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2013年3月12日 (火)

「エル・グレコ展」(5)~クレタからイタリア、そしてスペインへ

Grecoadora1まず、『羊飼いの礼拝』という同じタイトルの作品が2つあるので、見比べて見て下さい。同じ画家が描いたと思えないほど、構成やタッチが異なっているように見えます。ひとつは、出身地のギリシャでイコンの親方としての修業を終えてイタリアに移ってヴェネチアでいわゆるヴェネチア絵画やルネサンスの作品に触れた当時の作品、もう一つはスペインに移ってからの作品です。この2つを比べるとスペインにわたってからのグレコの作品の特徴が際立つように見えてきます。パッと見て、明らかな、一目瞭然なのは、スペインでの作品の色調の暗さ、そして縦長の画面構成、そして中身をみると、リアルな写実の描写が後退し幻想的な(前回の言い方でいえば見えないもの)場面が大半を占めていること。細かいところに突っ込んで行けばきりがないのですが、取敢えずは、このくらいに止めておきましょう。

スペイン時代の作品の色調の暗さは、陰影の深さということに置き換えてもいいでしょう。これは、聖堂のような(画面上方に聖堂の天上のようなアーチが描かれている)建物の中のようで、当然その中は薄暗い。というよりも、誕生した赤子のキリストから発せられる光輝が周囲の薄暗い闇を照らし出すという、一種のドラマを描くために、つまりは光を際立たせるために薄暗い色調にしているように見えます。もう少し穿ってみれば、キリストという存在が現われるまでも世界は闇であって、未だ赤子とはいえキリストが出現したことにより光が差してきたというドラマが読み取れるのでは、と妄想をしてしまいたくなります。それを強調させるためには、下からの光に照らし出されるように見えます。聖母マリアや聖ヨセフといったお決まりの登場人物たちは、イタリア時代の作品にそれらしく描き分けられているのに対して、こちらのスペイン時代の場合は、陰影の方を描きたいとしか思えないように人物というよりも光にてらされる物体のような感じです。それぞれの人物の顔の描き方は大雑把で表情も描き込まれていない。たんにそこに配置されているかのようで、人物のプロポーションも陰影を出しやすくするために恣意的に歪められているし、それぞれのポーズもお決まりのパターンなのでしょうが、そういう必然性よりも、陰影に映えるポーズ取りがされているように見えます。

Grecoadora2しかし、こういう陰影をドラマチックに描くのならバロック絵画のお得意というのかカラバッジォをはじめ、それに秀でた画家が沢山いるはずです。スペインにとくに陰影を描き込むのに巧みな画家がいるはずです。例えば、ムリーリョなども同じ題材を取り上げて、やはり、赤子のキリストから発せられる光にキリストを取り巻く人物たちが照らし出されるところを描いています。しかし、グレコのように暗くないのです。むしろ、赤子から発する光が画面全体を包み込むように暖かな光に充ちた誕生の喜びというのか、喜びの光に包まれた祝福という画面になっています。人々の描かれ方も自然というのか、現実の生活の中にいるようです。これが前回でカタログの解説で説明していた“絵筆による表現の可能性を「見えるもの」のみに求め、「見えないもの」であっても、それを地上世界の日常的な場面の一部として表わしていた。”ということでしょう。この見るとグレコの作品の特徴というのは、色調だけを取って見ても、他の作品とはかけ離れています。そこに強迫観念でもあるかのような超絶的というのか、現実離れしているというのか。でも、ちょっと考え見てほしいと思います。救世主の誕生(出現)というのは、そんなに日常的なことにしていいのでしょうか。キリスト教にしてみれば、そこから始まったということで、歴史に一度しかない奇蹟的なことです。それを日常の一場面としてだけ捉えていいのか、日常生活ではない超絶的で奇蹟的な瞬間ということであれば、日常正確では想像できないことであるはずで、それをそういうものとして普通ではない超常的と考えれば、風変わりとはいうもののグレコの作品のような現実世界がひっくり返ってしまうような世界もあながち不合理とは言えないのではないか、と考えてもいいのではないかと思います。とくに、教会としては奇蹟が起こったこと、普段とは違うものだということをプロパガンダするためには、グレコのような作品は有効な手段と考えたのではないか、と思ったりします。

Grecoadora3そこに「見えないもの」として天使が舞う姿を現実の世界と同じところに描いているというように、前回のところでカタログの解説にありましたが、それは、こういう超絶的な瞬間には現実世界も幻想世界も境界が無くなってしまって、現実が幻想に、逆に幻想が現実にという、それこそが奇蹟というものではないか、と考えてもいいのではないか。そういう世界を描くのに、明るい、輪郭が明確に照らし出されるような画面には、どうしてもしにくい。幻想の見えない世界は、輪郭のくっきりしたリアルな現実世界と同じには描けないはずです。そうしたら、薄暗い世界の方が、しっかり描き込む必要はなくて、描きたくない、描けないものは暗がりに隠してしまえばいいわけです。そのような手法上の要請もあって画面全体の色調が決まっていったのかもしれない。そこで色調が決まれば、脅迫的な暗い色調の中で描かれる人物たちは、光り輝くキリストを除いて、それなりに存在していて、キリストの光に照らし出されることが第一となります。だから優先すべきは、そこに存在しているという存在感をはっきり描くことでしょう。それは物体としての存在と言ってもいいと思います。それこそが、この作品を教会で見る民衆がこの世でもあの世でもない描かれた世界と自分とをつなぐところであるはずですから。しかし、現実でもない、幻想でもないごっちゃな世界にいるとしたら普通の人間は、普通の状態でいることができるでしょうか。普通に考えて、パニック状態になってしまうのが自然です。だから、ここに普通の人間をリアルに描くことはしなかった。このような場合、この世界でキリストに帰依する存在ということだけがあればいいわけです。そこに人間らしい表情をいれてしまったら、この世界の中から浮き上がってしまう。そう考えれば、単に人に見えればいいわけです。人に見えるという最低条件を充たしていれば、この現実と幻想がごっちゃになった世界で、求められる機能を効果的に果たしていくためには、最低条件をクリアさせたうえで使いやすうように使ってしまえばいいわけです。その意味で、グレコの有名な宗教画に特徴的な人物の描かれ方は、それを手段として扱うことから必然的に導かれたのではないか、と思ってしまうのです。

このあと、同じ主題で展示がありますが、グレコ晩年に描かれた、同じ題材のものです。ここでは聖堂であることを示すものとか、そういうものが省略されて、暗い色調で、キリストを取りなく人物たちと天使がピックアップされて描かれています。ということは、さらに必要な要素だけを抽出して、抽象度の高い画面になっているということです。グレコに、そういう方向性が自覚的なあったのではないか、と思えるほどです。

このように、作品の目的を自覚して、必要なものだけを取り出して、そうでないものは削ぎ落としていくというのは、近代絵画のひとつの方法論にも近いものです。例えば、物体の存在感を画面に定着させるために、形態を捨てることを辞さなかったセザンヌのように。そこでは、従来の絵画を構成していたバランスも捨てられ、これを追求するのだということが追い求められた結果が、あのような作品を生み出したのではないかと思います。グレコの場合も、バランス感覚などという中途半端で折衷的な枠を取り払って、追求したが故に、同時代の画家たちに比べて突出した個性的な作品を生み出してしまったのではないか、と思ったりしました。

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