「エル・グレコ展」(6)~クレタからイタリア、そしてスペインへ(続き)
さっそく、展示されている2つの『受胎告知』を見ていきましょう。ひとつは、イタリア時代に描かれ、もうひとつはスペインにわたってからの作品だそうです。この二つの『受胎告知』も、前回に見た『羊飼いの礼拝』と同様かなり違っていて、グレコと言う画家の変遷を見ることができます。それで、思うのは、どうしてこれほど変えることができたのか。もしくは、変えなくてはならなかったのか。ということです。全く画風が変化しない画家はいません。経験を積めば技法は上達していくし、画家として成熟していけば、少しずつ変化があるのは当然です。同じような題材を取り上げる場合でも、多少趣向を変えたりして変化をつけていくものだとは、思います。例えば、彼の前の時代に活躍したラファエロは故郷のウルビーノ地方で修業に勤しんでいたころと、ローマに出てきて活躍を始めたときとでは、画風が大きく変わりました。しかし、これは修行中の画家が一人前に独立し成熟する過程と、地方の辺境から最先端の地域に出てきて全く異なる環境に適応させていかなければならないという事情から、ある程度必然性をもって受け入れられることができるものです。また、そこには、ラファエロという画家がグレコのような強く自己の個性を前面に出さないタイプの画家であることも、納得性を高めています。
そこで、グレコです。グレコと言う画家の描く絵画の風変わりさというのは、イタリア時代の『受胎告知』を見ても、同時代のイタリアの画家の作品とは大きく異なっているのが分かります。まして、スペインにわたってからの、今なら典型的なグレコの作品として見ているも『受胎告知』はきわだって奇妙な作品ではなかったか、と思います。これだけ、他の画家の作品と違った、いうなれば独立独歩のような制作をしているのに、イタリアとスペインは環境が違うから、それに合わせて作品も違ってくると言われても、もともと変わった作品を自らの個性として際立たせるグレコと言う画家には、何となくそぐわない気がしてしまうのです。それでは、画家自身の事情によるものなのでしょうか。技法の上で大きな変化があったとか、作品を見る目が、認識が大きく変わったとか、それは、私は研究者でもなく、グレコの熱狂的なファンでもないので、知る由もないことです。
実際のところ、旅というのが危険を伴うような時代に、生まれ故郷のギリシャから一つの先端的な中心地であるイタリアに移り、そこからさらに遠方のスペインにまで移動していったといのは、生半可なことでは出来ないことのはずです。そこには、強い動機があったと推測できるのは、当然とも言えます。動機として考えられるのは、プラスとマイナスの二つの方向があると思います。マイナスは、何らかの事情でそこにいられなくなる事情が生じたということ。典型的な例はトラブルに巻き込まれたとか、あるいはその地では商売にならなかったとか、そういうことです。グレコの作品と言うのは突出したと言っていいほど個性的です。だから見る人の反応は好きか嫌いかの極端に分れるはずで、嫌いな人が多ければ、当然絵の注文はなかなか取れない。そこで新天地を求めて、と言う動機です。また、プラスの動機としては、当時のイタリアはフランスとスペインという二大強国の進出を受けていたはずで、経済的な繁栄にも陰りが出てきた時期のばずで、これからの時代はスペインということを見越して、行動するということもあり得たのかもしれません。
言うまでもなく、当時の画家というのは、現代の芸術家というスタンスではなく、職人に近い地位だったはずです。顧客の注文があってはじめて絵を制作する。注文がないと商売にならない。芸術家などといってふんぞり返っているわけにはいかないわけです。したがって、注文を得るためには、顧客のニーズを知り、人々の好みに合って、しかも他の画家でない自分のところに注文してもらうためには、他の画家にないメリットがないと、なかなか同業者を出し抜いて売れっ子にはなれないわけです。
グレコの場合も例外ではなく、芸術家が自らのインスピレーションのままに描きたいように描くということはなく、人々からの注文を一つでも多く獲得するために、市場のニーズに合わせて行かなくとはならなかった。イタリアでは売れっ子だったヴェネチア派の画家たちを無視したもののニーズは薄かったのかもしれません。だいたい、裕福な市民というのは、君主と違って周りに追従するようなメンタリティを持っています。そこで、ここにあるような、ヴェネチア派の画家たちの描くものととかなの隔たりのあるようなものに注文する人は多いとは思えません。
しかし、そこで逆に思うのは、グレコと言う画家が、なぜに市場のニーズ適合するような作品を描かなかったのかという疑問も残ります。出来なかったということないと思います。あえて、しなかったのか。それとも、ニーズに似合った絵を描いていてもたかが知れていると思ったのか。一つ言えることは、展示されているイタリア時代の『受胎告知』を見ていると、ちぐはぐさ、座りの悪さのようなものを感じることは明らかです。明らかに画家は無理をしていることが感じられるので、グレコ自身がこの方向に進んでいくことには、あまり乗り気ではなかったのではないかと想像をめぐらすことは可能です。
例えば、鮮やかな原色に近い色をふんだんに使いながら、画面全体には抜けが悪い鈍い感じが漂っています。それは、要所でグレー系の濃い色を配して、受胎告知という祝福される場面であるはずなのに、陰りのようなものを忍び込ませているのです。告知を受けるマリアの顔を見ていると、祝福を受けているようには見えにくいところもあります。ルネサンス時代のダヴィンチやフラ・アンジェリコの描いた神々しく透明で表情が窺えないマリアでもなく、後のスペイン・バロックのムリーリョのような喜びに溢れたようなマリアでもない、グレコの、この作品からは戸惑っているとか、不安を感じているような暗い表情が見て取れてしまうのです。マリアの全身のポーズも決まりごとに従ってはいるのでしょうが、後ずさりしているというのか、逃げ腰のように、私には見えてしまいます。そこで原色にちかい鮮やかな色の衣装を着せられていることが逆に生々しさを感じさせて、ルネサンス時代の作品の清澄な神々しさの要素を意図的に排しているような印象すら抱いてしまうのです。だから、全体の印象は、どこか重く暗いものになってしまっていると私は思います。
そして、イタリア時代の作品について、私が違和感を感じた、これらの要素がスペインに渡った後の、グレコの典型的パターンでつくられた『受胎告知』ではしっくりはまるのも確かです。そう考えると、グレコという人は基本的には不器用な人で、色々試行錯誤を繰り返しても、このようにしか描けなかった。それでも、通用するところを求めて、流れ流れてはるかスペインにまで辿り着いたというストーリーが私にとっては、一番納得できるように思えます。
そう考えると、グレコの特異な作風というのは、奇を衒ったとか、芸術的方針で選択したとか、そういう浮ついたものではなくて、彼自身入れ以外にできなかったというギリギリのところで、そうせざるを得なかったものと考えられると思います。現代の評論家風にいえば、画家自身の実存をかけたものだった、と。このような考え方は、画家の生き方等と絡めて考えて天才という概念を生み出した近代ロマン主義的な芸術家という考え方に、きわめて適合性が高いと思います。魂の画家とかいう言い方に合ってしまったりして。そのようなイメージが、私がグレコと言う画家、あるいは作品に対して、どこか距離を置いている理由のような気がします。そういうイメージに対しては、私は眉に唾をつけたくなる心性の持ち主だからです。
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