中岡哲郎「近代技術の日本的展開~蘭癖大名から豊田喜一郎まで」(4)
第3章 日本の原生的産業革命または後発工業化
西欧近代にとって「産業革命」とは何であったかを見たところで、幕末開港以来の日本の産業発展を「日本の産業革命」と呼ぶのは適切かどうかを論じることができる。
南蛮貿易の時代に日本は一度、カトリシズムを先頭に西から来た文明の衝撃を受けた。二度目の出会いの構図は、この間に産業革命を通過して地球の全域に影響を及ぼす力獲得した西欧文明と、強力な封建制によってその潜在的活力が抑圧されていた社会が、再び出会ったのだとまとめられる。この衝撃に対する最初の反応として、薩摩や佐賀藩等の西南雄藩のサムライたちの、オランダ商館を通して入手された蘭書を解読しながら、鉄製大砲と蒸気軍艦を作ろうとする途方もない試みがあった。この試みを支えたものは、鎖国中に形成された蘭癖大名・蘭学者・器械職人のネットワークである。江戸時代に育った日本の萌芽的な技術者集団が、イギリス産業革命の影響を受けつつあったオランダの技術を、本だけを通して移転しようとしたケースであったのだ。この最初の試みは、大島高任の高炉などの、今から見れば奇蹟的な少数の成功例を生んだ。だが、私はそのことよりも、彼らの経験した無数の失敗と、それに費やされた莫大な金が、薩英戦争等の体験とも相まって、サムライたちに、一方では西欧と戦うことの危険、倒幕の必要に目覚めされると同時に、他方では西欧の武力の強大さの背後にある「国富」への関心を高めされたことの意味を高く評価する。幕末期に禁を犯して勇を鼓して渡航したサムライの数は多い。彼らがその時、間違いなく「文明の衝撃」を受けた。帰国後の彼らの活動は、そこで彼らが最も強い印象を受けたものを直線的に日本に持ち込もうとする特徴を持っていた。それが日本の現実と衝突する場合も多かったが、この行動様式は間違いなく明治の工業化の構造を規定する一要素である。
開国による貿易の自由化で主要な輸出品となったのは茶と生糸であった。ここでは、輸出における製糸業と輸入における織物と綿糸に的を絞り、在来と外来の出会いを考察しよう。
生糸は江戸時代中期までは原料白糸を中国産生糸の輸入に頼っていた。しかし元禄期に幕府は金銀の流出を抑えるため生糸の輸入禁止に乗り出すとともに、国産製糸業の奨励に転じた。このころから、桑作、養蚕、製糸業は農山村地域を領地とする藩の殖産興業の対象としては絶好の項目となった。幕末開港に先立つ一世紀は生糸の中国依存からの脱却・国産化をめざす広範な努力があった世紀であることを見落としてはならない。この一世紀にわたる努力の中から胴繰り法と呼ばれる極めて素朴な製糸技法に依拠した発展が奥州座繰りとよばれる、一歩進んだ技法が現われてくるまで発展したところで開港を迎えることができた。当時のヨーロッパは蚕の流行病による生糸飢饉の状態にあり、低価格のせいもあり日本産の生糸は飛ぶように売れる好況が到来したが、反面、低品質を世界に印象付ける結果となり、欧州での生糸生産が回復するにつれて生糸輸出は次第に落ち込んで行った。低品質の理由は、西欧の織布工程機械化に伴う、糸に対する品質要求を全く理解しないまま、在来工業織物向けの糸を掻き集めて売ったという事実に尽きる。そこで、生糸生産技術の向上は緊急の課題となり、政府は富岡に官営模範工場を開設する。ブリュナーと四人のフランス人技術者による技術指導は、単なる機械の運転・保守にとどまらず、殺蛹への蒸気使用をはじめ、貯繭、乾繭、選繭、煮繭等々の全ての工程にわたって詳細かつ適切であり、その面では、富岡における伝習は、その後の製糸技術の向上に大きな役割を果たした。しかし輸入機械による富岡製糸場そのものは、資本負担が大きすぎて、当時の日本養蚕地帯の事業家の経営モデルとしては落第だった。明治4年には、この機械を模倣したと思われる木製機構を多用し掛け機構を止揚した、六人織りから30人繰り程度の製糸機械を用いる製糸場が普及し始める。富岡の伝承者も加わり、器械繰りという名でよばれる、資本節約的機械製糸技術が作られていくのである。の器械繰り技術が、日本製糸業の機械制大工業時代への道を開いていく。
それでは、もともと日本に生糸を輸出していた中国の状況に目を転じると、世界市場では日本生糸は太糸志向の広東製糸とは競争できたが、細糸の領域では上海製糸に圧倒的な差をつけられていた。しかし、中国経営界には、資本家がカネを出して工場を建設し、経営者がそれを一定期間賃借して事業を営む、租廠制と呼ばれる慣行があり、設備改善や新技術に投資するインセンティブが双方に欠けていた。その間に日本製糸業は、資本節約的な器械繰製糸を、小枠から大枠への再繰方式による品質の均質化、夏秋蚕の飼育による年二回掃き立て、一代交雑種による繭質改善、座繰機より製品品質を格段に高めた多条繰糸機の発明、養蚕農家が組合を作り製糸工場を経営する組合製糸等々、多様な技術改善、経営改善を重ねていく。こうした努力の集積が日本製生糸の品質を高め1906年頃に輸出で中国糸を抜き、以後差を広げていくのである。1910年代に入ると大工場の発展に加えて、レーヨン糸という生糸そのものに対抗する新繊維の登場もあり、工場操業の体制、国際的な検査態勢の必要と結びついて技術の分かる中間管理職による工場管理の必要、初等教育を終えた労働者の熟練形成が必須となる。日本は何とかこの課題に応えるが、インドの近代製糸工場はカースト制度を含む差別的社会構造の遺産に災いされて課題に応えられない。中国は日清戦争の敗北後に努力を開始するがそれが実ったのは第二次大戦後であった。
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