中岡哲郎「近代技術の日本的展開~蘭癖大名から豊田喜一郎まで」(1)
第1章 地球史的角度から見た日本と産業革命
前著「日本近代技術の形成─<伝統>と<近代>のダイナミクス」(←名著)では、幕末の黒船来航の衝撃から薩摩藩で蘭書の知識だけで軍艦と大砲を作ろうとしたサムライ技術者がいたこと、明治維新後に海外の技術を導入するために海を渡った西陣織の3人の職工がいたことを紹介した。この両者には共有されているものがあると筆者は指摘する。それは個人的資質というよりは文化の体質のようなものではないかと言う。日本の文化的伝統の中には、海の向こうから来る珍しいもの美しいものに好奇の目をみはり、次にそれを自分で作ろうとする姿勢が体質化されているのではないだろうか。そして、それが幕末期に西から来た「近代」の衝撃に、日本の「在来」が圧倒されるのではなく、アクティブに反応し、独自の発展を開始することを可能にさせたのではないか、ということである。
その体質は、明らかに日本の地理的条件に支えられて、古代から形成されて来たものだ。例えば江戸時代の鎖国は日本を外国から閉ざしたのではなく、室町末期から安土桃山時代の南蛮貿易による大量の「名物珍宝」の流入で、日本人の海の向こうから来る珍品願望を今までより一段高めた後に、それを入手する途を一挙に狭めたのである。そこで必然的に国産化が待望される。名陶における有田、名物裂における西陣など、その要請に応えて反映した産地の代表と言えよう。そこでの技術の核心は、徹底したモデルの研究、それとそっくり同じ色、形状、組織、手触り、こし、つや等の再現のための艱難辛苦、刻苦精励である。一方、サムライ技術者たちの蘭学の中にも、これと同じ構造と行動様式があったことを筆者は感じると言う。例えば、望遠鏡である。近代的な天体観測器具である望遠鏡もオランダ渡りの珍品奇宝の一つで貴人たちが愛好した。この模作で有名なのは鉄砲鍛冶の名工である国友一貫齊藤兵衛によるもので、彼は蘭癖(オランダ珍品愛好)大名から望遠鏡を見せられ、その模作に十数年の艱難辛苦を要している。そして、彼は大名や幕僚たちの蘭癖のネットワークを通じて各藩の蘭学者やオランダ通詞との情報交換や修理の要請、注文を受けたりしている。このものづくりの情報や経験が全国規模に交流され共有されていた。この蘭学のネットワークが、黒船来航に伴う天下大乱の時代に、そのまま、洋式軍艦・大砲・小銃製造のネットワークに移行したと考えてよい。開港とともに西からどっとやって来たものを「近代」のの衝撃と考えるなら、「在来」のなかにあったこの文化の体質は、「在来」が「近代」に圧倒されるのではなく、またそれを拒否するのでもなく、西から海を越えてやって来たものに対して好奇の目を輝かせ、積極的にそれらを取り込んで「在来」が新しい発展を開始することを準備し援けたのだと言えよう。
このような考察は、幕末開港のところから始まった日本の発展を、単に、西欧の影響とそれに対する日本の対応という角度だけから見るのではなくて、歴史的に何度も海の向こうからやって来た様々な影響との対応を通して、日本の内部に歴史的に蓄積され準備されていたものが、産業革命を通過した後にやって来た西欧からの衝撃に、どのように反応し対応したか、という角度から見る必要を示唆している。その点で、筆者が検討に値すると言っているのが、梅棹忠夫の「文明の生態史観」と川勝平太の「文明の海洋史観」である。
梅棹文明論は、ユーラシア大陸の西側端にある西欧諸国と東側の端の島である日本とを第一地域とし、その間に来る大陸の大部分の国を第二地域とし、二つの地域では、極めて異質な文明の発展かぜ展開されたことに注目する。第二地域は古代文明が発展した地域であり、そのとき第一地域は文明の辺境地域に過ぎなかった。しかし、大陸中央部の古代帝国は興隆と滅亡を繰り返すだけで停滞し、かえって大陸両端の辺境地帯で、古代文明からの影響を蓄積しつつ、持続的社会発展が維持され、その中から工業化を含む近代文明は生まれたと説く。第一地域の東西の辺境で古代文明の影響が蓄積され、持続的社会発展が可能になったという観察は鋭い。
川勝海洋史観は、陸地に着目して発想された「梅棹史観」に、海洋を通しての文明の交流という視点を加えることによって発展させる。例えば、コロンブスによる新大陸発見の後、ポルトガルとスペインの間で1494年トルデリシャスの協定が結ばれ、アフリカのベルデ岬西方の地点で地球を東西に分割し東半分はポルトガル、西半分はスペインの勢力範囲と決められた。東半分は、それまでの中東のイスラム商人を介して、地中海貿易でヴェネチアに運ばれていた三角貿易の経路が、東回り航路によって直接リスボン、そしてアントワープへと変わる。次のステップは1588年のスペイン無敵艦隊の廃滅により、イギリス・オランダによる海上覇権の争いに取って代わる。イギリスはアジアでの香辛料の交易はオランダに取られ退場を余儀なくされる。そこで、イギリス東インド会社は、それまで香辛料と交換する手段としてきたインド木綿を本国に持ち帰り、イギリス国内に需要を創出する戦略に転換する。16世紀後半から薄手の毛織物が流行していたしていた市場動向に合わせ、東インド会社は、薄手で軽く、仕立ての自由の点では格段に勝る木綿を売り込むため、インドの産地にヨーロッパの嗜好に会うデザインを教え、指導して作らせる。そして、色染めや捺染が容易で、染め色が鮮やかで、洗濯が利き色落ちせず、かつ価格は毛織物は3分の1と言われたインド木綿が17世紀末から18世紀にかけてヨーロッパで熱狂的流行を引き起こすのである。それは、イギリスの在来毛織物、絹織物業者に脅威を与え、各産地の深刻な衰退をもたらす。そこで、議会に圧力をかけ色物のキャラコの輸入と使用を禁止する。ただ注目すべきことは、無地のキャラコや木綿糸の輸入、また再輸出のための木綿製品の輸入は禁止しなかった。一旦大衆が木綿の魅力にとりつかれ、その需給構造が社会的に確立した後、その輸入や使用が禁止されたことは、二つの反応を引き起こす。一つは国内における模倣品の製作の促進である。それは禁止されていなかった無地間キャラコを輸入し、それに色捺染をほどこすことから始まり、キャラコの国産化、木綿糸の国産化、モスリンの国産化にいたる。もう一つはインドキャラコ再輸出の発展である。前者がイギリス産業革命の牽引車となる木綿産業の発展を導き、後者がその発展の基礎構造とも言うべき環大西洋木綿市場を開拓する結果を導き出す。18世紀末には軽い薄地布を最高とする価値観を伴う、広大な環大西洋木綿市場が形成される。そのときちょうど国内綿業が価格・品質両面でインド木綿を追い越せるところまできていた。それまでのイギリス国内では産業革命進めたことで有名な紡績機や織機が発明され、工場制生産体制が整えられていく、ランカシャー綿業の製品がリバプール港を通してインド木綿を置き換えながら輸出されていく。筆者が学生の頃読んだ本では、産業革命は、発明家の活動とその成果である新機械群と結びついて説明されるのが常であった。また経済史の角度から読んだ本では、農村手工業から、問屋制家内工業→マニュファクチュア→機械制大工業と言う生産様式の変化を通して誕生して来る家庭のクライマックスとして語られるのが常であった。いずれにしても、一国の範囲内の技術的蓄積、あるいは経済的発展のひとつの画期としての説明である。しかしそれだけでは、なぜ革命がそれまでのイギリスの主力産業であった毛織物業から起こらず、イギリスには全く存在しなかった木綿産業から起こったのか、ランカシャーという一地域に起きた産業発展が、なぜこれほど大きなインパクトをイギリスに与え、ひいては世界に与えたのかは説明できない。
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