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2013年3月30日 (土)

中岡哲郎「近代技術の日本的展開~蘭癖大名から豊田喜一郎まで」(5)

輸出の生糸から、輸入の綿織物、綿糸に目を転じよう。開港と同時に大量の綿織物と毛織物が輸入された。これによって在来手工業が壊滅的打撃を受けたとよく言われる。しかしこの議論は、競争の細部を見落としている。輸入綿織物の主力は薄手のキャラコであり、厚手の日本の綿織物とは競合しない。毛織物については、そもそも毛織物は幕末日本にはなかったのである。これらの織物は何故大量に輸入され、そしていかなる在来手工業と競合したのか。主な輸入品としてキャラコなどのようなものは江戸時代を通して長崎経由で唐物として知られていたもので、一部の特権階級を除いては手に入れにくい商品だったものが、加工による輸入増加で価格が低下し、需要に火がついて大量輸入となったのである。この綿織物は、イギリス産業革命に火をつけたインド木綿と同じものである。西欧では前に述べたように産業革命によりランカシャー製の大量の細手綿糸がつくられ、それが日本に大量に入ってきた。しかし、日本では短繊維の日本綿からはこのような細糸は絶対に出来ないもので、短繊維の日本綿からできるケバ立った太糸が綿糸だという前提に立てば、細くケバなく絹様光沢のある輸入糸は綿糸とは認めがたい。事実、在来綿織物業者はこの糸を毛嫌いしたとある。これらの輸入綿織物の大量輸入は、なによりも絹織物産地にとって大きな脅威だったのである。しかし、脅威にさらされた絹織物業者が、ランカシャーから輸入された安価な細手紡績綿糸の斉一で絹に似た光沢に着目するのは早かった。横浜開港の直後から、桐生、足利などの絹織物産地は、輸入紡績糸を用いて安価な絹綿交織織物を織る試みを開始している。少し遅れて西陣もその後を追った。この絹綿交織物が、その後、絹織物市場の大衆化の強力な武器となっていく。そしてもう一つ、模倣桟留産地が、同様に横浜開港の直後から細手輸入綿糸に注目し、それを経糸に使うことによって細密縦縞木綿の新製品を市場に投入する試み開始している。青梅桟留の双子織などである。これらの模倣桟留地帯が、開港と同時に輸入紡績糸にとびついたのは、何よりそれが彼らのずっと探し求めていた細手綿糸であったからだ。これらの産地は在来綿業地帯が輸入綿糸に見向きもしないなかで、その細さに着目し、それを商機ととらえた。その結果双子は全国的な流行商品となった。しかし、それ以上に重要なことは、これらの地域での使用経験を通して、紡績糸の手紡糸に格段に優る作業性の良さが認識され、多くの綿業地にその使用が波及したことだ。織物の生産にはね織機で織る作業の前に、糸を準備する膨大な作業が必要である。この過程で最大の障害が糸切れであり、全工程で切れやすい手紡糸を切らぬよう、慎重に気を配り丁寧に作業する必要が生産性を著しく低めていた。これに対し、格段に強く糸切れが少ない紡績糸を使用したことが、予想外の生産性増大を生んだのである。織物作業では、もともと綿作の普及に伴う農民の自家衣料製織から出発した、江戸時代の綿織物業の使用織機は地機であった。農民はこの織機を土間に置き、身体で経糸にかかる張力を調節しながら、手紡糸を丁寧に織ることには適した道具だが、生産性は低かった。18世紀後半ごろから市場向けの縞絣木綿産地が発展するにつれ、絹機を綿織物用に改良した高機がそれらの産地に普及していく。この高機は生産性が高く、多様な織技と、後の一連の機構的発展を実現する可能性を秘めた織機だったが、手紡糸を使用する限り、その可能性の実現は妨げられていた。双子織で洋糸を経糸に用いたことが、結果として製織準備の生産性を高め、さらに従来一反分ずつ製織準備していたものが、一回で四反分の経糸を高機に準備することが可能になり、高機の製織速度向上と合わせ、画期的生産性向上となった。この洋糸を高機で織る方法が、一つの技術革新として、高機へのバッタンの取り付けを可能にし、足踏み織機の発明を生み、それを木鉄混成小幅力織機に発展させ、鉄製小幅力織機に至るという小幅織物用織機の技術革新を生む。それらは、綿、絹、毛織物も含む在来業者に、輸入織機より格段に安くかつ生産性の高い織機を供給し、在来綿織物業の輸出産業への発展を支えることになる。

開港のもたらしたものは、かつて論じられた、高品質かつ低価格の工業製品が、在来手工業を圧倒し尽くす過程ではなかった。鎖国の前半に西陣絹織物業の発展があった。並行して中国産輸入生糸の国産化が進み、桑栽培、養蚕業、製糸業が農村で発展する一方で、西陣からの技術拡散により桐生、足利など絹織物産地が生まれ、屑繭利用の紬、太織製織も始まる。また絹機を木綿用に改造した高機の綿織物産地への普及も幕末には見られた。そこまできたときに開港となるのである。価格は安いけれど、品質は粗悪な生糸が飛ぶように輸出されたのは、そのとき西欧が生糸飢饉の状態にあった幸運にもよるが、爆発的な生糸輸出結果は、日本産生糸は低品質という国際評価となって返ってくる。製糸業の低迷は、出発したばかりの新政府のお雇い外国人による指導の手ごろな対象となるが、彼らの指導を鵜呑みにするのではなく、資本の稀少な貧しい農村の条件に合わせた、独自の「器械繰り」を生み出すことによって、活力ある発展の新段階が始まる。アメリカ向け輸出という手ごろな市場があったことも大きい。開港時、大量の薄手綿織物や毛織物が輸入されたことも、かつては西欧工業製品による手工業圧迫説の論拠とされたものだが、今回の分析の示す通り、産業革命期の西欧技術進歩を体系化した輸入紡績糸を、製織過程に取り込むことによって、在来織機の技術革新を引きだし、発展の新段階を導いたのである。このような発展が引きだされた背景には、維新による服装に関する封建規制の撤廃が開いた新しい市場機会の活性化、福沢諭吉や中村正直などの啓蒙活動に鼓舞された和製発明家たちの活動も大きい。こうして、鎖国の江戸時代に発展した二つの産業は、開港による西からの衝撃を受けて、一連の技術進歩を生み出しながら発展の新段階に入った。筆者はこれを「原生的産業革命」と呼ぶ。

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