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2013年3月 3日 (日)

「エル・グレコ展」(3)~肖像画としての聖人像

Grecopoul同じような肖像画のパターンを取っているのにもかかわらず、様相はガラッと一変します。説明では“エル・グレコはカトリック教会の聖人を単独像で表わす際も肖像画の技術を適用し、独立した半身像または4分の3身像として表わした。したがって、彼らは物理的に観者の近くに描かれ、その結果、聖書の物語に出演しているというよりも、同時代人が肖像画を描かれるためにポーズをとっているがごとく表わされる。”としてもその描き方については、“肖像画の人物たちと同様、聖人たちは必要最低限の動きとジェスチュアだけを伴い、彼らが生きている存在であり、一つの個性を持った一人の人間であることを知らしめている。彼らは単に誰か一個人の肖像というよりも類型的な肖像として表わされており、それを示すために、同じ顔立ちの繰り返しや、マグダラのマリアの香油壷や聖パウロの大剣といったキリストの生と死に敬意を表す象徴的なしるしの存在が役立っている。”

例えば、聖パウロの肖像(?)を見てみましょう。これは12使徒のシリーズのようなものとして描かれたそうで、今回の展覧会でも、同じシリーズの聖ヨハネや聖ペテロも一緒に展示されていました。これらは似たような構図・人物配置で、4分の3身像の聖人を最小限の象徴的な小物を持たせ、黒一色で塗り潰した背景に描かれています。それぞれの描かれた聖人は4分の3身像であるため、ポーズは制限され直立したポーズで手の動きに違いがあったり、手にしている小物との兼ね合いで違いが出たりと、あるいは来ている衣装の点で、私には、原始キリスト教のイメージからすると原色で派手すぎるし、布地というよりはゴワゴワした感じに見えて仕方がないのですが、それぞれの人が原色の違った色をあてがわれているように見えます。そういった印象をまとめてみると、一種のキャラクターピースのような感じです。卑近な例でいうと、ちょっと顰蹙をかうかもしれませんが、テレビの戦隊もの、「ゴレンジャー」とか(世代が古いですね)、で各メンバーが青レンジャーとか桃レンジャーというように色で違いが分かるようにして、それぞれ得意技をもっていることで区別していることと同じです。

それでは、前回の肖像画と通じているところがあるのか?という疑問が湧いてくると思います。もう少し我慢してお付き合いください。このような聖人の描かれ方の原因として、私が思うもっとも説得的な理由は、グレコという個人が全て描いたというのではなく、グレコを中心とした工房で制作されたと考えられるということです。おそらく、このような作品は需要があったのではないか、各地の教会や貴族の館等で、このように描かれた聖人画は従来の大掛かりなものに比べて手軽に飾ることができます。それだけにニーズもあったのではないか、そしてそのニーズに応えるために量産する、ということになれば工房で画家たちを使って効率的に製作する必要が出てくる。おそらく、グレコにとっても儲かったのでウホウホだったのではないか。だから、ドンドン作って売りまくった。その場合、いちいちグレコが全部に手をかけていたのでは、間に合いません。そこで、内容を単純化させる、描き込む要素を最低限にする。そうすることで、製作のスピードは上がるし、描かれることが少なければ、グレコ以外の人が描いたというポロは出にくくなるわけです。それは。現代のブランド品と同じです。ルイ・ヴィトンといったってヴィトン家の人が手をかけて製作しているわけではなくて、ヴィトンのものと皆が認識しているような特徴だけを十分に充たして、あとはブランドマークを入れて、正真正銘の本物とルイ・ヴィトンが出荷する。これ以外のルートからの出荷に対して厳しく管理する。というようなことを通して、あたかも、ルイ・ヴィトン本人が製作したかのような外観を呈している。そういう錯覚を起こさせる。ここで展示されているグレコの作品も同じです。そこで、ルイ・ヴィトンならば、それがヴィトンであると知らしめるトレード・マークがありますが、グレコの一連の作品でも、これぞグレコが描いたと誰もが納得させられるような明確な徴がそこで必要になってきます。それが、前回見た、粗い筆遣いであったり、構図の歪みです。歪んだ構図については、予めプロトタイプを作って、それをコピーすることで使い回しができます。筆遣いに関しては、工房の画家に修得させることである程度定着できるでしょう。そういう形で、グレコの特徴が形式化、パターン化したのではないかと、私は考えます。

その前提として、実在している人物の肖像画であれば、本人をデッサンしたり、ある程度グレコ本人が依頼人に対して直接かかわることが最低限必要で、出来上がった肖像画についても依頼者本人と似ていなければお話にならない。ということは量産品とちがってオリジナル注文品ということになります。それは、そうしなければ顧客は満足してくれないからで、また、グレコの肖像画のウリが生き生きとした肖像画になっていて、依頼者の性格や人となりが見る者がなんとなく想像できるような何かが加わっているということですから、当然グレコ本人が、その依頼者を知悉していることが必要となります。これに対して、聖人の場合は、実際の人物を知っている人はいないわけです。だから、実際に似ている、似ていないを考える必要はない。それまでは、聖書の記述を基にそれぞれの聖人の事績を物語りの場面として描くことによって明確にその人と分かるような絵画をつくっていた。これに対してグレコは、肖像画での経験を生かして、人となりが想像できる画面をつくり出す技法を活用して、聖人の性格を想定してそれらしい画面を作ろうとしたと考えます。端的に言えば、悲しいから涙が出るというパターンを利用して、涙が出ていればその人は悲しんでいると周りが思う、ということを絵画でやろうとしたと思うわけです。具体的にいうと、聖人の構図とか配置といった画面設計の部分と筆遣いといった仕上げの部分です。それ以外は中抜きです。工房の下働きの画家にやらせるわけです。

ただし、そうなると特徴的なところだけがピックアップされることになりますから、本来はそれを支えるベーシックなところが徐々に等閑にされて来る。全体の調和の中で、スパイスとして利いていた特徴的な要素が、他人の手でらしく描かれることで、そういう目立つところが強調されて来る。そうすると、顧客の方は、グレコの絵とはそういうものだ、だんだん認識するようになってくる。そうすると、グレコ本人も、そのニーズに応えなければならなくなる。こじつけと思われても仕方がないともいますが、ここで展示されている聖人たちの肖像を、前回の肖像画と見比べていると、そういうストーリーをどうしても想像してしまうのです。そして、そういう画家の手を離れて独り歩きしはじめたグレコというトレードマークを、画家が意識して使いまわすことができるようになったとき、宗教画の大作の、あの臭い作品が可能になったのではないか、と想像を飛躍させてしまうのです。これについては、また、後の回で見て行きたいと思います。

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