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2013年3月27日 (水)

中岡哲郎「近代技術の日本的展開~蘭癖大名から豊田喜一郎まで」(2)

第2章 レパント貿易から産業革命まで

前章では、大航海時代に始まる東方物産の流入経路の変化が、近代のシンボルである産業革命の推進力となる、イギリス綿業の大発展を導くまでになる過程を見た。ポルトガルが主導権を奪うまでは、イスラム商人の集めた東方物産はイスラム圏の陸地を通りレパント(東地中海のイスラム都市)へ運ばれ、そこで西側の商人と取引され、ヴェネチア、ジェノヴァ、ピサなど北部イタリア諸都市を介して、ヨーロッパ諸国へ送られ、これら諸都市の中世後期の繁栄を導いた。この道に沿って、「文明の移転」とも言うべき現象が見られることを見逃してはならない。

イタリア諸都市のレパント貿易は、都市当局が仕立てる商船隊に冒険を恐れぬ若い商人が乗り込むイスラム都市と西欧との仲介貿易の形で行われた。一航海ごとに、彼らは都市貴族、富裕商人たち資産家と、当座組合契約を結んで資金提供を受け、組合契約は一航海ごとに清算され、損益計算のうえ利益が約定比率で配分された。この計算過程と配分の記録は公正証書の形で残された。今日の商業簿記の原初形態である。こうした初期の形態は、やがて都市に商館を構える商人が銀行の助けも借りながら遠隔商人と手形決済で取引する近代的商業に変容していく過程で、腹式簿記に発展していく。このプロセスの中で、それまでのローマ数字がアラビア数字に置き換えられていった。アラビア数字化合理的で筆算に便利でありイスラム商人が使い慣れていたことからといえる。

山本義隆の『16世紀文化革命』の中で、17世紀の科学革命の一種の前哨ともいうべき、16世紀イタリア代数の大発展の準備過程として、鮮やかに描かれている。西欧社会へのインド・アラビア式計算法導入に重要な役割を果たしたのは、ピサのレオナルドと呼ばれたフィナボナッチであった。彼は商人としてレパントを歩くかたわら、数学を学んだ。帰国後1202年にラテン語の大著『アバコの本』を出す。アバコは算板のことであるが、アラビア数字を用いた商業用計算術の意味でも使われ、書名の「アバコ」はこの意味である。この本では、冒頭でインド・アラビア数字が導入され、それを用いた整数と分数の計算法、商業に関わる計算問題の解法、最終章では代数学が論じられている。しかし、当時の教育風土は宗教的なものか数論が学芸では尊重され、商業や実技の蔑視を強く含んだものであった。しかし、貿易と商業で発展する北イタリア諸都市で、商人階級の成長とともに都市自治政府が教育に乗り出す。14~15世紀の諸都市では初等教育としてアルファベット、イタリア語の読み書き等の手習い教室の他に文法学校と算数教室が設けられる。前者は聖職者や法律家を目指す上流階級師弟向けで、後者は商人や職人を目指す中流階級むけで、前者をはるかに上回る生徒数を集めるようになる。この変化は必然的に算数教師という新職業と、多数の算数教科書を生み出すが、それらはフィボナッチの本を下敷きとして書かれた。その算数教師にとっては、彼らの教師としての地位向上のためにも、商業計算を一段低いものと見る中世の知的風土に対抗するために、難問を考案しそれを見事に解く、魅力のある教科書をつくり名声を高めることが必要で、その中から代数学が少しずつ姿を現してくる。その転換点に位置する本が、1494年のルカ・パチョーリによる『算術、幾何、比および比例大全』である。この本はイタリア語で書かれている。それは一部の知的エリートのための書ではなく、多数の商人や職人、そしてその徒弟が読める本にするためであった。とくに、世界で初めて複式簿記が詳述されていることで会計学史上有名である。そして、イタリアより少し遅れて商業として発展したが、イタリア・ドイツ・スイス・スペインを結ぶヨーロッパ商業の四つ辻に位置したフランスのリヨンで、ニコラ・シュケーは『数の科学における三部分』で方程式の負の解を負債と解釈した。このような過程は、イタリアから始まった商業による繁栄が、ヨーロッパを北西に向けて広がっていく過程と重なっている。16世紀後期のヴィエトと17世紀のデカルトに始まる近代数学に繋がっていく。つまり、東方貿易がヨーロッパにもたらしたものは、胡椒と香料だけではなく、インドで生まれアラビアで完成された、十進位数法数学による計算術も、その重要な一つである。それがイタリアに導入され、そこから近代代数学が姿を現してくる過程は、一航海ごとの当座組合契約が自治都市の商館を基礎にした近代的商業に発展していく過程、それに伴う商業的実技としての算数の必要が算数教室と算数教師を生んでいく過程と不可分だったのである。

 

西欧における近代科学の形成を準備したという意味で、インド・アラビア式計算法の導入に並ぶ、もう一つのイスラム圏からの文明の移転が、プトレマイオスの天文学であった。プトレマイオスが活躍したのは2世紀半ばである。その後7世紀にアレクサンドリアの図書館がアラブとの戦火で焼失する。しかし、その時、彼の本を含む多数の写本がイスラム圏に残りアラビア語に翻訳され研究発展されられていく。その後中世のイスラムとの接触の時代に多くのギリシャ古典がアラビア語から訳されて西欧に入る。プトレマイオスの主著『アルマゲスト』も12世紀末に翻訳されたが、本格的影響を与え始めるのは15世紀に入ってからだ。

航海が地中海と大陸沿岸に限定されている限り、航法は沿岸の地形や島を目印にした沿岸航法で足りた。しかしいったん大西洋に出るとそのような目印は全くなくなる。代わって、正午の太陽の高度、北極星の高度をはじめ、天体の見え方が船の位置決定の重要な手がかりとして登場することが、この時代の航海記を読んでいると良く分かる。それはまさしく『アルマゲスト』の改善を切実に必要とする世界であった。この時代、船上で太陽や北極星をはじめ諸天体の高度を計測し、その時刻とデータから船の位置を推算する天文航法が急速に普及する。並行して天文表の精度に対する社会的関心が急速に高まっていく。15世紀観測天文学の祖といわれるプールバッハが天文表の精緻な改定を試みるが、志半ばで夭折してしまう。それを引き継いだのは弟子のレギスモンタヌスだ。彼は『アルマゲスト』をギリシャ語から訳し直し、ニュルンベルクに天文台を作り観測を開始する。西欧社会への『アルマゲスト』普及はこの頃から始まる。

中島義隆この背景としてニュルンベルクという都市とレギスモンタヌスに焦点を当て、数理技術者と彼の呼ぶ新しい型の機械工作職人群と、天文表の精度向上をめざす天文学者との共同から成る社会的過程を鮮やかに描き出している。ニュルンベルクは金属鉱山に近かったため、古くから金属加工技術の蓄積が深く、活字の鋳造などとの関係で印刷業も盛んな町だった。さらにヴェネチアから入ってくる東方物産が、陸路でネーデルランドやイングランドに運ばれる中継点に位置しているため、商業の発展した都市でもあった。一方、レギスモンタヌスは厳密な数学的手法で惑星の位置計算をし、同時に観測する人間であった。彼は観測所を機器製作工房、印刷所つきで計画した。観測精度向上のためには精密な観測機器の開発が不可欠であり、彼は自ら観測機器を設計し、製作する職人を指導した。さらに印刷所からは天体暦や著作を出版していく。この彼の努力が、ニュルンベルクに天体観測用具、航海・測量機器、地図・地球儀などの製作に携わる数理技術者を輩出させ、その影響は南ドイツからネーデルランドへ拡がる。これらの機器や地図を作るためには天文学や数学がどうしても必要になる。彼らが天体観測精度の向上を下支えし、かつ成果の社会的普及も担ったのである。そして、この時期は前節の東方貿易がレパント経由を断念して喜望峰回りで直接東方へのアクセスをめざす、大航海時代の社会的要求と結びついていた。

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