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2013年3月28日 (木)

中岡哲郎「近代技術の日本的展開~蘭癖大名から豊田喜一郎まで」(3)

前二節で見た、アラブ世界を介して西欧に伝達され、近代科学の誕生を準備した、二つの重要な技法移転の例を通して筆者が強調した最大のポイントは、技法の受け入れを切望する社会的条件の成熟の重要性である。インド・アラビア式記数法による計算の早さは知られていたが、それを魔法と捉える風潮もあり、決して西側に普及しなかった。それが地中海貿易に伴う大規模商業の発展の中で、損益計算と記帳の必要性の増大と併行して、インド・アラビア式記数法による計算法と記帳の急速な普及、算数教室と教師の増加、数学教師の相互競争、代数学の発展と言う連鎖を生む。『アルマゲスト』とプトレマイオスの惑星位置計算法の場合も同様である。12世紀末にアラビア語からラテン語に訳され天文表が作られるが本格的関心はすぐには起こらなかった。大航海時代の幕開けで、航海が大陸沿岸を離れて大西洋に乗り出すところから、精密な位置計測と精密な天文表への関心が始まり、『アルマゲスト』の球面三角法の真剣な検討と数理技術者たちによる天体観測機器の開発、天文の精度の向上を通して、コペルニクスからケプラーを経てニュートン力学への道が開かれるのである。『アルマゲスト』の普及からケプラーの三法則が姿を現してくる物語の舞台と役者を、インド・アラビア式計算法の導入から「代数学」が姿を現してくる物語の舞台と役者を対比しつつ繋いでみると、そこから浮かび上がってくるのは、東方貿易に触発されてイタリア北部の都市国家から始まった大きな経済社会発展が、ヨーロッパ全土へダイナミックに影響を広げていく姿である。

さらに、物語の舞台が港湾都市から陸へと移っていく。数理技術者の世界はルネッサンスのイタリアの芸術家(ダ=ヴィンチ)の発展形態であり、金属鉱山のような陸地では、有名なフッガー家を通じて国家へと繋がっていく。そして、天文表は「プロシャ表」と呼ばれたりと国王の名誉も巻き込んで発展していくのである。そして、これらが後の国民国家を中心とする体制の下で、産業の主導する社会経済発展を支える力となるのである。

 

東方貿易のイタリアを起点に、北西へ影響を拡げて行った経済発展の成果がイギリスに流れ込み、同時に海上覇権がイギリス・オランダへ移ることにより開始されたイギリスの国内発展がマンチェスターに辿り着くところで物語は前章の主題に戻る。しかし、どれほど、外から来たインド木綿の衝撃が大きく重要であったとしても、イギリスの内部に大衆の需要を受け止めて模倣品を作り、させに次々と新機械を生み出してそれを改良し、価格・品質両面においてインド木綿と競合する綿布を生み出していく力が準備されていなければ、発展は起こらない。産業革命の地球史的意味は、それよりずっと以前、イスラム圏経由の東方貿易を起点として、ヨーロッパに起こった社会経済的発展の中で新しく生み出されたものが、大陸の北西の島国、イギリスの社会的能力として成熟した時に、今度は喜望峰経由で東方からやってきたインド木綿の衝撃を受け止めて開始した発展、と捉えることによって、はじめてその文明論的な意味も、それがイギリスで起きた理由も、明確になるのではないだろうか。この発展の中で生まれた、国境を越えて新技術を指導して歩く技術人と、中世ギルドとの紛争を防ぐための慣行が、イギリスで発明家に一定期間の専売権を与える今日の特許制度の形を取るようになる。そして、様々な新しい技術が特許制度の中で生み出され、産業技術を発展させていく。

例えば、ワットの蒸気機関の特許取得を考えてみる。ワットは試作段階から、蒸気機関を加工できる製作所を見つけるのに苦労していた。1775年にワットと共同経営者のボールトンは蒸気機関特許の製品化には、新工場の建設と、そのための巨大な投資が必要であるという理由で、特許の延長を申請し1800年までの延長を勝ち取っている。鉄製の機械がそれまでなかったわけではない。北部イタリア年から始まった発展の中で生まれた時計、天体観測、測量、実験等と結びついて発展した計測機器は精密機械であった。これらの機械は金属製品であり、歯車やカム機構、ネジを用いた精密な送り機構等々、機械の要素とその加工法は準備されていたのである。ただ問題は、それらは机の上に置くきわめて小さな機械を動かす機械であり、産業用の大型の鉄製機械の機構の製作のためには二つの大きな壁があった。一つは鉄で鉄を削るという課題を解決する良質の刃物鋼の工業的生産の問題であり、これはベンジャミン・ハンツマンによる、ルツボ製鋼法で解決された。もう一つは鉄を切削するために必要な大きな力、重切削の問題で、これは他ならぬ蒸気機関で工作機械を運転することによって初めて突破され、そこから工作機械の発展と鉄製機械工業の発展とが相互不可分の形で始まった。ちなみに、ランカシャー綿業に鉄製機械が一斉に浸透して行き、木製機械の解決し得なかった問題をつぎつぎと解決してゆくのもこのころからである。機械の素材を作る鉄鋼業においても蒸気機関はひとつの画期を作る。機械加工者としてワットを助けたウィルキンソンは、初期の蒸気機関の購入者でもあった。彼は1776年、自分の所有するコークス高炉のひとつに蒸気機関を利用して送風することを試み、高温操業に成功する。この結果、コークス高炉は初めて木炭銑と競合できるようになる。ヘンリー・コートのハドル圧延法がこれに続く。これは銑鉄を反射炉で融解しながら撹拌・脱炭し錬鉄(可鍛鉄)を量産する画期的方法だった。錬鉄は鍛造や圧延で加工することが可能な鉄である。鋳造、鍛造、圧延によって部品の素材を作り、それを工作機械で切削加工仕上げしたのち組み立てるという、鉄製機械製造法の基本はこの頃固まるのである。

この時代を象徴する新しい技術人─発明家─と特許の制度は、間違いなく北イタリアから始まった発展のなかで、科学と技術の周辺で起こった変化がイギリスで形を取ったものである。近代科学はこの発展のなかで準備され、17世紀に開花したのである。革命の核心は、当時の知的社会に根強かったメカニカル・アーツへの蔑視と、知的社会用語としてのラテン語重視に抗して、芸術家、職人、船乗り、外科医、軍人などの領域から、科学的主題について大衆の読める俗語で本を書く人間が現われてきたことである。同時に印刷業の発展と並行して地域別の大衆の話し言葉にすぎなかった俗語を、文法的に整理して国語にする言語革命が進行したことが、新しい知としての科学を、知識人の独占物にすることなく、手を汚して働く人間の世界に広めたのである。

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