「エル・グレコ展」(4)~見えるものと見えないもの
“見えるものと見えないもの”などというと哲学書のタイトルを思い出してしまうのですが(この美術展を企画した人は多分、メルロポンティの後期の難解な文章に振り回され経験があると思う)、カタログでは次のように意図を説明しています。
エル・グレコ作品において、時に「見えるもの」と「見えないもの(天上世界や内的幻視など、目に見えず、心に浮かべるしかない架空の世界)」は、一見シンプルな画面に共存している。『聖母の前に現れるキリスト』ではキリストの身体は〔生身の人間である聖母マリアに対して〕死と復活を経た「天上の体」であるため、厳密に言えば肉体性を有していない。この二つの身体(世界)を、エル・グレコは具体的な視覚イメージにより表現することで、観者にとって信じやすく、身近な画面を作り上げている。エル・グレコと同時代の画家は絵筆による表現の可能性を「見えるもの」のみに求め、「見えないもの」であっても、それを地上世界の日常的な場面の一部として表わしていた。それに対して不可能に挑戦したエル・グレコは、現実と架空の二つの世界めぐって独創的な才能を発揮した。
で、『聖母の前に現われるキリスト』を見てみましょう。とりたてて、カタログの執筆者に異議を唱えるつもりはさらさらありませんが、ただ何の予備知識もなく、この画面を見ただけであれば、ここで見えるものと見えないものを画家が描いているとは見えないのではないかと思います。もしかしたら、「見えるもの」と「見えないもの」というのは現代の自然科学が浸透した我々の視点であって、当時の人々に果たして、そういう区別があったのか、何とも言えないのではないかと思います。もしかしたら、実際に人々には見えていたのかもしれません。こんなことを書くとオカルト的とか、非科学的とかいわれそうですが、でも、現代の生活の中でも見える者がリアルに在るものとは限らないということは、我々は無意識のうちにわかっているはずです。その証拠に見えたものを確かめるために触ったりして確かめるということを日常的にやっていると思います。目の錯覚という言葉を日常的に使っていることは、目で見えるということを信用していないことの現れではないでしょうか。だから、よく考えてみれば、「見えるもの」と「見えないもの」のふたつのものの境界線は極めて曖昧です。あえて言えば、そこに明確な線が引けることに関して明確な基準もないし、証明できる手段はないと思います。だから、ある立場から言えば、無邪気に二つの世界を区別していると言えてしまうのは自分の見方に何の懐疑も持たないイノセントとも傲慢とも言えもかもしれません。だからと言って、グレコの時代の人々にはその境界がなかったなどと強弁するつもりはありません。ただし、そういう絵を描き、それを受け容れる人々がいたということは、逆に、想像してもいいのではないか、と考えるわけです。
とくに、グレコの作品には、いぜんにも書きましたようにプロパガンダの要素があるように見えます。プロパガンダ絵画などといえば、最近ではもっともあからさまでそのあきれるほど素朴なメッセージ性にあきれてしまうのが北朝鮮のいわゆる社会主義リアリズムの様式で描かれたポスターです。あれをみると一目瞭然ですが、プロパガンダという機能するためには、見る人々に受け入れられなくてはなりません。そして、受け入れられた上で見る人にメッセージを伝えて先導していかなければなりません。社会主義リアリズムのポスター、昔のソ連や中国のポスターや今の北朝鮮のポスター等をみると、個々に描かれた人物やもの(機械、兵器等)はリアルさが感じられるように、そして形式的に描かれていて、それらが全体として構成されると極めて恣意的というのか、リアルに描かれた人物やものが現実の世界で存在しているようには描かれていなくて、荒唐無稽(冷めた私の目から見ればです)なユートピアのような非現実的に見えてしまう。まさに、グレコの解説で説かれていると同じことが起こっていると考えていいと思います。例えば、グレコの『聖母の前に現れるキリスト』が教会に飾られて訪れる人々に対して、キリスト教会のプロパガンダとして信仰に導く機能を担わされ、それをグレコ自身よく分っていた、というように私には見えて仕方がないのです。それが、画家としてのグレコが生きていく、のし上がっていく、ひとつの武器としてあった。他の画家がこうではなかったというのは、グレコが自らの特徴を差別化させて目立たせることもあったし、他の画家が出来ないような何かをグレコが講じていたと考えることはできないでしょうか。話は変わりますが、企業間の競争で、自社の特徴を他社に真似されないために企業はあらゆる手を使い、競争に有利を保とうとするのは常識です。競争ということを考えれば、そういう発想は必ず出てくる。グレコがそういうことを考えつかなかったとはだれも言えないはずです。
そういう考え方に一番合致するというのか、適合的なのが『フェリペ2世の栄光』と言う作品です。もうプロパガンダ以外の何ものでもないという感じです。ここでもう一つ見えるのは、何か取り留めもないような書き方になってきていますが、映画的な手法というのか、『聖ラウレンティウスの前に現われる聖母』ではもっとシンプルに映画的なモンタージュの手法が見えるような気がします。簡単にいえば、映画で人が何を見つめているとような横顔の画面を映し出し、その後場面転換でラーメンの美味しそうな映像を連続して映し出してあげると、観客は、この人物は空腹だったのだと強く想像するという手法です。人物とラーメンという全く関係のない映像をうまくつなげることで別の意味をつくり出す組み合わせの手法です。実際の映画では、もっと複雑でそれと分らないように使われています。例えば、グレコの『聖ラウレンティウスの前に現われる聖母』では聖ラウレンティウスと聖母はそれぞれ左下と右上と領域を分けて描かれていて、それぞれ違う場面として別々のようでもあります。しかし、聖ラウレンティウスが振り返るように右上の領域を見上げて、その先に聖母が描かれている。しかし、聖母の方からは視線を返すということはない。そこから二つの場面の関係を想像できるというのが、上述の映画のモンタージュの手法に通じてはいないか。また、映画もまた、特殊効果を駆使して「見えるもの」と「見えないもの」を繋がっているかのような描き方をして広く人々に受け入れられて、多額の現金を稼いでいます。そう考えれば、グレコの姿勢と言うのは、ホップアートとかサブカルチャーとか、そういうものに通ずるところもあるのではないか、というきも起こります。こじつけと言われるかもしれませんが。
ここまで、いうなれば序章で次回から、いかにもエル・グレコといった作品がいよいよ出てきます。
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