたもので、一部の特権階級を除いては手に入れにくい商品だったものが、加工による輸入増加で価格が低下し、需要に火がついて大量輸入となったのである。この綿織物は、イギリス産業革命に火をつけたインド木綿と同じものである。西欧では前に述べたように産業革命によりランカシャー製の大量の細手綿糸がつくられ、それが日本に大量に入ってきた。しかし、日本では短繊維の日本綿からはこのような細糸は絶対に出来ないもので、短繊維の日本綿からできるケバ立った太糸が綿糸だという前提に立てば、細くケバなく絹様光沢のある輸入糸は綿糸とは認めがたい。事実、在来綿織物業者はこの糸を毛嫌いしたとある。これらの輸入綿織物の大量輸入は、なによりも絹織物産地にとって大きな脅威だったのである。しかし、脅威にさらされた絹織物業者が、ランカシャーから輸入された安価な細手紡績綿糸の斉一で絹に似た光沢に着目するのは早かった。横浜開港の直後から、桐生、足利などの絹織物産地は、輸入紡績糸を用いて安価な絹綿交織織物を織る試みを開始している。少し遅れて西陣もその後を追った。この絹綿交織物が、その後、絹織物市場の大衆化の強力な武器となっていく。そしてもう一つ、模倣桟留産地が、同様に横浜開港の直後から細手輸入綿糸に注目し、それを経糸に使うことによって細密縦縞木綿の新製品を市場に投入する試み開始している。青梅桟留の双子織などである。これらの模倣桟留地帯が、開港と同時に輸入紡績糸にとびついたのは、何よりそれが彼らのずっと探し求めていた細手綿糸であったからだ。これらの産地は在来綿業地帯が輸入綿糸に見向きもしないなかで、その細さに着目し、それを商機ととらえた。その結果双子は全国的な流行商品となった。しかし、それ以上に重要なことは、これらの地域での使用経験を通して、紡績糸の手紡糸に格段に優る作業性の良さが認識され、多くの綿業地にその使用が波及したことだ。織物の生産にはね織機で織る作業の前に、糸を準備する膨大な作業が必要である。この過程で最大の障害が糸切れであり、全工程で切れやすい手紡糸を切らぬよう、慎重に気を配り丁寧に作業する必要が生産性を著しく低めていた。これに対し、格段に強く糸切れが少ない紡績糸を使用したことが、予想外の生産性増大を生んだのである。織物作業では、もともと綿作の普及に伴う農民の自家衣料製織から出発した、江戸時代の綿織物業の使用織機は地機であった。農民はこの織機を土間に置き、身体で経糸にかかる張力を調節しながら、手紡糸を丁寧に織ることには適した道具だが、生産性は低かった。18世紀後半ごろから市場向けの縞絣木綿産地が発展するにつれ、絹機を綿織物用に改良した高機がそれらの産地に普及していく。この高機は生産性が高く、多様な織技と、後の一連の機構的発展を実現する可能性を秘めた織機だったが、手紡糸を使用する限り、その可能性の実現は妨げられていた。双子織で洋糸を経糸に用いたことが、結果として製織準備の生産性を高め、さらに従来一反分ずつ製織準備していたものが、一回で四反分の経糸を高機に準備することが可能になり、高機の製織速度向上と合わせ、画期的生産性向上となった。この洋糸を高機で織る方法が、一つの技術革新として、高機へのバッタンの取り付けを可能にし、足踏み織機の発明を生み、それを木鉄混成小幅力織機に発展させ、鉄製小幅力織機に至るという小幅織物用織機の技術革新を生む。それらは、綿、絹、毛織物も含む在来業者に、輸入織機より格段に安くかつ生産性の高い織機を供給し、在来綿織物業の輸出産業への発展を支えることになる。

開港のもたらしたものは、かつて論じられた、高品質かつ低価格の工業製品が、在来手工業を圧倒し尽くす過程ではなかった。鎖国の前半に西陣絹織物業の発展があった。並行して中国産輸入生糸の国産化が進み、桑栽培、養蚕業、製糸業が農村で発展する一方で、西陣からの技術拡散により桐生、足利など絹織物産地が生まれ、屑繭利用の紬、太織製織も始まる。また絹機を木綿用に改造した高機の綿織物産地への普及も幕末には見られた。そこまできたときに開港となるのである。価格は安いけれど、品質は粗悪な生糸が飛ぶように輸出されたのは、そのとき西欧が生糸飢饉の状態にあった幸運にもよるが、爆発的な生糸輸出結果は、日本産生糸は低品質という国際評価となって返ってくる。製糸業の低迷は、出発したばかりの新政府のお雇い外国人による指導の手ごろな対象となるが、彼らの指導を鵜呑みにするのではなく、資本の稀少な貧しい農村の条件に合わせた、独自の「器械繰り」を生み出すことによって、活力ある発展の新段階が始まる。アメリカ向け輸出という手ごろな市場があったことも大きい。開港時、大量の薄手綿織物や毛織物が輸入されたことも、かつては西欧工業製品による手工業圧迫説の論拠とされたものだが、今回の分析の示す通り、産業革命期の西欧技術進歩を体系化した輸入紡績糸を、製織過程に取り込むことによって、在来織機の技術革新を引きだし、発展の新段階を導いたのである。このような発展が引きだされた背景には、維新による服装に関する封建規制の撤廃が開いた新しい市場機会の活性化、福沢諭吉や中村正直などの啓蒙活動に鼓舞された和製発明家たちの活動も大きい。こうして、鎖国の江戸時代に発展した二つの産業は、開港による西からの衝撃を受けて、一連の技術進歩を生み出しながら発展の新段階に入った。筆者はこれを「原生的産業革命」と呼ぶ。

2013年3月29日 (金)

中岡哲郎「近代技術の日本的展開~蘭癖大名から豊田喜一郎まで」(4)

第3章 日本の原生的産業革命または後発工業化

西欧近代にとって「産業革命」とは何であったかを見たところで、幕末開港以来の日本の産業発展を「日本の産業革命」と呼ぶのは適切かどうかを論じることができる。

南蛮貿易の時代に日本は一度、カトリシズムを先頭に西から来た文明の衝撃を受けた。二度目の出会いの構図は、この間に産業革命を通過して地球の全域に影響を及ぼす力獲得した西欧文明と、強力な封建制によってその潜在的活力が抑圧されていた社会が、再び出会ったのだとまとめられる。この衝撃に対する最初の反応として、薩摩や佐賀藩等の西南雄藩のサムライたちの、オランダ商館を通して入手された蘭書を解読しながら、鉄製大砲と蒸気軍艦を作ろうとする途方もない試みがあった。この試みを支えたものは、鎖国中に形成された蘭癖大名・蘭学者・器械職人のネットワークである。江戸時代に育った日本の萌芽的な技術者集団が、イギリス産業革命の影響を受けつつあったオランダの技術を、本だけを通して移転しようとしたケースであったのだ。この最初の試みは、大島高任の高炉などの、今から見れば奇蹟的な少数の成功例を生んだ。だが、私はそのことよりも、彼らの経験した無数の失敗と、それに費やされた莫大な金が、薩英戦争等の体験とも相まって、サムライたちに、一方では西欧と戦うことの危険、倒幕の必要に目覚めされると同時に、他方では西欧の武力の強大さの背後にある「国富」への関心を高めされたことの意味を高く評価する。幕末期に禁を犯して勇を鼓して渡航したサムライの数は多い。彼らがその時、間違いなく「文明の衝撃」を受けた。帰国後の彼らの活動は、そこで彼らが最も強い印象を受けたものを直線的に日本に持ち込もうとする特徴を持っていた。それが日本の現実と衝突する場合も多かったが、この行動様式は間違いなく明治の工業化の構造を規定する一要素である。

開国による貿易の自由化で主要な輸出品となったのは茶と生糸であった。ここでは、輸出における製糸業と輸入における織物と綿糸に的を絞り、在来と外来の出会いを考察しよう。

生糸は江戸時代中期までは原料白糸を中国産生糸の輸入に頼っていた。しかし元禄期に幕府は金銀の流出を抑えるため生糸の輸入禁止に乗り出すとともに、国産製糸業の奨励に転じた。このころから、桑作、養蚕、製糸業は農山村地域を領地とする藩の殖産興業の対象としては絶好の項目となった。幕末開港に先立つ一世紀は生糸の中国依存からの脱却・国産化をめざす広範な努力があった世紀であることを見落としてはならない。この一世紀にわたる努力の中から胴繰り法と呼ばれる極めて素朴な製糸技法に依拠した発展が奥州座繰りとよばれる、一歩進んだ技法が現われてくるまで発展したところで開港を迎えることができた。当時のヨーロッパは蚕の流行病による生糸飢饉の状態にあり、低価格のせいもあり日本産の生糸は飛ぶように売れる好況が到来したが、反面、低品質を世界に印象付ける結果となり、欧州での生糸生産が回復するにつれて生糸輸出は次第に落ち込んで行った。低品質の理由は、西欧の織布工程機械化に伴う、糸に対する品質要求を全く理解しないまま、在来工業織物向けの糸を掻き集めて売ったという事実に尽きる。そこで、生糸生産技術の向上は緊急の課題となり、政府は富岡に官営模範工場を開設する。ブリュナーと四人のフランス人技術者による技術指導は、単なる機械の運転・保守にとどまらず、殺蛹への蒸気使用をはじめ、貯繭、乾繭、選繭、煮繭等々の全ての工程にわたって詳細かつ適切であり、その面では、富岡における伝習は、その後の製糸技術の向上に大きな役割を果たした。しかし輸入機械による富岡製糸場そのものは、資本負担が大きすぎて、当時の日本養蚕地帯の事業家の経営モデルとしては落第だった。明治4年には、この機械を模倣したと思われる木製機構を多用し掛け機構を止揚した、六人織りから30人繰り程度の製糸機械を用いる製糸場が普及し始める。富岡の伝承者も加わり、器械繰りという名でよばれる、資本節約的機械製糸技術が作られていくのである。の器械繰り技術が、日本製糸業の機械制大工業時代への道を開いていく。

それでは、もともと日本に生糸を輸出していた中国の状況に目を転じると、世界市場では日本生糸は太糸志向の広東製糸とは競争できたが、細糸の領域では上海製糸に圧倒的な差をつけられていた。しかし、中国経営界には、資本家がカネを出して工場を建設し、経営者がそれを一定期間賃借して事業を営む、租廠制と呼ばれる慣行があり、設備改善や新技術に投資するインセンティブが双方に欠けていた。その間に日本製糸業は、資本節約的な器械繰製糸を、小枠から大枠への再繰方式による品質の均質化、夏秋蚕の飼育による年二回掃き立て、一代交雑種による繭質改善、座繰機より製品品質を格段に高めた多条繰糸機の発明、養蚕農家が組合を作り製糸工場を経営する組合製糸等々、多様な技術改善、経営改善を重ねていく。こうした努力の集積が日本製生糸の品質を高め1906年頃に輸出で中国糸を抜き、以後差を広げていくのである。1910年代に入ると大工場の発展に加えて、レーヨン糸という生糸そのものに対抗する新繊維の登場もあり、工場操業の体制、国際的な検査態勢の必要と結びついて技術の分かる中間管理職による工場管理の必要、初等教育を終えた労働者の熟練形成が必須となる。日本は何とかこの課題に応えるが、インドの近代製糸工場はカースト制度を含む差別的社会構造の遺産に災いされて課題に応えられない。中国は日清戦争の敗北後に努力を開始するがそれが実ったのは第二次大戦後であった。

2013年3月28日 (木)

中岡哲郎「近代技術の日本的展開~蘭癖大名から豊田喜一郎まで」(3)

前二節で見た、アラブ世界を介して西欧に伝達され、近代科学の誕生を準備した、二つの重要な技法移転の例を通して筆者が強調した最大のポイントは、技法の受け入れを切望する社会的条件の成熟の重要性である。インド・アラビア式記数法による計算の早さは知られていたが、それを魔法と捉える風潮もあり、決して西側に普及しなかった。それが地中海貿易に伴う大規模商業の発展の中で、損益計算と記帳の必要性の増大と併行して、インド・アラビア式記数法による計算法と記帳の急速な普及、算数教室と教師の増加、数学教師の相互競争、代数学の発展と言う連鎖を生む。『アルマゲスト』とプトレマイオスの惑星位置計算法の場合も同様である。12世紀末にアラビア語からラテン語に訳され天文表が作られるが本格的関心はすぐには起こらなかった。大航海時代の幕開けで、航海が大陸沿岸を離れて大西洋に乗り出すところから、精密な位置計測と精密な天文表への関心が始まり、『アルマゲスト』の球面三角法の真剣な検討と数理技術者たちによる天体観測機器の開発、天文の精度の向上を通して、コペルニクスからケプラーを経てニュートン力学への道が開かれるのである。『アルマゲスト』の普及からケプラーの三法則が姿を現してくる物語の舞台と役者を、インド・アラビア式計算法の導入から「代数学」が姿を現してくる物語の舞台と役者を対比しつつ繋いでみると、そこから浮かび上がってくるのは、東方貿易に触発されてイタリア北部の都市国家から始まった大きな経済社会発展が、ヨーロッパ全土へダイナミックに影響を広げていく姿である。

さらに、物語の舞台が港湾都市から陸へと移っていく。数理技術者の世界はルネッサンスのイタリアの芸術家(ダ=ヴィンチ)の発展形態であり、金属鉱山のような陸地では、有名なフッガー家を通じて国家へと繋がっていく。そして、天文表は「プロシャ表」と呼ばれたりと国王の名誉も巻き込んで発展していくのである。そして、これらが後の国民国家を中心とする体制の下で、産業の主導する社会経済発展を支える力となるのである。

 

東方貿易のイタリアを起点に、北西へ影響を拡げて行った経済発展の成果がイギリスに流れ込み、同時に海上覇権がイギリス・オランダへ移ることにより開始されたイギリスの国内発展がマンチェスターに辿り着くところで物語は前章の主題に戻る。しかし、どれほど、外から来たインド木綿の衝撃が大きく重要であったとしても、イギリスの内部に大衆の需要を受け止めて模倣品を作り、させに次々と新機械を生み出してそれを改良し、価格・品質両面においてインド木綿と競合する綿布を生み出していく力が準備されていなければ、発展は起こらない。産業革命の地球史的意味は、それよりずっと以前、イスラム圏経由の東方貿易を起点として、ヨーロッパに起こった社会経済的発展の中で新しく生み出されたものが、大陸の北西の島国、イギリスの社会的能力として成熟した時に、今度は喜望峰経由で東方からやってきたインド木綿の衝撃を受け止めて開始した発展、と捉えることによって、はじめてその文明論的な意味も、それがイギリスで起きた理由も、明確になるのではないだろうか。この発展の中で生まれた、国境を越えて新技術を指導して歩く技術人と、中世ギルドとの紛争を防ぐための慣行が、イギリスで発明家に一定期間の専売権を与える今日の特許制度の形を取るようになる。そして、様々な新しい技術が特許制度の中で生み出され、産業技術を発展させていく。

例えば、ワットの蒸気機関の特許取得を考えてみる。ワットは試作段階から、蒸気機関を加工できる製作所を見つけるのに苦労していた。1775年にワットと共同経営者のボールトンは蒸気機関特許の製品化には、新工場の建設と、そのための巨大な投資が必要であるという理由で、特許の延長を申請し1800年までの延長を勝ち取っている。鉄製の機械がそれまでなかったわけではない。北部イタリア年から始まった発展の中で生まれた時計、天体観測、測量、実験等と結びついて発展した計測機器は精密機械であった。これらの機械は金属製品であり、歯車やカム機構、ネジを用いた精密な送り機構等々、機械の要素とその加工法は準備されていたのである。ただ問題は、それらは机の上に置くきわめて小さな機械を動かす機械であり、産業用の大型の鉄製機械の機構の製作のためには二つの大きな壁があった。一つは鉄で鉄を削るという課題を解決する良質の刃物鋼の工業的生産の問題であり、これはベンジャミン・ハンツマンによる、ルツボ製鋼法で解決された。もう一つは鉄を切削するために必要な大きな力、重切削の問題で、これは他ならぬ蒸気機関で工作機械を運転することによって初めて突破され、そこから工作機械の発展と鉄製機械工業の発展とが相互不可分の形で始まった。ちなみに、ランカシャー綿業に鉄製機械が一斉に浸透して行き、木製機械の解決し得なかった問題をつぎつぎと解決してゆくのもこのころからである。機械の素材を作る鉄鋼業においても蒸気機関はひとつの画期を作る。機械加工者としてワットを助けたウィルキンソンは、初期の蒸気機関の購入者でもあった。彼は1776年、自分の所有するコークス高炉のひとつに蒸気機関を利用して送風することを試み、高温操業に成功する。この結果、コークス高炉は初めて木炭銑と競合できるようになる。ヘンリー・コートのハドル圧延法がこれに続く。これは銑鉄を反射炉で融解しながら撹拌・脱炭し錬鉄(可鍛鉄)を量産する画期的方法だった。錬鉄は鍛造や圧延で加工することが可能な鉄である。鋳造、鍛造、圧延によって部品の素材を作り、それを工作機械で切削加工仕上げしたのち組み立てるという、鉄製機械製造法の基本はこの頃固まるのである。

この時代を象徴する新しい技術人─発明家─と特許の制度は、間違いなく北イタリアから始まった発展のなかで、科学と技術の周辺で起こった変化がイギリスで形を取ったものである。近代科学はこの発展のなかで準備され、17世紀に開花したのである。革命の核心は、当時の知的社会に根強かったメカニカル・アーツへの蔑視と、知的社会用語としてのラテン語重視に抗して、芸術家、職人、船乗り、外科医、軍人などの領域から、科学的主題について大衆の読める俗語で本を書く人間が現われてきたことである。同時に印刷業の発展と並行して地域別の大衆の話し言葉にすぎなかった俗語を、文法的に整理して国語にする言語革命が進行したことが、新しい知としての科学を、知識人の独占物にすることなく、手を汚して働く人間の世界に広めたのである。

2013年3月27日 (水)

中岡哲郎「近代技術の日本的展開~蘭癖大名から豊田喜一郎まで」(2)

第2章 レパント貿易から産業革命まで

前章では、大航海時代に始まる東方物産の流入経路の変化が、近代のシンボルである産業革命の推進力となる、イギリス綿業の大発展を導くまでになる過程を見た。ポルトガルが主導権を奪うまでは、イスラム商人の集めた東方物産はイスラム圏の陸地を通りレパント(東地中海のイスラム都市)へ運ばれ、そこで西側の商人と取引され、ヴェネチア、ジェノヴァ、ピサなど北部イタリア諸都市を介して、ヨーロッパ諸国へ送られ、これら諸都市の中世後期の繁栄を導いた。この道に沿って、「文明の移転」とも言うべき現象が見られることを見逃してはならない。

イタリア諸都市のレパント貿易は、都市当局が仕立てる商船隊に冒険を恐れぬ若い商人が乗り込むイスラム都市と西欧との仲介貿易の形で行われた。一航海ごとに、彼らは都市貴族、富裕商人たち資産家と、当座組合契約を結んで資金提供を受け、組合契約は一航海ごとに清算され、損益計算のうえ利益が約定比率で配分された。この計算過程と配分の記録は公正証書の形で残された。今日の商業簿記の原初形態である。こうした初期の形態は、やがて都市に商館を構える商人が銀行の助けも借りながら遠隔商人と手形決済で取引する近代的商業に変容していく過程で、腹式簿記に発展していく。このプロセスの中で、それまでのローマ数字がアラビア数字に置き換えられていった。アラビア数字化合理的で筆算に便利でありイスラム商人が使い慣れていたことからといえる。

山本義隆の『16世紀文化革命』の中で、17世紀の科学革命の一種の前哨ともいうべき、16世紀イタリア代数の大発展の準備過程として、鮮やかに描かれている。西欧社会へのインド・アラビア式計算法導入に重要な役割を果たしたのは、ピサのレオナルドと呼ばれたフィナボナッチであった。彼は商人としてレパントを歩くかたわら、数学を学んだ。帰国後1202年にラテン語の大著『アバコの本』を出す。アバコは算板のことであるが、アラビア数字を用いた商業用計算術の意味でも使われ、書名の「アバコ」はこの意味である。この本では、冒頭でインド・アラビア数字が導入され、それを用いた整数と分数の計算法、商業に関わる計算問題の解法、最終章では代数学が論じられている。しかし、当時の教育風土は宗教的なものか数論が学芸では尊重され、商業や実技の蔑視を強く含んだものであった。しかし、貿易と商業で発展する北イタリア諸都市で、商人階級の成長とともに都市自治政府が教育に乗り出す。14~15世紀の諸都市では初等教育としてアルファベット、イタリア語の読み書き等の手習い教室の他に文法学校と算数教室が設けられる。前者は聖職者や法律家を目指す上流階級師弟向けで、後者は商人や職人を目指す中流階級むけで、前者をはるかに上回る生徒数を集めるようになる。この変化は必然的に算数教師という新職業と、多数の算数教科書を生み出すが、それらはフィボナッチの本を下敷きとして書かれた。その算数教師にとっては、彼らの教師としての地位向上のためにも、商業計算を一段低いものと見る中世の知的風土に対抗するために、難問を考案しそれを見事に解く、魅力のある教科書をつくり名声を高めることが必要で、その中から代数学が少しずつ姿を現してくる。その転換点に位置する本が、1494年のルカ・パチョーリによる『算術、幾何、比および比例大全』である。この本はイタリア語で書かれている。それは一部の知的エリートのための書ではなく、多数の商人や職人、そしてその徒弟が読める本にするためであった。とくに、世界で初めて複式簿記が詳述されていることで会計学史上有名である。そして、イタリアより少し遅れて商業として発展したが、イタリア・ドイツ・スイス・スペインを結ぶヨーロッパ商業の四つ辻に位置したフランスのリヨンで、ニコラ・シュケーは『数の科学における三部分』で方程式の負の解を負債と解釈した。このような過程は、イタリアから始まった商業による繁栄が、ヨーロッパを北西に向けて広がっていく過程と重なっている。16世紀後期のヴィエトと17世紀のデカルトに始まる近代数学に繋がっていく。つまり、東方貿易がヨーロッパにもたらしたものは、胡椒と香料だけではなく、インドで生まれアラビアで完成された、十進位数法数学による計算術も、その重要な一つである。それがイタリアに導入され、そこから近代代数学が姿を現してくる過程は、一航海ごとの当座組合契約が自治都市の商館を基礎にした近代的商業に発展していく過程、それに伴う商業的実技としての算数の必要が算数教室と算数教師を生んでいく過程と不可分だったのである。

 

西欧における近代科学の形成を準備したという意味で、インド・アラビア式計算法の導入に並ぶ、もう一つのイスラム圏からの文明の移転が、プトレマイオスの天文学であった。プトレマイオスが活躍したのは2世紀半ばである。その後7世紀にアレクサンドリアの図書館がアラブとの戦火で焼失する。しかし、その時、彼の本を含む多数の写本がイスラム圏に残りアラビア語に翻訳され研究発展されられていく。その後中世のイスラムとの接触の時代に多くのギリシャ古典がアラビア語から訳されて西欧に入る。プトレマイオスの主著『アルマゲスト』も12世紀末に翻訳されたが、本格的影響を与え始めるのは15世紀に入ってからだ。

航海が地中海と大陸沿岸に限定されている限り、航法は沿岸の地形や島を目印にした沿岸航法で足りた。しかしいったん大西洋に出るとそのような目印は全くなくなる。代わって、正午の太陽の高度、北極星の高度をはじめ、天体の見え方が船の位置決定の重要な手がかりとして登場することが、この時代の航海記を読んでいると良く分かる。それはまさしく『アルマゲスト』の改善を切実に必要とする世界であった。この時代、船上で太陽や北極星をはじめ諸天体の高度を計測し、その時刻とデータから船の位置を推算する天文航法が急速に普及する。並行して天文表の精度に対する社会的関心が急速に高まっていく。15世紀観測天文学の祖といわれるプールバッハが天文表の精緻な改定を試みるが、志半ばで夭折してしまう。それを引き継いだのは弟子のレギスモンタヌスだ。彼は『アルマゲスト』をギリシャ語から訳し直し、ニュルンベルクに天文台を作り観測を開始する。西欧社会への『アルマゲスト』普及はこの頃から始まる。

中島義隆この背景としてニュルンベルクという都市とレギスモンタヌスに焦点を当て、数理技術者と彼の呼ぶ新しい型の機械工作職人群と、天文表の精度向上をめざす天文学者との共同から成る社会的過程を鮮やかに描き出している。ニュルンベルクは金属鉱山に近かったため、古くから金属加工技術の蓄積が深く、活字の鋳造などとの関係で印刷業も盛んな町だった。さらにヴェネチアから入ってくる東方物産が、陸路でネーデルランドやイングランドに運ばれる中継点に位置しているため、商業の発展した都市でもあった。一方、レギスモンタヌスは厳密な数学的手法で惑星の位置計算をし、同時に観測する人間であった。彼は観測所を機器製作工房、印刷所つきで計画した。観測精度向上のためには精密な観測機器の開発が不可欠であり、彼は自ら観測機器を設計し、製作する職人を指導した。さらに印刷所からは天体暦や著作を出版していく。この彼の努力が、ニュルンベルクに天体観測用具、航海・測量機器、地図・地球儀などの製作に携わる数理技術者を輩出させ、その影響は南ドイツからネーデルランドへ拡がる。これらの機器や地図を作るためには天文学や数学がどうしても必要になる。彼らが天体観測精度の向上を下支えし、かつ成果の社会的普及も担ったのである。そして、この時期は前節の東方貿易がレパント経由を断念して喜望峰回りで直接東方へのアクセスをめざす、大航海時代の社会的要求と結びついていた。

2013年3月26日 (火)

中岡哲郎「近代技術の日本的展開~蘭癖大名から豊田喜一郎まで」(1)

第1章 地球史的角度から見た日本と産業革命

前著「日本近代技術の形成─<伝統><近代>のダイナミクス」(←名著)では、幕末の黒船来航の衝撃から薩摩藩で蘭書の知識だけで軍艦と大砲を作ろうとしたサムライ技術者がいたこと、明治維新後に海外の技術を導入するために海を渡った西陣織の3人の職工がいたことを紹介した。この両者には共有されているものがあると筆者は指摘する。それは個人的資質というよりは文化の体質のようなものではないかと言う。日本の文化的伝統の中には、海の向こうから来る珍しいもの美しいものに好奇の目をみはり、次にそれを自分で作ろうとする姿勢が体質化されているのではないだろうか。そして、それが幕末期に西から来た「近代」の衝撃に、日本の「在来」が圧倒されるのではなく、アクティブに反応し、独自の発展を開始することを可能にさせたのではないか、ということである。

その体質は、明らかに日本の地理的条件に支えられて、古代から形成されて来たものだ。例えば江戸時代の鎖国は日本を外国から閉ざしたのではなく、室町末期から安土桃山時代の南蛮貿易による大量の「名物珍宝」の流入で、日本人の海の向こうから来る珍品願望を今までより一段高めた後に、それを入手する途を一挙に狭めたのである。そこで必然的に国産化が待望される。名陶における有田、名物裂における西陣など、その要請に応えて反映した産地の代表と言えよう。そこでの技術の核心は、徹底したモデルの研究、それとそっくり同じ色、形状、組織、手触り、こし、つや等の再現のための艱難辛苦、刻苦精励である。一方、サムライ技術者たちの蘭学の中にも、これと同じ構造と行動様式があったことを筆者は感じると言う。例えば、望遠鏡である。近代的な天体観測器具である望遠鏡もオランダ渡りの珍品奇宝の一つで貴人たちが愛好した。この模作で有名なのは鉄砲鍛冶の名工である国友一貫齊藤兵衛によるもので、彼は蘭癖(オランダ珍品愛好)大名から望遠鏡を見せられ、その模作に十数年の艱難辛苦を要している。そして、彼は大名や幕僚たちの蘭癖のネットワークを通じて各藩の蘭学者やオランダ通詞との情報交換や修理の要請、注文を受けたりしている。このものづくりの情報や経験が全国規模に交流され共有されていた。この蘭学のネットワークが、黒船来航に伴う天下大乱の時代に、そのまま、洋式軍艦・大砲・小銃製造のネットワークに移行したと考えてよい。開港とともに西からどっとやって来たものを「近代」のの衝撃と考えるなら、「在来」のなかにあったこの文化の体質は、「在来」が「近代」に圧倒されるのではなく、またそれを拒否するのでもなく、西から海を越えてやって来たものに対して好奇の目を輝かせ、積極的にそれらを取り込んで「在来」が新しい発展を開始することを準備し援けたのだと言えよう。

 

このような考察は、幕末開港のところから始まった日本の発展を、単に、西欧の影響とそれに対する日本の対応という角度だけから見るのではなくて、歴史的に何度も海の向こうからやって来た様々な影響との対応を通して、日本の内部に歴史的に蓄積され準備されていたものが、産業革命を通過した後にやって来た西欧からの衝撃に、どのように反応し対応したか、という角度から見る必要を示唆している。その点で、筆者が検討に値すると言っているのが、梅棹忠夫の「文明の生態史観」と川勝平太の「文明の海洋史観」である。

梅棹文明論は、ユーラシア大陸の西側端にある西欧諸国と東側の端の島である日本とを第一地域とし、その間に来る大陸の大部分の国を第二地域とし、二つの地域では、極めて異質な文明の発展かぜ展開されたことに注目する。第二地域は古代文明が発展した地域であり、そのとき第一地域は文明の辺境地域に過ぎなかった。しかし、大陸中央部の古代帝国は興隆と滅亡を繰り返すだけで停滞し、かえって大陸両端の辺境地帯で、古代文明からの影響を蓄積しつつ、持続的社会発展が維持され、その中から工業化を含む近代文明は生まれたと説く。第一地域の東西の辺境で古代文明の影響が蓄積され、持続的社会発展が可能になったという観察は鋭い。

川勝海洋史観は、陸地に着目して発想された「梅棹史観」に、海洋を通しての文明の交流という視点を加えることによって発展させる。例えば、コロンブスによる新大陸発見の後、ポルトガルとスペインの間で1494年トルデリシャスの協定が結ばれ、アフリカのベルデ岬西方の地点で地球を東西に分割し東半分はポルトガル、西半分はスペインの勢力範囲と決められた。東半分は、それまでの中東のイスラム商人を介して、地中海貿易でヴェネチアに運ばれていた三角貿易の経路が、東回り航路によって直接リスボン、そしてアントワープへと変わる。次のステップは1588年のスペイン無敵艦隊の廃滅により、イギリス・オランダによる海上覇権の争いに取って代わる。イギリスはアジアでの香辛料の交易はオランダに取られ退場を余儀なくされる。そこで、イギリス東インド会社は、それまで香辛料と交換する手段としてきたインド木綿を本国に持ち帰り、イギリス国内に需要を創出する戦略に転換する。16世紀後半から薄手の毛織物が流行していたしていた市場動向に合わせ、東インド会社は、薄手で軽く、仕立ての自由の点では格段に勝る木綿を売り込むため、インドの産地にヨーロッパの嗜好に会うデザインを教え、指導して作らせる。そして、色染めや捺染が容易で、染め色が鮮やかで、洗濯が利き色落ちせず、かつ価格は毛織物は3分の1と言われたインド木綿が17世紀末から18世紀にかけてヨーロッパで熱狂的流行を引き起こすのである。それは、イギリスの在来毛織物、絹織物業者に脅威を与え、各産地の深刻な衰退をもたらす。そこで、議会に圧力をかけ色物のキャラコの輸入と使用を禁止する。ただ注目すべきことは、無地のキャラコや木綿糸の輸入、また再輸出のための木綿製品の輸入は禁止しなかった。一旦大衆が木綿の魅力にとりつかれ、その需給構造が社会的に確立した後、その輸入や使用が禁止されたことは、二つの反応を引き起こす。一つは国内における模倣品の製作の促進である。それは禁止されていなかった無地間キャラコを輸入し、それに色捺染をほどこすことから始まり、キャラコの国産化、木綿糸の国産化、モスリンの国産化にいたる。もう一つはインドキャラコ再輸出の発展である。前者がイギリス産業革命の牽引車となる木綿産業の発展を導き、後者がその発展の基礎構造とも言うべき環大西洋木綿市場を開拓する結果を導き出す。18世紀末には軽い薄地布を最高とする価値観を伴う、広大な環大西洋木綿市場が形成される。そのときちょうど国内綿業が価格・品質両面でインド木綿を追い越せるところまできていた。それまでのイギリス国内では産業革命進めたことで有名な紡績機や織機が発明され、工場制生産体制が整えられていく、ランカシャー綿業の製品がリバプール港を通してインド木綿を置き換えながら輸出されていく。筆者が学生の頃読んだ本では、産業革命は、発明家の活動とその成果である新機械群と結びついて説明されるのが常であった。また経済史の角度から読んだ本では、農村手工業から、問屋制家内工業→マニュファクチュア→機械制大工業と言う生産様式の変化を通して誕生して来る家庭のクライマックスとして語られるのが常であった。いずれにしても、一国の範囲内の技術的蓄積、あるいは経済的発展のひとつの画期としての説明である。しかしそれだけでは、なぜ革命がそれまでのイギリスの主力産業であった毛織物業から起こらず、イギリスには全く存在しなかった木綿産業から起こったのか、ランカシャーという一地域に起きた産業発展が、なぜこれほど大きなインパクトをイギリスに与え、ひいては世界に与えたのかは説明できない。

2013年3月25日 (月)

ウォーレン・バフェット「株主への手紙」2012(13)

もし、気前よくお金を使える人、あるいは見物したい人は、土曜日の正午と午後5時にオマハ空港の東側のエリオット飛行に行って見て下さい。そこで、皆さんをドキドキさせるような、ネットジェッツの飛行機を目にすることができます。パスを手に入れて、プライベートジェットで帰りましょう。あなたのクレジットでOKです。

会議と他のイベントに入場するために必要とする証明書をどのように取得するかについて、レポートに同封した会議の招集通知が説明しています。航空会社は、バークシャの週末の間に、料金を値上げします。もし、遠くから来られるのなら、カンザスシティーとオマハに飛ぶ場合のコストを比較して見て下さい。ドライブは、それぞれ、21.5時間と2時間です。そして、特に、オマハで自動車をレンタルすることを考えているならば、目覚ましくお金を節約することができるでしょう。

ネブラスカ・ファニチャー・マートは、ドッジ・ストリートとパシフィック・ストリートの間の72番街に77エーカーの敷地にありますが、「バークシャーの週末」特別割引を再びやっています。昨年、この店は、年次総会のセールで3590万ドルを売上ました。その額、私の知る限りでは、他のどのような場所でも小売店の1週間のトータルを上回ります。バークシャー割引を受けるためには、4月30日の火曜日から5月6日の月曜日の間に買い物をし、さらに、その時に年次総会の証明書を提示しなければなりません。この期間の割引は、通常なら値引きに応じないような名門メーカーの製品に対しても、我々の株主のための週末の趣旨により、特別な例外を作り、なされています。我々は彼の協力に感謝しています。ネブラスカ・ファニチャー・マートは月曜から土曜の午前10時から午後6時、日曜日は午前10時から午後6時まで営業しています。今年は土曜日の午後5時30分から午後8時に皆さん全員を招待してピクニックを行います。

Borsheimsで株主のみを対象としたイベントを再び開催します。最初は、5月3日金曜日の午後6時から9時のカクテル・レセプションです。第2の、主なイベントは、5月5日の日曜日に開催され、土曜日の午前9時から午後4時まで、我々は日曜日の6時まで開いています。近年、この3日間の売上が、宝石商にとって最高の月である12月の売上を上回りました。

日曜の1時ごろ、私はBorsheimsで店員として勤める予定です。昨年、私の売上高は150万ドルになりました。今年は200万ドルに達するまでやります。日暮前には引き上げなくてはならないので、意欲満々です。私をたずね、「狂ったウォーレン」価格を交渉してみましょう。

週末を通してBorsheimsには巨大な群衆が集まるでしょう。従って、ご参考までに、株主価格は4月29日から5月11日まで可能です。その期間中、バークシャーの株主であることを会議の招集通知が仲介証明書を提示して、証明してください。

日曜日にBorsheims外側のモールで、2回の米国チェス・チャンピオンに輝いた盲目のパトリック・ウルフがやってきます。6つのグループのうち彼の眼を見開かせるものは出て来るのか。その近くで、ダラス出身の注目すべき魔術師ノーマン・ベックは見る人は驚かせます。さらに、我々は世界最高のブリッジのプレイヤーであるボブ・アマンとシャロン・オスバーグの日曜の午後に二人が株主の皆様とブリッジができるのです。お金は賭けないように。

ゴラットとピッコロは再び、5月5日はバークシャーの株主のために空席を設けています。両店とも午後10時まで確保しています。ゴラットは午後1時の開店から、ピッコロは午後4時の開店からです。これらのレストランは私のお気に入りで、私は日曜の夕方はどちらの店にも寄ります。

我々は同じ3人の財政的ジャーナリストに再び会議で質疑応答期間を導かせます。そして、チャーリーと私に株主が電子メールで彼らを受け入れたという質問をします。 ジャーナリストと彼らの電子メール・アドレスは、以下の通りです:フォーチュンのキャロル・ルーミス; ニューヨークタイムズのアンドリュー・ロス・ソーキン;CNBCのベッキー・クイック。

寄せられた質問から、各ジャーナリストが面白い、重要だと決めた6つを選びます。皆さんの質問は簡潔で、時間ぎりぎりの提出にならないようにして、バークシャーに関係していて、1通のメールに2つ以上の質問が入っていなければ、選ばれる可能性があるとジャーナリストは、私に話してくれました。(電子メールには、質問が選ばれた時に質問者である皆さんの氏名を明かしてよいかどうかを書き添えて下さい。)

昨年は、バークシャに従う3人のアナリストによる第2の委員会がありました。すべてのメンバーは保険の専門家でしたが、株主の皆さんからもう少し多様なメンバーを入れるような提案がありました。したがって、今年は1人の保険アナリスト、野村証券のクリフ・ガイがいます。ルアネ・クニフ・アンド・ゴールドファーブのジョナサン・プラントが非保険活動に対するためアナリスト・パネルに加わります。

最後に、スパイスを利かせて、パネルにバークシャーの資格を与えられ、あまり株式を持っていない人をパネルに加えたいと思います。まだ決まっていませんが、適当な人に応募してほしい。ただ一つ求めるのは、投資専門家でバークシャーに対してネガティブな人です。3人のアナリストは独自の質問も持っていますが、自身の質問をする時は株主の皆さんに混じって手を挙げます。

チャーリーと私は、株主がみな新しいバークシャー情報に同時にアクセスするべきでありさらにそれを分析する適切な時間を持っているべきである、と信じます。それは、我々が金曜日の市場終了近くに財務情報を出し、土曜日に年次総会を行う理由です。我々は、機関投資家やアナリストとの1対1のミーティングを行いません。我々の望みはジャーナリストとアナリストが投資について株主の皆さんを教育するような質問をしてくれることです。

チャーリーも私も質問にたいしててがかりも持っていません。我々はジャーナリストやアナリストがタフな人であることをしっており、それを我々は望んでいます。我々は少なくとも全部で54の質問があると思っています。それぞれのアナリストとジャーナリストから6個ずつ、会場から18個を考慮に入れてです。若干の延長時間があれば、会場から追加を受けます。会場の質問者はアリーナと主なオーバーフロアにある11本のマイクロフォンに8時15分に待機してください。

 

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マネージャーたちを私がほめたたえるのは正当なことです。彼らこそ、本当のオールスターです。あたかもそれらがそれらの家族によって所有されたただ一つの長所かのように、彼らはそれらの事業を営みます。私は、それらの考え方が大きな公営企業の宇宙で見つけることができるのと同じくらい株主指向であると考えます。実際に働く際には金融的なことは必要ありません。ビジネスでホームランを打つ喜びはかれらには給料を受け取る以上なのです。

しかし、同じように重要なのは、我々の1階のオフィスで働く23人の男女です。

このグループは、効率的にSECに対応し、21500ページの連邦法人税申告や州や外国への申請、無数の株主およびマスコミの調査に応答する、外に出る、年次報告、国の最大の年次会議の準備をしています。

彼らは陽気に信じがたいほど効率的に、これらのビジネス作業すべてを取り扱います。そして、私の人生を安楽で楽しくします。彼らの努力は厳密でバークシャーの関連範囲を上回ります。昨年、200の申し込みから選ばれた48の大学から来た大学生のQ&Aの対処をしてくれました。彼らはまた、私が受け取るありとあらゆる提案書を取扱い、旅行の手配をし、私の昼食のためのハンバーガーの用意もしてくれます。これほど恵まれたCEOはほかにいないでしょう。私は毎日タップダンスを踊りたい気分で働いています。

この本社のメンバーに対して、マネージャーに加えて、私は最も深い感謝を持っており、同様にあなたのものに相当します。では5月4日、資本主義の揺り籠、オマハで会いましょう。

 

バフェットの手紙は、これで終わりです。拙い訳にお付き合いいただき、ありがとうございました。

2013年3月24日 (日)

ウォーレン・バフェット「株主への手紙」2012(12)

年次総会

年次総会は5月4日土曜日にセンチュリー・リンクセンターで行われます。昨年、キャリー・ソバが担当です(新しい名前ですが、昨年と同じ素晴らしいキャリーです。彼女は非常に幸運な男性と6月に結婚しました)。我々本部グループはすべて彼女を助けるために協力しています。すべて自前でやります。私はそれをまとめる人々を誇りに思っています。

開場は午前7時です。7時30分に、第2回「新聞の投函に挑戦」を行います。目標は、クレイトン・ホームの玄関から正確に35フィートのところです。昨年は、私はすべての挑戦者をうまくしりぞけました。しかし、今、バークシャーは多くの新聞社を取得し、多くの才能が集まりました。それらの才能が彼らの投函と一致するか確かめるのを見に来てください。新聞は36から42ページ。皆さん自身で探して下さい。

8時30分からバークシャーの映画をお見せします。1時間後に質疑応答を始めます。センチュリー・リンクでの昼食の中断をふくめ3時30分まで行います。短い休憩の後、チャーリーと私は3時45分から年次総会を招集する予定です。日中の質問の時間に退席するようなら、チャーリーが話している間にしてください。

勿論、退席するもっとも大切な理由は買い物をすることです。我々は子会社からの製品でミーティング会場に隣接した194,300フィートのホールをいっぱいすることで、皆さんの買い物をお手伝いします。昨年、皆さんには本分を尽くしていただきました。おかげで大部分の場所で記録的な売上を達成しました。9時間の間に、1,090本のジャスティン・ブーツ(30秒で1組)、10,010ポンドのシーズ・キャンディ、12,879本のクィックナイフ(毎分24丁のナイフ)、5,784組のウェズラモント手袋(常に暖かいもの)を、我々は売りました。(私が焦点を合わせるのは、お金です)覚えています: お金が単に幸福を買うことができないと言うだれも、私たちのミーティングで買い物をしていません。

昨年、ブルックス(ランニング・シューズの会社)は初めて参加して15万ドル売上ました。ブルックスは燃えています。2012年のボリュームはブルックスは34%成長し、2011年の同程度の利益率34%となりました。会社は2013年にはさらに23%の成長を期待しています。我々は、限定版の「バークシャー・ハサウェイ・ランニングシューズ」を待っています。

日曜日の午前8時から「バークシャー5K」をセンチュリーリンクで始めます。参加のための全詳細は、会合のための信任状で受け取るビジター・ガイドに書かれています。メディアのための一つを含む様々な種類のレースを用意しています。(そこでのパフォーマンスが報道されるのは楽しみです。)残念ですが、私はランニングは控えます。誰かがスターターとして号砲を鳴らなければならないのです。

我々には特別な才能があることを警告しておきましょう。テッド・ウォシュラーは3.01にマラソンを走りました。ジム・ウェーバー(ブルックスの精力的なCEO)は3.31の最高のスピードスターです。トッド・コームズはトライアスロンが専門ですが、5Kで22分の記録を出しています。

しかしながら、まさに始まりです。我々の取締役は足(我々の取締役の何人もそうです)の部隊でもあります。スティーブ・パークは2.39でボストン・マラソンを走りました。(彼の家族もそうで、妻のグレチェンは3.25でニューヨークマラソンをフィニッシュしました。)シャーロット・ガイマンのベストは3.37です。スー・デッカーは3.36でニューヨークでテープを横切りました。チャーリーのアンケートは戻ってきていません。

ガイコは、国中から何人かの最高のカウンセラーの職員をブースに置いているようにします。そして、彼ら全員が皆さんに自動車保険の見積もりができるよう、準備ができています。ほとんどの場合、ガイコは、皆さんに通常の8%の株主割引をすることができます。この特価提供は55の管区のうち44で許されています。今ご利用の保険の詳細を持ってきてくだされば、我々が保険金を節約できるか否かにかかわらず、チェックします。少なくとも、半分の方には、保険金を節約することができると思います。

ブックタウンを必ず訪問してください。何冊かの新刊を含め35冊以上の本とDVDをお届けします。キャロル・ルーミス(1977年以降、この手紙を編集する際に非常によくやってくれました)は最近、タップダンスの入門書を刊行しました。ウォーレン・バフェットについては、彼女と私の連著でミーティングで使用する500部を作りました。

ウィリアム・ソーンダイク・ジュニアのアウトサイダーは主要な部分で優れていたCEOに関する素晴らしい本です。我々の取締役であるトーマス・マーフィー、私のこれまでに出会った中で最高の経営者の一人について洞察に充ちた章が割り当てられています。また、ジャック・ボーゲルとローラ・リッテンハウスによる文化の衝突を推薦します。皆さんがこれらの本を購入する場合は近くに便利な船便の利用で可能です。

オマハ・ワールド・ヘラルドは再びブースを持っています。そして、最近出版した2~3の本を提供しています。Redblooded Huskerのファンは、ネブラスカに一人いるかどうか、欲しくてたまらないものでしょう。1993~97年のネブラスカのフットボールチームの歴史です。

2013年3月23日 (土)

ウォーレン・バフェット「株主への手紙」2012(11)

しかし、さらに我々をハッピーにする別のアプローチがあります。このシナリオの下では、我々はすべての収入を会社に残します。そして、我々は毎年株式の3.2%を売り出します。株式は帳簿価格の125%で売られるので、このアプローチはまず4万ドルの現金を産出し、これは毎年増大していくでしょう。このオプションは「売却」アプローチと呼んでいます。

この「売却」シナリオの下では、我社の自己資本は10年後に6,211,696ドル(200万ドルを年12%複利で)まで増加するでしょう。我々は毎年株式を売っているので、我々の所有パーセンテージは落ちてきました。そして、10年後の我々の所有率は36.12%になるでしょう。それでる、その時の会社の自己資本に対する皆さんのシェアは2,243,540ドルになります。そして、忘れないでほしいのですが、我々それぞれに起因する自己資本の1ドルは1.25ドルで売ることができるのです。したがって、皆さんの残りの株式の価値は2,804,425ドルとなり、皆さんが配当アプローチに従っていた場合に比べて4%おおきくなるでしょう。さらに、「売却」政策によって皆さんが毎年受け取る現金は配当シナリオで受け取ったであろう現金より4%多くなっているでしょう。ほら!皆さんは、毎年より多くの現金とキャピタルゲインを得ることができるのです。

もちろん、この計算は、我々の仮説上の会社が毎年平均で自己資本の12%の利益をあげることができ、株主は株式を帳簿価格の平均125%で売ることができることを前提にしています。その点では、スタンダード&プアーズ500は自己資本の12%以上の利益をあげ、その自己資本の125%を上回る高値で売られています。確かな保証はありませんが、両方の仮定はバークシャーには合理的なようです。

さらにプラスの側面として、仮定を上回る可能性もあります。もしそうなら、「売却」方針に対する議論はさらに強いものとなります。バークシャーの歴史を通して、売却政策は配当政策よりも劇的に株主の皆様に良い結果を生み出していたのです。

好ましい数字に加えて、さらに2つの重要な売却政策に関する議論があります。第1に、配当はすべての株主に特定の現金払いを強いるものです。利益の40%が方針であるならば、30%あるいは50%を望む人の意に沿いません。我々の60万人の株主は現金に対する求めをそれぞれ持っています。しかし、彼らの多く、ほとんどすべては、貯蓄を志向しており、支払を好んでいないといっても差し支えないのです。

他方、売却政策を選択した場合、各々の株主は現金の受取か資本の増強のいずれかの選択を迫られることになります。ある株主は年間利益の60%の現金化を選択し、別の株主は20%か全くしないことを選択することができます。もちろん、配当を支払うシナリオにおいても株主は、振り返って、配当を株式の購入に割り当てることもできました。しかし、そのような場合には損失を蒙ることになるでしょう。配当を再投資に回すためには税金を払い25%のプレミアムを払わなくてはなりません。(忘れないでほしいのは、公開市場では株価は帳簿価格の125%となるのです。)

配当アプローチが不利な第2の点は同じように重要なことです。すべての株主が税金を払うことは、通常の場合売却プログラムにおける場合に比べて不利です。配当プログラムにおいては毎年株主が受け取る現金のすべてに税金が課せられるのに対して、売却プログラムでは現金の増加部分のみに税金が課せられのとどまるのです。

お勉強はこのくらいにしておきましょう。歯医者のドリルを片付けたので、皆さんはほっとしているのではないかと思います。私自身の例を使って説明しましょう。株主が定期的に自身の株式を処分することは、さらなる投資に導かれることになるのです。最近の7年間で、私はバークシャーの持ち株の4.25%ずつを毎年取り崩してきました。このプロセスにより、分割調性したB株式712,497千株相当の私のポジションは、528,525,623株まで減少しました。明らかに、私の会社に対する所有率はかなり減少しました。

しかし、ビジネスへの私の投資は実は増加しました。バークシャーに対する私の現在の持ち分は帳簿価格で7年前の持ち分の帳簿価格をかなり超えています。(実際の数字は、2005年の282億ドルであるのに対して、2012年は402億ドルです。)言い換えると、たとえ会社の物理的な持ち分が減ったにもかかわらず、私がバークシャーで現在、より多くのお金を働かせています。バークシャーの固有のビジネス価値と通常の会社の収益力の両方に対する私の持ち分は2005年時点のそれより、遥かに大きくなっているのです。時の経過とともに、私のこの価値は累積し続けています。たしかにイレギュラーに方法ではあるでしょうが、私は、現在では年間で私の株式の4.5%以上を取り崩しています。

 

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とくに配当政策は、常に明確で、首尾一貫していて、合理的でなければなりません。気まぐれな方針は株主を混乱させ、これから投資しようとする人を遠ざけてしまいます。フィル・フィッシャーは54年前に彼の著書Common Stocks and Uncommon Profitsの第7章でうまいこと言っています。真剣な投資家にとって最良の書籍リストのなかでThe Intelligent Investor1940 edition of Security Analysisの次にランクされる本です。フィルは言います。あなたはハンバーガーか、あるいは中華料理のレストランで成功することはできる。しかし、二つのうちの間でフラフラしていることはできないし、そんなことをしていればお客さんが付かない。

殆どの会社は首尾一貫して配当を払おうとします。そして、毎年増配しようとする一方で、減配には渋々行います。我々の「ビッグ・フォー」はこのような分別のあるアプローチに従い、特別なケースでは、攻撃的に株式を買い戻します。

我々は彼らの行動に拍手を送って、彼らが現在の行く手で続けることを望みます。 我々は増配が好きです、そして、我々は適切な価格で買戻しが好きです。

しかしながら、バークシャーでは、我々は異なったアブロートを一貫して取っています。皆さんがこの文章を読んで理解していただいたアプローチです。我々は、帳簿価格の増強と市場のプレミアムについての仮説が合理的と信じられるかぎり、この方針を続けていきます。しかし、それらの要因による見通しが悪化するように、再検討します。

ウォーレン・バフェット「株主への手紙」2012(10)

配当

私の数人の親友を含む多くのバークシャーの株主は現金の配当を受けたいと思っています。我々がバークシャーが保有している大部分の株式からの配当を楽しみしているが、我々自身は配当を支払わないことに、皆さんは当惑されているでしょう。それで、配当がいつ株主に意味をなし、意味をなさないかを説明しましょう。

収益の多い会社は、様々なやり方で(互いにかち合うことなく)、その収入を割り当てることができます。企業のマネジメントは現在の事業状況によって明らかになる再投資の可能性を最初に検討しなければなりません。それは、より効率的になることであり、地域を拡大させることであり、生産ラインを増やしたり改善することであり、さもなければ競争相手から会社をまもる参入障壁を築くといった計画です。

私は子会社のマネージャーたちに、いつも障壁を大きくする機会を逃さないように言っています。そして、彼らは経済的な意味を多く見出します。しかし、マネジャーは時に不発に終わってしまうこともあります。たいていはうまくいかなかった原因は、彼らが望んでいる答えからスタートして、後になって根拠となる正当性を探すからです。もちろん、そんなプロセスは潜在的なものです。しかし、それはとても危険なことです。

皆さんの議長は、この過ちとは無縁ではありませんでした。バークシャーの1986年の年次報告の中で、我々の織物事業において20年にわたる経営努力と設備改良が、どのようにして無益な結果に終わったかを説明しました。私はビジネスの成功を欲するあまり、一連の誤った決定に自ら進んで行ってしまいました。(私は、さらにもう一社ニューイングランド紡績会社の買収までも行ってしまいました。)しかし、願望はディズニー映画の中でのみ実現するような夢を作り出します。それはビジネスの毒です。

そのような過去の過ちにもかかわらず、我々の利用できる資金をもちいた最優先事項は、様々な事業で賢明に進むことができるかを常に調べることです。2012年における121億ドルの固定資産投資と事業譲渡による取得と言う記録は、これがバークシャーの資金配分の肥沃なフィールドであることを証明しています。そして、ここで我々には利点があります。我々は、あまりに多くの経済領域に手を広げているので、他のどの会社もできないほど広い範囲から選択することができます。何をすべきかを決める時に、我々は雑草を飛び越して、花だけに給水すること可能なのです。

我々が現在の事業に多額の資金をつぎ込んだとしても、バークシャーは多額のあらたな現金を定期的に生み出してくれます。したがって、我々の次のステップは我々の現在の事業は無関係のビジネスを獲得するために捜すことです。ここでの我々のテストは簡単です。我々の買収が、株主の皆さんの1株当たりの裕福さが買収の前より進んでいるということが可能であるとチャーリーと私が考えられるかです。

私は、買収においてたくさんの誤りをしてきました。そして、これからもやってしまうでしょう。しかし、全体として、我々の記録は満足すべきものです。それは、我々が資金を取得のために使ったことにより、自社株取得や配当にその代わりにつぎ込まれたならば成れたであろう裕福さ以上になっている、ということを意味しています。

しかし、標準的な断り書きで使われるような、過去のパフォーマンスは将来の結果を保証するものではありません。それは、とりわけバークシャーでは真実です。現在の我々の規模のゆえに、意味があって賢明な買収をすることが、これまでの大部分の年にできていたよりも難しくなっています。

それでも大規模な取引は、まだ、我々に1株当たりの本源的価値を実質的に増す可能性をもたらしてくれます。BNSFはその適例です。現在の価値は我々の帳簿価格をかなり上回っています。配当や自社株取得に、この買収に必要とされる資金を割り当てていれば、皆さんも私も酷い状態になっていたでしょう。BNSFのような大規模な例は珍しいものですが、海にはいまだ何匹かの鯨が泳ぎ回っています。

3番目の資金運用として自社株取得です。会社の株式が保守的に算出された本源的価値に対して意味ある割引価格で売られたのを引き取るのなら、会社にとって意味のあることです。確かに、規律を守って行う自社株取得は賢く資金を使う方法です。皆さんも1ドル札を80%以下で買うことができれば、失敗することはないでしょう。我々は、昨年の報告書で自社株取得の基準について説明しました。そして、機会に恵まれれば、我々は大量の自社株を買います。我々は帳簿価格の110%以上は払わないと、当初は言いましたが、それは非現実的であると分かりました。したがって、我々は大きなブロックが帳簿価格の約116%で買えることができる時、12月に120%まで限度を上げました。

しかし、次のことは決して忘れません。自社株取得の決定において、価格は非常に大切です。購入価格が本源的な価値を上回ってなされれば、価値が崩壊することになります。取締役も私も、継続的な株主は、我々が120%まで購入限度を引き上げたことにより、意味ある利益を得られたと信じています。

そして、配当の話に移りましょう。ここで、我々は少しの仮定と若干の数字を使用しなければなりません。数字の扱いは注意深さを必要とします。しかし、それらは配当にたいして賛成と反対のケースを理解するために必須なのです。だから、堪忍して下さい。

我々は、皆さんと私が200万ドルの自己資本によるビジネスの同じ所有者であると仮定するところから始めます。その事業は自己資本に対して2%、つまり24万ドルの利益を生み出します。そして再投資すれば、それに対して同じように2%の利益を得ることができると合理的に考えることができます。さらにまた、自己資本に対して125%で購入したいと常に考えている部外者がいます。したがって、我々か現在それぞれ所有しているものの価値は125万ドルです。

皆さんは、株主である我々二人は会社の年間利益の3分の1を受取り、3分の2を再投資させたいと思いました。その計画は、現在の収入と資本の成長の間で皆さんが求めたバランスのとれたものであると思われるでしょう。それで、皆さんは現在の利益の8万ドルを支払いに回し、16万ドルを企業の将来の成長のために保持しておくことを提案するでしょう。最初の年には、皆さんの配当は4万ドルです。利益が増え、3分の1の支払いが維持されたので、配当もまたそれに従うでしょう。全体として、株価と配当は毎年8%増加していきます。(外へ払われる自己資本の4%を差し引いた自己資本の上で得られる12%

10年後に、我社は4,317,850ドル(200万ドルの元本を8%複利で)の資本金を持てるでしょう、そして今度の配当は86,357ドルになるでしょう。我々は、それぞれ2,698,656ドル(会社の自己資本の半分の125%)の価値を持つ株式を所有していることになります。それからも、我々は配当と年8%で我々の株式の価値が成長していくことにより、ハッピーでいられるでしょう。

2013年3月21日 (木)

「エル・グレコ展」(9)~近代芸術家エル・グレコの祭壇画:画家、建築家として

Grecocon『無原罪のお宿り』を見ていきたいと思います。今回のグレコ展では展示されていた『受胎告知』『聖衣剥奪』といったグレコの有名な作品の中でも、有名な同主題の作品の習作か、後年に再制作されたもので、サイズが小さかったり、イマイチ気合が入っていなかったり(中にはアリアリ!)というものもありましたが、これは正真正銘のものです。絵を鑑定するとか、そういう人ではないので、私はあまり気にする方でもなく、レプリカだからどうだということを気にするタイプの人ではないのですが、一部で、塗りがいかにもぞんざいなのが明らかなのを見ると興ざめというのも、慥かになかったわけではありません。もっとも、私なぞは、「グレコの絵」だと示されれば、それが偽物であったとしても、それをそんなものだと信じて、あれこれと想像をめぐらして遊んでしまうので、このように感想なぞを書き連ねているのも、実はグレコの絵画作品がどうこうというよりも、それらしきものを見ている自分を書きたいのかもしれません。といった、メタ・レベルの戯れには、あまり深入りしないで、作品について思ったことを書きつづっていきます。

グレコっていうと、黒っぽくて、全体がぐにゃぐにゃで、とくに人物が蛇みたいに引き伸ばされて…という印象を持たれていると思いますが、まさにその典型、特徴テンコ盛りの作品です。トレドのオパーリュ礼拝堂の壁の壁龕に飾られるために制作されたものだということです。つまり、礼拝堂の高い天井と壁面を見上げ視線を意識して意図的に構図や構成が考えられているということです。

“オバーリュ礼拝堂は、その建築構造が絵画における人物配置や構図と一体と化している。祭壇を最上部にまで拡大する代わりに設けられた窓は、『無原罪のお宿り』中の光の表現の一部となり、聖霊を表す鳩はこの自然の光源から飛んできたかのように見える。画面左下に見える、トレドの町のランドマークは、マリアの隠喩としての神の都市を象徴する。最前線に描かれた、聖母の純潔を象徴するバラとユリは、この作品のすぐ下に本来置かれたはずの祭壇を飾る花であるかのようだ。マリアの蛇のように曲がりくねった人体は、まるで観者が彼女の目の前に移動して見ているかのように、多様にして複雑な視点が設定されている。そして極端な短縮法で描かれた天使の翼がその効果を増大させている。観者が動いたとしても、V字型に開いた翼は常にその頂点を見せ、天使がその軸を中心に常に回転しているかのような効果をもたらしている。エル・グレコは、大胆な構図を用いて生き生きと「動く」絵画の彫刻的な可能性を示し、ダイナミックであるべき芸術殺品の静的な理解を否定した。あたかも実在するかのような、運動するヴィジョンを絵画に求めたのである。そして、現実の環境と絵画芸術が相互に浸透し合う可能性を新たなアイディア、仮説として提示した。つまり、絵画が自然の一部になるのと同様、自然が芸術表現の一部になる、というわけである。”

長い引用になりましたが、最後の考察はちょっと蛇足に感じられたのを除いて、この作品が描かれた意図が説明されていると思います。縦長の構図は作品が飾られた上にある窓の光源に向けて人々の視線を上へ上へとリードしていくように、そして、作品を人々が見上げることを前提に、下から見上げるような視線を意識して描かれている。そのため、下からの視線でそれらしく見えるために縦長に描くと、人間はひょろ長くなってしまうわけです。それを後世になって、真横から鑑賞することになれば、下からみられて寸詰まりにならないように描かれていたのが、ひょろ長く見えてしまうというわけです。くねくねしたように全体になっているのは、人々の視線を上を導くための動きを誘発することと、画面全体にダイナミックな動きを与える効果を生み出している、ということでしょう。人物(ここではマリア)が最大の優美さ生命感を持ち得るのは動いていると見えることであるとして、この動きをキャンバスの上で表わすために、ろうそくの炎のゆらめきのような、ゆらゆらと揺れて上に昇って行くさまを参考に、上昇気流のように螺旋を描いて上昇していく構図となったということでしょうか。

そこに、現ある物を写す、というのではなく、描くからこそできるもの、描かれたものが現にあることになるという、見えるものと見えないものの境界を限りなく曖昧にしていく、グレコの認識がよくうかがえるものとなっていると思います。

Grecocon3しかし、そこで少し立ち止まって考えてみたいと思います。そもそも無原罪のお宿りというのは、イエスとその聖母であるマリアはアダムとイブ以来の原罪であるセックスを経ずに神の恵みの特別な計らいで生まれた、つまり原罪を免れていたという教義です。人間は生まれながらにして原罪を背負っているもので、それを溶くのは神の愛でしかない。しかし、聖母マリアはその原罪すら背負わない純粋で清らかな姿で生まれた、という、いうなればキリスト、マリアの清浄さを強調するような教義です。それをグレコの、この作品はこれほどダイナミックでドラマチックに仕上げる必要があったのでしょうか。というのが根本的な疑問です。今回の展示でも、グレコの別の『無原罪のお宿り』が展示されていましたが、むしろ、これとは違って、淡く明るい色彩で、落ち着いた感じの作品で、清浄さというなら、むしろこちらの方に感じられると思いました。

同じ題材を扱った他の画家の作品でも、例えばスペインではムリーリョやスルバランの著名な作品がありますが、それらを見ていただくと、グレコのこの作品のようなものとは正反対の、静的で淡い色彩の落ち着いた作品になっています。

では、どうしてグレコだけ、このようなユニークな『無原罪のお宿り』を制作したのか、それには、グレコだから、と答えるしかないのかもしれません。これは答えになっていませんね。でも、このようにえがいてしまうのが、ぐれこという画家で、それを好ましいと思うか、変だと思うかで、グレコ画家を好むかどうかの分岐点になるのではないか、と思います。それが、絵画鑑賞の愛好者としての私の正直な感想です。私自身、これまで、グレコの作品の特徴等に関して、現代の私を取り巻く環境に引き寄せて、それなりに(強引に)考えてきましたが、どうしても。この一点だけは、自分なりに納得することができませんでした。それが、私とグレコの作品との間にある一つの隙間のようなもので、それは結局、今回の展示を見た限りでは埋めることはできなかったというのが、今回の最終的な感想です。

2013年3月20日 (水)

「エル・グレコ展」(8)~トレドでの宗教画:説話と祈り

Grecofranおそらく、今回の展覧会コンセプトとしては、このコーナーがまとめとなるのではないかと思います。その割には、展示されている作品が少ないと言うか、貧弱のような気がしますが。カタログや展示解説では、こう述べられています。

エル・グレコは肖像に描いた周囲の人々のみならず、数多くの聖人を祈念像として身近な場面の中に表わした。その表現は、彼の確固たる考えに基づくのであろう。エル・グレコは、崇高ながらも時に観者を見つめ返し、その視線に応えるほどに親しみ易い半身の聖人像を生み出した。彼らは我々と同じ身体を持つ人間として、それぞれに身ぶりや個性を与えられている。つまり、エル・グレコは、それまでの冷ややかで格式ばった、よそよそしい聖人像に生命を吹き込んだのである。一方、宗教主題の中には説話を伝えるものもあり、そのため複雑になることもあった。エル・グレコは、聖書の物語を実際に起こり得たように、その光景を思い浮かべて描いている。従って奇跡のシーンは場合により、その舞台である地上世界と混在することになった。というのも「神聖なるもの」は顕現の際、摂理により肉体や空間の概念、つまり地上的な現実を覆したに違いないからである、それゆえに「みえないもの」は「見えるもの」の一部となったのである。

論文みたいに難しげに書かれていますが、要は、この美術展で生き生きとした人物像の肖像画を描いたグレコは、その技法で宗教画でも聖人たちだって人間なのだからと、今、目の前にいる人のように描いてみせた。しかし、聖人は普通の人ではないから聖人なのであり、それを表わすには、聖書に記された奇跡とか説話といったストーリーがどうしても必要になって来るので、それを巧みに描き込むことで特別な人であることが、分かるように、その際に、グレコが導入したのが、物語に書かれていた、実際に現実にあり得ないことを現実の日常の場面の中に入れ込んでしまうことだった。画家は目で見たことを描くという特性から、「見えないこと」と「見えること」ことを一緒に描くという新たな表現方法に結実したということでしょうか。そういうように確立した手法を駆使することをギリシャからイタリアを経た遍歴の上に、スペインに落ち着いたことで成熟を迎え、宗教的な作品を工房を構えて次々と世に送り出していくことになった。

その時に、この解説に書かれている手法というのは、これを見る人々がリアルに自分のこととして実感し、カトリック信仰に危機感があった時代状況ということからも人々を信仰につなぎとめるといういともあったことだろうから、単に聖人や聖書の説話が分かるというだけにとどまらず、人々を祈りに引っ張ってこないといけないわけで、そのためのものとしてグレコの働きか期待されていたと思います。そして、グレコはされに応える作品を送り出した。ということではないかと思います。

Grecoseii_2手始めに、『瞑想する聖フランチェスコと修道士レオ』を見てみましょう。言うまでもなく、アッシジの聖フランチェスコは「小さき花」や清貧をモットーとするフランチェスコ会という修道会を始めたということ等あってカトリック聖者のなかで、もっとも親しまれ人気のある聖人です。それを題材とした聖人画です。“画面全体を覆っている茶褐色のモノクロームの色彩は、聖人が隠棲したアルヴェルナ山の小さな洞窟の内部を想起させつつ、観者の精神を内省へと導き、ひいては画中の聖人たちを手本とする深い瞑想の世界へと誘う。粗末な僧衣に痩せ細った小さな身体を包み込んで聖人は細い指で注意深く手のひらに支え持った頭蓋骨を凝視しながら死への瞑想に耽っている。頭蓋骨は本作の精神的な焦点として画面のほぼ中心で光に照らし出されており、この作品は聖人たちに倣ってこの頭蓋骨を見よ、そして死を想えと、瞑想と悔悛の実践を観者に促している”というように解説に説明されています。左下で跪く修道士は顔が描き込まれておらず、聖フランチェスコの顔は瞑想しているような静けさを湛え、身体は覆っている僧衣が毛羽立つように描かれているため輪郭がぼやけ、明確な輪郭線が見分けられず、灰色の僧衣と茶褐色の背景とが溶け合うように見えて、神秘的で瞑想的な雰囲気があります。そこでは、グレコ独特の粗っぽい筆遣いが画面の雰囲気にマッチしているように見えます。この作品は銅版画にされ広く人々に出回ったということです。たしかに、親しみ易いといえば、そうかもしれません。後世のカラバッジォの描く聖フランチェスコの峻烈さはここにはなく、瞑想的な静けさが漂っています。そこには、ひとつの意図が透けて見えるようにも思えます。

次に『聖衣剥奪』というのは、兵士たちに衣服を剥ぎ取られるキリストの受難の場面を描いているもので、展示されているのは、トレド大聖堂に飾られているものを晩年にレプリカとして制作されたものだそうです。そのため仕上げは雑になっています。しかし、その方が却ってグレコの特徴を良く出しているのかもしれません。ここでのキリストは特別な存在として際立たせて描かれていない。というのも、人々の中では、ワンオブゼムになっています。宙に浮いているわけでもない、光輝に包まれているわけでもなく、他の人より大きく描かれているわけでもない。かろうじてキリストと分かるのは、それらしい顔かたちと一人だけ赤い衣を身に着けている(兵士の軍服を着ていないこと。この軍服は古代のではなく、描かれた当時の甲冑や軍服のようです)。そして、顔の表情が、他の兵士たちが興奮して感情を露わにしているのに対して、キリスト一人だけが穏やかな表情を湛えて上(天)を向いていることです。キリストは兵士たちから難を受けながら、かれらの方を見るでもなく、下方に俯くでもなく、天を見ている。そして画中で上方に顔を向けているのはキリストだけです。これらのことは、ここで言葉にすれば、そうだということかもしれませんが、実際に絵を見てみれば、それほど目立つことではありません、しかし、見る人は一目でキリストと分かる。そういうように描かられています。しかし、特徴的なことは、キリストもそうですが、それ以上に周囲の兵士たちです。彼らはキリストと同じような存在感を持っているのです。背景として一歩退いているわけではないのです。だから画面には、様々な人々が満ち溢れエネルギーに満ち満ちているかのようです。展示されているものはレプリカで小さなサイズですが、ほんものの聖堂内の壁面を飾る大画面で見た場合には、満ち溢れるエネルギーに圧倒されるのではないかと思います。それらが粗いタッチでグレコの肖像画に見られるような生き生きとした人物たちが群像としてキリストに迫ってきているというわけです。これは、適切に喩えではありませんが、1970年代の日本映画に『仁義なき戦い』というやくざ映画がありました。深作欣二が監督した映画ですが、それまでの映画の常識を破って主役級の俳優が演技をしているところに端役の無名俳優が遠慮なく絡んでいきます。伝統的な映画では主役が目立たないといけないのですが、やくざのチンピラを演じている端役たちが本来なら主役の位置すべきスクリーンの真ん中の目立つ位置を取り合う競争を始めます。そうすると、主役級の看板俳優たちも、自分が霞んでしまう。映画の物語は太平洋戦争後の焼け跡の中で旧来の秩序が崩壊し、新興のやくざがのし上がっていくストリーリーですが、その画面での目立ちたがりの競争が新旧のやくざの存在をかけた抗争に擬せられて、凄まじい迫力に漲っていた作品となっていました。いわば、それまでの映画の転倒的な予定調和をぶち壊した作品になっていました。話を戻しますが、『聖衣剥奪』に描かれた兵士という群衆には、そういう迫力があります。それは、歴史画で背景として描かれた群衆にはない生々しさで、もしかしたらグレコは絵画の世界で群衆を発見したと言えるのかもしれません。群衆の背後に林立する槍は、単なるデザインを超えた生々しい迫力を放っています。また、映画の話に脱線しますが、光学カメラというのは焦点を一点に絞ってピントを合わせます。だから、画面の中心に主役宅の俳優とか、とにかく映したいものを持ってきて、その周囲は焦点が段々とボケて行きますから背景としていくわけです。これは光学カメラの機能上の条件でもあるわけですが、そういう枠組み、視野の作り方は西洋絵画の遠近法の作り方そのものです。しかし、パンフォーカスというピントを解放するという特殊な技法で、画面全部にピントが合ってしまう技法があります。ただし、これは一瞬の偶然の結果のようなもので、何時も出来るとは限らない技法です。例えば、黒沢明の「椿三十郎」の最初のところで、主人公の三船敏郎が潜んでいるお堂の観音開きの扉をパッと開けて敵方の前に登場するシーンがありますが、そのとき三船敏郎の背後のお堂の内部が暗がりであるにもかかわらず、隅から隅までピントが合っていてくっきりと隠れている加山雄三たちの姿が見えるのは、そのパンフォーカスの効果です。多分、こんな神業のような撮影がさりげなくできるカメラマンはいないでしょう。淋しいことです。さて、そのような中でも、キリストが霞まないで静謐さが際立っているわけです。これこそ、日常の現実の中に神秘的な見えないものが一緒に描き込まれている例として考えてもいいと思います。それは、グレコの写実を追求しない、見えるものだけを忠実に描くと言うことをしないことから、背景を緻密に描き込まないことから可能になっていると思います。というのも、キリストが他の群集と違うことを描き込んでいく一方で、直接、キリストに画面上で重なるし人は1名にとどめておいて、それ以外の人々との間には巧みに黒く塗った空間を配して、微妙に区分していることです。そして、私には、展示の順番から思ったことなのかもしれないのですが、前にあげた聖フランチェスコとキリストの表情が重なってみえます。聖フランチェスコは俯いていますし、キリストは天上を見ているという大きな違いはあるのですが、グレコは聖人やキリスト、マリアといったモチーフを一般の人々とは違ったように描く方法を、それ以前の画家たちとは違った方法を持っていたのかもしれません。

Grecocrossそういう描き方で集中して描いたのが『十字架のキリスト』であると思います。“黒雲に覆われた不穏な空を背景に、十字架に磔にされたキリストが画面の最前線に配されている。キリストの体は細く引き伸ばされ、腰の部分を大きくひねった典型的な蛇状人体を示し、目を見開き、向って左上方に顔を向けている。ここでエル・グレコは、頭を垂れた死せるキリストに背を向けている。エル・グレコのキリストは肉体的苦痛を超越した法悦の表情を見せ、受難の痛ましい表現は避けられ、血、感情、苦悩の表出は最小限に止められている。エル・グレコは写実的描写を超えて、身体に内在する、その形態の比例に根差す美、それを優美さと画家は呼ぶ、を外在化させる。下から見上げられたキリストを最前線に孤立させて配した構図は、見る者に人類の贖罪と救済についての瞑想に誘う宗教的機能を十分に果たしたに違いない。”

実際のところ、前の『聖衣剥奪』からキリストだけを取り出したら、こうなるのかと言う作品です。この解説を読んでいただいても分かるように、これは単に見られると言うだけにとどまらず、特定の宗教的感情を呼び起こす働きを期待されて注文されたものと考えてもいいのではないかと思います。『聖衣剥奪』と同じように暗い背景、引き伸ばされたからだとぼんやりした輪郭、そして粗い筆遣いによって、キリストの肉体が物として実在感とか重量をほとんど感じさせません。それは、キリストの受難をキリストに絞り、周囲の人間を画面から切り捨てることで、キリストにおこったドラマとして見ることを可能とします。それは、日常の現実の物質的な生活ではなく、キリストの内面に近いドラマ、受難を受けたキリストが人間の原罪を背負って上方の神と対話をしているかのようなドラマです。だから、他の人物はいらないし、背後の風景も無い方がいい。ただし、この絵を人々が見るわけですから、その見ている人々とは無縁の周長的な内面世界だったら人々に作用しないし、見ようともしないでしょう。だから、グレコは見えないものを見えるものとして描こうと、現実を少しずらして彼に特徴的な描き方で実在の事件のように十字架のキリストだけに焦点を合わせて絵画としたのではないかと、想像しました。しかも、個人に与えるインパクトがあるという点では肖像画の描き方は、個人的な次元で影響力があるでしょう。その意味で、肖像画のような描き方で、約1m×60㎝という大きくないサイズの作品にしたのではないかと思います。今回の目玉は『無原罪のお宿り』という大作ですが、エル・グレコという画家の真骨頂は、そういう大作である一方で、このような小品でこそ際立っているのではないか、といのうが、今回の展示を見ていて感じました。そのいみで、このコーナーがまとめではないかと思ったわけです。

2013年3月19日 (火)

ウォーレン・バフェット「株主への手紙」2012(9)

我々は新聞社を買収しました。新聞?

過去15カ月の間に、我々は、3億4400万ドルを費やして28の日刊紙を買収しました。このことは、2つの理由で皆さんを当惑させてしまうかもしれません。第1に、私はこの手紙や年次総会で新聞業界の環境、広告事業、利益は確実に下落すると、長い間お話ししてきました。そのような予測については、いまだに持っています。第2に、我々が取得した資産は、我々が獲得の際に必要条件とするサイズをはるかに下回っていたことです。

我々は、2点目については容易にお話しすることができます。チャーリーも私も新聞かせ好きで、彼らの経済性が意味をなすのであれば、我々が購入する場合に要求するサイズの閾値を充たさない場合でも購入するでしょう。第1の点を説明することは、いくつかの歴史を含む精巧な説明を必要とします。

ニュースとは、簡単に言うと、人々が自分の知りたいことを知らないということです。人々はニュース、つまり、彼らにとって重要なこと、を直接的、アクセスの容易さ、信頼性、包括性、低コストの最高の組み合わせを提供する情報源から探しています。これらの要因の相対的重要度は、ニュースとそれを望む人の性質によります。

テレビとインターネット以前、新聞は素晴らしい種類のニュース、人口の大部分にとって不可欠な事実、の主要な源でした。皆さんの興味が、国際状況でも、国内状況でも、ローカルでも、スポーツでも、金融相場でも、新聞は常に最新の情報を最初にもたらしたのでした。確かに、あなたの特定の興味に応えるページがほんの少ししかなくても、新聞は、金額に相応に知りたいことを教えてくれるものを持っていました。さらにまた、広告主は、一般的に製品コストのほとんどを支払い、読者はそれに乗りました。

さらに、より多くの「ニュース」を提供している影響で、広告は多数の読者の関心に必要な情報を発信しました。編集者は考え方で委縮していました。しかし、どんな仕事やアパートが活用できるか、週末にスーパーマーケットが何を特売するか、どんな映画がやっているか等を知りたい多くの読者にとっても、社説のページに乗せられる見解よりはるかに重要でした。

次に地方紙は広告主にとって不可欠でした。シアーズやセーフウェイがオマハに店舗を建設したら、彼らは町の住民に、今日、なぜその店に来てほしいかを話しかける「メガホン」を求めるでしょう。たしかに、大きいデパート食料雑貨商は複数の見開きページに彼らの競争を大声で競いました。彼らの広告する商品が棚から飛び出しことを知ってもらうために。新聞のそれに相当するほど遠くに届くメガホンもなく、広告は自身を宣伝しました。

新聞が、その地域で唯一だった限り、マネジメントの巧拙によって差が生じるかどうかに関係なく、その利益は驚異的であったことは確かです。(ある南部の出版社が言った言葉は有名です「私は人生において高い地位にあるのは2つのアメリカの機関のおかげで、それは縁故採用と独占である。」)

長年にわたって、ほとんどの都市は新聞を1つ擁している町となりました(あるいは一つの経済ユニットとして2つの競合紙が力を合わせていることを隠しました。)。大部分の人が一つの新聞にしか購読料を払おうとしなかったので、この収縮は回避することはできませんでした。競争が存在していた時は、市場の優位を殆ど自動的に得た新聞は、最も多く広告の依頼を受けました。それは、広告が描く読者と読者が描く広告を残しました。この共生のプロセスは弱い新聞にとって運命を意味し、「もっとも肥沃なものが生き残る」として知られるようになりました。

今、世界は変わりました。株式市場の相場や国際スポーツ大会の詳細は報道が始められるずっと前からの古いニュースです。インターネットは今現在の仕事や家庭に関する広範囲な情報を提供しています。テレビは国内政治や国際政治のニュースで視聴者を狙い撃ちします。従って、相次いで新聞は関心分野でのトップの座を失いました。そして、聴衆が落ち込んだので、同じように広告も落ちました。長い間、新聞の巨大な収入源であった新聞広告欄の「求人広告」からの収入は、過去12年で90%も落ち込みました。

しかしながら、新聞はローカルニュースを送り届けることについては支配的であり続けています。皆さんの町で何が起こっているか知りたなら、そのニュースが市長や税金や高校のフットボールについてであっても、それに応えてくれる役割を果たしているのは地方紙以外にはありません。カナダの関税やパキスタンの政治的情勢についてのちょっとした文章にふれても、読者の眼は生気を失うかもしれません。しかし、彼ら自身や隣人の話なら終わりまで読んでくれるでしょう。全面的な共同体意識が残っているところでは、そのコミュニティの特別な情報のニーズを満たす新聞は、そこの居住者のかなり部分にとって不可欠であり続けるのです。

しかし、価値ある製品でさえ、不完全な経営戦略のせいで自滅してしまうこともあり得ます。そのようなプロセスは、バッファローのバークシャーを含む出版のあらゆる規模のすべての新聞で進行中でした。物理的な紙にお金をかけている間に、インターネットにより紙を用いずに提供されてしまう。これが、どのように印刷された製品の売上高の急激で一方的な低下を導き出すのでしょうか。さらに、この環境を断ち切ることは広告主にとっても新聞の必要性を失わせてしまいます。これらの条件下では過去の好環境は逆転します。

ウォールストリートジャーナルは、早いうちに支払モデルに移りました。しかし、地方紙のための主な模範となるのはウォルター・ヒュスマンによって発行されているアーカンソー・デモクラット紙です。ジュニア・ウォルターは初期の支払いシステムを採用し、彼の新聞は過去10年間以上、国内の他の大きな新聞よりもよい環境を維持してきました。ウォルターの強力な例にも拘らず、バークシャーを含む他の新聞の支払い準備を調査したのは、昨年になってからでした。まだ、答えは明らかではありませんが、最も働くものが広くコピーされるのではないでしょうか。

 

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チャーリーも私も、包括的で信頼できる情報を限定されたコミュニティーに届けていて、賢明なインターネット戦略がある新聞は長く生き残るであろうと思っています。我々は、ニュースの内容や発行の頻度をカットすることで成功できるとは思っていません。確かに貧弱なニュース報道は、ほぼ間違いなく読者数の減退に繋がります。また、今、いくつかの大きな町や都市で試みられている毎日でない発行は、短期的には利益を改善するかもしれませんが、時間とともに新聞に関わる人々を減らしてしまうことは明らかです。我々のゴールは、読者の興味ある内容の記事を載せ続け、それが彼らがインターネットで入手できる情報であるかどうかに関わりなく、有意義だと気付いた人から適切な対価を支払われるということです。

我々の信頼は、オマハ・ワールド・ヘラルドにおけるテリー・クルーガーの素晴らしいマネジメント・チームの働きによって強められました。このチームには大きな新聞のグループを監督する能力があります。しかし、個々の新聞は、それぞれのニュース対象や編集意見においては独立しています。(私はオバマに投票しましたが、12の日刊紙の大統領支持は、うち10紙がロムニーでした。)

我々の新聞は収入を下方に押し下げようとする力から離れることはできません。しかし、我々が2012年にずっと所有した6つの日刊紙は年間で不変の収益を維持しました。それは大都市の日刊紙よりもはるかに大きな結果です。さらに、我々が年間を通じて関わった2つの大きな新聞、バッファロー・ニュースとオマハ・ワールド・ヘラルド、彼らにとって平均を上回る3%の利益率を維持しました。アメリカ最大の50の大都市の新聞の中で、バッファローとオマハの新聞は、そのホーム地域の地域への浸透でトップ近くに位置しています。

この人気は突然のことではありません。これはニュースのマーレット・ライリーとワールド・ヘラルドのマイク・ライリーというこれらの新聞の編集者がコミュニティの利害関係を持っている読者に不可欠の情報を新聞の発行により届けたことによるものです。(マーガレットは、最近、我々のもとを去り、ニューヨーク・タイムズに移りました、と残念なことを言わねばなりません。この新聞は大きな雇用をしました。彼女なら最高でしょう。)

その新聞社からのバークシャーの現金収入は、時間とともに間違いなく低下していくでしょう。賢明なインターネット戦略さえ相応の浸食を止めることはできないでしょう。しかし、我々の払っているコストではこれらの新聞社が獲得するものが我々の経済テストを充たすか上回るものと信じています。結果は、いまのところ、我々の信頼を裏切っていません。

しかしながら、チャーリーも私も経済原則11条(99ページで詳述されている)に従って動いており、果てしない損失へと運命づけられているビジネスを続けることはないでしょう。我々がメディア・ゼネラル社から一括取得で得たある日刊紙は、その会社の傘下にあった時はまったく利益が出ませんでした。その新聞の業績を分析した後で、我々は損失の救済をあきらめ、しぶしぶ閉じることにしました。しかし、残りの日刊紙は長期的には利益を上げられるようになるでしょう。(それには108ページにリストアップされています)適切な価格、あるいは経常利益の最低線であれば、我々は好きなタイプの新聞社を、獲得したいと思っています。

 

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スタン・リブシーがバッファロー・ニュースの出版者を引退した昨年末、バークシャーの新聞事業にとっての大きな節目となりました。スタンがいない今、報道が滅んでしまうかもしれないと私がいっているのは、あながち誇張ではありません。

チャーリーと私は、1977年4月にニュース社を獲得しました。それは夕刊紙で、平日は発行して、日曜日は休刊していました。国中で市場のトレンドは朝刊に傾いていました。その上、日曜日は首都の日刊紙の収益にとって極めて重要でした。ニュース社は、日曜日の発行がないため、膨らんだ形式的な朝刊を出している競争相手に負ける運命にありました。

したがって、我々は1977年の終わりに日曜版を発行し始めました。そして、それから地獄が始まりました。我々の競争者は我々を告発しました。チャールズ・ブライアント・ジュニア地区判事は我々の新聞の発行を差し止める厳しい判決を下しました。彼の判決は17か月という長い期間の後に、第二巡回控訴裁判所の全会一致の判決により覆されました。その訴えが審議中の間、我々は市場を失い、現金を失い、絶え間ない倒産の危機に直面していました。

スタン・リブシーは夫人とともに1960年代からの友人の一人で、バークシャーにスモール・オマハ・ウィークリーを売却しました。私は、スタンが市場、生産、販売、記事の全ての面について知識豊富な素晴らしい新聞記者であることを発見しました。(彼は1973年に週刊紙がピューリッアー賞を得た時のキーパーソンでした。)それで、ニュース社が大きなトラブルに見舞われた時、私は彼にその快適な生活をバッファローからオマハに移すように頼んだのでした。

彼は躊躇いませんでした。我々の記者であるマレイ・ライトとともに、スタンは1982年にニュース社が厳しい競争に勝つまでの4年間の非常に苦しい日々を耐えました。それ以来、バッファローの経済は厳しい状態にあるにもかかわらず、ニュース社は素晴らしいパフォーマンスを残しています。

2013年3月18日 (月)

ウォーレン・バフェット「株主への手紙」2012(8)

金融と金融商品

このセクターは、我々の中でもっとも小さく2つのレンタル会社であるエクストラ(トレーラー)とコート(家具)を含み、我が国のプレハブ住宅のリーディング・カンパニーであるクレイトン・ホームズです。この100%子会社を除いて、我々は、このカテゴリーに金融資産のコレクションとBerkadia CommercialMortgageへの50%の投資を含めます。

クレイトン社は332,000件、137億ドルの抵当を所有しサービスを行っているので、我々は同社をこのセクション入れています。これらのローンの大部分は、中流と下流の収入の家庭に対してのものです。しかし、十分な頭金と定期的な収入に対する賢明な割合の毎月の返済額という古臭いローン方針に固執することによって、住宅産業崩壊の間もローンは実行しました。

クレイトン社は、昨年、2011年に比べて13.5%アップの25,872軒のプレハブ住宅を製作しました。その数は、国内で単一家族向けにつくられる住宅の約4.8%にあたり、クレイトン社をアメリカの建築業者のトップシェアに押し上げました。

コート社とゼクストラ社は、同じように、その業界のリーダーです。新たなリース機材に対して我々が支払った費用は、ゼクストラ社では2012年の合計で2億5600万ドルとなりました。これは減価償却費の倍以上です。競争者たちが今日の不確実性にやきもきしている間に、ゼクストラ社は明日の向けての準備を進めています。

Berkadiaはうまくいっています。Leucadiaの我々のパートナーは、このベンチャーでチャーリーと私と取り決めた大半の仕事をこなしています。

 

このリストの構成についてのワン・ポイントは記載に値します。バークシャーの過去の年次報告では、私がバークシャーのために買う決定をしたという意味で、ここで項目別に上げられている株式は私が購入したものと言えます。

しかし、このリストともに始め、あらゆる投資は、トッド・コムズ、テッド・ウォッシュラー、もしくは彼らの共同購入によってなされ、リストに書き込まれるようになります。それが今年は10億ドルありました。上記で第一にそのような株式としてディレクTVがあります。トッドとテッドの二人がそのポートフォリオで保有し、2012年末まで保有を続けたものは11億5,000万ドルの評価として表わされました。

トッドとテッドはまた、バークシャーの特定子会社の年金基金を管理しています。その一方で、その他は規定によって外部のアドバイサーによって管理されています。彼らのポートフォリオがバークシャーのものとしばしば重複しますが、我々の年次報告には年金基金を含めません。

 

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我々はバークシャーのリスクへの保険を引き受けてしまうことを含むデリバティブ・ポートフォリオを段階的に縮小し続けます。(しかしながら、我々の電気やガスといった公益事業は事業目的にかなうデリバティブの活用を続けています。)あらたな危険の引受けは担保を我々に求めるでしょうが、わずかな例外を除いて、我々はそんなことはしたくありません。市場は驚くべき方法で作用することがあります。我々は一瞬の注目で山ほどの現金を支払うことなりかねない金融界のイベントにバークシャーをだしぬけに曝すことには興味がありません。チャーリーも私も、流動性を多く抱えていることを良いことと思っており、具体的な方向に現金を流出させることをいいこととは思っていません。それは99年から100年の我々のリターンを減らすことになるでしょう。しかし、我々は多くの他が失敗する一方で、100年目には生き残っているでしょう。そして我々は100年間ぐっすり眠ることができるのです。

社債の信用保護を定めて我々が販売したデリバティブは、来年、すべて終了します。これの契約からの我々の税引き前利益が10億ドルに達するのはほぼ明らかです。我々はまた、このデリバティブによって前払いのかなりの金額を受取りました。それらに起因する「フロート」は5年間平均で20億ドルになります。これらのデリバティブは金融恐慌とそれ以降の時期を通して、ほとんど高収益で多様で会社の信用を保証していたという事実を特に考慮すると、満足以上の結果をもたらしました。

我々の他の主要なデリバティブの引受けで、我々は米国、ヨーロッパ、日本の4つの指導銘柄インデックスの長期銘柄を販売しました。これらの契約は2004年と2008年の間に始められ、最悪の状況においてさえ補足的な条件しかありませんでした。2010年に、我々は2億2200万ドルの利益の10%のエクスポージャーを解除しました。残りの契約は2018年から2026年の間に期限切れになります。失効日のインデックス価値だけは重要で、我々の相手には期限前契約解除の権利がないからです。

我々が未払の残る契約書を作った時、バークシャーは42億ドルのプレミアムを受取りました。これらの契約の全てが2011年末に満期を迎えることになれば、我々は62億ドルを支払わなくてはならなくなるでしょう。2012年末に対応する数字は39億ドルでした。即時に清算しなくてはならない責任の大幅な低下で、我々は2011年末の85億ドルから2012年末の75億ドルにまでGAAP上の負債を減らすことができました。それは確実ではありませんが、チャーリーも私も最終的な責任は現在の帳簿上の金額よりもかなり少ないと考えています。一方、これらの契約に由来するフロートの42億ドルを投資に回すことができます。

2013年3月17日 (日)

「エル・グレコ展」(7)~クレタからイタリア、そしてスペインへ(おまけ)

Bb6066b2ece4ac0c5404184ffc922688私が、イタリア時代のグレコの『受胎告知』を見て感じた違和感として、前回書かなかったことがあります。それは、グレコと言う人は、空間ということをあまり考えない人ではないかということです。画面が平面的で奥行を感じることが無いのです。実際に作品を見てみると、床が幾何学タイルになっていて、透視図法になっていることは分かるのですが、じゃあ画面全体がされに則って遠近法的の空間を構成しているかというと、そういう描かれ方がされているようには、見えません。床の幾何学タイルは、たんにそういう模様であるとしか見えません。そして、奥行のない真っ平らな平面の上に、マリアと天使が野っている。いわば同格となっています。以前、カタログの解説で見えるものと見えないものを同じ画面で同居させているとグレコの特徴を指摘していましたが、この作品を見ると、ひとつの平面の上に、あらゆる要素が並べられていると言った感じです。それは、例えば、幼稚園児の昨日遠足で行った動物園のお絵かきをしましょうといったら、画用紙にクレヨンで、自分とママとお友達とライオンや象が手をつないで並んで立っているお絵かきをする子がいるのと同じようなものではないかと思います。グレコというひとは、そういう見方をするように、私には思います。イタリアの絵画では当然といえる、三次元を平面である二次元に移し替えるという視点、それを前提にして書き割りとか、あるいは人を物体として捉えるとか、そういう視点がグレコの絵には希薄です。

そういう視点が画面構成を構築していくからこそ、スペイン時代のような、解説のいう“神秘主義的”な『受胎告知』の構成が可能になったのではないか、と思います。この作品の平面には、マリアも天使も雲もひかりも、たんに並列されています。これは、先ほどの幼児のお絵かきと本質的に変わらない。もうひとつ身近な例をいえば、まんがと言う表現をみると、例えば、ストーリーの中で登場人物が実際に話すセリフと、声として外に出てこない人物の思いのような内面の声、あるいは状況を客観的に説明するようなト書きのような言葉が、それぞれの文法はあるのでしょうが、一つの平面に同じように並べられています。そこには、実際に耳で聞き取れるものともそうでないものを峻別するという、視点は限りなく希薄です。

Grecoannuncation4だから、スペイン時代の『受胎告知』を見ていると、神秘主義的というような思想上のことではなくて、画面に思いついたものをあれもこれもと入れて(だって、見えるものと見えないものとを区別するという視点ではないのだから)、それらを限られたスペースの中でパズルのように最適な納まりの良いように並べて見た結果だったように見えてしまいます。思いついた要素をあとからあとからぶち込んで、あとは何とかできる限り整理して見せた。しかし、ゴチャゴチャした感じは抜け切れない。しかし、それが逆に、それぞれの部分が画面からはみ出してしまうような、それぞれが仮面上の存在を競い合うような、迫力を生み出しているのです。それが過剰感というのか、仮面からエナジーを放射するような力強さを生み出しています。これは、幾何学的に整理されたイタリア人画家の作品からはついぞ感じられないものです。

それが全体に暗いグレーを基調として各々の要素のつなぎは陰影深く彩られていると、異様な感じがするほど暗さが突出して来るのです。このような異様さ、日常的な世界とは全く異質な世界が展開されるという点においては、グレコの右に出る画家はいないのではないか。そこに、当時の人々は超俗的なものを強く感じ取れたのではないかと思います。時代を見れば、カトリック教会に対して、ルターをはじめとしたプロテスタントが異議申し立てで対抗させて、教会の存立が危機にさらされている時代、信仰に人々をつなぎ留めなくてはならないという危機感がカトリック教会に強かった。当時のスペインからのドミニコ会という異端審問官を多数輩出させる峻烈な修道会が生まれ、イエズス会という軍隊のような修道会もでてくるという反宗教改革の根城でもあったわけで、そのお膝元として、強い地盤固めが行われたわけです。そのときに、異様な迫力をもったグレコの『受胎告知』のような作品、ここに描かれている登場人物は、マリアとお告げの天使(ミカエル)を別にして絶叫しているようにも見えてきます。そういう強烈さというのは、グレコは意図していたとは言えないでしょうが、そういう時代のハイテンションな空気にマッチしたと想像してしまいます。

Grecoizenこの時代には、ドイツで30年戦争が始まり、宗教の名のもとに、庶民をも巻き込んだ根こそぎの殺戮が起こります。そこでは、グリューネバルトの描く凄惨なキリスト像やハインリッヒ・シュッツの甘美なメロディを封印したマタイ受難曲のような峻烈で異様な表現が生まれましたが、グレコの作品も、そのつらなりで考えると、当時の人々に受け入れられる要素がたぶん強かったと思います。しかし、先に例として挙げた諸作が後世にはそのまま伝わらず、長く忘れ去られたのと同じように、グレコの作品も画家の死後に急速に忘れられてしまいます。それは、そういう異様な時代の記憶とともに、人々に無意識のうちに封印されていったのではないか。

それは、後の時代、第一次世界大戦という戦闘員も非戦闘員の区別なく皆殺しの殺戮が広大な地域で展開され、人々が不安と恐怖に陥れられ、世紀末を引きずった異様な芸術が出現したような時代に改めて再発見されたということですから。グレコを再発見した人の中には、近代絵画の中でも、ことさらに不安や不安定な感情を論ったような作品が多数発表された影響がないとは言えないと思います。

例えば、グレコ独特の粗い筆遣いやひょろ長い人物表現は、表面的には、近代の安定な人間の描き方とよく似ているではありませんか。エゴン・シーレの描く骨と皮だけの自画像やムンクの描く幽霊のような人々。こじつけかもしれないかもしれませんが、似ていると思います。そういう空気の中で再び見出されたということは、後付けのこじつけかもしれませんが、あるいは、のちのゴヤの晩年の版画作品が生まれるようなスペインという土地と時代の要請と、グレコの奇妙な個性がうまくはまった一時期があったのではないか。それを偶然にか、何か運命のようなものに引っ張られて(何か小説みたいな書き方です)スペインという地に導かれていったと想像を逞しくして、後世の鑑賞者としては楽しむことができるのではないでしょうか。

肝腎の『受胎告知』という作品そのものについて、あまり語らずに、周辺の物語ばかり語ってしまっています。もともと、私の志向性がそういうところにあり、絵画のことを語る際にはできるだけ禁欲しているつもりですが、グレコと言う画家は物語を語りやすいタイプの画家のようです。展示は、この『受胎告知』のあたりから、核心部、いわば最盛期のグレコといえばこう、というイメージの作品が量産される時期の展示に入ります。そこで、実際の作品を禁欲的に語って行きたいと思います。

2013年3月16日 (土)

「エル・グレコ展」(6)~クレタからイタリア、そしてスペインへ(続き)

20120629_2300259さっそく、展示されている2つの『受胎告知』を見ていきましょう。ひとつは、イタリア時代に描かれ、もうひとつはスペインにわたってからの作品だそうです。この二つの『受胎告知』も、前回に見た『羊飼いの礼拝』と同様かなり違っていて、グレコと言う画家の変遷を見ることができます。それで、思うのは、どうしてこれほど変えることができたのか。もしくは、変えなくてはならなかったのか。ということです。全く画風が変化しない画家はいません。経験を積めば技法は上達していくし、画家として成熟していけば、少しずつ変化があるのは当然です。同じような題材を取り上げる場合でも、多少趣向を変えたりして変化をつけていくものだとは、思います。例えば、彼の前の時代に活躍したラファエロは故郷のウルビーノ地方で修業に勤しんでいたころと、ローマに出てきて活躍を始めたときとでは、画風が大きく変わりました。しかし、これは修行中の画家が一人前に独立し成熟する過程と、地方の辺境から最先端の地域に出てきて全く異なる環境に適応させていかなければならないという事情から、ある程度必然性をもって受け入れられることができるものです。また、そこには、ラファエロという画家がグレコのような強く自己の個性を前面に出さないタイプの画家であることも、納得性を高めています。

そこで、グレコです。グレコと言う画家の描く絵画の風変わりさというのは、イタリア時代の『受胎告知』を見ても、同時代のイタリアの画家の作品とは大きく異なっているのが分かります。まして、スペインにわたってからの、今なら典型的なグレコの作品として見ているも『受胎告知』はきわだって奇妙な作品ではなかったか、と思います。これだけ、他の画家の作品と違った、いうなれば独立独歩のような制作をしているのに、イタリアとスペインは環境が違うから、それに合わせて作品も違ってくると言われても、もともと変わった作品を自らの個性として際立たせるグレコと言う画家には、何となくそぐわない気がしてしまうのです。それでは、画家自身の事情によるものなのでしょうか。技法の上で大きな変化があったとか、作品を見る目が、認識が大きく変わったとか、それは、私は研究者でもなく、グレコの熱狂的なファンでもないので、知る由もないことです。

実際のところ、旅というのが危険を伴うような時代に、生まれ故郷のギリシャから一つの先端的な中心地であるイタリアに移り、そこからさらに遠方のスペインにまで移動していったといのは、生半可なことでは出来ないことのはずです。そこには、強い動機があったと推測できるのは、当然とも言えます。動機として考えられるのは、プラスとマイナスの二つの方向があると思います。マイナスは、何らかの事情でそこにいられなくなる事情が生じたということ。典型的な例はトラブルに巻き込まれたとか、あるいはその地では商売にならなかったとか、そういうことです。グレコの作品と言うのは突出したと言っていいほど個性的です。だから見る人の反応は好きか嫌いかの極端に分れるはずで、嫌いな人が多ければ、当然絵の注文はなかなか取れない。そこで新天地を求めて、と言う動機です。また、プラスの動機としては、当時のイタリアはフランスとスペインという二大強国の進出を受けていたはずで、経済的な繁栄にも陰りが出てきた時期のばずで、これからの時代はスペインということを見越して、行動するということもあり得たのかもしれません。

言うまでもなく、当時の画家というのは、現代の芸術家というスタンスではなく、職人に近い地位だったはずです。顧客の注文があってはじめて絵を制作する。注文がないと商売にならない。芸術家などといってふんぞり返っているわけにはいかないわけです。したがって、注文を得るためには、顧客のニーズを知り、人々の好みに合って、しかも他の画家でない自分のところに注文してもらうためには、他の画家にないメリットがないと、なかなか同業者を出し抜いて売れっ子にはなれないわけです。

グレコの場合も例外ではなく、芸術家が自らのインスピレーションのままに描きたいように描くということはなく、人々からの注文を一つでも多く獲得するために、市場のニーズに合わせて行かなくとはならなかった。イタリアでは売れっ子だったヴェネチア派の画家たちを無視したもののニーズは薄かったのかもしれません。だいたい、裕福な市民というのは、君主と違って周りに追従するようなメンタリティを持っています。そこで、ここにあるような、ヴェネチア派の画家たちの描くものととかなの隔たりのあるようなものに注文する人は多いとは思えません。

しかし、そこで逆に思うのは、グレコと言う画家が、なぜに市場のニーズ適合するような作品を描かなかったのかという疑問も残ります。出来なかったということないと思います。あえて、しなかったのか。それとも、ニーズに似合った絵を描いていてもたかが知れていると思ったのか。一つ言えることは、展示されているイタリア時代の『受胎告知』を見ていると、ちぐはぐさ、座りの悪さのようなものを感じることは明らかです。明らかに画家は無理をしていることが感じられるので、グレコ自身がこの方向に進んでいくことには、あまり乗り気ではなかったのではないかと想像をめぐらすことは可能です。

例えば、鮮やかな原色に近い色をふんだんに使いながら、画面全体には抜けが悪い鈍い感じが漂っています。それは、要所でグレー系の濃い色を配して、受胎告知という祝福される場面であるはずなのに、陰りのようなものを忍び込ませているのです。告知を受けるマリアの顔を見ていると、祝福を受けているようには見えにくいところもあります。ルネサンス時代のダヴィンチやフラ・アンジェリコの描いた神々しく透明で表情が窺えないマリアでもなく、後のスペイン・バロックのムリーリョのような喜びに溢れたようなマリアでもない、グレコの、この作品からは戸惑っているとか、不安を感じているような暗い表情が見て取れてしまうのです。マリアの全身のポーズも決まりごとに従ってはいるのでしょうが、後ずさりしているというのか、逃げ腰のように、私には見えてしまいます。そこで原色にちかい鮮やかな色の衣装を着せられていることが逆に生々しさを感じさせて、ルネサンス時代の作品の清澄な神々しさの要素を意図的に排しているような印象すら抱いてしまうのです。だから、全体の印象は、どこか重く暗いものになってしまっていると私は思います。

そして、イタリア時代の作品について、私が違和感を感じた、これらの要素がスペインに渡った後の、グレコの典型的パターンでつくられた『受胎告知』ではしっくりはまるのも確かです。そう考えると、グレコという人は基本的には不器用な人で、色々試行錯誤を繰り返しても、このようにしか描けなかった。それでも、通用するところを求めて、流れ流れてはるかスペインにまで辿り着いたというストーリーが私にとっては、一番納得できるように思えます。

そう考えると、グレコの特異な作風というのは、奇を衒ったとか、芸術的方針で選択したとか、そういう浮ついたものではなくて、彼自身入れ以外にできなかったというギリギリのところで、そうせざるを得なかったものと考えられると思います。現代の評論家風にいえば、画家自身の実存をかけたものだった、と。このような考え方は、画家の生き方等と絡めて考えて天才という概念を生み出した近代ロマン主義的な芸術家という考え方に、きわめて適合性が高いと思います。魂の画家とかいう言い方に合ってしまったりして。そのようなイメージが、私がグレコと言う画家、あるいは作品に対して、どこか距離を置いている理由のような気がします。そういうイメージに対しては、私は眉に唾をつけたくなる心性の持ち主だからです。

2013年3月15日 (金)

ウォーレン・バフェット「株主への手紙」2012(7)

製造、サービスと小売活動

バークシャーのこの我々の事業は水際までカバーしています。グループ全体の要約貸借対照表と損益計算書から見ていきましょう。(貸借対照表と損益計算書は省略)

一般会計原則(GAAP)に従った、我々の収入と費用のデータは29ページにあります。対照的に上の営業費用GAAPに則っていません。特に、そこでは若干の購入会計アイテム(主に特定の無形固定資産の償却)を除外しています。調整された数値がテーブルで集計され、企業の本当の費用と利益をより正確に反映していると、私もチャーリーもかんがえているので、このようにデータを提示しています。

私は、全ての調整をここで説明するわけではなく、いくつか些少で分かりにくいものもあります。しかし、真剣な投資家は無形固定資産の異種の性格を理解しておくべきです。他のものが価値を失わない一方で、いくつかは時間とともに価値を減少させていきます。例えば、ソフトウェアで償還費は実際の費用です。しかしながら顧客関係の償還のような他の無形固定資産に対する費用は購入会計規則によって発生するもので、明らかに本当の費用とは言えません。GAAP会計は費用の2つの違いを考慮しません。収益を計算する時には、両方とも費用として計算されます。たとえ投資家の視点においても、それにはもっと違っているとは思えません。

我々が29ページで提示しているGAAPに則った数値ではこのセクションに含まれた会社のための6億ドルの償還料金は費用として差し引かれます。我々は、このうちの20%は実際にあったものと考えています。そして、本当にそれらは上の表に含めた部分です。そして残りはありません。この違いは、我々が行った多くの取得のためには重要なことです。

「非-実際」の償却費は、さらに我々が投資している主要な会社のいくつかで大きく現われます。IBMは、近年、多数の小さな取得を行っており、特定の購入会計調整を除外する非GAAP数字である「調整された経常利益」を定期的に報告しています。かれらがしているので、アナリストはこの数値に注目しています。

しかし、ウェルス・ファーゴの「非実際」償還管理は会社による強調がなかったので、私の知る限り、アナリストの報告には見られることはありませんでした。ウェルス・ファーゴが報告する収益は中心的な保証金の管理費用の負担による影響が大きくなっています。そしてこれらの保証金はあっという間に消えてしまうということが含まれています。それでも中心的な保証金は定期的に増加していき、昨年は、年間で15億ドルになりました。GAAP会計以外のどんな場合でも、この途方もない費用は経費となりません。

それでは、本日の会計の講義はこれまでにします。「もっと、もっと」などと叫んでいる人はいませんね。

 

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このグループの会社は、アイスキャンディーから飛行機までわたる製品を販売します。このビジネスの中には、レバレッジをかけない正味固定資産に対する収益によって測定された(つまりROE)、税引き後利益で25%から100%以上の素晴らしい経済的成果をあげているも会社が数社あります。他の会社は12~20%という範囲の好成績をあげています。しかしながら、わずかな会社は、私が主な仕事である資本の分配で重大な間違いを犯した結果、非常に貧しいリターンしか上げられませんでした。

50年前、有望なビジネスをいい値で買うより、公正な価格で素晴らしいビジネスを買うほうがはるかにいいと私に進言しました。彼の姿勢の説得力あるロジックを受け容れながらも、私は、時々、結果が許容できるものから酷いものまで、特売品を漁る古い習慣にもどりました。幸いにも、私の間違いが起こったのは、小さな購入を行った時でした。我々の大規模な取得は、大抵の場合はまあまあで、いくつかは十分以上に良い結果でした。

したがって、単一の実体的なまとまりとして見ると、このグループの企業は優れたビジネスと言うことができます。これらの企業は、226億ドルの有形固定資産を利用して、その16%を税引き後利益として得ました。

もちろん、支払いが度を越していれば、いくら素晴らしい経済学を備えた経営であっても、悪い投資となるのです。我々のビジネスの大部分は固定資産に相当なプレミアムを支払っています。それは、我々が無形資産に対して示す大きな数値を反映したコストです。しかし、全体として、我々はこのセクターで展開させた資本上の相当なリターンを得ています。さらに、ビジネスの本質的価値は、総計においてマージンを加えることで帳簿価格を上回るものとなります。それでも、保険と規制された産業のセクションの本質的価値は帳簿価格より、はるかに大きいです。巨大な勝利者がそこにいます。

 

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マルモンは帳簿価格と本質的価値の間に明確で本質的なギャップの例を提供してくれます。

昨年、我々がマルモンの増資株式を購入し、2008年に我々が取得した68%から80%まで所有率を上昇させたことを話しました。また、私は2011年に我々が実際に支払ったよりはるかに少ない金額を、GAAP会計が我々に要求しているので帳簿に計上したねということを皆さんに報告しました。

私は、このような奇妙な会計規則について1年間考えていました。しかし、意味をなす説明を見つけることができませんでした。それは、チャーリーもCEOのマーク・ハンブルグもそうで、ひとつも考えつきませんでした。もし我々が64%を所有していなかったら、我々が2011年に購入した16%が我々のコストで帳簿に記帳されると聞かされると、私の混乱はつのりばかりです。

2012年(2012年末から2013年初にかけて)に、我々はマルモンのさらに10%を購入し、同じ奇怪な会計処理を求められました。我々が直ちに招いた7億ドルの帳消しは、収益に影響を与えることなく、帳簿価格を下げることになりました。従って、2012年の自己資本は増加しました。

最近、我々がマルモンの10%を購入した費用は、現在所有している90%126億ドルの価値を意味しています。しかし、90%の価値は貸借対照表では80億ドルです。チャーリーも私も現在の購入がかなりの価値を意味すると考えています。我々が正しいのなら、マルモンはその繰越価値よりも少なくとも46億ドルの価値があります。

マルモンは種々様々な産業で活動しているおよそ150の企業から成る多様な企業です。その最大の事業には石油会社や化学会社のような運送委託者にタンク車をリースするビジネスもあります。マルモンは、米国のユニオン・タンクカー社とカナダのポロカーの2社の子会社通じて、このビジネスを行っています。

ユニオン・タンクカー社は、1911年にスタンダード・オイル・トラストが解散させられるまで、その所有下のあり、長い間活動を続けてきました。皆さんが列車が走っているのを見る際には、その中のタンク車にUTLXのロゴを見つけることができるでしょう。バークシャーの株主として、皆さんはその徴のあるタンク車のオーナーでもあります。

皆さんがUTLXのタンク車を見つけた時には、胸を少し膨らませて、ジョン・D・ロックフェラーが一世紀前に彼の艦隊を見たときと同じような満足感を味わっていただきたいと思います。タンク車は鉄道会社ではなく、運送会社が貸主のどちらかの所有となっています。年末には、ユニオン・タンクカー社とプロカー社は、合わせて帳簿価格で40億ドルになる97,000台の車を所有しています。新車は少なくとも10万ドルのコストがかかり、注意を要します。ユニオン・タンクカー社は、また、タンク車の主要な生産メーカーでもあります。それらのうちいくつかが販売され、残りのほとんどが所有されるか賃貸にだされます。今日、その注文控えは2014年まで埋まっています。

BNSFとマルモンの2社で、我々は米国の石油生産の回復から利益を得ました。実際、我々の鉄道は、1日でおよそ50万バレルの石油を輸送しています。これは「米国本土48州」(アラスカ沖を数えないで)の合計産出量の10%に当たります。すべての状況を勘案すると、BNSFの石油供給量は、これから数年の間に大幅に成長するでしょう。

2013年3月14日 (木)

ウォーレン・バフェット「株主への手紙」2012(6)

そのような社会的責務を果たすため、BNSFは、2011年には、減価償却費をはるかに越える、総計18億ドルを越える定期的な投資を行いました。アメリカの他の3つの主要な鉄道会社も同様の支出を行っています。多くのアメリカ国民が我が国の社会インフラへの出費を非難しますが、鉄道に対してはありません。将来のより良い、より広範なサービスを提供するために必要な投資案件は、民間部門による基金から、資金が注がれています。鉄道がこのような莫大な支出をしていないならば、我が国の公的資金によるハイウェイ網は今日あるより多大な混乱と維持の問題に直面することになるでしょう。

BNSFが行っているタイプの莫大な投資は、それが行われた時の適切なリターンが得られないならば、馬鹿げたものとなってしまうでしょう。しかし、私はそれが達成する価値があると確信しています。何年も前に、ベン・フランクリンは「汝の店を守れ、さすれば店、汝を守らん(商い三年)」とアドバイスしました。彼なら、我々の規制されたビジネスにこれを翻訳して、今日もこう言うだろう。「顧客と顧客の代表である業務監査委員の世話をせよ、さすれば彼ら、汝を守らん」各当事者による良い振る舞いは、このお返しに良い振る舞いがかえってきます。

ミッドアメリカンでは、我々は同じような「社会契約」に参加します。我々は顧客の将来のニーズを満たすために絶えず増える出費を続けていく考えです。一方、確実で効率的に行われていれば、これらの投資の公明正大なリターンを得ることができることを理解しています。

バークシャーが89.8%を所有しているミッドアメリカンは電気をアメリカ中の250万人の顧客に供給しています。アイオワ、ユタとワイオミングでもっとも大きな供給元、6つの州で重要なプロバイダーです。我々のパイプラインは我が国の天然ガスの8%を輸送します。何百万ものアメリカ人が我々に依存しています。我々はこの人たちを絶望させません。

ミッドアメリカンが2002年に北部天然ガスのパイプラインを購入した時、パイプラインの会社のパフォーマンスは視界の泰斗によれば、43社中43位、最下位の評価でした。最近のレポートでは、2番になっています。トップは、我々のもう一つのパイプラインであるカーン川です。

電力ビジネスにおいても、ミッドアメリカンは同じような成績です。最近の顧客満足度調査では、ミッドアメリカンは60の米国公益企業を調査した中で2番の評価を受けました。ミッドアメリカンがこのような評価を得た時、物語は何年も前とは変わりました。

ミットアメリカンでは2012年末には3,316メガワットの風力発電が稼働しているでしょう。これは我が国の他の電力会社よりもはるかに大きな数字です。我々が風力発電に投資し参加した総額は、なんと60億ドルにもなりました。ミッドアメリカンがそこからの収益を全て保有することになるので、一般的な得たものを払い戻す他の公益事業とは違って、我々はこのような投資をすることができます。その上、昨年、我々は建設に3億ドルかかる2件の太陽光発電を引き受けました。ひとつは100%所有のカリフォルニアで、もうひとつは49%しょゆうのアリゾナです。さらに多くの風力や太陽光発電プロジェクトがこのあと続くのは、ほぼ間違いないです。

皆さんに、今。こうしてお話しすることができるのは、BNSFのマット・ローズあるいはミッドアメリカンのグレッグ・アベルによって達成されたものによるためです。私はこれを誇りに思います。彼らが、バークシャーの株主に達成したことを誇りに思い感謝しています。

 

目ざとい読者は、ミッドアメリカンの計算書の利益の不一致気づくでしょう。「規制された資本集約ビジネス?」という名のセクションで不動産仲介を行っているホームサービスというのは何でしょう。

さて、我々が2000年にそのビジネスを取得した時には、その主要県はミッドアメリカンに付属していました。その時に、私はミッドアメリカンの公益事業に注目していて、かろうじてホームサービス社に気が付きました。その後、ほんの少しの不動産仲介会社を所有しただけでした。

それから、同社は2012年に3社の住宅仲介業者を定期的に加えました。そして、現在は米国の主要都市で系列に約16,000人の代理店を擁しています。(我々の不動産仲介会社は107ページの上の表でリストアップされています)2012年には、我々の代理店は2011年から11%アップした420億ドルの国内販売に参与しました。

その上、ホームサービス社は、昨年、プルデンシャルとリアルリビングのフランチャイズの67%を買い取りました。それらは、ともに国内いたるところで544の証券会社にライセンスを与えて、かれらのセールスのロイヤリティを受取ります。我々は5年以内にその事業の収支を得る準備をします。今後数年のうちに、我々は徐々に販売業者とフランチャイズにバークシャハサウェイホームサービスとして再商標を付与するでしょう。

ロン・ペルチャーは景気の良くない時期にホームサービス社のマネジメントで顕著な仕事をしました。いま、住宅市場は強くなってきていて、我々は収益が、かなり上がっていくと予測しています。

2013年3月13日 (水)

ウォーレン・バフェット「株主への手紙」2012(5)

規制された、資本集約的な事業

我々にはBNSFとミッド・アメリカン・エナジーという我々の他のビジネスと区別される共通の特徴をもった2つの非常に大きなビジネスがあります。したがって、我々はこの手紙でこの2社を自身のセクターに割り当てて。我々のGAAP貸借対照表と損益計算書にこの2社の統合財政統計を振り分けます。

この2社の主要な特性は、バークシャーによって保証されない大量の長期国債によって部分的に資金を供給されるという規制された資産と非常に長期の投資を有していることです。この2社には我々の信用は必要ではありません。この2社には恐ろしい景気状況においても、十分に利益をえる収益力があります。昨年の生温い経済において、たとえば、BNSFのインタレスト・カバレッジは9.5xでした。(我々のカバレッジの定義は、利子に対する税引き前利益であって、EBITDAではありません。それは深い損失に対する一般的な見方です)一方、ミッドアメリカンでは2つのファクターはあらゆる状況でもサービスを確実に供給することを可能にしています。不可欠で重要なサービスを提供していることから、この会社は不況耐性所得であり、単一の規制機関による保護を受けた重要なサービスと利益の多様性を提供することにおいて固有である収益の安定性があります。

毎日、我々の2つの子会社は主要な方向でアメリカ経済の原動力となっています。

 トラック、鉄道、水上、航空全てを含めたアメリカにおける都市間の貨物輸送のマイル当たりのトン数でいうと約15%がBNSFによって担われていると、皆さんに言うことができます。事実我々は他のどれよりもマイルあたりの多くのトン数で運搬します。そのことがBNSFを我々の経済の大動脈としています。

BNSFはとても燃料効率がとてもよく自然に優しく貨物を移動させます。ディーゼル燃料1ガロンで1トンの貨物を500マイル運ぶことができるのです。同じ仕事をトラックが引き受ければ、その4倍の燃料を浪費してします。

 ミッドアメリカンの電気事業は10の州で個人消費者に規制を受けて提供しています。これほど多くの州にサービスを提供している会社は他にありません。その上、我々は再生可能エネルギーの分野でリーダーに位置にあります。最初に9年前のスタート時点から我々は我が国の風力発電の6%を発電してきました。第2に、今建設中の3つのプロジェクトが完成すれば、米国の太陽光発電能力の14%を所有することになります。

これらのようなプロジェクトは、巨額の設備投資を必要とします。確かに、我々再生可能ポートフォリオを完成させるために130億ドルを要しました。われわれは、それらのプロジェクトが相応のリターンを見込めれば、そのような参加を喜んで行います。我々は将来これらが規格化されるということを信じています。

我々の過去の経験と知識によって社会が流通とエネルギーに多大な投資を永遠に必要としているという我々の確信は正当化されます。重要なプロジェクトに継続して資金を提供する流れを確保することで主要な提供者をどうするかということは政府の関心によっています。監査機関や人々の代表から承認を得ることで事業を行うことは、我々の関心によっているのです。

我々のマネージャーたちは、国が道の下方遥かで何を必要としているかを、今日、考えなくてはなりません。エネルギーと輸送のプロジェクトは結実するのに長い年月がかかります。成長している国は、単に曲がり角の背後を振り返る余裕がありません。

我々は、そのようなことが起こらないことを確かめるにために、自分の役割を果たしています。あらゆるやり方で、わが国のインフラストラクチャーが壊れてきていることについて皆さんが聞いているであろうこと、一般的にBNSFや鉄道に当てはまります。アメリカの鉄道網は、産業による巨大な投資の結果、良好な状態にありませんでした。しかしながら、我々はすでに得た成功に甘んじていません。BNSFはあらゆる鉄道会社が年間に費やした額より2倍以上の減価償却費40億ドルを2013年に計上します。

BNSFにはマット・ローズ、ミッドアメリカンにはグレッグ・アベルという2人の素晴らしいCEOがいます。彼らは顧客と株主のためのビジネスを構築した非凡なマネージャーです。私は彼らに感謝しています、皆さんが感謝するに値します。これらのビジネスに不可欠な人物です。

2013年3月12日 (火)

「エル・グレコ展」(5)~クレタからイタリア、そしてスペインへ

Grecoadora1まず、『羊飼いの礼拝』という同じタイトルの作品が2つあるので、見比べて見て下さい。同じ画家が描いたと思えないほど、構成やタッチが異なっているように見えます。ひとつは、出身地のギリシャでイコンの親方としての修業を終えてイタリアに移ってヴェネチアでいわゆるヴェネチア絵画やルネサンスの作品に触れた当時の作品、もう一つはスペインに移ってからの作品です。この2つを比べるとスペインにわたってからのグレコの作品の特徴が際立つように見えてきます。パッと見て、明らかな、一目瞭然なのは、スペインでの作品の色調の暗さ、そして縦長の画面構成、そして中身をみると、リアルな写実の描写が後退し幻想的な(前回の言い方でいえば見えないもの)場面が大半を占めていること。細かいところに突っ込んで行けばきりがないのですが、取敢えずは、このくらいに止めておきましょう。

スペイン時代の作品の色調の暗さは、陰影の深さということに置き換えてもいいでしょう。これは、聖堂のような(画面上方に聖堂の天上のようなアーチが描かれている)建物の中のようで、当然その中は薄暗い。というよりも、誕生した赤子のキリストから発せられる光輝が周囲の薄暗い闇を照らし出すという、一種のドラマを描くために、つまりは光を際立たせるために薄暗い色調にしているように見えます。もう少し穿ってみれば、キリストという存在が現われるまでも世界は闇であって、未だ赤子とはいえキリストが出現したことにより光が差してきたというドラマが読み取れるのでは、と妄想をしてしまいたくなります。それを強調させるためには、下からの光に照らし出されるように見えます。聖母マリアや聖ヨセフといったお決まりの登場人物たちは、イタリア時代の作品にそれらしく描き分けられているのに対して、こちらのスペイン時代の場合は、陰影の方を描きたいとしか思えないように人物というよりも光にてらされる物体のような感じです。それぞれの人物の顔の描き方は大雑把で表情も描き込まれていない。たんにそこに配置されているかのようで、人物のプロポーションも陰影を出しやすくするために恣意的に歪められているし、それぞれのポーズもお決まりのパターンなのでしょうが、そういう必然性よりも、陰影に映えるポーズ取りがされているように見えます。

Grecoadora2しかし、こういう陰影をドラマチックに描くのならバロック絵画のお得意というのかカラバッジォをはじめ、それに秀でた画家が沢山いるはずです。スペインにとくに陰影を描き込むのに巧みな画家がいるはずです。例えば、ムリーリョなども同じ題材を取り上げて、やはり、赤子のキリストから発せられる光にキリストを取り巻く人物たちが照らし出されるところを描いています。しかし、グレコのように暗くないのです。むしろ、赤子から発する光が画面全体を包み込むように暖かな光に充ちた誕生の喜びというのか、喜びの光に包まれた祝福という画面になっています。人々の描かれ方も自然というのか、現実の生活の中にいるようです。これが前回でカタログの解説で説明していた“絵筆による表現の可能性を「見えるもの」のみに求め、「見えないもの」であっても、それを地上世界の日常的な場面の一部として表わしていた。”ということでしょう。この見るとグレコの作品の特徴というのは、色調だけを取って見ても、他の作品とはかけ離れています。そこに強迫観念でもあるかのような超絶的というのか、現実離れしているというのか。でも、ちょっと考え見てほしいと思います。救世主の誕生(出現)というのは、そんなに日常的なことにしていいのでしょうか。キリスト教にしてみれば、そこから始まったということで、歴史に一度しかない奇蹟的なことです。それを日常の一場面としてだけ捉えていいのか、日常生活ではない超絶的で奇蹟的な瞬間ということであれば、日常正確では想像できないことであるはずで、それをそういうものとして普通ではない超常的と考えれば、風変わりとはいうもののグレコの作品のような現実世界がひっくり返ってしまうような世界もあながち不合理とは言えないのではないか、と考えてもいいのではないかと思います。とくに、教会としては奇蹟が起こったこと、普段とは違うものだということをプロパガンダするためには、グレコのような作品は有効な手段と考えたのではないか、と思ったりします。

Grecoadora3そこに「見えないもの」として天使が舞う姿を現実の世界と同じところに描いているというように、前回のところでカタログの解説にありましたが、それは、こういう超絶的な瞬間には現実世界も幻想世界も境界が無くなってしまって、現実が幻想に、逆に幻想が現実にという、それこそが奇蹟というものではないか、と考えてもいいのではないか。そういう世界を描くのに、明るい、輪郭が明確に照らし出されるような画面には、どうしてもしにくい。幻想の見えない世界は、輪郭のくっきりしたリアルな現実世界と同じには描けないはずです。そうしたら、薄暗い世界の方が、しっかり描き込む必要はなくて、描きたくない、描けないものは暗がりに隠してしまえばいいわけです。そのような手法上の要請もあって画面全体の色調が決まっていったのかもしれない。そこで色調が決まれば、脅迫的な暗い色調の中で描かれる人物たちは、光り輝くキリストを除いて、それなりに存在していて、キリストの光に照らし出されることが第一となります。だから優先すべきは、そこに存在しているという存在感をはっきり描くことでしょう。それは物体としての存在と言ってもいいと思います。それこそが、この作品を教会で見る民衆がこの世でもあの世でもない描かれた世界と自分とをつなぐところであるはずですから。しかし、現実でもない、幻想でもないごっちゃな世界にいるとしたら普通の人間は、普通の状態でいることができるでしょうか。普通に考えて、パニック状態になってしまうのが自然です。だから、ここに普通の人間をリアルに描くことはしなかった。このような場合、この世界でキリストに帰依する存在ということだけがあればいいわけです。そこに人間らしい表情をいれてしまったら、この世界の中から浮き上がってしまう。そう考えれば、単に人に見えればいいわけです。人に見えるという最低条件を充たしていれば、この現実と幻想がごっちゃになった世界で、求められる機能を効果的に果たしていくためには、最低条件をクリアさせたうえで使いやすうように使ってしまえばいいわけです。その意味で、グレコの有名な宗教画に特徴的な人物の描かれ方は、それを手段として扱うことから必然的に導かれたのではないか、と思ってしまうのです。

このあと、同じ主題で展示がありますが、グレコ晩年に描かれた、同じ題材のものです。ここでは聖堂であることを示すものとか、そういうものが省略されて、暗い色調で、キリストを取りなく人物たちと天使がピックアップされて描かれています。ということは、さらに必要な要素だけを抽出して、抽象度の高い画面になっているということです。グレコに、そういう方向性が自覚的なあったのではないか、と思えるほどです。

このように、作品の目的を自覚して、必要なものだけを取り出して、そうでないものは削ぎ落としていくというのは、近代絵画のひとつの方法論にも近いものです。例えば、物体の存在感を画面に定着させるために、形態を捨てることを辞さなかったセザンヌのように。そこでは、従来の絵画を構成していたバランスも捨てられ、これを追求するのだということが追い求められた結果が、あのような作品を生み出したのではないかと思います。グレコの場合も、バランス感覚などという中途半端で折衷的な枠を取り払って、追求したが故に、同時代の画家たちに比べて突出した個性的な作品を生み出してしまったのではないか、と思ったりしました。

2013年3月11日 (月)

「エル・グレコ展」(4)~見えるものと見えないもの

“見えるものと見えないもの”などというと哲学書のタイトルを思い出してしまうのですが(この美術展を企画した人は多分、メルロポンティの後期の難解な文章に振り回され経験があると思う)、カタログでは次のように意図を説明しています。

エル・グレコ作品において、時に「見えるもの」と「見えないもの(天上世界や内的幻視など、目に見えず、心に浮かべるしかない架空の世界)」は、一見シンプルな画面に共存している。『聖母の前に現れるキリスト』ではキリストの身体は〔生身の人間である聖母マリアに対して〕死と復活を経た「天上の体」であるため、厳密に言えば肉体性を有していない。この二つの身体(世界)を、エル・グレコは具体的な視覚イメージにより表現することで、観者にとって信じやすく、身近な画面を作り上げている。エル・グレコと同時代の画家は絵筆による表現の可能性を「見えるもの」のみに求め、「見えないもの」であっても、それを地上世界の日常的な場面の一部として表わしていた。それに対して不可能に挑戦したエル・グレコは、現実と架空の二つの世界めぐって独創的な才能を発揮した。

Grecozainで、『聖母の前に現われるキリスト』を見てみましょう。とりたてて、カタログの執筆者に異議を唱えるつもりはさらさらありませんが、ただ何の予備知識もなく、この画面を見ただけであれば、ここで見えるものと見えないものを画家が描いているとは見えないのではないかと思います。もしかしたら、「見えるもの」と「見えないもの」というのは現代の自然科学が浸透した我々の視点であって、当時の人々に果たして、そういう区別があったのか、何とも言えないのではないかと思います。もしかしたら、実際に人々には見えていたのかもしれません。こんなことを書くとオカルト的とか、非科学的とかいわれそうですが、でも、現代の生活の中でも見える者がリアルに在るものとは限らないということは、我々は無意識のうちにわかっているはずです。その証拠に見えたものを確かめるために触ったりして確かめるということを日常的にやっていると思います。目の錯覚という言葉を日常的に使っていることは、目で見えるということを信用していないことの現れではないでしょうか。だから、よく考えてみれば、「見えるもの」と「見えないもの」のふたつのものの境界線は極めて曖昧です。あえて言えば、そこに明確な線が引けることに関して明確な基準もないし、証明できる手段はないと思います。だから、ある立場から言えば、無邪気に二つの世界を区別していると言えてしまうのは自分の見方に何の懐疑も持たないイノセントとも傲慢とも言えもかもしれません。だからと言って、グレコの時代の人々にはその境界がなかったなどと強弁するつもりはありません。ただし、そういう絵を描き、それを受け容れる人々がいたということは、逆に、想像してもいいのではないか、と考えるわけです。

Grecorauru_2とくに、グレコの作品には、いぜんにも書きましたようにプロパガンダの要素があるように見えます。プロパガンダ絵画などといえば、最近ではもっともあからさまでそのあきれるほど素朴なメッセージ性にあきれてしまうのが北朝鮮のいわゆる社会主義リアリズムの様式で描かれたポスターです。あれをみると一目瞭然ですが、プロパガンダという機能するためには、見る人々に受け入れられなくてはなりません。そして、受け入れられた上で見る人にメッセージを伝えて先導していかなければなりません。社会主義リアリズムのポスター、昔のソ連や中国のポスターや今の北朝鮮のポスター等をみると、個々に描かれた人物やもの(機械、兵器等)はリアルさが感じられるように、そして形式的に描かれていて、それらが全体として構成されると極めて恣意的というのか、リアルに描かれた人物やものが現実の世界で存在しているようには描かれていなくて、荒唐無稽(冷めた私の目から見ればです)なユートピアのような非現実的に見えてしまう。まさに、グレコの解説で説かれていると同じことが起こっていると考えていいと思います。例えば、グレコの『聖母の前に現れるキリスト』が教会に飾られて訪れる人々に対して、キリスト教会のプロパガンダとして信仰に導く機能を担わされ、それをグレコ自身よく分っていた、というように私には見えて仕方がないのです。それが、画家としてのグレコが生きていく、のし上がっていく、ひとつの武器としてあった。他の画家がこうではなかったというのは、グレコが自らの特徴を差別化させて目立たせることもあったし、他の画家が出来ないような何かをグレコが講じていたと考えることはできないでしょうか。話は変わりますが、企業間の競争で、自社の特徴を他社に真似されないために企業はあらゆる手を使い、競争に有利を保とうとするのは常識です。競争ということを考えれば、そういう発想は必ず出てくる。グレコがそういうことを考えつかなかったとはだれも言えないはずです。

そういう考え方に一番合致するというのか、適合的なのが『フェリペ2世の栄光』と言う作品です。もうプロパガンダ以外の何ものでもないという感じです。ここでもう一つ見えるのは、何か取り留めもないような書き方になってきていますが、映画的な手法というのか、『聖ラウレンティウスの前に現われる聖母』ではもっとシンプルに映画的なモンタージュの手法が見えるような気がします。簡単にいえば、映画で人が何を見つめているとような横顔の画面を映し出し、その後場面転換でラーメンの美味しそうな映像を連続して映し出してあげると、観客は、この人物は空腹だったのだと強く想像するという手法です。人物とラーメンという全く関係のない映像をうまくつなげることで別の意味をつくり出す組み合わせの手法です。実際の映画では、もっと複雑でそれと分らないように使われています。例えば、グレコの『聖ラウレンティウスの前に現われる聖母』では聖ラウレンティウスと聖母はそれぞれ左下と右上と領域を分けて描かれていて、それぞれ違う場面として別々のようでもあります。しかし、聖ラウレンティウスが振り返るように右上の領域を見上げて、その先に聖母が描かれている。しかし、聖母の方からは視線を返すということはない。そこから二つの場面の関係を想像できるというのが、上述の映画のモンタージュの手法に通じてはいないか。また、映画もまた、特殊効果を駆使して「見えるもの」と「見えないもの」を繋がっているかのような描き方をして広く人々に受け入れられて、多額の現金を稼いでいます。そう考えれば、グレコの姿勢と言うのは、ホップアートとかサブカルチャーとか、そういうものに通ずるところもあるのではないか、というきも起こります。こじつけと言われるかもしれませんが。

ここまで、いうなれば序章で次回から、いかにもエル・グレコといった作品がいよいよ出てきます。

2013年3月10日 (日)

ウォーレン・バフェット「株主への手紙」2012(4)

我々には保険ビジネスにおいて驚異的な業績をあげている傑出したマネージャーがいるため、バークシャーは顕著な結果を残しています。皆さんに、その主要なユニットについて説明させて下さい。

フロートのサイズでみると第一は、アジット・ジェインによって運営されているバークシャー再保険グループです。アジットは他の誰もがやろうとせず、資金をかけようとしないリスクに対して保険をかけます。彼の活動は、保険ビジネスの中ではユニークな方法で、能力、スピード、決断力と最も重要な頭脳を組み込んだものです。彼はバークシャーを我々の資源に関して、不適当な危険に決して晒しません。本当に、我々は大部分の保険業者に比べて、その点ではるかに保守的です。例えば、保険業界がいくつかの大規模な大災害の被害で、これまでに直面したもののおよそ3倍の損害となるような2500億ドルの損害を経験したとしても、これまでの利益の連続により、その年には穏健な額の利益を計上するでしょう。これに比べて、他のすべての主要な保険業者と再保険業者は大幅な赤字となり、そのいくつかは債務超過に直面するでしょう。

1985年のスタンディングスタートから、アジットは350億ドルの著しい引受業務利益をフロートにより産み出しました。これは他保険会社のCEOでは近づくことする出来ない業績です。これらの成果により、彼はバークシャーに何十億ドルもの価値を追加させました。皆さんが年次総会でアジットに出会うことがあれば、深くお辞儀をしてあげて下さい。

 

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我々には、ゼネラル・リーというもう一つの強力な保険チームがあり、これをテッド・モントロスが率いています。

本質的には、健全な保健活動には四つの規律を固く守る必要があります。それは(1)ポリシーが損失を招くような異なる際に晒されているすべての危険を理解していなければならない、(2)それを実行する場合にの損失や見込まれるコストを引き起こすと見込まれるあらゆる要素を保守的に評価しなければならない、(3)将来の損失コストと営業費をカバーして、平均して利益を上げることの出来るプレミアムを設定しなければならない、(4)適切なプレミアムを得ることができない場合には退場する用意をしておかなければならない。

多くの保険会社は最初の3つのテストには合格するものの、第4に失敗します。彼らは、単に競争相手が熱心に引き受けている保険ビジネスに背を向けることができないのです。他のみんながそうしているので、我々も同じようにそうしなければならないという古いガイドラインは、保険により当てはまりますが、それ以外のどんなビジネスでもトラブルを招くことになります。

テッドは四つの保険規律を全て守りました。それは彼の成果に現われています。ゼネラル・リーの巨大なフロートは彼のリーダーシップの下でコストフリー以上の状態にあり、平均して将来もそうあり続けるだろうと予想できます。我々は、ゼネラル・リーの国際再保険ビジネスに特に注目していますそして、我々が1998年に買収して以来、一貫して有益な成長を達成してきました。

 

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最後に、私が62年前に最初の経験を積んだ保険業者であるGEICOがあります。GEICOは、18歳で入社し2011年までに51年にわたって勤め続けているトニー・ナイスリーによって運営されています。

トニーが達成したことを見る時、私は目を見張らざるを得ません。これは注目すべきことですが、昨年の彼の記録は、GAAPの会計基準によって示されたGEICOの保険引受利益6億8000万ドルより、はるかに良かったのです。年初の会計規則の変更によって、我々はGEICOの保険引き受け利益に4億1000万ドルの費用を計上しました。このアイテムは2012年の営業成績とは全く関係のないもので、現金も収益も費用も税金も変えるものではありません。事実、GEICOの本来的な価値と我々が帳簿に記載する価値との間にすでに存在する格差を、その評価減は単に拡大しただけです。

史上、単発では最大の損失を会社が蒙ってしまったにも拘らず、GEICOはその保険引受業務をそれ以上に稼ぎ出しました。その原因は、ハリケーン・サンディで、それまでの最大だったハリケーン・カトリーヌから受けた3倍以上の損失を記録しました。ニューヨークの都市圏でGEICOがシェアをリードしていたことから驚異的なとなっていましたが、我々は台風で破壊されたか、あるいは損害を受けた46,906台の車両の補償をしました。

昨年、GEICOは既存の保険契約者(継続)の更新料金とセールスの終わった(終了)料金相場のパーセンテージ双方がかなり増加しました。多額になったのには2つの要因があります。ぎりぎり1パーセントを続けた増加は固有の価値を10億ドル以上増やすことになりました。人々が会社の価格をチェックする時には、通常、重要な金額を節約できることに気が付くということを2012年のGEICOは劇的に証明して見せました。

 

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我々は3つの主要な保険会社の他により小さな会社のグループを所有しています。そして、それらのほとんどは保険世界の辺鄙な片隅で取引を営んでいます。全体として、それらは一貫して利益をもたらしてきました。そして、それらが我々に提供するフロートは相当な量です。チャーリーも私も、これらの会社やマネージャーを大切にしています。

2012年の終わりに、主として中小企業を対象として労災保険を取り扱うウィルクスバリ社を買収して、このグループを拡大しました。年間の保険料は合計で約3億ドルになります。この会社には従来のビジネスと新しいラインの両方に素晴らしい将来があります。

2013年3月 9日 (土)

ウォーレン・バフェット「株主への手紙」2012(3)

本質的なビジネスの価値

チャーリーと私が本質的なビジネスの価値についてお話しするのと同じほど、我々はみなさんに正確にバークシュー株式の数についてお話しできません。しかし、我々は2010年の年次報告に、3つの要素を載せました。その一つは質的で、我々がバークシャーの本質的な価値を見ることができるキーポイントと信じているものです。その議論は104ページから105ページに再現されています。

ここに、2つの量的要素の最新版があります。2012年に、我々の1株当たりの投資額は15.7%増えて113,786ドルになりました。また、保険と投資以外の企業からの我々の税引き前利益も、15.7%増えて8,075ドルとなりました。

1970年以降、我々の1株当たりの投資を毎年倍加する19.4%の率で増やしてきました。そして、我々の1株当たりの利益は20.8%の速さで増えました。我々の、この2つの価値の尺度と非常に近い割合で42年間という期間にわたるバークシャーの株価が増加したことは、偶然の一致ではありません。チャーリーも私も、この2つの尺度の両方が増加してほしいと思っていますが、我々は常に営業利益をつくることをより強く求めています。

 

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さて、我々の事業の4つの主要なセクターを見ていきましょう。そのセクターそれぞれには他のセクターとはかなり異なる貸借対照表と収入の特徴があります。したがって、それらを一緒くたにしてしまうと分析できなくなります。そこで、我々は、これらを4つの別々のビジネスとして説明します。これはチャーリーと私も、これらをこのようにみているからです。

 

 

保険業

最初に保険を見ていきましょう。これは、バークシャーの中核事業であり、この数年にわたり我々の成長を引っ張ったエンジンです。

損害保険(P/C)は前払いのプレミアムを受け取り、後で請求に対する支払いを行います。極端な場合、特定の労災補償事故のような場合は、支払いが数十年間延びることがあります。このような、今現金を受け取り、支払いは後になるモデルでは、我々の手元に多額の「フロート」と呼ばれる現金が据え置かれることになります。最終的には、そのお金は我々の手元を離れることになるのですが。一方、我々がこのフロートを投資に振り向けることで、バークシャーは利益を得ることができます。ここの方針や主張は行ったり来たりしますが、我々が抱えるフロートの総額はプレミアムボリュームに関して安定しています。その結果、我々のビジネスは、フロートに応じて成長しました。我々がいかに成長したかは、下に表しています。

 

 

昨年、我々のフロートは横ばいか、将来は少し落ち込みそうであると皆さんに話しました。我々の保険のCEOは、昨年のフロートを25億ドル増やして、それが間違いであることを証明してくれました。私は、今度は2013年には更なる増加を予想しています。プラスの面ではGEICOのフロートは、ほぼ間違いなく増加するでしょう。しかしながら、国家賠償の再保険部門では、たくさんのランオフ契約を保持しており、これらのフロートが不安定で落ち込む可能性があります。我々が将来のフロートの低下を経験するとしても、それは非常に段階的で、数年で2パーセントを以上にはならないでしょう。

プレミアムが我々の費用と最終的な損失の合計を上回っていれば、フロートが産み出す投資収益を加え、我々は引受業務利益を計上します。このような利益が産み出されるとき、我々は自由なお金の運用を喜びます。さらにこれを増やしながら、後の支払いを待ちます。それは、皆さんがローンを借りて、銀行がその利息を払ってくれるようなものです。

残念なことに、このような幸福な結果を成し遂げたといいう保険業者の願望は、激しい競争を引き起こします。大きな引受業務損失を起こす損害保険会社があるため、ほとんどの年に競争は活発です。例えば、スティトファームは、わが国最大の保険業者であり経営があまり良好でない会社ですが、2011年末で、この11年のうち8年は引受業務損失をまねきました。(2012年の彼らの会計報告は、また使い物になりません)保険でお金を失うにはたくさんの道があり、保険会社は新しいものを作り出す才能に長けています。

この報告書の最初のセクションに見られるように、我々は10年連続で引受業務利益を上げてきて、この期間の税引き前利益の合計は186億ドルにも達しました。我々は、これからも、ほとんどの年に収益を上げ続けるだろうと信じています。我々が達成できたしたら、それは我々のフロートがコストゼロよりもむしろ収益を産み出し続けるからです。

それで、この魅力的なフロートはどのような我々の本質価値の計算に影響するのか?我々のフロートはバークシャーの帳簿価格を計算する際には負債として完全に差し引かれます。ちょうどそれは、我々が明日払わなければならなくて、それを補充するものがない時のように。しかし、それはフロートを表示するには誤った方法で、代わりに回転資金として見られるべきです。フロートがコストを産まず、長く存続するならば、この負債の正しい価値は会計上の価値よりはるかに低いです。

この誇張された負債を部分的に相殺するのは、資産として帳簿価格に含まれる保険会社に対する好意に起因する155億ドルです。実質的に、この好意は我々の保険業務でフロートを産み出す能力の価格を意味します。しかしながら、好意の費用は本質的価値とは関係がありません。もし、保険ビジネスが大規模で持続的な引受業務損失を生み出してしまうのならば、それに起因する好意資産は、当初の導入コストがどれだけかかっていても、意味がないと考えざるを得ません。

幸いにも、バークシャーはそうではありません。チャーリーも私も、我々の保険業務の好意の本当の経済的価値は、同様の品質のフロートを購入することで測ることができますが、歴史的な繰越価値を越えていると信じています。我々のフロートの価値というのは、バークシャーの保険ビジネスの本質的価値が帳簿価格を大幅に上回ると信じている理由です。

無料のフロートが、P/C事業全体のために期待される結果ではないことを、もう一度強調させて下さい。我々は、保険の世界で多額のバークシャー品質のフロートがあるとは思っていません。2011年までの45年間のうち37の年で、産業プレミアムは保険請求を賄うには不十分でした。従って、具体的な資産による産業界の収益は、長年にわたり、アメリカの産業全体の平均的な収益に遥かに及びませんでした。

さらに不快な現実は、この産業の見通しの不透明さをつのられます。保険収入は、現在は、「レガシー」債権ポートフォリオがこの数年(おそらくは、これから長年)で再投資された場合より高い利回りとなるから、得ています。今日のポートフォリオは、実質的に減耗性資産になっています。保険業者の収益は保険が満期となり更新される時に大きな痛手を受けることになるでしょう。

 

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2013年3月 8日 (金)

ウォーレン・バフェット「株主への手紙」2012(2)

それでは、2012年の良いニュースです。

 昨年私は、皆さんに、我々の保険以外の5つの大会社、BNSF、イスカー、リーブゾール、マーモン・グループ、そして、ミッド・アメリカンエナジーが2012年に税引き前利益で100億ドル以上を稼ぎ出しそうだと、お話ししました。それを彼らは、やってのけたのです。米国経済の成長が生温く、世界中のいたるところで経済が弱体化しているにもかかわらず、我々の「5つの発電所」は、2011年に比べておよそ6億ドル増加の101億ドルの総利益を得ることができました。

このグループのうちミッドアメリカンだけは、税引き前で3億9300万ドル稼いでいますが、8年前にバークシャーの所有となりました。続いて、我々は全て現金決済で5社のうち3社を手に入れました。第5のBNSFを獲得する際に、我々は、その費用の70%を現金で支払い、残りは未払い分に6%を追加した株式を発行しました。したがって、5つの会社によりバークシャーが年間で得られた97億ドルの利益は、若干薄められることになっています。それは、全体としては成長していませんが、一株当たりの利益は増えています。

米国の経済情勢でなければ、我々はそれらのいずれにも期待していませんが、我々の5つの発電所は2013年に再びさらに大きな利益をもたらしてくれるでしょう。

 私は2012年には大きな獲得ができませんでしたが、これに比べて子会社のマネージャーたちは遥かに良い仕事をしました。我々には「ボルト・オン」購入のための記録的な年となりました。我々の既存の26のビジネスのためにまとめて23億ドルを費やしました。これらの処理は、バークシャーが株式を発行することなく終わりました。

チャーリーと私はこの獲得を好んでいます。通常彼らはリスクを低く抑え、本部に負担をかけないで、マネジャーの守備範囲を広げます。

 我々の保険事業は昨年灯りを放ちました。バークシャーに自由に投資することができる730億ドル提供している間、彼らは、さらに、16億ドルの引き当て業務利益を10年連続で提供してくれました。これは、皆さんのケーキを取っておいて、それも食べるようなものです。

ガイコはそれをずっとリードしています。引受業務規律を犠牲にすることなく、市場シェアを奪取し続けました。我々の傘下に入った1995年以降に個人の自動車保険市場でのガイコのシェアは2.5%から9.7%に増大しました。これから、さらなる成長が待っています。

ガイコの並外れたパフォーマンスに対する称賛は、トニー・ナイスリーと彼の27,000人の同僚たちが受け取るべきものです。そのキャストに我々は我々のヤモリを加えるつもりです。風雨や夜の暗がりも彼を止めることはできません。小さなトカゲは、アメリカ人にGEICO.comを訪れることによって、どれほど多くのお金を節約できるかということを伝え続けています。

私は祝福すべきことを数え上げる時には、ガイコに対して2回カウントしてしまいます。

 トッド・コームズとテッド・ウェシュラーの2名は、我々の新任の投資マネージャーですが、頭が切れ、バークシャーに通常の有価証券投資管理を上回るやり方でもって有益で完璧なモデルを持っていることを証明しました。彼ら二人は、我々にとって大当たりでした。2012年では、彼ら2人それぞれが二桁のマージンによってS&P500を上回るパフォーマンスを上げました。彼らは、それぞれ同じように私を圧倒しました。

したがって、我々は、彼らそれぞれが管理する資金額を50億ドル(我々の子会社の年金基金から拠出されるうちから)まで増やしました。トッドとテッドは若くて、チャーリーと私が舞台を去ったかなり後でバークシャーの莫大なポートフォリオを管理することになるでしょう。彼らが引き継ぐと、皆さんは安心できるでしょう。

 バークシャーの年末時点の従業員総数は、昨年末より17,604人増加して288,462人を記録しました。(詳細は106ページを見て下さい)しかし、我々の本部の要員は24人のままで変わりませんでした。正気を失う感覚ではありません。

 バークシャーの投資の“ビックフォー”、アメリカン・エキスプレス、コカ・コーラ、IBMとウェルス・ファーゴ、これらすべてにとって良い年でした。これらの会社それぞれに対する我々の投資意欲は、この1年で増加しました。我々は、ウェルス・ファーゴ(2011年末の7.6%に対して現在は8.7%)とIBM(2011年末の5.5%に対して現在は6.0%)の株式を買い足しました。一方、コカ・コーラとアメリカン・エキスプレスが行った自社株買いは、我々の所有率を引き上げました。我々のコカ・コーラの所有率は13.0%から13.7%に、アメリカン・エキスプレスは8.8%から8.9%に増加しました。

この4社すべてに対するバークシャーの投資意欲は、将来も増加するでしょう。救命胴衣は正しく扱いましょう「良いことが多すぎるのは素晴らしいことです」

4社は素晴らしい事業を持っており、優秀で株主の方を向いたマネージャーによって運営されています。バークシャーで我々はまあまあの企業を100%所有するよりもすばらしい企業の核心的な部分を所有しコントロールしないでいることを好んでいます。主要な配分に柔軟な姿勢を取ることによって、我々は企業をコントロールすることもはるかに有利な条件を得ることができるのです。

年末のシェア計算によれば、2012年の“ビッグ・フォー”における我々のポジションは39億ドルに達しました。しかしながら、ここで我々が皆さんに報告する収益は、受取配当金である約11億ドルのみとします。しかし、間違いはありません。我々がここで報告しない収益の28億ドルは、我々が記録するものと同じくらい、どの点から見ても貴重です。

この4社は保有している収益で自己株式の取得をしばしば行います。それは、将来の我々の収益の分け前を増やすことになります。そのうえ資金提供の機会において常に有利に働きます。時間が経ては経つほど、我々は、この4つの投資している企業により大きな収益を期待しています。我々が正しければ、バークシャーへの配当は増えるでしょう。そして、さらに重要なことは我々の未だ回収されていないキャピタルゲイン(4社で年末現在で267億ドル)も増えることになります。

 資本配分の決定をする時に、彼らの事業の多くが収益とキャッシュ創出の両面で記録的に喜ぶべき状況にあったにもかかわらず、昨年は多くのCEOが「不確実性」を大声で叫び、心を痛めていました。バークシャーでは、我々は彼らと恐れを共有しませんでした。そしてその代わりに、2012年の設備投資に98億ドルを記録しました。これはアメリカ合衆国全体の約88%に当たります。それは2011年に我々が費やしたより19%増えました。チャーリーも私も、専門家が何と言っていても、価値あるプロジェクトに多額の投資をするのが好きです。その代わり、我々はゲイリー・アランの新しいカントリー・ソングEvery Storm Runs Out of Rain.”の歌詞に注目しています。

我々は床にしっかりと経って、間違いなく資本的支出のさらにもうひとつの記録を作ります。アメリカには、チャンスがあるのです。

 

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要約すると、チャーリーと私は次のようなことによって各子会社株式の本源的価値を構築していきたいと考えています。(1)我々の子会社の収益力を改善すること。(2)さらに獲得を固定化して収益を増やしていくこと。(3)我々の投資している企業の成長に参加すること。(4)本来の価値からディスカウントが可能な場合にバークシャ株式の買戻しを行うこと。(5)時々大きな買収を行うこと。我々は、また、もしやるにしても、バークシャーの株式を発行して、皆さんの利益の最大化を試みるようなことは滅多にしないでしょう。

 

これらの建築ブロックは岩のように固い基礎の上に乗っています。1世紀後、BNSFとミッド・アメリカン・エナジーはアメリカ経済で主役を演じ続けるでしょう。さらに、保険は個人と企業にとって不可欠です。そして、バークシャー以上に彼らの活躍の舞台に資源を持ってくる会社はないです。チャーリーも私も、これらの会社やその他の強さを見て、将来の見通しを楽しみにしています。

2013年3月 7日 (木)

ウォーレン・バフェット「株主への手紙」2012(1)

先日、バークシャ・ハサウェイのホームページに、ウェーレン・バフェットの「株主への手紙」の2012年版が掲載されました。

これから、その前文を日本語にして、ここで掲載していきたいと思います。ただし、下手な訳、というよりも直訳に近いだろうから、読みにくいと思われた人は、原文を当たってみてください。

下のURLにあります。

http://www.berkshirehathaway.com/letters/2012ltr.pdf

 

それでは、少しずつ訳していきたいと思います。このような拙い翻訳を始めて4年目となりますが、前回までは全部終わったところでまとめてアップしていましたが、今年は、ある程度進んだところで、その都度アップしていきたいと思います。そのため、仕事の都合や翻訳のペースによってアップの時期が一定しませんが、我慢してお付き合いください。それでは、始めて行きたいと思います。

 

 

 

バークシャ・ハサウェイの株主の皆様

 

2012年バークシャーは株主価値をトータルで241億ドル増やすことができました。我々は自己株式を買い戻すのに13億ドルを費やす一方で、自己資本を年間で228億ドル増加させました。我が社のクラスAとクラスBの株式の2010年の帳簿価格は両方とも14.4%増加しました。現在の経営陣が経営を引き継いでから48年以上の間に、帳簿価格は19ドルから114,214ドルに成長させました。これは年間複利で19.7%に当たります。

 

昨年は、たくさんの良いことがバークシャーにありました。しかし、まずは悪いことから片付けてしまいましょう。

 私の行っているパートナーシップは1965年にバークシャーを買収したとき、我々が見開きページに提示しているものに比べて、241億ドルの利益を上げた1年が標準を下回るとは夢にも思いませんでした。

しかし、今期は標準を下回りました。48年間で9回、バークシャーの帳簿価格の増加率がスタンダード&プアーズの増加率(配当と価値評価を含んだ計算です)を下回ったことがありました。これらの9回のうち8回は、注目すべきはS&Pが15%以上の高い成長率だったということです。我々は向かい風を受けた時には、うまくやっているのです。

今日まで、成長率においてS&Pを凌ぐこと43回、パフォーマンスで5年続けて下回ったことはありませんでした。(記録は103ページにあります。)しかし、この4年間S&Pはあらゆる分野で我々を上回る成長を続けました。マーケットが2013年もこのまま同じように成長を続けるようなら、我々は5年連続でS&Pに負けることになります。

確かなことは一つです。バークシャーの業績がどのようなものであれ、会社の副社長であるパートナーのチャーリー・マンガーも私も、物差しを変えることはないということです。本来のビジネス価値を増やしていくことが我々の使命です、それも、S&Pが市場で得るよりも早いレートで、その際に我々はかなり控えめな尺度として帳簿価格をもちいますが。我々がそうすることができれば、予測は出来ないかもしれませんが、バークシャーの株価は時間とともにS&Pを追い越すことでしょう。しかし、我々が失敗すれば、我々のマネジメントは低コストのインデックス・ファンドを買うことによってS&Pのリターンを得るような投資家に対して価値を付与することはできないでしょう。

チャーリーと私は、バークシャーの本来の価値が小幅な利益を積み重ねていくことによってS&Pをいつかは凌ぐことになると信じています。我々には素晴らしい執行役員の幹部と株主を志向する文化をもった数社の特筆すべき企業があるので、この実現を確信しています。しかし、我々の相対的なパフォーマンスは、マーケットが下落か停滞している時には必ず上回っているのです。マーケットが特に強く上昇している年は、我々はそれには及ばないと思ってください。

 2012年における第2の失望は、大きな買収ができなかったことでした。私は1組の巨象を追いかけましたが、結局手ぶらで戻ってきてしまいました。

しかし、我々の運は、今年に入って変わり始めました。我々は、2月に、HJハインツを所有する持ち株会社の50%の株式を取得することに合意に達しました。有名なブラジルのビジネスマンであり慈善家でもあるジョージ・パウロ・レマンが率いる小さな投資グループが残りの半分を所有します。

我々は、より良い会社のカテゴリーに入れませんでした。ジョージ・パウロは私の長年の友人であり非凡なマネージャーです。彼のグループしバークシャーはそれぞれ持ち株会社の普通株勘定に4億ドルを拠出します。バークシャーは、また、年9%配当の優先株に80億ドル投資します。

好ましい点として、価値を実質的に増す2つの特徴があります。いくつかの点で、それはかなりのプレミアム価格で買い戻されます。そしてまた、名目価格で持ち株会社の普通株の5%を買うことを認めるワラントを得ます。

およそ120億ドルとなる我々の投資総額に、バークシャーが昨年獲得した利益の多くをつぎ込んでいます。しかし、我々は多くの現金を保有しており、よくできたクリップでもっとさらに現金をつまみ上げています。それでは仕事に戻りましょう。チャーリーと私は再び狩猟用具一式を身に着けて、象の捜索を再開しました。

2013年3月 6日 (水)

熊代亨「ロスジェネ心理学~生きづらいこの時代をひも解く」(13)

私達はニュータウンで生まれ育ち、スタンドアロンに自己愛を充たす処世術にすっかり慣れた世代です。そして、自己愛を求めすぎてしまいやすいパーソナリティ傾向を身に付け大人になった世代でもあります。私達が生まれて30年以上が経ちましたが、私達を自己愛パーソナリティ傾向へと特徴づけた社会システムや生活環境は、30年前と変わっていません。それどころか、ニュータウン的な生活環境は人口数万人程度の地方都市にまで広がり、雇用システムは流動化する一方です。ということは、自己愛パーソナリティ傾向に育った私達が、似たような環境下で今度は子育てをする側に回った、ということです。私たちの世代の場合、自己愛パーソナリティ傾向が例外ではなく、典型になったなかで子育てが営まれているわけですから、平均的な環境を与えられた親と言えども、子どもを介した自己愛充当を優先させてしまう確率は決して低くはありません。

そして、ネグレクトや児童虐待の件数は、平成10年あたりから増え続ける一方で、減少する気配はありません。こうした不幸な子ども達の大半は、地域社会や親族といったセーフティネットに守られていませんから、子どもの側には逃げ道がありません。現状では、児童相談所や警察の介入にも限界があります。私たちの世代が直面しているメンタリティ上の問題は大きなものですが、そんな私達の世代によって育まれる次の世代のメンタリティもまた、大きすぎる問題に曝されているといわざるを得ません。

 

それと、現在の子育てのスタイルをも子どもの自発性の成熟といった観点から見直す必要もあると思います。親の管理性を重視した子育ては、学力、従順さを身に付けるには向いているかもしれませんし、セキュリティ面でも優れています。しかし、遊びすら大人に与えられるままの放課後を過ごすようでは、子どもの自発性はますます育ちにくく、リモコンロボットのような青少年がさらに増えてしまうでしょう。また、コミュニケーションの経験蓄積という意味でも、放課後に占める塾や稽古事の割合、一人遊びの時間の割合が増えるほど、同世代の友達とのコミュニケーションの経験蓄積の絶対量が不足しています。親のためでもなく、先生のためでもなく、まず、現在の自分自身の満足や好奇心を充たすために何かを頑張る・何かを探せる─そういう体験を積み重ねていない子ども時代を過ごした人々が、思春期以後に自発性や好奇心に満ちた人物になれるものか、私には疑問でなりません。

ただし、現時点では子供に自由時間を与えるだけでは問題解決になりません。自分の家の子どもに自由時間を与えただけでは、子ども集団で遊ぶ場所も、遊びをクリエイトするチャンスも、それ程得られないからです。ニュータウンでは、大人の用意した場所で行儀よく遊ばなければならないのですから。そしてニュータウンの平均的な公園では、面白い遊びをクリエイトする場としては変化や起伏に乏しすぎるのが現状です。

 

この数十年間で、日本人は自己愛やアイデンティティを追求することに慣れていきました。そのかわり、誰かと一緒に暮らすことや世代を超えて一体感を感じることに関しては、昔よりも不慣れになってしまったように見えます。マンションやアパートごとに分断された暮らしの果てに辿り着いたのは、家族以外の年長者/年少者に想像力を働かせ難い・世代間のいがみ合いや対立の激しい社会であり、男女の結びつきや子育てが遠のく一方の21世紀です。

ニュータウンの暮らしは、他人や他世代を気に掛ける必要がなく、自分の利益や快楽だけを追求するには最適なので、自分自身に忙しい思春期の人々には都合がいいと思います。しかし、そんな暮らしを何十年も続けていれば、異なる世代に対する想像力が欠落していくのも当然でしょう。

思春期以前の子ども達には、ニュータウンという環境は利便性をもたらしてはくれません。子どもには選択権も判断力も行動力もありませんから、大人の与える環境を否応なく突きつけられます。また、こうした問題に関する専門家と言われる人は、その専門的な学術を修めるためにも、子育て以外のところに大きなリソースをかけ、子育ての手間暇を配偶者や保育者に任せているケースが多いのではないでしょうか。他人の子育てから隔絶されたニュータウンの住人の多くは、世代再生産を自分の問題として認識しにくかろうとも思えるのです。そんななか、他の世代のことを考えられる大人になるのは大変難しいことだと思います。

そして私達の世代に話を絞ると、まず、若者気分をいい加減に卒業し、自分探しや自己充足だけにガツガツするライフスタイルを脱却するのが望ましい、と思います。思春期から壮年期へとギアチェンジしていきませんか、ということです。

2013年3月 5日 (火)

熊代亨「ロスジェネ心理学~生きづらいこの時代をひも解く」(12)

第7章 私達の義務と責任─次世代に何を残せるか

私達は過去によってつくられた産物であるとともに、大人としてこれからの未来をつくり出していく材料でもあります。昭和後期~平成時代にかけては、私達がどのように育てられ、どのような世代になって行くのかが問われなければなりませんでした。しかし、私達が大人になった21世紀においては、次の世代にどのような身振りを見せ、どのような贈り物を残して行けるかが、より問われるのです。私たちの世代の思春期は、今終わりを迎えようとしています。既に思春期の終わった人も多いでしょう。しかし、次世代を育てはぐくむ再生産のフェーズとしての私達は、今始まったばかりです。「それなら誰の親にもならない、子育てに関わることのない大人には関係ない話だ」と反論する人もいるかもしれません。しかし、子どもをもうけていない大人が次世代育成から切り離される生活環境と、切り離されて当然という常識感覚そのものも、そういう大人達を見上げながら育っていく子ども達の価値観や処世術形成に間接的な影響を与えるのではないでしょうか。「親にならなかった大人は次世代の育成から切り離される」という風景を見た子ども達が、そこから何を内面化していき、大人になった頃に何を思うのか─少なくとも、「親にならなかった大人も次世代の育成に何らかの形で参与する」という風景を見て育つのとは違った何かを学び、内面化していくと推測されます。反対に、現在子育て中の人達の中には、「独身の連中は負担を免除されている」といった風に、次世代の育成に関わることのない人達を怠け者的に看做す人もいるかもしれません。しかし私は、逆に発想してみるべきではないかと思います。子供をもうけない限り次世代の運命に関われないという情況は、本当は、気の毒な事ではないのか、と。じかに子供を育てるほどではないにしても、関わりのある少年が成長していくのを見守ること、その成長になんらかのポジティブな足跡を残すことは、本当は大きな喜びだと思うのです。若さが衰え始め、自分の能力的追求に限界を感じるようになってからは特にそうではないでしょうか。ところがニュータウンや都会のマンションに暮らし、親類筋や近所の子どもかに隔絶された状態で生活し続ける大人には、その機会が失われてしまっています。

心理学者のエリク・エリクソンは、壮年期を迎えた大人の発達課題として生殖性なるものを挙げています。この生殖性という概念は、「自分以外の誰かに熱意を傾け、誰かを育てることに喜びをかんじるということ」「自己充足だけに満足する境地から、自分を必要とする人達の成長や達成に満足する境地にギアチェンジすること」といったニュアンスになります。エリクソンは、こうした喜びのギアチェンジが起こるためには、ある程度の心理的成熟に加えて、誰かに必要とされたり頼られたりする機会が必要、と書いています。誰かを育てる喜びに目覚めるためには自分一人では難しく、育ててもらうのを待っている子供や年少者に出会わなければ難しいんじゃないか、というのです。生殖性という心のギアチェンジが起こるきっかけとしては、子育てを始めるのが一般的なのは言うまでもありません。ただしエリクソンは、生殖性への目覚めは実子が相手でなくても起こり得るとしています。子どもをもうけていない人でも、他人の子どもの世話に参加したり、次世代のための社会の建設に参加したりすることで、生殖性が芽生えていくことがある、というのです。少子化問題が叫ばれる中、親が核家族単位で子育てを引き受けなければならないのは大変なことだと思います。ですが問題はそれだけでなく、子どもをもうけていないほとんどの未婚者が次世代の育成に関わる機会を持てず、生殖性という、壮年期以降にようやく開花する喜びにアクセスしにくいことも、隠れた不幸ではないでしょうか。もちろんこれは、次世代の子ども達にとっても不幸なことだと思います。

 

思うに、産業構造や雇用システムにしても、都市空間やニュータウンといった生活空間にしても、人生のフェーズの中でも思春期のライフスタイルばかりに便宜を図り、そのメリットを最大化するような社会になってしまっているのではないでしょうか。ここでいう思春期へのメリットとは、職業や居住地を自由に選べるおかげで思春期モラトリアムをやりやすくなった、しがらみが無いお蔭で自己充足やアイデンティティ探しに集中しやすくなったという意味だけではありません。移り気な流行・社会情勢・テクノロジーに素早く適応できる人間にこそ大きなチャンスが巡って来るという意味でも、現代社会においては思春期心性が有利と言えます。

しかし、若者には最適な現代社会も、幼児期~学童期の子ども達や、子育てをしている父母や、子育てを終えて歳を取っていく人達にとって最適とは思えません。現代のニュータウン的な子育て環境は、子育てをする親の経済的/心理的負担を大きくしやすく、大人に管理された暮らしは、子どもの自発性を膨らませるよりは受動性へとなびかせやすいものです。また、人的流動性の高さも、引っ越しに伴う親自身/子自身へのストレスや単身赴任の可能性といった形で、思春期の頃にはさほど気にならなかった負担として牙をむき始めます。環境変化に適応するのが難しくなった老年期の人達も、故郷を離れて自己愛を充たし合える人間関係を再構築するのは大変です。また一方で思春期を捨てようにも捨てきれず、「チョイ悪オヤジ」「40代女子」といった思春期ゾンビになってしまっている人達のことも忘れるわけにはいきません。彼らは思春期の自由そのままに暮らすすべは教わっても、自分の自由を二の次にして次世代の育成に心傾けて行く機会に出会えなかったという意味では、なかなか不幸な人達だと思います。思春期的なライフスタイルがしんどい年ごろになっても自己充足にしか心を砕けず、若作りに固執しなければならない心境も、それはそれで辛いに違いないでしょうから。

2013年3月 4日 (月)

熊代亨「ロスジェネ心理学~生きづらいこの時代をひも解く」(11)

こうしたキャラを使ったコミュニケーションの広がりとちょぅど時期を同じくして、日本でもインターネットが普及してきました。そして、2000年代後半になって普及したネットコミュニケーションのツール、特に後発のソーシャルネットワーキングサービスは、それまでのインターネットの欠点を克服していました。例えば、ツイッターは「見たいものだけを見る」「見せたいものだけを見せる」ことで自己愛を充たすのにうってつけのコミュニケーションとして仕上がっているという、心理学的側面については、あまり注目されていないように見えます。パッと見ただけでは、ツイッターはそれほど優れたツールのようには見えません。一度にできる文字入力が140字までに限られ、デフォルトの設定ではお世辞にも多機能とは言い難い代物です。しかし、ツイッターの場合、それは短所ではなくむしろ長所なのです。140字しか入力できないという仕様は「細かな事は表現できない」という短所が伴いますが、と同時に「見たいキャラだけを見る」「見せたくないキャラは見せない」ようにするのは好都合です。たかが140字で伝えられるメッセージは限られていますから、そのぶん望ましい「キャラ」を造形するための敷居はかなり下がります。喩えるなら。実物大サイズの画像では欠点のみえる顔立ちの人も、サムネイル画像では美人に見えるようなものです。ツイッターは、この「サムネイル画像」にかなり近い状態を、言語レベルのコミュニケーションでやり取りするのに適した環境を提供しています。この、キャラの創りやすさと抽象度の高さに加えて、「フォロー/フォロー解除」「ブロック」といった機能がついており、ユーザー一人ひとりが見たい相手だけを視界に入れて、見たくない相手をどんどん視界から外せるように作られています。「自己愛を充たすのに役立つキャラだけを集めて、自分の自己愛を傷つけそうなキャラを視界から追い出せる」のです。これが、グーグル+、フェイスブック、ミクシィといった、より典型的なSNS然としたネットツールになると、「情報の公開範囲」を設定することで、「この人にはこのキャラを見せる」「あの人には社交辞令のメッセージしか見せない」といった具合に、相手に合わせてみせるキャラを自由自在に使い分けることさえできます。いずれを例に挙げても、現代のインターネットコミュニケーションにおいては、「よりリアルに、より詳細に他者とコミュニケートするための」ツールより、情報量が少なくて抽象度の高い「キャラ」を介することで「見たいものだけ見て、見せたいものだけ見せて、見たくないものは見ない」ためのツールの方が、トレンドに合致しているようです。

 

「見たいキャラ」だけを見て、「見せたいキャラ」だけを見せるコミュニケーションに特化しているのは、インターネットツールだけではありません。私達がすごす日常生活空間そのものも、「キャラ」は見えても「他人」の見えない空間へと変容しています。例えば、イオン、ユニクロ、ヤマダ電機などの立ち並ぶ、国道沿いの生活空間を振り返ってみましょう。あの、全国をくまなく網羅しているロードサイドに買い物やレジャーに出掛けた時、果たして、「キャラ」ではない「他人」に出会うということはあるでしょうか。駐車場に車を停め、イオンに入るとしましょう。自動ドアが開いて、食料品コーナーなり衣料品コーナーなりに向かう。欲しいものを買い物かごに入れ、レジで会計を済ますまでの間に、せいぜい店員「キャラ」に遭遇することはあっても、「他人」に遭遇することはありません。従業員の「お客様対応」も徹底的にテンプレート化されているため、店員というキャラに遭遇することこそあれ、その店員キャラの「なかのひと」の特質を示すようなものに遭遇することは稀ですし、仮にそういう機会があってもお互いに詮索しないのが国道沿いのマナーです。つまりインターネット空間にせよ国道沿いの生活空間にせよ、私達は「キャラ」に遭うことこそあれ「他人」に遭うことの最小化された、自己愛を充たしやすく傷つきにくい環境のなかで生きているのです。

 

こうした「見たいものしか見ない」「見せたいものしか見せない」コミュニケーションと生活空間に特化した処世術を形成している人々が、次第に増えてきています。その先駆がオタクでした。オタクは1990年代前半までは平仮名で「おたく」と表記されることが多く、当時はなんらかの分野に以上に執着していて、その分野について高い知識を持っている人のことを主に指していました。しかし、21世紀に入ってからのサブカルチャー領域では、ライバルに差をつけられるようなセンスも知的研鑽もあまり重要ではなくなりましたからもアニメやゲームなどのコンテンツを媒介物としてコミュニケーションをしていることが「オタク」の最大公約数的な特徴になってきています。このコンテンツ媒介型のコミュニケーションは、互いにアニメなりゲームなりの話題にさえ集中していれば、他人の「見たくないもの」を見てしまうことも、自分の「見せたくないもの」を見せてしまうことも、ほとんど心配する必要はありません。それでいて、媒介物となるコンテンツとの一体感。趣味仲間として集まっている一体感はしっかり得られるのですから、お互いの傷つきを最小化しながら自己愛を充たすには優れた様式と言えます。

現代の日本では、こうしたライトなオタクかせ増えたという以上に、世の中のコミュニケーションやコンテンツ全般がオタク的になった、といった方がふさわしい状況を迎えています。キャラクターコンテンツがゴールデンタイムのCMやパチンコ屋に進出するようになった点でオタク的というだけでなく、めいめいが自分好みのサブカルチャー領域のなかへと没入して、それ以外のことへのコミットもコストも最小限にしながら「見たいものだけを見て」過ごしているという点が、オタク的だとここでは言いたいわけです。

2013年3月 3日 (日)

「エル・グレコ展」(3)~肖像画としての聖人像

Grecopoul同じような肖像画のパターンを取っているのにもかかわらず、様相はガラッと一変します。説明では“エル・グレコはカトリック教会の聖人を単独像で表わす際も肖像画の技術を適用し、独立した半身像または4分の3身像として表わした。したがって、彼らは物理的に観者の近くに描かれ、その結果、聖書の物語に出演しているというよりも、同時代人が肖像画を描かれるためにポーズをとっているがごとく表わされる。”としてもその描き方については、“肖像画の人物たちと同様、聖人たちは必要最低限の動きとジェスチュアだけを伴い、彼らが生きている存在であり、一つの個性を持った一人の人間であることを知らしめている。彼らは単に誰か一個人の肖像というよりも類型的な肖像として表わされており、それを示すために、同じ顔立ちの繰り返しや、マグダラのマリアの香油壷や聖パウロの大剣といったキリストの生と死に敬意を表す象徴的なしるしの存在が役立っている。”

例えば、聖パウロの肖像(?)を見てみましょう。これは12使徒のシリーズのようなものとして描かれたそうで、今回の展覧会でも、同じシリーズの聖ヨハネや聖ペテロも一緒に展示されていました。これらは似たような構図・人物配置で、4分の3身像の聖人を最小限の象徴的な小物を持たせ、黒一色で塗り潰した背景に描かれています。それぞれの描かれた聖人は4分の3身像であるため、ポーズは制限され直立したポーズで手の動きに違いがあったり、手にしている小物との兼ね合いで違いが出たりと、あるいは来ている衣装の点で、私には、原始キリスト教のイメージからすると原色で派手すぎるし、布地というよりはゴワゴワした感じに見えて仕方がないのですが、それぞれの人が原色の違った色をあてがわれているように見えます。そういった印象をまとめてみると、一種のキャラクターピースのような感じです。卑近な例でいうと、ちょっと顰蹙をかうかもしれませんが、テレビの戦隊もの、「ゴレンジャー」とか(世代が古いですね)、で各メンバーが青レンジャーとか桃レンジャーというように色で違いが分かるようにして、それぞれ得意技をもっていることで区別していることと同じです。

それでは、前回の肖像画と通じているところがあるのか?という疑問が湧いてくると思います。もう少し我慢してお付き合いください。このような聖人の描かれ方の原因として、私が思うもっとも説得的な理由は、グレコという個人が全て描いたというのではなく、グレコを中心とした工房で制作されたと考えられるということです。おそらく、このような作品は需要があったのではないか、各地の教会や貴族の館等で、このように描かれた聖人画は従来の大掛かりなものに比べて手軽に飾ることができます。それだけにニーズもあったのではないか、そしてそのニーズに応えるために量産する、ということになれば工房で画家たちを使って効率的に製作する必要が出てくる。おそらく、グレコにとっても儲かったのでウホウホだったのではないか。だから、ドンドン作って売りまくった。その場合、いちいちグレコが全部に手をかけていたのでは、間に合いません。そこで、内容を単純化させる、描き込む要素を最低限にする。そうすることで、製作のスピードは上がるし、描かれることが少なければ、グレコ以外の人が描いたというポロは出にくくなるわけです。それは。現代のブランド品と同じです。ルイ・ヴィトンといったってヴィトン家の人が手をかけて製作しているわけではなくて、ヴィトンのものと皆が認識しているような特徴だけを十分に充たして、あとはブランドマークを入れて、正真正銘の本物とルイ・ヴィトンが出荷する。これ以外のルートからの出荷に対して厳しく管理する。というようなことを通して、あたかも、ルイ・ヴィトン本人が製作したかのような外観を呈している。そういう錯覚を起こさせる。ここで展示されているグレコの作品も同じです。そこで、ルイ・ヴィトンならば、それがヴィトンであると知らしめるトレード・マークがありますが、グレコの一連の作品でも、これぞグレコが描いたと誰もが納得させられるような明確な徴がそこで必要になってきます。それが、前回見た、粗い筆遣いであったり、構図の歪みです。歪んだ構図については、予めプロトタイプを作って、それをコピーすることで使い回しができます。筆遣いに関しては、工房の画家に修得させることである程度定着できるでしょう。そういう形で、グレコの特徴が形式化、パターン化したのではないかと、私は考えます。

その前提として、実在している人物の肖像画であれば、本人をデッサンしたり、ある程度グレコ本人が依頼人に対して直接かかわることが最低限必要で、出来上がった肖像画についても依頼者本人と似ていなければお話にならない。ということは量産品とちがってオリジナル注文品ということになります。それは、そうしなければ顧客は満足してくれないからで、また、グレコの肖像画のウリが生き生きとした肖像画になっていて、依頼者の性格や人となりが見る者がなんとなく想像できるような何かが加わっているということですから、当然グレコ本人が、その依頼者を知悉していることが必要となります。これに対して、聖人の場合は、実際の人物を知っている人はいないわけです。だから、実際に似ている、似ていないを考える必要はない。それまでは、聖書の記述を基にそれぞれの聖人の事績を物語りの場面として描くことによって明確にその人と分かるような絵画をつくっていた。これに対してグレコは、肖像画での経験を生かして、人となりが想像できる画面をつくり出す技法を活用して、聖人の性格を想定してそれらしい画面を作ろうとしたと考えます。端的に言えば、悲しいから涙が出るというパターンを利用して、涙が出ていればその人は悲しんでいると周りが思う、ということを絵画でやろうとしたと思うわけです。具体的にいうと、聖人の構図とか配置といった画面設計の部分と筆遣いといった仕上げの部分です。それ以外は中抜きです。工房の下働きの画家にやらせるわけです。

ただし、そうなると特徴的なところだけがピックアップされることになりますから、本来はそれを支えるベーシックなところが徐々に等閑にされて来る。全体の調和の中で、スパイスとして利いていた特徴的な要素が、他人の手でらしく描かれることで、そういう目立つところが強調されて来る。そうすると、顧客の方は、グレコの絵とはそういうものだ、だんだん認識するようになってくる。そうすると、グレコ本人も、そのニーズに応えなければならなくなる。こじつけと思われても仕方がないともいますが、ここで展示されている聖人たちの肖像を、前回の肖像画と見比べていると、そういうストーリーをどうしても想像してしまうのです。そして、そういう画家の手を離れて独り歩きしはじめたグレコというトレードマークを、画家が意識して使いまわすことができるようになったとき、宗教画の大作の、あの臭い作品が可能になったのではないか、と想像を飛躍させてしまうのです。これについては、また、後の回で見て行きたいと思います。

2013年3月 2日 (土)

「エル・グレコ展」(2)~肖像画家グレコ

Grecolady展示室に入って最初に飾ってあったのは、画家自身の自画像で、そこから数点の肖像画が飾ってありましたが、それは私にとっては驚きでした。グレコに対して私のもっていたイメージを覆すに十分だったのです。その最大の点は、「まともな絵を描いている」ということでした。今回の展覧会の目玉となっている「無原罪のお宿り」のような宗教画に顕著ですが、どこか彼の絵には、「どこに目をつけているのか分らない」とでもいうような奇矯さ、敢えて狙ってやっているとしか思えないひねくれたところが露骨に現われています。それが目につく人は、彼の作品にはついて行けないと感じることでしょう。そういう独特の彼の癖とか臭いのようなものが、ここで数点飾られている肖像画には、あまり感じられない。おそらく、グレコという画家名を伏せて、ベラスケスと言われても、それ程詳しくない人はそのまま納得してしまうのではないか、そういう風に見えます。それは、モデルが存在し、肖像画というものが描かれる目的を考慮すれば、どうしてもモデルとなっている人物に似ていること、大抵はそのモデルとなった人物の邸宅に飾られることから、あまり奇矯なことはできないといった制約の故ではないかと思います。そららの作品では、いつもの粗い筆遣いが人物の顔の表情に躍動感を与え、構図のずれが独特のリアリティを与えるという、宗教画では目障りに感じる人もいるだろう彼の癖が抑制されて、結果的に肖像の人物が生き生きとして見えてくるのです。これに比べると、イタリア・ルネッサンスのダヴィンチやラファエロの肖像画は整っているけれど、冷たく感じられるだろうと思えるほどです。展示の中で、他の画家の描いた肖像画をグレコを模写したものとの両作品が並べて展示されていましたが、グレコの模写は粗っぽいものの描かれた人物が生き生きとした感じは数段優っているように感じられました。とくに、粗いに筆遣いで描かれた筆触がそのまま顔の表情の筋肉の動きにも見えてきて構図の歪みが、顔に動きがあるかのように見せているのです。これは、身近な例で言えば、まんがの世界で、アクション場面で身体や顔の動きをデフォルメによって歪ませたり、また動きのディテールを敢えて描き込まずに動きの方向に線を並べて引くというような省略を敢えて行うことでアクションの躍動感を表わしているのに似ています。そういう動きが肖像画の人物に生き生きとした生命感を感じさせる一つの要因となっているようです。

とりわけ、女性を描いた「白貂の毛皮をまとう貴婦人」という肖像画では、女性の顔の描き方が、本当にグレコが描いたのかと疑わしくなるほど、肌の質感が滑らかで柔らかく、パルミジャニーノの描く女性を彷彿とさせるといったら言い過ぎでしょうか。あるいは、黒髪のエキゾチックさ、黒い瞳でこちらをしっかりと見つめているところ、あるいは指に光る宝石、全体のポーズなどから19世紀のコローの「真珠の女」と何となく似ていると感じるのは私だけでしょうか。何を言いたいかと言うと、極めて個性的で、他の画家の違うことが私のような絵画の素人にも一目でわかるのがグレコの作品なのですが、肖像画ではそういう際立った個性が抑えられているということなのです。いわば、彼の特徴が抑えられスパイスのように利いていて、描かれた人物の生命感とか表情の実在感を醸し出していると言えるのではないかと思います。

そして、肖像画の依頼者は、かなりの満足感を得られたのではないかと思います。というのも、彼が描いたのは貴族や王族というよりは、力を持ち始めたブルジョワや専門の技術をもった人びとだったからです。たぶん当時の肖像画では未開拓の市場で、上昇機運にあった人々を伝統的な手法に新しさを加えて、彼らの上昇カーブにある躍動感のようなものを画面に捉えて定着させているように見えるグレコの肖像画は、マーケティングでいえば成長分野への効果的な投資たったと言えるのではないかと思います。

でも、でもです。これだけだったらグレコではない。良くも悪くも…。たたし、この一連の肖像画を見ることができて、私がグレコに感じていた垣根は大幅に低くなりました。言うならば、グレコのわざとらしさのベースにはこのような、近代絵画を彷彿とさせるものがあったこと発見できたからです。こう考えると、グレコがマニエリスムの画家たちとは決定的に違うということが、私の中でははっきりしました。単純化した議論ですが、レオナルド・ダ=ヴィンチという画家はものの形態を追求したというのか、それだけを見たという解釈があります。カール・ヤスパースという哲学者はダ=ヴィンチを「眼の人」と言いましたが、視覚に映る形態を追求して、それ以外の要素を斬り落としていった画家というわけです。というのも、それ以前は、そうではなかったからです。いわゆる中世の世界では、神様の時代というわけで、何事にも神のご意志があったわけで、人間の形態は、神が自らの姿に似せて造られたという意味があったというわけです。だから、もののかたちは見た目だけでなく、その背後に何らかの目的とか意味とかいったものがあった。それを推し進めると、実際の見た目は仮の姿で、神の目的に適った本来の姿があるということになります。アウグスティヌスという古代から中世にかけての著名な神学者がいますが、そういう視点でプラトンのイデアと言う考えをキリスト教に受け入れ、後の中世のスコラ哲学の基を作ってしまったと言われていますが、そういう考えからすれば、実際に目で見るのではなくて、錯覚することだったあるのだから、ものの真の姿を捉えるには観想するとかいいます。

そういうことに対して、視覚の優位により、見た目を重視して絵画に写し取ろうとした革命家としてダ=ヴィンチをみるという見方があるのも事実です。そして、こういう神の意志などというものを切り捨てることができたからこそ、近代の自然科学が後に発展していくことになるのも事実です。彼の後の画家と言うのは、実際のところそういう偉大なダ=ヴィンチのパラダイムの基でものを見るということになって行きます、ラファエルなんかは典型だし、マニエリスムの画家たちもいったんそういう形態を明確に描くということからは逃れられなくなります。

それはそれでいいのです。しかし、人間と言うのは、それで満足できるでしょうか。あることに過剰に意味を求めてしまうところが人間には一方であるのです。例えば、今、私のいる部屋で立てかけてある写真スタンドが地震も風のないのにパタンと倒れたりすると、何か胸騒ぎを覚えるのも人間なのです。それを単に写真スタンドが倒れただけだと割り切るもできるでしょうが、写真の人物に何かあったのではないかと心配してしまうのも人間なのです。それは、絵画で言えば、人物の生命感とかオーラのようなもの、目に見えるかたちになって現われることのないものを描くということをするかしないか、ということにも通じると思います。極端な決めつけかもしれませんが、ダ=ヴィンチはそのようなものを積極的に追及することはしないと思います。それとは正反対に、そっちを追い求める人があってもいいのではないか。そういう画家としてグレコを見ることができのではないか、というのが一連の肖像画を見て得た印象なのです。そして、そういう目に見えないものを絵画で追い求めた近代以降の画家たちとの接点がそこにあるのではないか、とグレコを考え直すきっかけともなりました。グレコの描いた肖像画では、粗いタッチや歪んだ構図に見たままを画面に写すとは違う方向性で行くことによって、生き生きとした感じというような見た目の形のならない雰囲気のようなことを感じられる効果を生み出すという新機軸を発見した。これが、肖像画というモデルがいた場合は、目に見えないものが加味された新しいものだったかもしれないが、宗教画ともなると実在のモデルはなかったため、肖像画では隠し味程度だったものが大きく前面に出てしまった。それがグレコ独特の臭みになっていったのではないか。ものの背後に意味づけをしてしまうというのは、これが行き過ぎると統合失調症という神経症になります。グレコの宗教画に、私が感じる病的なところも、そういう要素があるのかもしれない、と考えさせられました。

それは、この後、それぞれの作品を見ながら具体的に考えてみたいと思います。

2013年3月 1日 (金)

熊代亨「ロスジェネ心理学~生きづらいこの時代をひも解く」(10)

第5章 SNS時代のコミュニケーション

コンテンツ消費・キャラクター消費が当たり前になった21世紀においては、現実の人間同士のコミュニケーションや一体感の充たし合いも、20世紀と違っていておかしくありません。

 

昭和の頃、キャラクターというとアニメや漫画の登場人物を連想するものでしたが、平成時代に入った頃から、「キャラクター」「キャラ」という言葉がコミュニケーションのシーンでも多用されるようになりました。「キャラが立っている」といった具合に、若い世代は自分のキャラがどうであるのか・相手のキャラがどうであるのかに敏感です。そして自己愛を充たすのに有利なキャラを望み、「いじられキャラ」のような、他人の自己愛を充たすための道具的キャラになってしまうことを恐れます。キャラを意識した人間関係は、ケータイ小説やアニメ作品のそれとは異なり、現実の生身の人間関係の中で起こるわけですから、誰もが「かわいいキャラ」「強いキャラ」を獲得できるわけではありません。キャラを介した人間関係は、ヒエラルキーのような構造をつくることがしばしばあり、特に学校内でのそれはインターネットスラングで「スクールカースト」と呼ばれています。

但し、強くて理想的なキャラを獲得できればそれで安心かというと、そうでもありません。強いキャラを獲得した人でも、そのキャラとしての一貫性を欠いた行動をとっていると、それらの理想的なキャラが成立しなくなってしまうリスクがあります。このため無理をしてでも理想的なキャラを引き受けた人間は、しんどくてキャラを演じ続けるしかなくなってしまい、そのストレスが溜まって心療内科を受診するに至る者までいます。ですから、こうしたキャラを介したコミュニケーションは、ある意味、過酷な世界です。上位陣は上位キャラを維持しなければなりませんし、もちろん下位陣はクラスメートを介して自己愛を充当することが難しく、それどころか他のクラスメートの自己愛を充たすための引き立て役に立場に甘んじることになるのですから。昭和時代の学校生活は、泥だらけになって喧嘩することはあっても、クラスメート同士の得手不得手を把握し合っていたものです。ところが時代が後になればなるほど、わかりやすくて表面的なキャラだけを認識しあって、キャラに当て嵌まらない部分を意識することなく、キャラでクラス内の立場や役割を把握するスタイルが優勢になってきています。こうした環境下の子どもは、学生時代のうちに自覚的にキャラを演じる能力は高くなるかもしれませんし、キャラに合致しない部分を隠す作法も身に付きやすいかもしれません。しかし、万事がこんな調子では、他人との違いを認め合った上で共存するようなノウハウは育ちようがありません。

では、なぜキャラというものが重要性を増すようになったのでしょうか。なかで最も根本的な要因は、クラスメートや友人関係をはじめ、子ども時代の対人関係の接点が少なく単純化してしまった、ということにあると私は考えています。例えば、都会のコンビニ店員に出遭うとき、店員は「コンビニ店員」以上の情報がありません。愛想の良し悪しや性別ぐらいは見て取れるかもしれませんが、接点がレジ会計だけでは「コンビニ店員」以上でも以下でもないわけで、それ以上を知る必要もない。これに対して、地域社会の友人の親が八百屋のオヤジをやっている場合、「八百屋のオヤジ」だけでは済みません。地域行事での接点や、友達の親としての接点、街中の色々な場所で出会うときの接点までも加わるので、タダの店員キャラとして単純化しづらい色々な面が目に入ってきます。その場限りコンビニ点々なら「コンビニ店員キャラ」という言葉がしっくりしますが、複数の場面・文脈の中で繰り返しやりとりする八百屋のオヤジの方は、一辺倒なイメージにはおさまらない、面的・多層的な人物像が見える、というわけです。学校も同じでしたが、地域社会が焼失した都市やニュータウンの放課後がスケジュールで゛切り分けられた子どもの場合、学校のクラスメート・塾に通う友達・スポーツクラブで知り合う友達は、必ずしも同一ではありません。限られた接点・文脈のなかで出遭うそれぞれの場面の友達は、見え方や付き合い方が一面的になりやすく、その場の分かりやすい特徴だけをピックアップしたキャラ把握でもコミュニケーションが済んでしまいます。つまり、子ども同士が限定的・単一的な接点しか持たない生活空間では、相互把握の様式もコミュニケーションに必要な処世術も異なり、キャラを介してのコミュニケーションは後者に適合している。世代が下るほどコミュニケーションの内容が、キャラ的様相を深めていった背景としても、ニュータウン的な生活空間は重要な意味を帯びています。

昨今よく言われる「コミュニケーションスキル」というものも、書店に並ぶ自己啓発書等を見る限り、このキャラを巡っての立ち回りの巧拙について書かれているものが多いようにみえます。キャラの「なかの人」を細かく知ろうなどとは、もう誰も気にかけていないのかもしれません。お互いにキャラしか見ないコミュニケーションは、自己愛を充たし、齟齬や摩擦に苛立たないようにするという点に関しては、便利と言えば便利です。「強いキャラ」の人は、自分より弱いキャラの人達の、キャラ以外の部分では優れているかもしれない部分を直視しないで済み、「弱いキャラ」に対して一方的に優越感を感じ続けることが可能になるからです。一方「弱いキャラ」の人達にとって、キャラとキャラとのコミュニケーションの中では引き立て役で、自己愛を充たせません。けれどもその人は、自分達の強弱関係があくまで「キャラとキャラの間の」それであって、あらゆる面で自分が劣っているわけではないという自意識を維持できます。社交上は慇懃無礼を続けつつ、内心では自己愛の傷つきを最小化した意識を維持できるのです。要は、キャラを媒介物にしてコミュニケーションに終始している限り、どちらの側も、見たいものしかみなくても済まされるわけです。キャラの向こう側に本来存在するであろう、他者との齟齬や摩擦はキャラを使って最小限に抑えながら、最も都合の良い想像力を互いに温存し合うのが、当世コミュニケーション事情の内実です。

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