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2013年3月20日 (水)

「エル・グレコ展」(8)~トレドでの宗教画:説話と祈り

Grecofranおそらく、今回の展覧会コンセプトとしては、このコーナーがまとめとなるのではないかと思います。その割には、展示されている作品が少ないと言うか、貧弱のような気がしますが。カタログや展示解説では、こう述べられています。

エル・グレコは肖像に描いた周囲の人々のみならず、数多くの聖人を祈念像として身近な場面の中に表わした。その表現は、彼の確固たる考えに基づくのであろう。エル・グレコは、崇高ながらも時に観者を見つめ返し、その視線に応えるほどに親しみ易い半身の聖人像を生み出した。彼らは我々と同じ身体を持つ人間として、それぞれに身ぶりや個性を与えられている。つまり、エル・グレコは、それまでの冷ややかで格式ばった、よそよそしい聖人像に生命を吹き込んだのである。一方、宗教主題の中には説話を伝えるものもあり、そのため複雑になることもあった。エル・グレコは、聖書の物語を実際に起こり得たように、その光景を思い浮かべて描いている。従って奇跡のシーンは場合により、その舞台である地上世界と混在することになった。というのも「神聖なるもの」は顕現の際、摂理により肉体や空間の概念、つまり地上的な現実を覆したに違いないからである、それゆえに「みえないもの」は「見えるもの」の一部となったのである。

論文みたいに難しげに書かれていますが、要は、この美術展で生き生きとした人物像の肖像画を描いたグレコは、その技法で宗教画でも聖人たちだって人間なのだからと、今、目の前にいる人のように描いてみせた。しかし、聖人は普通の人ではないから聖人なのであり、それを表わすには、聖書に記された奇跡とか説話といったストーリーがどうしても必要になって来るので、それを巧みに描き込むことで特別な人であることが、分かるように、その際に、グレコが導入したのが、物語に書かれていた、実際に現実にあり得ないことを現実の日常の場面の中に入れ込んでしまうことだった。画家は目で見たことを描くという特性から、「見えないこと」と「見えること」ことを一緒に描くという新たな表現方法に結実したということでしょうか。そういうように確立した手法を駆使することをギリシャからイタリアを経た遍歴の上に、スペインに落ち着いたことで成熟を迎え、宗教的な作品を工房を構えて次々と世に送り出していくことになった。

その時に、この解説に書かれている手法というのは、これを見る人々がリアルに自分のこととして実感し、カトリック信仰に危機感があった時代状況ということからも人々を信仰につなぎとめるといういともあったことだろうから、単に聖人や聖書の説話が分かるというだけにとどまらず、人々を祈りに引っ張ってこないといけないわけで、そのためのものとしてグレコの働きか期待されていたと思います。そして、グレコはされに応える作品を送り出した。ということではないかと思います。

Grecoseii_2手始めに、『瞑想する聖フランチェスコと修道士レオ』を見てみましょう。言うまでもなく、アッシジの聖フランチェスコは「小さき花」や清貧をモットーとするフランチェスコ会という修道会を始めたということ等あってカトリック聖者のなかで、もっとも親しまれ人気のある聖人です。それを題材とした聖人画です。“画面全体を覆っている茶褐色のモノクロームの色彩は、聖人が隠棲したアルヴェルナ山の小さな洞窟の内部を想起させつつ、観者の精神を内省へと導き、ひいては画中の聖人たちを手本とする深い瞑想の世界へと誘う。粗末な僧衣に痩せ細った小さな身体を包み込んで聖人は細い指で注意深く手のひらに支え持った頭蓋骨を凝視しながら死への瞑想に耽っている。頭蓋骨は本作の精神的な焦点として画面のほぼ中心で光に照らし出されており、この作品は聖人たちに倣ってこの頭蓋骨を見よ、そして死を想えと、瞑想と悔悛の実践を観者に促している”というように解説に説明されています。左下で跪く修道士は顔が描き込まれておらず、聖フランチェスコの顔は瞑想しているような静けさを湛え、身体は覆っている僧衣が毛羽立つように描かれているため輪郭がぼやけ、明確な輪郭線が見分けられず、灰色の僧衣と茶褐色の背景とが溶け合うように見えて、神秘的で瞑想的な雰囲気があります。そこでは、グレコ独特の粗っぽい筆遣いが画面の雰囲気にマッチしているように見えます。この作品は銅版画にされ広く人々に出回ったということです。たしかに、親しみ易いといえば、そうかもしれません。後世のカラバッジォの描く聖フランチェスコの峻烈さはここにはなく、瞑想的な静けさが漂っています。そこには、ひとつの意図が透けて見えるようにも思えます。

次に『聖衣剥奪』というのは、兵士たちに衣服を剥ぎ取られるキリストの受難の場面を描いているもので、展示されているのは、トレド大聖堂に飾られているものを晩年にレプリカとして制作されたものだそうです。そのため仕上げは雑になっています。しかし、その方が却ってグレコの特徴を良く出しているのかもしれません。ここでのキリストは特別な存在として際立たせて描かれていない。というのも、人々の中では、ワンオブゼムになっています。宙に浮いているわけでもない、光輝に包まれているわけでもなく、他の人より大きく描かれているわけでもない。かろうじてキリストと分かるのは、それらしい顔かたちと一人だけ赤い衣を身に着けている(兵士の軍服を着ていないこと。この軍服は古代のではなく、描かれた当時の甲冑や軍服のようです)。そして、顔の表情が、他の兵士たちが興奮して感情を露わにしているのに対して、キリスト一人だけが穏やかな表情を湛えて上(天)を向いていることです。キリストは兵士たちから難を受けながら、かれらの方を見るでもなく、下方に俯くでもなく、天を見ている。そして画中で上方に顔を向けているのはキリストだけです。これらのことは、ここで言葉にすれば、そうだということかもしれませんが、実際に絵を見てみれば、それほど目立つことではありません、しかし、見る人は一目でキリストと分かる。そういうように描かられています。しかし、特徴的なことは、キリストもそうですが、それ以上に周囲の兵士たちです。彼らはキリストと同じような存在感を持っているのです。背景として一歩退いているわけではないのです。だから画面には、様々な人々が満ち溢れエネルギーに満ち満ちているかのようです。展示されているものはレプリカで小さなサイズですが、ほんものの聖堂内の壁面を飾る大画面で見た場合には、満ち溢れるエネルギーに圧倒されるのではないかと思います。それらが粗いタッチでグレコの肖像画に見られるような生き生きとした人物たちが群像としてキリストに迫ってきているというわけです。これは、適切に喩えではありませんが、1970年代の日本映画に『仁義なき戦い』というやくざ映画がありました。深作欣二が監督した映画ですが、それまでの映画の常識を破って主役級の俳優が演技をしているところに端役の無名俳優が遠慮なく絡んでいきます。伝統的な映画では主役が目立たないといけないのですが、やくざのチンピラを演じている端役たちが本来なら主役の位置すべきスクリーンの真ん中の目立つ位置を取り合う競争を始めます。そうすると、主役級の看板俳優たちも、自分が霞んでしまう。映画の物語は太平洋戦争後の焼け跡の中で旧来の秩序が崩壊し、新興のやくざがのし上がっていくストリーリーですが、その画面での目立ちたがりの競争が新旧のやくざの存在をかけた抗争に擬せられて、凄まじい迫力に漲っていた作品となっていました。いわば、それまでの映画の転倒的な予定調和をぶち壊した作品になっていました。話を戻しますが、『聖衣剥奪』に描かれた兵士という群衆には、そういう迫力があります。それは、歴史画で背景として描かれた群衆にはない生々しさで、もしかしたらグレコは絵画の世界で群衆を発見したと言えるのかもしれません。群衆の背後に林立する槍は、単なるデザインを超えた生々しい迫力を放っています。また、映画の話に脱線しますが、光学カメラというのは焦点を一点に絞ってピントを合わせます。だから、画面の中心に主役宅の俳優とか、とにかく映したいものを持ってきて、その周囲は焦点が段々とボケて行きますから背景としていくわけです。これは光学カメラの機能上の条件でもあるわけですが、そういう枠組み、視野の作り方は西洋絵画の遠近法の作り方そのものです。しかし、パンフォーカスというピントを解放するという特殊な技法で、画面全部にピントが合ってしまう技法があります。ただし、これは一瞬の偶然の結果のようなもので、何時も出来るとは限らない技法です。例えば、黒沢明の「椿三十郎」の最初のところで、主人公の三船敏郎が潜んでいるお堂の観音開きの扉をパッと開けて敵方の前に登場するシーンがありますが、そのとき三船敏郎の背後のお堂の内部が暗がりであるにもかかわらず、隅から隅までピントが合っていてくっきりと隠れている加山雄三たちの姿が見えるのは、そのパンフォーカスの効果です。多分、こんな神業のような撮影がさりげなくできるカメラマンはいないでしょう。淋しいことです。さて、そのような中でも、キリストが霞まないで静謐さが際立っているわけです。これこそ、日常の現実の中に神秘的な見えないものが一緒に描き込まれている例として考えてもいいと思います。それは、グレコの写実を追求しない、見えるものだけを忠実に描くと言うことをしないことから、背景を緻密に描き込まないことから可能になっていると思います。というのも、キリストが他の群集と違うことを描き込んでいく一方で、直接、キリストに画面上で重なるし人は1名にとどめておいて、それ以外の人々との間には巧みに黒く塗った空間を配して、微妙に区分していることです。そして、私には、展示の順番から思ったことなのかもしれないのですが、前にあげた聖フランチェスコとキリストの表情が重なってみえます。聖フランチェスコは俯いていますし、キリストは天上を見ているという大きな違いはあるのですが、グレコは聖人やキリスト、マリアといったモチーフを一般の人々とは違ったように描く方法を、それ以前の画家たちとは違った方法を持っていたのかもしれません。

Grecocrossそういう描き方で集中して描いたのが『十字架のキリスト』であると思います。“黒雲に覆われた不穏な空を背景に、十字架に磔にされたキリストが画面の最前線に配されている。キリストの体は細く引き伸ばされ、腰の部分を大きくひねった典型的な蛇状人体を示し、目を見開き、向って左上方に顔を向けている。ここでエル・グレコは、頭を垂れた死せるキリストに背を向けている。エル・グレコのキリストは肉体的苦痛を超越した法悦の表情を見せ、受難の痛ましい表現は避けられ、血、感情、苦悩の表出は最小限に止められている。エル・グレコは写実的描写を超えて、身体に内在する、その形態の比例に根差す美、それを優美さと画家は呼ぶ、を外在化させる。下から見上げられたキリストを最前線に孤立させて配した構図は、見る者に人類の贖罪と救済についての瞑想に誘う宗教的機能を十分に果たしたに違いない。”

実際のところ、前の『聖衣剥奪』からキリストだけを取り出したら、こうなるのかと言う作品です。この解説を読んでいただいても分かるように、これは単に見られると言うだけにとどまらず、特定の宗教的感情を呼び起こす働きを期待されて注文されたものと考えてもいいのではないかと思います。『聖衣剥奪』と同じように暗い背景、引き伸ばされたからだとぼんやりした輪郭、そして粗い筆遣いによって、キリストの肉体が物として実在感とか重量をほとんど感じさせません。それは、キリストの受難をキリストに絞り、周囲の人間を画面から切り捨てることで、キリストにおこったドラマとして見ることを可能とします。それは、日常の現実の物質的な生活ではなく、キリストの内面に近いドラマ、受難を受けたキリストが人間の原罪を背負って上方の神と対話をしているかのようなドラマです。だから、他の人物はいらないし、背後の風景も無い方がいい。ただし、この絵を人々が見るわけですから、その見ている人々とは無縁の周長的な内面世界だったら人々に作用しないし、見ようともしないでしょう。だから、グレコは見えないものを見えるものとして描こうと、現実を少しずらして彼に特徴的な描き方で実在の事件のように十字架のキリストだけに焦点を合わせて絵画としたのではないかと、想像しました。しかも、個人に与えるインパクトがあるという点では肖像画の描き方は、個人的な次元で影響力があるでしょう。その意味で、肖像画のような描き方で、約1m×60㎝という大きくないサイズの作品にしたのではないかと思います。今回の目玉は『無原罪のお宿り』という大作ですが、エル・グレコという画家の真骨頂は、そういう大作である一方で、このような小品でこそ際立っているのではないか、といのうが、今回の展示を見ていて感じました。そのいみで、このコーナーがまとめではないかと思ったわけです。

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コメント

グレコ展いいですね。独特のカラーを持っている画家ですよね。なかなかまとまってみたことがまだないのですが、色々な変遷やバリエーションがあるのだろうと思います。楽しそうに書いているようすが伺えていいですね。

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