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2013年3月 1日 (金)

熊代亨「ロスジェネ心理学~生きづらいこの時代をひも解く」(10)

第5章 SNS時代のコミュニケーション

コンテンツ消費・キャラクター消費が当たり前になった21世紀においては、現実の人間同士のコミュニケーションや一体感の充たし合いも、20世紀と違っていておかしくありません。

 

昭和の頃、キャラクターというとアニメや漫画の登場人物を連想するものでしたが、平成時代に入った頃から、「キャラクター」「キャラ」という言葉がコミュニケーションのシーンでも多用されるようになりました。「キャラが立っている」といった具合に、若い世代は自分のキャラがどうであるのか・相手のキャラがどうであるのかに敏感です。そして自己愛を充たすのに有利なキャラを望み、「いじられキャラ」のような、他人の自己愛を充たすための道具的キャラになってしまうことを恐れます。キャラを意識した人間関係は、ケータイ小説やアニメ作品のそれとは異なり、現実の生身の人間関係の中で起こるわけですから、誰もが「かわいいキャラ」「強いキャラ」を獲得できるわけではありません。キャラを介した人間関係は、ヒエラルキーのような構造をつくることがしばしばあり、特に学校内でのそれはインターネットスラングで「スクールカースト」と呼ばれています。

但し、強くて理想的なキャラを獲得できればそれで安心かというと、そうでもありません。強いキャラを獲得した人でも、そのキャラとしての一貫性を欠いた行動をとっていると、それらの理想的なキャラが成立しなくなってしまうリスクがあります。このため無理をしてでも理想的なキャラを引き受けた人間は、しんどくてキャラを演じ続けるしかなくなってしまい、そのストレスが溜まって心療内科を受診するに至る者までいます。ですから、こうしたキャラを介したコミュニケーションは、ある意味、過酷な世界です。上位陣は上位キャラを維持しなければなりませんし、もちろん下位陣はクラスメートを介して自己愛を充当することが難しく、それどころか他のクラスメートの自己愛を充たすための引き立て役に立場に甘んじることになるのですから。昭和時代の学校生活は、泥だらけになって喧嘩することはあっても、クラスメート同士の得手不得手を把握し合っていたものです。ところが時代が後になればなるほど、わかりやすくて表面的なキャラだけを認識しあって、キャラに当て嵌まらない部分を意識することなく、キャラでクラス内の立場や役割を把握するスタイルが優勢になってきています。こうした環境下の子どもは、学生時代のうちに自覚的にキャラを演じる能力は高くなるかもしれませんし、キャラに合致しない部分を隠す作法も身に付きやすいかもしれません。しかし、万事がこんな調子では、他人との違いを認め合った上で共存するようなノウハウは育ちようがありません。

では、なぜキャラというものが重要性を増すようになったのでしょうか。なかで最も根本的な要因は、クラスメートや友人関係をはじめ、子ども時代の対人関係の接点が少なく単純化してしまった、ということにあると私は考えています。例えば、都会のコンビニ店員に出遭うとき、店員は「コンビニ店員」以上の情報がありません。愛想の良し悪しや性別ぐらいは見て取れるかもしれませんが、接点がレジ会計だけでは「コンビニ店員」以上でも以下でもないわけで、それ以上を知る必要もない。これに対して、地域社会の友人の親が八百屋のオヤジをやっている場合、「八百屋のオヤジ」だけでは済みません。地域行事での接点や、友達の親としての接点、街中の色々な場所で出会うときの接点までも加わるので、タダの店員キャラとして単純化しづらい色々な面が目に入ってきます。その場限りコンビニ点々なら「コンビニ店員キャラ」という言葉がしっくりしますが、複数の場面・文脈の中で繰り返しやりとりする八百屋のオヤジの方は、一辺倒なイメージにはおさまらない、面的・多層的な人物像が見える、というわけです。学校も同じでしたが、地域社会が焼失した都市やニュータウンの放課後がスケジュールで゛切り分けられた子どもの場合、学校のクラスメート・塾に通う友達・スポーツクラブで知り合う友達は、必ずしも同一ではありません。限られた接点・文脈のなかで出遭うそれぞれの場面の友達は、見え方や付き合い方が一面的になりやすく、その場の分かりやすい特徴だけをピックアップしたキャラ把握でもコミュニケーションが済んでしまいます。つまり、子ども同士が限定的・単一的な接点しか持たない生活空間では、相互把握の様式もコミュニケーションに必要な処世術も異なり、キャラを介してのコミュニケーションは後者に適合している。世代が下るほどコミュニケーションの内容が、キャラ的様相を深めていった背景としても、ニュータウン的な生活空間は重要な意味を帯びています。

昨今よく言われる「コミュニケーションスキル」というものも、書店に並ぶ自己啓発書等を見る限り、このキャラを巡っての立ち回りの巧拙について書かれているものが多いようにみえます。キャラの「なかの人」を細かく知ろうなどとは、もう誰も気にかけていないのかもしれません。お互いにキャラしか見ないコミュニケーションは、自己愛を充たし、齟齬や摩擦に苛立たないようにするという点に関しては、便利と言えば便利です。「強いキャラ」の人は、自分より弱いキャラの人達の、キャラ以外の部分では優れているかもしれない部分を直視しないで済み、「弱いキャラ」に対して一方的に優越感を感じ続けることが可能になるからです。一方「弱いキャラ」の人達にとって、キャラとキャラとのコミュニケーションの中では引き立て役で、自己愛を充たせません。けれどもその人は、自分達の強弱関係があくまで「キャラとキャラの間の」それであって、あらゆる面で自分が劣っているわけではないという自意識を維持できます。社交上は慇懃無礼を続けつつ、内心では自己愛の傷つきを最小化した意識を維持できるのです。要は、キャラを媒介物にしてコミュニケーションに終始している限り、どちらの側も、見たいものしかみなくても済まされるわけです。キャラの向こう側に本来存在するであろう、他者との齟齬や摩擦はキャラを使って最小限に抑えながら、最も都合の良い想像力を互いに温存し合うのが、当世コミュニケーション事情の内実です。

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