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2013年3月21日 (木)

「エル・グレコ展」(9)~近代芸術家エル・グレコの祭壇画:画家、建築家として

Grecocon『無原罪のお宿り』を見ていきたいと思います。今回のグレコ展では展示されていた『受胎告知』『聖衣剥奪』といったグレコの有名な作品の中でも、有名な同主題の作品の習作か、後年に再制作されたもので、サイズが小さかったり、イマイチ気合が入っていなかったり(中にはアリアリ!)というものもありましたが、これは正真正銘のものです。絵を鑑定するとか、そういう人ではないので、私はあまり気にする方でもなく、レプリカだからどうだということを気にするタイプの人ではないのですが、一部で、塗りがいかにもぞんざいなのが明らかなのを見ると興ざめというのも、慥かになかったわけではありません。もっとも、私なぞは、「グレコの絵」だと示されれば、それが偽物であったとしても、それをそんなものだと信じて、あれこれと想像をめぐらして遊んでしまうので、このように感想なぞを書き連ねているのも、実はグレコの絵画作品がどうこうというよりも、それらしきものを見ている自分を書きたいのかもしれません。といった、メタ・レベルの戯れには、あまり深入りしないで、作品について思ったことを書きつづっていきます。

グレコっていうと、黒っぽくて、全体がぐにゃぐにゃで、とくに人物が蛇みたいに引き伸ばされて…という印象を持たれていると思いますが、まさにその典型、特徴テンコ盛りの作品です。トレドのオパーリュ礼拝堂の壁の壁龕に飾られるために制作されたものだということです。つまり、礼拝堂の高い天井と壁面を見上げ視線を意識して意図的に構図や構成が考えられているということです。

“オバーリュ礼拝堂は、その建築構造が絵画における人物配置や構図と一体と化している。祭壇を最上部にまで拡大する代わりに設けられた窓は、『無原罪のお宿り』中の光の表現の一部となり、聖霊を表す鳩はこの自然の光源から飛んできたかのように見える。画面左下に見える、トレドの町のランドマークは、マリアの隠喩としての神の都市を象徴する。最前線に描かれた、聖母の純潔を象徴するバラとユリは、この作品のすぐ下に本来置かれたはずの祭壇を飾る花であるかのようだ。マリアの蛇のように曲がりくねった人体は、まるで観者が彼女の目の前に移動して見ているかのように、多様にして複雑な視点が設定されている。そして極端な短縮法で描かれた天使の翼がその効果を増大させている。観者が動いたとしても、V字型に開いた翼は常にその頂点を見せ、天使がその軸を中心に常に回転しているかのような効果をもたらしている。エル・グレコは、大胆な構図を用いて生き生きと「動く」絵画の彫刻的な可能性を示し、ダイナミックであるべき芸術殺品の静的な理解を否定した。あたかも実在するかのような、運動するヴィジョンを絵画に求めたのである。そして、現実の環境と絵画芸術が相互に浸透し合う可能性を新たなアイディア、仮説として提示した。つまり、絵画が自然の一部になるのと同様、自然が芸術表現の一部になる、というわけである。”

長い引用になりましたが、最後の考察はちょっと蛇足に感じられたのを除いて、この作品が描かれた意図が説明されていると思います。縦長の構図は作品が飾られた上にある窓の光源に向けて人々の視線を上へ上へとリードしていくように、そして、作品を人々が見上げることを前提に、下から見上げるような視線を意識して描かれている。そのため、下からの視線でそれらしく見えるために縦長に描くと、人間はひょろ長くなってしまうわけです。それを後世になって、真横から鑑賞することになれば、下からみられて寸詰まりにならないように描かれていたのが、ひょろ長く見えてしまうというわけです。くねくねしたように全体になっているのは、人々の視線を上を導くための動きを誘発することと、画面全体にダイナミックな動きを与える効果を生み出している、ということでしょう。人物(ここではマリア)が最大の優美さ生命感を持ち得るのは動いていると見えることであるとして、この動きをキャンバスの上で表わすために、ろうそくの炎のゆらめきのような、ゆらゆらと揺れて上に昇って行くさまを参考に、上昇気流のように螺旋を描いて上昇していく構図となったということでしょうか。

そこに、現ある物を写す、というのではなく、描くからこそできるもの、描かれたものが現にあることになるという、見えるものと見えないものの境界を限りなく曖昧にしていく、グレコの認識がよくうかがえるものとなっていると思います。

Grecocon3しかし、そこで少し立ち止まって考えてみたいと思います。そもそも無原罪のお宿りというのは、イエスとその聖母であるマリアはアダムとイブ以来の原罪であるセックスを経ずに神の恵みの特別な計らいで生まれた、つまり原罪を免れていたという教義です。人間は生まれながらにして原罪を背負っているもので、それを溶くのは神の愛でしかない。しかし、聖母マリアはその原罪すら背負わない純粋で清らかな姿で生まれた、という、いうなればキリスト、マリアの清浄さを強調するような教義です。それをグレコの、この作品はこれほどダイナミックでドラマチックに仕上げる必要があったのでしょうか。というのが根本的な疑問です。今回の展示でも、グレコの別の『無原罪のお宿り』が展示されていましたが、むしろ、これとは違って、淡く明るい色彩で、落ち着いた感じの作品で、清浄さというなら、むしろこちらの方に感じられると思いました。

同じ題材を扱った他の画家の作品でも、例えばスペインではムリーリョやスルバランの著名な作品がありますが、それらを見ていただくと、グレコのこの作品のようなものとは正反対の、静的で淡い色彩の落ち着いた作品になっています。

では、どうしてグレコだけ、このようなユニークな『無原罪のお宿り』を制作したのか、それには、グレコだから、と答えるしかないのかもしれません。これは答えになっていませんね。でも、このようにえがいてしまうのが、ぐれこという画家で、それを好ましいと思うか、変だと思うかで、グレコ画家を好むかどうかの分岐点になるのではないか、と思います。それが、絵画鑑賞の愛好者としての私の正直な感想です。私自身、これまで、グレコの作品の特徴等に関して、現代の私を取り巻く環境に引き寄せて、それなりに(強引に)考えてきましたが、どうしても。この一点だけは、自分なりに納得することができませんでした。それが、私とグレコの作品との間にある一つの隙間のようなもので、それは結局、今回の展示を見た限りでは埋めることはできなかったというのが、今回の最終的な感想です。

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