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2013年3月 2日 (土)

「エル・グレコ展」(2)~肖像画家グレコ

Grecolady展示室に入って最初に飾ってあったのは、画家自身の自画像で、そこから数点の肖像画が飾ってありましたが、それは私にとっては驚きでした。グレコに対して私のもっていたイメージを覆すに十分だったのです。その最大の点は、「まともな絵を描いている」ということでした。今回の展覧会の目玉となっている「無原罪のお宿り」のような宗教画に顕著ですが、どこか彼の絵には、「どこに目をつけているのか分らない」とでもいうような奇矯さ、敢えて狙ってやっているとしか思えないひねくれたところが露骨に現われています。それが目につく人は、彼の作品にはついて行けないと感じることでしょう。そういう独特の彼の癖とか臭いのようなものが、ここで数点飾られている肖像画には、あまり感じられない。おそらく、グレコという画家名を伏せて、ベラスケスと言われても、それ程詳しくない人はそのまま納得してしまうのではないか、そういう風に見えます。それは、モデルが存在し、肖像画というものが描かれる目的を考慮すれば、どうしてもモデルとなっている人物に似ていること、大抵はそのモデルとなった人物の邸宅に飾られることから、あまり奇矯なことはできないといった制約の故ではないかと思います。そららの作品では、いつもの粗い筆遣いが人物の顔の表情に躍動感を与え、構図のずれが独特のリアリティを与えるという、宗教画では目障りに感じる人もいるだろう彼の癖が抑制されて、結果的に肖像の人物が生き生きとして見えてくるのです。これに比べると、イタリア・ルネッサンスのダヴィンチやラファエロの肖像画は整っているけれど、冷たく感じられるだろうと思えるほどです。展示の中で、他の画家の描いた肖像画をグレコを模写したものとの両作品が並べて展示されていましたが、グレコの模写は粗っぽいものの描かれた人物が生き生きとした感じは数段優っているように感じられました。とくに、粗いに筆遣いで描かれた筆触がそのまま顔の表情の筋肉の動きにも見えてきて構図の歪みが、顔に動きがあるかのように見せているのです。これは、身近な例で言えば、まんがの世界で、アクション場面で身体や顔の動きをデフォルメによって歪ませたり、また動きのディテールを敢えて描き込まずに動きの方向に線を並べて引くというような省略を敢えて行うことでアクションの躍動感を表わしているのに似ています。そういう動きが肖像画の人物に生き生きとした生命感を感じさせる一つの要因となっているようです。

とりわけ、女性を描いた「白貂の毛皮をまとう貴婦人」という肖像画では、女性の顔の描き方が、本当にグレコが描いたのかと疑わしくなるほど、肌の質感が滑らかで柔らかく、パルミジャニーノの描く女性を彷彿とさせるといったら言い過ぎでしょうか。あるいは、黒髪のエキゾチックさ、黒い瞳でこちらをしっかりと見つめているところ、あるいは指に光る宝石、全体のポーズなどから19世紀のコローの「真珠の女」と何となく似ていると感じるのは私だけでしょうか。何を言いたいかと言うと、極めて個性的で、他の画家の違うことが私のような絵画の素人にも一目でわかるのがグレコの作品なのですが、肖像画ではそういう際立った個性が抑えられているということなのです。いわば、彼の特徴が抑えられスパイスのように利いていて、描かれた人物の生命感とか表情の実在感を醸し出していると言えるのではないかと思います。

そして、肖像画の依頼者は、かなりの満足感を得られたのではないかと思います。というのも、彼が描いたのは貴族や王族というよりは、力を持ち始めたブルジョワや専門の技術をもった人びとだったからです。たぶん当時の肖像画では未開拓の市場で、上昇機運にあった人々を伝統的な手法に新しさを加えて、彼らの上昇カーブにある躍動感のようなものを画面に捉えて定着させているように見えるグレコの肖像画は、マーケティングでいえば成長分野への効果的な投資たったと言えるのではないかと思います。

でも、でもです。これだけだったらグレコではない。良くも悪くも…。たたし、この一連の肖像画を見ることができて、私がグレコに感じていた垣根は大幅に低くなりました。言うならば、グレコのわざとらしさのベースにはこのような、近代絵画を彷彿とさせるものがあったこと発見できたからです。こう考えると、グレコがマニエリスムの画家たちとは決定的に違うということが、私の中でははっきりしました。単純化した議論ですが、レオナルド・ダ=ヴィンチという画家はものの形態を追求したというのか、それだけを見たという解釈があります。カール・ヤスパースという哲学者はダ=ヴィンチを「眼の人」と言いましたが、視覚に映る形態を追求して、それ以外の要素を斬り落としていった画家というわけです。というのも、それ以前は、そうではなかったからです。いわゆる中世の世界では、神様の時代というわけで、何事にも神のご意志があったわけで、人間の形態は、神が自らの姿に似せて造られたという意味があったというわけです。だから、もののかたちは見た目だけでなく、その背後に何らかの目的とか意味とかいったものがあった。それを推し進めると、実際の見た目は仮の姿で、神の目的に適った本来の姿があるということになります。アウグスティヌスという古代から中世にかけての著名な神学者がいますが、そういう視点でプラトンのイデアと言う考えをキリスト教に受け入れ、後の中世のスコラ哲学の基を作ってしまったと言われていますが、そういう考えからすれば、実際に目で見るのではなくて、錯覚することだったあるのだから、ものの真の姿を捉えるには観想するとかいいます。

そういうことに対して、視覚の優位により、見た目を重視して絵画に写し取ろうとした革命家としてダ=ヴィンチをみるという見方があるのも事実です。そして、こういう神の意志などというものを切り捨てることができたからこそ、近代の自然科学が後に発展していくことになるのも事実です。彼の後の画家と言うのは、実際のところそういう偉大なダ=ヴィンチのパラダイムの基でものを見るということになって行きます、ラファエルなんかは典型だし、マニエリスムの画家たちもいったんそういう形態を明確に描くということからは逃れられなくなります。

それはそれでいいのです。しかし、人間と言うのは、それで満足できるでしょうか。あることに過剰に意味を求めてしまうところが人間には一方であるのです。例えば、今、私のいる部屋で立てかけてある写真スタンドが地震も風のないのにパタンと倒れたりすると、何か胸騒ぎを覚えるのも人間なのです。それを単に写真スタンドが倒れただけだと割り切るもできるでしょうが、写真の人物に何かあったのではないかと心配してしまうのも人間なのです。それは、絵画で言えば、人物の生命感とかオーラのようなもの、目に見えるかたちになって現われることのないものを描くということをするかしないか、ということにも通じると思います。極端な決めつけかもしれませんが、ダ=ヴィンチはそのようなものを積極的に追及することはしないと思います。それとは正反対に、そっちを追い求める人があってもいいのではないか。そういう画家としてグレコを見ることができのではないか、というのが一連の肖像画を見て得た印象なのです。そして、そういう目に見えないものを絵画で追い求めた近代以降の画家たちとの接点がそこにあるのではないか、とグレコを考え直すきっかけともなりました。グレコの描いた肖像画では、粗いタッチや歪んだ構図に見たままを画面に写すとは違う方向性で行くことによって、生き生きとした感じというような見た目の形のならない雰囲気のようなことを感じられる効果を生み出すという新機軸を発見した。これが、肖像画というモデルがいた場合は、目に見えないものが加味された新しいものだったかもしれないが、宗教画ともなると実在のモデルはなかったため、肖像画では隠し味程度だったものが大きく前面に出てしまった。それがグレコ独特の臭みになっていったのではないか。ものの背後に意味づけをしてしまうというのは、これが行き過ぎると統合失調症という神経症になります。グレコの宗教画に、私が感じる病的なところも、そういう要素があるのかもしれない、と考えさせられました。

それは、この後、それぞれの作品を見ながら具体的に考えてみたいと思います。

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