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2013年3月 4日 (月)

熊代亨「ロスジェネ心理学~生きづらいこの時代をひも解く」(11)

こうしたキャラを使ったコミュニケーションの広がりとちょぅど時期を同じくして、日本でもインターネットが普及してきました。そして、2000年代後半になって普及したネットコミュニケーションのツール、特に後発のソーシャルネットワーキングサービスは、それまでのインターネットの欠点を克服していました。例えば、ツイッターは「見たいものだけを見る」「見せたいものだけを見せる」ことで自己愛を充たすのにうってつけのコミュニケーションとして仕上がっているという、心理学的側面については、あまり注目されていないように見えます。パッと見ただけでは、ツイッターはそれほど優れたツールのようには見えません。一度にできる文字入力が140字までに限られ、デフォルトの設定ではお世辞にも多機能とは言い難い代物です。しかし、ツイッターの場合、それは短所ではなくむしろ長所なのです。140字しか入力できないという仕様は「細かな事は表現できない」という短所が伴いますが、と同時に「見たいキャラだけを見る」「見せたくないキャラは見せない」ようにするのは好都合です。たかが140字で伝えられるメッセージは限られていますから、そのぶん望ましい「キャラ」を造形するための敷居はかなり下がります。喩えるなら。実物大サイズの画像では欠点のみえる顔立ちの人も、サムネイル画像では美人に見えるようなものです。ツイッターは、この「サムネイル画像」にかなり近い状態を、言語レベルのコミュニケーションでやり取りするのに適した環境を提供しています。この、キャラの創りやすさと抽象度の高さに加えて、「フォロー/フォロー解除」「ブロック」といった機能がついており、ユーザー一人ひとりが見たい相手だけを視界に入れて、見たくない相手をどんどん視界から外せるように作られています。「自己愛を充たすのに役立つキャラだけを集めて、自分の自己愛を傷つけそうなキャラを視界から追い出せる」のです。これが、グーグル+、フェイスブック、ミクシィといった、より典型的なSNS然としたネットツールになると、「情報の公開範囲」を設定することで、「この人にはこのキャラを見せる」「あの人には社交辞令のメッセージしか見せない」といった具合に、相手に合わせてみせるキャラを自由自在に使い分けることさえできます。いずれを例に挙げても、現代のインターネットコミュニケーションにおいては、「よりリアルに、より詳細に他者とコミュニケートするための」ツールより、情報量が少なくて抽象度の高い「キャラ」を介することで「見たいものだけ見て、見せたいものだけ見せて、見たくないものは見ない」ためのツールの方が、トレンドに合致しているようです。

 

「見たいキャラ」だけを見て、「見せたいキャラ」だけを見せるコミュニケーションに特化しているのは、インターネットツールだけではありません。私達がすごす日常生活空間そのものも、「キャラ」は見えても「他人」の見えない空間へと変容しています。例えば、イオン、ユニクロ、ヤマダ電機などの立ち並ぶ、国道沿いの生活空間を振り返ってみましょう。あの、全国をくまなく網羅しているロードサイドに買い物やレジャーに出掛けた時、果たして、「キャラ」ではない「他人」に出会うということはあるでしょうか。駐車場に車を停め、イオンに入るとしましょう。自動ドアが開いて、食料品コーナーなり衣料品コーナーなりに向かう。欲しいものを買い物かごに入れ、レジで会計を済ますまでの間に、せいぜい店員「キャラ」に遭遇することはあっても、「他人」に遭遇することはありません。従業員の「お客様対応」も徹底的にテンプレート化されているため、店員というキャラに遭遇することこそあれ、その店員キャラの「なかのひと」の特質を示すようなものに遭遇することは稀ですし、仮にそういう機会があってもお互いに詮索しないのが国道沿いのマナーです。つまりインターネット空間にせよ国道沿いの生活空間にせよ、私達は「キャラ」に遭うことこそあれ「他人」に遭うことの最小化された、自己愛を充たしやすく傷つきにくい環境のなかで生きているのです。

 

こうした「見たいものしか見ない」「見せたいものしか見せない」コミュニケーションと生活空間に特化した処世術を形成している人々が、次第に増えてきています。その先駆がオタクでした。オタクは1990年代前半までは平仮名で「おたく」と表記されることが多く、当時はなんらかの分野に以上に執着していて、その分野について高い知識を持っている人のことを主に指していました。しかし、21世紀に入ってからのサブカルチャー領域では、ライバルに差をつけられるようなセンスも知的研鑽もあまり重要ではなくなりましたからもアニメやゲームなどのコンテンツを媒介物としてコミュニケーションをしていることが「オタク」の最大公約数的な特徴になってきています。このコンテンツ媒介型のコミュニケーションは、互いにアニメなりゲームなりの話題にさえ集中していれば、他人の「見たくないもの」を見てしまうことも、自分の「見せたくないもの」を見せてしまうことも、ほとんど心配する必要はありません。それでいて、媒介物となるコンテンツとの一体感。趣味仲間として集まっている一体感はしっかり得られるのですから、お互いの傷つきを最小化しながら自己愛を充たすには優れた様式と言えます。

現代の日本では、こうしたライトなオタクかせ増えたという以上に、世の中のコミュニケーションやコンテンツ全般がオタク的になった、といった方がふさわしい状況を迎えています。キャラクターコンテンツがゴールデンタイムのCMやパチンコ屋に進出するようになった点でオタク的というだけでなく、めいめいが自分好みのサブカルチャー領域のなかへと没入して、それ以外のことへのコミットもコストも最小限にしながら「見たいものだけを見て」過ごしているという点が、オタク的だとここでは言いたいわけです。

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