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2013年3月31日 (日)

中岡哲郎「近代技術の日本的展開~蘭癖大名から豊田喜一郎まで」(6)

製糸業と織物業の原生的産業革命が進行を始めていた時期に維新政府は成立したわけだがその前途は洋々ではなかった。1877年の西南戦争は、その後に戦費調達のために不換紙幣の乱発がひどいインフレを招き、これが地税収入の実質価値の目減り、そして維新後続く貿易赤字の累積の三重苦に襲われる。その後、松方正義による所謂松方財政を展開する。その政策は松方デフレと呼ばれる深刻な不況を呼び、当時発展を始めていた製糸業や織物業までも苦しめた。しかし、その底をくぐり抜けたところから、紡績業、鉄道業、鉱山業など西欧からの設備・技術輸入と結びついた産業と、在来産業の発展が相互補完的に噛み合って、奇跡のように活力を帯びた持続的経済成長が開始され、世紀の代わる頃、造船業に代表去る機械製造業の発展も見られるようになったのである。

この経済発展は、多くの歴史家によって「日本の産業革命」と呼ばれてきた。「日本の産業革命」を主張する多くの人は、厳密にイギリスを先頭に西欧で進行した社会経済の発展過程を研究し、そこから抽出した世界史の発展法則のさまざまな指標にあてはめて、この時期が産業革命期であることを示そうとする。だが、最初に工業化した国の発展過程と、すでに工業化した国々の影響を受けて工業化を開始する国の発展、すなわち「後発工業化」は決して同じにならない。そこから見えてくる違いが、後発工業化の個性であり独自性である。明治35年の「工場通覧」つまり、工場数と工場労働者数の産業別統計を見ると、繊維業の圧倒的な比重で、そのほとんどか女子労働者だった。そして近代産業のシンボルとも言うべき機械産業の労働者は繊維産業の13%に過ぎなかった。こうした数値は、開港以来の産業発展と整合的である。開港とともに発展を開始したのは、製糸業と織物業を中心とする在来繊維産業であった。製糸にせよ織物にせよ、農村副業あるいは都市の家内労働として女子の労働に大きく依存していたことが、これらの主要労働力が女子になった理由である。このうち織物業の発展が輸入紡績糸の使用を生んだ技術革新効果により、これが綿糸輸入の急増を生み、貿易収支を圧迫し、紡績綿糸の国産化が緊急の課題となり、政府主導と民間主導による国産近代紡績工場建設の試みが始まる。前者は成功せず、後者は日本綿に適した紡機を選定して、株式会社により資本を調達し、大工場を建て、設備稼働率を高めるため昼夜二交代制を採用して成功する。だから、持続的産業発展を主導した繊維産業は、対照的な三つの部分から成り立っていた。輸出を主導し、最も多数の労働者を擁した製糸業は、桑栽培、養蚕という農業と一体の産業であり、小規模器械繰り工場や、集合座操作業場に支えられて全国展開した農村工業であった。一方、紡績業は、大都市およびその周辺に立地する株式会社の大工場で、資本主義的労使関係の下に働く女子労働者によって支えられる近代産業で、産業革命のイメージの源泉であった。対する織物業は、主として江戸時代に形成された都市またはその周辺の産地を中心に、小工場と問屋制家内工業を基礎に発展した在来産業が中心であった。地域的には鉄道の普及とともに全国的な展開を進めた。つまり、明治13年に株式会社による民営鉄道の参入を可能にしたことが、北関東や東北の県令たちを巻き込んで日本鉄道株式会社に結実する。この日本鉄道は、日本の養蚕、製糸地帯を南北に貫く鉄道であった。この時期、製紙業は発展を取り戻しつつあったが、発展とともにネックとなったのは、産地から輸出湊横浜までの生糸の輸送であった。日本鉄道の建設は沿線の製糸業の好況を巻き込みながら進行し、それに比例した生糸輸送量の増大は日本鉄道の好業績を支えた。この好循環が同種の民営鉄道計画を励ましたのであった。こうした事実が「日本の後発工業化」にとって、どれほど有利であったかということは、比較の対象がイギリス産業革命に置かれている限り見えてこない。日本とほぼ同じ時期に後発工業化の道を模索していたメキシコでは、時期も状況も日本とよく似た鉄道の建設を行ったが、国内経済をまったく活気づけなかった。こうした事実を見ると、当時の日本各地が万遍なく、農村製糸業や産地織物業や多様な手工業で覆われていたことが、鉄道建設の進展と産業発展との好循環を支える前提条件であったことが見えてくる。

 

この後は、軍需産業を包み込んだ重工業の進展が分析されていきますが、経済オンリーではなくなっていくので、メモは八幡製鉄所関係のところ以外は省略します。ただし、中岡氏の分析は、技術とか経営とか経済とかに特化せずサイクルとして見ていく視点がとても興味深いものです。

 

日本の西洋製鉄技術へのキャッチアップ努力は、佐賀藩はじめ多くの藩の蘭学者たちの反射炉で鉄を融かして大砲を鋳造する試みとして出発した。しかし反射炉で鉄を融かすことは無理で、大島高任が蘭書を頼りに釜石につくった木炭高炉が成功し、銑鉄を湯の状態で得る技術が確立した。ヨーロッパの12~13世紀ごろに到達したのである。維新後、工部省がつくった釜石製鉄所は産業革命期イギリスの標準的製鉄所であった。この製鉄所が失敗し田中長兵衛に払い下げられ、田中は大島の木炭高炉から再出発して、一定の成功をおさめた後、野呂景義の指導で、コークスを用いた操業による銑鉄製造に成功する。このときが日清戦争の1894年で、田中製鉄所の年産額は12,735トンで、そのころまで日本の鉄鋼生産を支えていた。たたら鉄の年産量をここで抜いた。

高炉でコークスを用いて銑鉄を作る、たたら鉄を原料としてルツボ製鋼で鋼をつくる、というところまでは到達していたのである。しかし、この時期、西欧の製鉄業は鋼を大量の溶鋼の状態で作り出し、その過程で成分を調整して様々な合金鉄を得る、ベッセマー転炉法やシーメンズ・マルタン平炉法の時代に入っていたのである。

野呂は釜石で初めて大型高炉のコークス操業を開始する。さらに、工部省製鉄所のパドル炉を改造して、各種銑鉄から粗製錬鉄を作り、あるいは砂鉄鋼を還元して粗製錬鉄をつくり、それをマルタン平炉の原料として利用する可能性を探る多様なテストを行っている。これらの実験を通して得られた平炉鋼の最終製品は、レール、板鉄、丸鉄、角鉄、平鉄の五種だった。

野呂は製鉄所創立案をまとめ議会の承認を得た。しかし、彼は疑獄事件に巻き込まれてしまう。建設が始まる中、技師長の大島は異例なことに欧米の視察に出てしまう。野呂のまとめた創立案は、日本製鉄技術の水準を熟知する野呂がその最初の跳躍目標として選んだ製鉄所案は、若手技術者からみても時代遅れと映ったようだった。そこで、野呂案を大きく上回る規模の新しい製鉄所案がつくられた。

こうして、八幡製鉄所の建設が始まる。だが、初操業は順調ではなかった。原因について長期検討後、再火入れされたのは、1904年だったが、17日後危機的状況で吹き止めとなるなど、暗中模索が続いた。実際に2つの高炉の稼働が軌道に乗るのは1905年に入ってからのことになる。

技術において世界水準に並ぶということは、単に世界水準の高炉を働かせばそれでよいというようなものではない。日本の製造業が世界水準の製鉄業から学ばねばならないことは、まだ無数にあった。

 

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