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2013年4月

2013年4月30日 (火)

宮川壽夫「配当政策とコーポレート・ガバナンス~株主所有権の限界」(8)

最後に仮定(5)完備な契約を締結することが可能であるということを緩和することがエージェンシー問題にかかわる議論となる。企業内には企業を一定の方向に動かそうとする様々な力関係が存在する。とりわけ配当政策に影響を与える関係者は経営者、株主、債権者である。これらのステークホルダーの異なる利害は常に対立しており、企業の行動とは彼ら独立した経済主体の行動が均衡した結果であって企業そのものが意思決定を行うわけではない。ただし、エージェントである経営者は経営という現場に直面し、主体的な意思決定を行うため彼の行動は企業価値の形成にとってとりわけ影響力が大きい。そのため何らかの方法によって経営者の行動を企業価値拡大に向かわせなければならない。実際にはエージェンシー関係が不完備契約のもとで成立している現実を考えなければならない。そのため、様々な方法で経営者行動を企業価値最大化に向かわせる必要がある。その対応策がモニタリングとインセンティブという二つの仕組みである。しかし、モニタリングを行ったり、インセンティブを提供したりするには多大なコストがかかり、それがエージェンシーコストとなって企業価値に影響を与える。このようなプロセスの中で配当政策が経営者への規律付けとして有効に作用することになる。市場による経営者へのモニタリングという点から配当にふたつの機能があることが指摘されている。第一に、企業の資本投資政策を所与とすれば配当の支払いを増やす時に企業は資本市場を利用して配当支払のための資金調達を行う必要があるが、その際には資本市場を通して投資家による監視を受けることになる。例えば株式や債券の発行に伴う審査が必要であり、またエージェンシーコストを反映した発行ディスカウントが通常は要求される。このように資本市場は経営者の監視を低コストで賄えられると考えられ、配当は企業を監視コストが低い資本市場にとどまらせる機能があるとしている。第二の機能は経営者、株主、債権者のリスクレベルの調整である。一般的に投資家は分散投資を行うことによってリスクを低減することができる。しかし、分散投資ができない経営者は分散投資が可能な投資家に比べてリスク回避的であると考えられる。自己資本比率を維持するために配当を控えることは経営者にとってリスク低減の有効な手段だが、経営者が積極的な投資を行わなくなると株主は負担したリスクに相当するリターンを得ることができなくなる。その結果、株主のリスク負担が相対的に大きくなり、債権者に利益をもたらすことになる。配当を操作することによって株主、経営者、債権者が負担するリスクを変化させることができるのである。配当は企業のステークホルダー間の利害調整弁として役割を果たすと期待できるのである。一方、経営者が経営の現場で自由に使うことができる手持ちの資金すなわちフリーキャッシュフローを配当として社外流出させることによって削減すれば経営者の機会主義的行動は抑制され、結果として企業価値の向上が期待できる。つまり、企業内に余剰資金を残していると現場にいる経営者はその資金を自分のものにするか、もしくはその資金を自分の私的利益だけのために費消してしまい、企業価値拡大にとって無駄な投資や過剰な投資が起きてしまう。そこで経営者の自由裁量を狭めて企業価値向上を目的とした行動以外の選択肢を採らせないというアイディアがフリーキャッシュフロー仮説である。また、経営者側の立場に立てば私的利益への投資を行わないという株主への意志表示となる。配当の支払いはそのような経営者の意志表示を表わしている。配当支払はエージェンシーコストの削減効果となって本来毀損されている企業価値を回復し、拡大する可能性を持っている。フリーキャッシュフロー仮説においては配当を多く支払うことが企業価値を高めるという結論になる。これに対して成熟性仮説は企業が成熟期に近づくにつれて積極的な株主還元を行うという理論である。創業まもない成長期にある企業は有望な投資案件を多く持つために常に積極的な事業投資を行うことが求められる。しかし、成長性が高い一方で信用力が低いために資本市場における資金調達には強い制約がある。そこで、目先の株主還元などを目的とした社外流出を抑制し、投資資金の確保を優先させることになる。このような企業が黎明期を脱してやがて成熟期に入ると投資案件の減少とともに成長機会にも限界が訪れるが、利益率が安定しているため社内に現金が蓄積されやすくなる。結果として配当を増やすことによって株主還元を行うインセンティブが高まることになる。これはフリーキャッシュフロー仮説と同様の結論と言える。企業の成熟期において投資を続けると過剰投資の問題としてエージェンシーコストが高まるが、増配は過剰投資をしないという経営者のシグナルとして受け止められるという点で、成熟性仮説はフリーキャッシュフロー仮説の重要な要素であると理解できる。そして、経営者が自分自身の負うリスクを回避するために採る行動も経営者による私的利益の追求の一つである。例えば何らかの理由で企業の先行きが不透明になった場合、経営者が配当を減らしてフリーキャッシュフローを蓄積することによって非常時に備えようと考えることは自然である。企業個別のリスクが配当政策に影響を与えるという考え方が非システマティック仮説である。株主は経営者に比べるとリスク許容度が高い経済主体である。なぜなら株主は株式市場で分散投資を行うことによって非システマティックリスクを低減することが可能だからである。一方、自社が生むキャッシュのみに自分の給与が依存している経営者はリスク分散ができない。そこで企業固有のリスクが高まると経営者は配当を減らしてフリーキャッシュフローの蓄積に走るというのが配当政策における非システマティック仮説の典型的な帰結となる。

2013年4月29日 (月)

宮川壽夫「配当政策とコーポレート・ガバナンス~株主所有権の限界」(7)

規制が存在せず完全競争が行われることはMM理論成立に不可欠な条件であるが、(3)の仮定に基づいて、規制が存在しない市場という視点で説明する。具体的な事例として、規制により無配企業や低配当企業に投資できない機関投資家の存在が想定される。委託者からの要請やファンドの運用方針によって企業の配当政策が銘柄選択に強い影響を及ぼすことは一般的に考えられるが、完全な市場にはこのような規制を負う投資家がいることを予定していない。仮に経営者が機関投資家に株を保有してもらいたいと考え、機関投資家の銘柄選択のために配当支払が必要となれば、経営者は個人投資家にとって税制上不利な配当支払を選択する可能性がある。その結果、配当を支払うことにより、機関投資家という一つのグループにおいて企業価値が向上することになる。

仮定(4)は情報の非対称性は存在しないというものであるが、前章の組織の経済学を発展させていく重要な議論である。企業と株主・投資家が同水準の情報を常に保有している保証はないために配当の変化は何らかの情報創出機能を伴って企業価値に影響を与える。実際には、株主と経営者との間に常に情報分布が非対称に存在しており、経営者の情報優位は疑いがない。このことを情報の非対称性と呼んでいる。企業価値に関する情報を経営者が外部投資家より多く持っているとき、配当はコストがかかっても市場に有効な情報を伝達する手段となりうる。したがって企業が行う配当の変更は、経営者が株主や投資家に送るシグナルとして受け取られ株価に影響を与える。例えば、増配は企業の情報をより多く保有する経営者が将来の収益見通しに対して楽観的であることを市場に伝達する情報効果があり、反対に減配はその逆のシグナルとなる。この場合、増配それ自体が企業価値を向上する要因となる。これが配当のシグナリングモデルである。ただし、配当がシグナルとして有効に機能するためには企業はシグナルするためのコストを支払わなければならない。コストがかからないシグナルに対して市場は信頼しない。しかも、そのコストは他の企業が模倣できないようなコストであることが必要である。一方、ペッキングオーダー理論は、情報の非対称性を拠り所として企業がプロジェクトの投資資金を調達する際に内部資金を好み株式発行を回避するという本来は企業の資金調達に関する事実を説明する理論である。このペッキングオーダー理論を応用して企業の配当政策を説明することも可能である。ペッキングオーダー理論によれば経営者は情報の非対称性がもたらすコストを最小化しながら資金調達を行うとする。企業の資金調達手段を大きく分けると、借入れ、社債発行、新株発行等の外部金融と内部留保による内部金融がある。これらの資金の利用にあたって企業経営者は情報の非対称性が低い順に予め優先順位を決定しており、その順位に従って調達を行うとされる。すなわち企業経営者は、株主にせよ債権者にせよ外部から資金を調達すると情報の非対称性が生じるため、まず内部留保を優先的に利用し、内部留保利用の限度が一杯になったところで借入れを行う。このような結論も情報の非対称性を考慮した配当政策と相容れないものではない。つまり、経営者は内部留保に強い選好を持つが、収益性が高い企業は高水準の内部留保を蓄積することになるため配当による社外流出に対する抵抗は少なくなる。この理論に従えば、配当は収益性とキャッシュの拡大とともに増加し、負債の拡大とともに減少するということができる。このペッキングオーダー理論では経営者が株価の過大評価や過小評価を気にしながら行動していることを仮定している。また、情報の非対称性が存在するということは、経営者は配当政策を市場へのシグナリングに利用することによって企業価値をコントロールする余地があるということになる。そうであるならば、経営者は市場がより配当に関心を持っている時期にシグナリングを実施した方がアナウンスメント効果はより高くなるだろう。配当ケータリング仮説はこのような経営者と市場の心理に根差した考え方である。この仮説によれば、市場が配当に対して高い関心を示し、高配当の企業の株価を高く評価している時期にはより多くの企業が配当を高め、逆に配当と株価が連動していない、あるいは配当を支払う企業が評価されない時期になると企業は配当をやめる。投資家の配当に対する選好が企業の配当政策に影響を与えるというところに特徴がある。株主と経営者との間に存在する情報の非対称性は配当政策を介在してお互いにの駆け引きを誘発させながら企業価値に影響を与えているのである。

2013年4月28日 (日)

宮川壽夫「配当政策とコーポレート・ガバナンス~株主所有権の限界」(6)

第4章 配当政策研究の系譜

なぜ経営者は現金を株主に支払いたいと考えるのか。また株主はなぜ期中に現金を受け取りたいと考えるのか。配当を払うと企業価値は拡大するのか、縮小するのか、配当が企業価値に影響を与えるとすれば、そのメカニズムはどのような構造になっているのか。配当が企業価値に影響を与えるとすれば、そのメカニズムはどのような構造になっているのか。じっさいのところ配当の論争には正確な決着がついていないのである。

ところで、経営者自身は配当を支払うことにどのような感覚を持っているのだろうか。配当が経営に何の影響も与えないとするならば経営者による配当の意思決定は政策というほどの重大な意味は持たないであろう。まずは経営者にとって配当政策の意思決定が実に慎重に行われているという話から出発しよう。配当政策において企業経営者による配当を平準化したいとの意思が企業行動に幅広く行き渡っているという報告がある。この中で指摘されている事実は、次の三点である。第一に、企業は現状の配当政策を変更すべきかどうかをまず検討し、変更の必要性があると判断した場合にのみどれくらいの幅で変更を行うかを考えるという事実である。すなわち毎期改めて配当政策の意思決定を行うのではなく、前の期の配当政策が当期の配当政策に影響を与える。経営者は安定的な配当政策を採る企業が市場で評価されると信じており、配当の安定化に最大の関心を抱いている。第二に、企業が配当政策を変更する最も大きな理由は利益動向であるという事実である。経営者は、自らが配当政策の変更に関する説明責任を果たす上においては利益動向という客観的事実に基づくことが妥当であると考えている。多くの企業は配当性向の目標値を持っている。大幅に利益が上がると企業は徐々に配当を調整し、増益による配当政策の変更は当期中には完全に行われるわけではない。また経営者は減益の意思決定には非常に慎重であるとしている。第三に、経営者いとって配当政策の意思決定は他の財務的意思決定に比べて、その優先度が高く、むしろ配当政策を所与として他の意思決定が行われるという事実である。 

111_3いわゆるゴードンモデルと呼ばれ、企業価値理論の基礎となった考え方である。このモデルでは経営者が実施する投資の効果は不確実性が高いということに注目し、投資の服実性が上記式の分母の割引率(r)を上昇させると考えた。もし企業が自由に使える現金を持っているならば、不確実な投資を行って割引率を上昇させるより将来の配当(上式の分子のD)を増加させる方が企業価値を拡大すると訴えた。つまり、ゴードンモデルの結論は配当が多いほど企業価値は拡大するということになる。このような配当政策が資金の調達や投資に関する意思決定と相互に依存し合い、企業価値に何らかの影響を与えるという考え方は資本市場が完全でないことを前提としたものである。配当政策のみを取り出して、その意思決定を純粋な効果を論じるためには、まず完全な資本市場を考える必要がある。これに応える形で登場したのが配当無関連命題(MM理論)である。このモデルは投資政策を所与とすれば配当政策が企業価値と独立であることを証明した。つまり企業価値を創造する要素は配当政策ではなく投資政策であると訴えたわけである。完全な資本市場においては、企業は新株式を発行して資金調達することで、いかなる水準の配当であっても実行可能であり、したがって企業価値は配当政策に影響されるのではなくあくまでも投資政策によって決まるとする。この配当無関連命題は配当が企業価値に影響を与える条件を明確に提示したことになり、数多くの研究はこのモデルを土台として、企業の配当政策に一定の法則を見出し、その背景を解明しようと繰り返し行われてきた。このモデルが成立するためには、次の5つの仮定がすべて満たされた場合を想定する必要がある。

(1)税金は存在しない(税金と配当)

(2)株式の取引コストは存在しない(株式の取引コストと配当)

(3)市場の規制は存在しない(市場の規制と配当)

(4)情報の非対称性は存在しない(情報の非対称性と配当)

(5)完備な契約を締結することが可能である(不完備契約と配当)

上記仮定(1)税金は存在しないというMM理論の条件を取り払うと配当が企業価値に影響を与える理由は容易に説明できるように思われる。株主にとっては配当を受け取るたびに税金を支払わなければならないことを考えれば、むしろ配当を支払わずに企業内に現金をとどめている企業の方が投資価値は高い。この場合、無配にすることが最適な配当政策となる。

(2)の株式の取引コストは存在しないという仮定には、投資家が負うコストと発行体が負うコストの二つの側面がある。投資家が証券会社に株式売買の委託手数料はここ数年で大きく低下したが、投資家の行動を見るためには株式売買に必要なコスト、すなわち直接的な委託料に加えて売買金額や売買タイミングといった投資家の努力をコストとして含めて考慮しなければならない。これらを考慮すれば投資家の立場からはキャピタルゲインよりもインカムゲインの方が望ましい可能性がある。一方、発行体が負う発行コストという側面からは配当支払に対して否定的な結論が導き出される。企業にとって配当は将来の投資に使うことのできる内部留保金を減少させる。したがって新規の事業投資を株主資本で賄う必要がある場合には新株を発行する可能性を高めることになる。企業が新株発行によって資金調達を行う場合、実質的には株式発行コストの分だけ企業価値が低下する。

2013年4月27日 (土)

宮川壽夫「配当政策とコーポレート・ガバナンス~株主所有権の限界」(5)

第3章 外部株主モデルと固定的配当政策の合理性

本章では外部株主モデルをもとに株主と経営者の関係を改めて見直し、配当政策がもたらすモニタリングとインセンティブの機能について考える。

外部株主モデルによれば、株主と経営者双方がそれぞれの資産を株式会社に投下し、お互いがそこから創出されるリターンの獲得を期待しているとする。即ち、経営者から経営能力といった無形の人的資本が投入され、一方の株主からは株主資本が投下され、株式会社はこれら双方の投資によって形成されている。双方が投資を行った結果、やがて株式会社はキャッシュフローを生むことになるが、株主と経営者のインプットは元々それぞれ当事者の所有物であり、自分達が会社に投入した資産に対するリターンを期待している。つまるところ企業の純キャッシュフローは、(1)配当と自己株取得による株主への払い戻し、(2)事業への再投資、(3)経営者の私的便益の3方向に分配され、この分配方法は株主と経営者の交渉力によって決定される。株主は株式の保有比率を背景に経営者へのモニタリングを効かせることによって、その交渉力を高めることができるが、あまり過剰なモニタリングを行うと経営者のモチベーションを低下させてしまうため必ずしも企業価値の向上は望めなくなる。そこで、このような株主と経営者のトレードオフを調整する有効な手段が固定的配当政策であるという主張が出てくる。すなわち経営者が株主資本コストに見合った配当総額を支払い続ける限り、株主の将来配当に対する期待は安定化し、株主は現経営者による企業活動の継続を認め経営者の罷免を含む経営への介入を行わないよう意思決定する。

これは、経営者が単純に自己利益のためだけに走るという前提ではなく、経営者の事業に対するモチベーションということに踏み込んだもの。株主と経営者の利害の不一致によって企業経営の効率性が損なわれる原因として、次のような基本的要因が考えられる。すなわち経営者の企業努力や企業特殊的な人的資本への投資から生まれる収益の一部が株主にも分配されてしまう問題、あるいは経営者による私的便益の費消が株主への分配可能な利益を犠牲にしているという問題である。これらの問題は、経営者に自由裁量を与えることが直ちに企業価値の毀損に結びつくのではなく、経営者が自らの利益にかなう限りにおいて自己を規律付けするような方策が検討され、結果として効率的な経営が実現するというような理論モデルである。

配当政策においても長期間にわたって安定的な配当を払い続けることが有利な手段となる。過去何年にもわたって安定的な配当を支払った実績が株式による資金調達コストを大幅に軽減することになり、他方、企業が利益を獲得すればするだけ全てを配当として株主に配分してしまうと、経営者の企業努力や企業特殊的な人的資本への投資が行われなくなり、やがて企業価値が毀損されてしまうだろう。以前に比べて経営者ないしはエージェントに対するモニタリングとインセンティブ付与のバランスが極めて重要である。特に現代は限界ある成長率の中で競争するための高度な情報化と技術化が進み、企業の競争優位の要因は経営者や従業員が持つ目に見えない人的資産に依存するケースがおおい。これまでのように余剰資金を配当によって常に株主に還元することばかりが、企業の利害関係者の利害調整にとって常に株主に還元することばかりが、企業の利害関係者の利害調整にとって必ずしも的確であると言えないケースが存在する。

エージェンシー理論に基づくフリーキャッシュフロー仮説の限界は、大規模な投資による生産設備を擁して大量販売を旨とするような産業資本主義的企業を想定している点にあったのではないかと考えられる。このような企業でも人間が経営し、人間が働いている以上何らかの人的資産への価値を形成されるだろう。しかし、企業の競争力を高めるためには人的資産への価値を見出すよりも物理的設備の規模拡大や効率化を図ったり、固定資産や金融資産に介在する利害関係者のコンフリクトを解消したりすることの方が重要であったと思われる。また、このように資本集約によって成り立っている企業は一旦大きなシェアを獲得してしまえば経営者の能力が企業価値に及ぼす影響も徐々に低下して来ることが自然である。結果として、経営者が莫大でかつ汎用性の高い物理的資源を管理下に持つ一方で自らの努力水準はさほど必要はないという状況にある時、経営者の私的便宜に対する株主のモニタリングは企業価値にとって少なくとも相対的に重要な役割を果たすだろう。

これに対して近年は労働集約型さらには知識集約型の企業が数多く存在している。人的資産が競争優位となっている企業においてエージェンシー理論の考え方やフリーキャッシュフロー仮説に基づく資本政策が妥当しないケースは今後も増えてくると思われる。株主には企業の所有権があることに変わりはない。ただし、企業の資産には株主李所有権を積極的に行使することが望ましい資産とそうでない資産が存在するという点が重要なのである。これまで人的資産として述べてきたものは、株主にとってコントロールすることが難しい資産もしくは株主にコントロールを任せてしまうと企業価値にとって望ましくない結果をもたらすと考えられる資産の総称である。一方で、無形資産がここでいう人的資産に全て含まれるとは限らない。

2013年4月26日 (金)

あるIR担当者の雑感(110)~IRツールとしての決算短信(3)「経営成績に関する分析」

「経営成績に関する分析」の項目について考えていきたいと思います。「当期の経営成績」は決算短信の文章による説名の最も代表的なところです。一般的に、決算短信の文章部分という、ここの説明を指していると思います。伝統的な書き方では“当期における我が国経済は…”で始まり、日経新聞や雑誌から一般論の総括的なコメントを拾ってきて並べて、好景気とか、不景気とか経済情勢の一般論をひとくさり述べて、自社の売上等の業績を前期比較であげて、あとは目立つ特記事項があれば、それを書いて当期純利益に至る、というものです。伝統的な経理が作成していて、IRに熱心でない会社の場合には1ページの半分にも満たない量で済んでしまっている例が見受けられます。これは極端な例で、お座なりなのがアリアリで、書かれていることも内容がないので、損益計算書を見ていれば足りることで読む必要もないものです。ただ、決算短信で書かなくてはいけないことになっているので、形式を整えているだけ、書いている側としては情報を出したくないという姿勢が見えます。20年以上前の決算短信は、どの会社でも、このようなものでした。だから、現在もこういう短信を作っている会社は20年前の意識とそれほど変わっていないと言えるかもしれません。

では、今現在では、この項目についてどう考えているかです。まず伝統的な出だしの“当期における我が国経済は…”で、新聞や雑誌の切り抜きのような一般的なコメントを必要としている人など、いないと思います。むしろ、邪魔、うるさい、そう思っている人が多いのではないでしょうか。株式投資をするような人で決算短信を読むような人なら、経済新聞、最低限新聞の経済欄に目を通すことくらいは日常に行っていることでしょうから、どこかで読んだようなことが短信にかれているのを読んでも何の収穫もないわけです。そういうものなら存在理由はない、ない方が親切で、むしろ、それを書かない企業の方に見識があるということになりはしないでしょうか。だから、この部分のあり方を考え直してみる方がいいのではないかと思います。

それは、経済環境というのは一人一人が感じたものを一般化したものといえます。とすれば、その一人一人に戻って、決算短信の主体である当の企業から見た経済情勢をここに書くという、言わば主観的な経済情勢の記述です。すなわち、一般に不景気な時でも業績をぐんぐん伸ばしている業界や企業もあるわけです。そういうところでは今の状況というのは厳しいのではなくて、むしろ歓迎すべき状況であることだってあるわけです。それをストレートに書いてしまうのです。これには異論が多いかもしれません。大手精密機器メーカーで長年IRの一線にいた方と話していたとき、それでは客観的でないし経済情勢の説明になっていない、と仰っていました。そういう異見もありますが、主観的な書き方をする理由を次にいくつか挙げてみます。件の異見のベテラン担当者の方には認めていただけませんでしたが。第一に、この項目の最終的な着地点である企業の業績まで一貫したストーリーを組み立てやすいこと、これは特に説明する必要はないと思います。第二に企業が当期に何をしたかという打ち手を説明する時にその打ち手の根拠となる企業の認識をこの時点で説明できてしまうこと(これについては後で詳しく説明します)、第三にその企業の市場環境が類推できること、つまり、企業が先ほど説明したように経済環境に対して主観的な認識をするという場合、自社と無関係にことについて認識することはないはずです(そういうことをするのは評論家とか学者という単なる観察者だけです)。企業は経済の真っ只中にいて、そこで日々苦闘しているわけですから、その企業が認識をするという場合、どうしてもその実感から離れることはできないし、自分の一番知悉しているところから認識していくはずです。つまり、その企業の事業が属している市場がどうかということです。そして、これは企業に投資をする人が知りたがっていることです。企業を取り巻く市場環境がどうなのか、それを当の企業がどうとらえているのか、ということに通じることのはずです。そして第四に、企業の姿勢の一端が表われることです。投資家か見て、企業が環境をポジティブに見ているのか、ネガティブに見ているのか、という企業の姿勢がわかります。そこからある程度企業のスタンスを類推する材料になります。そして、第五の点は理由にならないかもしれませんが、決算短信を読むような投資家は1社の短信だけを読むということはなく、数社の短信をまとめて読むと思います。その時、どこの企業の短信も最初のところは判で押したように同じようなことが書いてある、それを読まされる身になって考えてみて下さい「またか?!」と言いたくなりませんか。その時、個性的な見方をする企業か出てきてごらんなさい。「この会社は何か違うぞ!」というようなことになりませんか。些細なことかもしれませんが、そういうところから企業の印象がかたちづくられるものではないかと思います。企業によってはこの部分の記述は不要として、すでにこのようにことを書いていない企業もあります。前例を踏襲するというのではなくて、本当に必要な事項かを考えてみることは一度行ってみてもいいのではないかと思います。

企業によっては、この後“当社の取引先である…”と市場環境の説明をもう一段加えるケースもあります。とくにB to Bの企業にみられます。経済環境から自社の業績につなげるワンクッションのような機能を果たしているといえます。伝統的な短信では一般的な経済情勢の説明が客観的で形式的な枕詞のようなものだったのに対して、ここで市場環境を述べて、業績の説明につなげるというものだったと思います。この場合、自社を中心にして自社を先ず取り巻くのが市場でその市場を取り巻くのが経済環境というように同心円のような構造で考えて説明を記述するというのが一番筋が通ると思います。同心円ですから、先ほど述べたように中心が自社ということになれば、自社を中心に環境が回っているということで、書き方は主観的にならざるを得ません。ここで、留意点として考えられることを何点か上げたいと思います。第1点として、ここを詳しく書くのはいいことなのですが、専業メーカーのように単一の市場を相手にしている企業ならいいのですが、事業のセグメントを分けていて、そのセグメントが別々の市場を対象にしている場合、セグメントごとの説明のところで詳しく書くならば、ここでの説明は必要なくなります。その時の書き方です。それは、セグメントが並立している場合しメインのセグメントとその副次的なセグメントという場合としては書き方が違うし、この後のパラグラフの業績の書き方との関連も考慮して書くことになると思います。セグメントのところで詳しく書く場合には、一般的にはここでは自社が全体として市場環境をどう評価して認識しているかという総論的な書き方で後のパラグラフの前提としての機能を果たすのが無難ということになるでしょうか。第2点目として、この部分をあまり詳しく書きすぎるのもどうかと思います。書き過ぎというほど書く企業は珍しいのですが、後で説明しますが、短信のこの項目のメインの部分というのは、この後に続く企業の業績の説明なのです。この業績となったのには、企業がどのような施策を打ち、どのような企業努力をしたのか、というこがメインです。その前段であるこの部分は、その前提となる状況の説明という役割なのです。こういう環境だからこういう打ち手をとったというと企業の施策の理由が説明できてしまうわけです。例えば、こういう厳しい市場環境だったけれどそこで有効な施策を講じて企業努力で業績を向上させたということであれば、その努力の評価は普通の場合よりも高い評価を投資家から得られる可能性が高くなります。だから、このパラグラフはそういう前提のもとに書かれるものだということです。先ほど書きましたように市場環境は投資家も知りたいし、詳しく書くにこしたことはないのですが、市場環境を強調してしまうと往々にして、重要であるべき、この後のパラグラフの企業が何をしたのかが霞んでしまうことになりかねないのです。もっというと、業績が悪い時等はこの部分を強調して環境が悪かったからという書き方になってしまいがちなのです。それは一種の弁解に他なりません。一企業がいくら努力をしても限界があり、不況の波が押し寄せてきた時には、どんな施策を講じても、企業を存続させるのが精一杯で、いちいち何をやって何を失敗したなどと書くまでもない、という意見もあるでしょう。実際、不景気でも成長している企業もあるわけですから(と企業内部にいる人間が企業に対して厳しいことを言っているのは、変に見えます)、それには、企業内でこのような外からの視点に立ってものを言うことが可能なのがIR担当者なのであり、企業の外部の市場からみればそこで逃げない姿勢の企業は、IRがどうとか言う以前に経営の姿勢として評価されるし、施策が上手く行っていないことを説明できるということは、そのことを反省して将来に生かすことを考えている徴であると言えると思います。

そして、この項目のメインである、企業が何かをして結果として売上高や利益がこうだったというパラグラフです。極端なことをいえば、この部分が充実していれば、この前の部分は書かなくてもいいのです。実際にそのように書いている企業もあります。逆に、IRに消極的な企業では、この部分を一番明らかにしたくない部分です。だから、この部分をどのように書くかによって企業の姿勢によって差が出やすいとも言えるのです。だから、IR担当者の立場からいえば、ここで他社に差をつけたいと考えるのは当たり前のことです。投資家に、他の会社ではなくて、この会社に注目してもらうためには、この部分にこそ力を入れるべきなのです。とは言っても、この部分の書き方は難しい。私もいつも悩んでいます。悩んでいて、その答えを見つけ出せたかというと、未だに答えが見つからず試行錯誤、暗中模索です。その困難な理由として、企業が日常的に努力していることというのは日々の地道な努力の継続が中心です。実際には業績の要因に大きな部分を占めているのは経営者以下企業の末端に至るまで社員が日々の変わり映えしない地味な作業をコツコツとめげることなく続けてきたことなのです。それを投資家のような会社の外側にいる人に分ってもらうことは大変難しい。それを分ってもらうためには企業のことをよく理解してもらわなくてはならない。しかし、その説明に費やすスペースはないし、そんなことを長々と説明しても読んではもらえない。そして、こう言う地道な努力は長期にわたって営々と続けられるものです。それを毎回の短信に同じように書いていたら、事情をよく知らない人が読んでどのように思うでしょうか。同じことを繰り返していて進歩がない、などと思われてしまうのです。だから、このようなことの説明にスペースを割いている企業はほとんどありません。たいていの場合は、投資家受けする派手な?(こういう言い方をすると語弊があるでしょうが)短期的な経営施策が列記されています。例えば、どこどこの市場をターゲットに何とかという限定した製品を開発して短期集中で投下したとか、これに比べて現場と開発が一体となってコストダウンを追求したとかよりも、アピールしやすいと思われているようです。実際のところ、投資家でも後者よりも前者の方がイメージしやすいのは確かです。だから、書く方としては、後者の書き方を工夫するしかありません。これは、企業によって事情が異なるので一般的なこうすればいいとないので、各担当者が自分が考えなければならないことです。でも、それなら面白いでしょう。決算短信の後半の財務諸表は規格化が進んで、どんな企業でも何をやっていても一律に同じように強制的にパターンに従わされる、形を押し付けられるのに対して、ここは自分で考えて創意工夫で書けるわけです。ということは企業を問われていると同時に、それを書いている担当者の姿勢や力量も問われているわけです。つまり、担当者の腕の見せ所です。逆に本気でない人や実力がない人が書くと違いがハッキリ判ってしまうところです。ひとつの書き方は、前年度の短信を取り出して見てみると必ず「次期の見通し」を書いているはずです。作業として一番手間がかからないのは、その前年度の短信の「次期の見通し」を要約するか、そこで書かれていた施策の主なものや重要なものをピックアップして、その達成度や結果がどうだったかを、その原因の説明も交えて説明することです。そうすることで、継続してウォッチしている投資家がいれば、前年度に企業が単身で書いたことに対して、企業自らが結果を説明するという誠意、つまり自分の言ったことに対して責任を持っているということをアピールできることになります。それが毎期継続されるようならば、「次期の見通し」で書かれることに対して投資家の受け取り方がより真剣になると思います。また、それを書く側の企業も翌年に結果を報告しなければならないとすれば真剣に書くように自然となっていくでしょうから。一方、事業セグメントに分けて、セグメント別の説明を別に行っている場合には、ここでは企業全体としての経営戦略に関して書くことで、事業の具体的な施策に関してはセグメント別の説明のところで詳しく行うというやり方もあると思います。その際には、ここのところで総論的に全体として各セグメントの軽重の比重、つまり、どの事業が貢献して、どの事業が期待はずれだったとか、この事業は今期はもともと業績を求めないで将来への布石に専念したとか、セグメント別の説明ではできない鳥瞰的説明を抜かせません。そして、このパラグラフの最後に、異論がある人もいると思いますが、前に触れた大企業で長年IR実務をやっていた人などはすべきでなく、客観的な報告をすべきだといいます。私は、ここでの企業の業績の結果に対して、企業が自らの評価を説明すべきと考えています。つまり、今期の利益はいくらになったという結果に対して、企業は物足りなく思うのか、満足しているのかということです。簡単な事かもしれませんが、結果として出てきた数字に対して企業がどう考えるかということは、それまでのプロセスを考慮しているし、今後の方針を考える上で、その評価により方向性が変わってくるはずのものなので、ここでの説明の中で、直接的な表現でなくても、少なくともニュアンスで分かる程度のことは入れるべきだと思っています。例えば、単にこういう結果になりました、という書き方ではなくて、こういう努力を重ねたにも関わらずこのような結果でした、という書き方であれば、企業は結果に満足していないことが伝わるのではないか。残念ながらの一言を挿入できれば、いいのですが。

2013年4月25日 (木)

あるIR担当者の雑感(109)~IRツールとしての決算短信(2)決算短信の文章の書き方

企業が決算短信をIRのツールとして活用していくために、後半の財務諸表の規格化が進んだ部分はキッチリつくるとして、それ以外の、前半の定性的情報を中心に考えてみたいと思います。前回、決算短信の定性的情報として書くべきとされている項目をあげましたが、これらを書くことにより投資判断のもととなるような企業イメージを投資家に持ってもらうことができる可能性があります。また、ここにはない項目で、企業を知ってもらうには、これらの項目以外にビジネスモデルとか市場と競合の状況とかメーカーなら研究開発のこと、あるいは最近のトレンドとしてESG関係(環境、社会貢献、ガバナンス)の事項などがあると思います。これらの項目に無い事項を任意に入れるか、項目のなかで適宜内容を織り込んで記述するか、などの全体の構成を考えることが第一に必要なことと思います。

私の個人的な言い方でストーリーとか筋という言葉になるのですが、企業の理念から、誰に何をする会社かということからビジネスモデルや経営戦略が生まれ、そこで長所や短所が発生する。長所は企業の強みや競争力になっていくし、短所はリスクに繋がる。その短期的な結果が、今期の業績として現われてくる。その結果の反省の上に課題がうまり、それが戦略や方針にフィードバックされていく。抽象的すぎますが、このような筋を各企業でそれぞれ違うし、それを考え短信全体の記述を考える。そうすれば、短信の定性的な説明を読めば、一貫した企業のイメージを抱くことができることになります。最近、あるIRセミナーで講師の人が盛んにストーリーということを強調していました。そのセミナーというのは分かりやすいIR資料の作り方というもので、そこで講師が話しているストーリーというのは、説明のストーリーのことで、話の順番のようなことです。ここで私がいうストーリーはそれとは違って、切り口、視点のようなもの、もっというと企業の動きというのは様々な動きが同時併行し錯綜する複雑な様相を呈しています。それを、ある視点で切り取って、その企業の特徴や強みを浮かび上がらせる、というのは一つの解釈であり、それが実際の企業の自己認識になるようならば、ひとつのイデオロギーです。例えば、同じようにコピー機を扱う企業で、かつて富士ゼロックスはドキュメントカンパニーと自己規定して、文書に関わる会社と位置付け、リコーは光学をベースにした情報機器を取り扱うと自己規定したときに、両社の前に広がっていた市場が違っていったわけです。決算短信がそういうテーマで記述されていて、よめばそれが分かるようになっていれば、投資判断をする際の企業イメージとして、有益であると思います。

これは、何も決算短信に限った事ではなく、最近注目を集め始めている統合報告書のつくりも、一本の筋を通すというストーリーを作り、それをもとに報告書を組み立てていく作業が行われるようです。

実際に、そういう機能を短信が持てるようにするには、短信での技術の構成を考えるのが第一という、今回のスタートに戻ることになりました。この場合、短信を作成する前段階でストーリーができていることが、それについて考察、検討がされていることが、先ず第一です。それについては、浩瀚な「ストーリーとしての競争戦略」をはじめとして様々な書籍や研究がありますので、それらを参照して自社なりのことをやればいと思います。ここでは、短信のことを取り上げているため、このことはテーマとして重すぎるので、いつか別に考えてみたいと思います。

そこで短信としての作業について考えていくと、ここでは、ストーリーありきのパターンで考えてみます。(逆に短信の個別の記述を進めているうちに自然とストーリーが出来てしまった、というケースも考えられなくはないので、あまり固定して考えるのは良くないと思うので)構成として、第一に考えることは、統一性です。第二に、一貫性です。どちらも似たようなものですが、つまりは、ストーリーの前提があって、そこから派生するように、短信の項目が記述されていて、既述が統一されていることです。この場合は、用語の統一とか、細かいですが、そういうところまで含まれます。項目によってストーリーから外れたり、関係のないような記述になっていないということです。そして、第三に関連性です。それは短信の各項目がストーリーを軸に関連し合っていることです。短信での説明に関する全体の構成については簡単すぎると思われるかもしれませんが、決まったパターンはなく、企業それぞれのストーリーに即してつくられるものであると思います。

次回から、それぞれの項目について考えていきたいと思います。

2013年4月24日 (水)

あるIR担当者の雑感(108)~IRツールとしての決算短信

会社によってIR担当者は関係していないケースもあるかもしれませんが、決算短信は決算説明会でもアナリストや機関投資家とのミーティングでも大事な資料です。そして、会社のホームページやその他のデータベースになっているウェブサイトで閲覧できるため、会社のことを知りたいと思う投資家が真っ先に見る資料です。おそらく決算説明会資料などよりも閲覧される回数が多いものではないかと思います。その意味で、IRにとって最も大切な文書でありながら、実態としては、殆どの場合に経理が担当部署となって経理の責任のもとに作成されることから、IR担当者は全く関与しないか、関与しても部分的な範囲にとどまるのではないかと思います。だから、IR担当者の決算短信そのものに対する意識は、それほど強くないように見えます。どちらかと言えば、説明会資料は一生懸命作成するのに対して、決算短信は説明会で配布しなければならないので、配布しているだけという認識が強いのではないか思います。

しかし、あらためて決算短信を読んでみると、会社を知るために必要な情報が網羅されていて、実によくできた形式の文書であることが分かります。これをIR担当者が活用しないなんてもったいないです。活用したければ、その作成に積極的に関与してIRの要素を入れ込むべく努力していくことになるでしょう。

IR担当者が積極的に関与できるのは、決算短信の1ページ目であるサマリーをめくって、目次の次に来る定性的情報(文章による説明)のページです。そのあと後半の財務諸表や注記のページは経理本来の仕事で、ここは経理しかできませんから。前半の定性的情報の項目を並べて見てみると、

1.経営成績

(1)経営成績に関する分析 

a.当期の経営成績 

b.次期の見通し 

(2)財務状態に関する分析

(3)利益配分に関する基本方針及び当期・次期の配当

(4)事業等のリスク

2.企業集団の概況

3.経営方針

(1)会社の経営の基本方針

(2)目標とする経営指標

(3)中長期的な会社の経営戦略

(4)今後の対処すべき課題

どうです。これだけの項目が揃っていれば、会社について投資先として検討する際に、最低限必要なことは網羅されているでしょう。これを企業が上手く活用して、読む人に自社のことを理解してもらい、あわよくば投資したくなるようなメッセージを込めることも可能と思います。企業によってこの部分のボリュームがまったく違います。後半の財務諸表が規格化が進んでいるため、どの企業でも費やすページ数が同程度なのと対照的です。分量が多いから良いとは即断できませんが、この前半のページ数が多い企業はだいたいIRに熱心な企業と見て差し支えない。少なくとも、多くのページを費やして何事かの内容を載せるというのは労力を要するし、説明すべき、説明したい対象がある故ですから。

私の勤め先でも、定性的情報の記述に10ページを費やしていたことがありました。それなりに内容を充実させたつもりでしたが、その時には機関投資家とのミーティングの際などは、ファンドマネージャーが事前の下調べのためにネットで短信を閲覧して、その分量に驚くとともに、そこでひと通りのことが説明されていたので、ミーティングでは最初から突っ込んだ質疑応答が出来て、短時間で充実したミーティングができました。その時、一様にファンドマネージャーは、好感を持ってくれたようでした。その後、いろいろあって簡素な形態の決算短信に戻りましたが。

IR業界の常識でいえば、決算短信は制度的開示に位置付けられて、財務情報を開示するために制度化されている、言わば義務のようなものと位置付けられているようです。しかし、この定性的情報のラインアップをみてみれば、企業が独自に作成しているアニュアルレポート(これはIR担当部署で作っているところが多いと思います)の項目と重なるところが多いのではないかと思います。としたら、決算短信を制度的開示として位置付け、財務情報の開示という枠に止めてしまうのではなくて、投資判断の資料となる情報を積極的に発信できるツールとして活用することも可能ではないか、と思います。要は作成する企業の意欲と、全体を管理している証券取引所のやる気の問題です。

上場企業だけでなく証券取引所にもやる気云々を言ったのは、決算短信の使い勝手を証券取引所の側でも投資家フレンドリーにしていくことを本気で取り組んでいるように見えないことです。証券取引所は、決算短信を各企業に作成させ、ネット上で公開しているのはいいのですが、そのシステムが投資家にとって使いやすいものかということです。これは、単に決算短信を見るというにとどまらず、投資判断をするために決算短信を利用するという視点で、システムを作ろうとしたかということです。例えば、投資判断のために投資家がある企業の決算短信を見るという場合は、その企業単独で見るということもあるでしょうが、初めての企業の場合には、他の企業と比較しながら見るという場合もあります。また、投資先を探すのに決算短信を片っ端から見ていくということもあると思います。そういう時に、短信がアップされているネット上の短信の検索機能が大事になってくるはずです。また、複数の企業を比較しながら見たいということにもシステムとして対応されていません。かりに3社を比較してみたい場合には、3社それぞれの決算短信を探して、別々のウィンドウをあけて、ひとつひとつ見比べるという作業することになりますが、面倒くさいです。そういう時に、それぞれの短信のデータから必要なデータ、例えば売上高と営業利益だけをピックアップして一覧で3社比較できる、なんてことは検討もされていないのではないか、そこに投資家のことを本気で考えているとは思えないのです。証券取引所に関しては。

前置きが長くなりましたが、決算短信について具体的に考えていきたいと思います。

2013年4月23日 (火)

宮川壽夫「配当政策とコーポレート・ガバナンス~株主所有権の限界」(4)

企業価値式の議論は客観的にも合理性が高い。しかし、現実の世界はこの理論の通りにはなっていない。そこにコーポレート・ガバナンスの問題を議論する余地が存在している。

帰郷価値が将来キャッシュフローを割り引いた現在価値によって計算される以上、企業価値を拡大するためには、企業は事業に必要な投資金額とその事業から得られる予想フリーキャッシュフローの現在価値血を比較して現在価値が大きい事業のみに投資を行うということになる。現在価値から必要な投資額を差し引いたものをコーポレート・ファイナンス理論では純現在価値と呼んでいる。伝統的な経済学の理論では、企業は一旦様々なインプットさえすれば、後はひたすら財とサービスというアウトプットに変換して市場で販売を行う存在であるとみなされてきた。これは企業を単一の経済主体と見なし、企業が完全に合理的な行動を採ることが可能であるとの前提に基づいている。新古典派経済学の市場理論による企業を「完全合理的」に「利潤最大化」する単一の経済主体と単純化して捉えるもので、コーポレート・ガバナンスの問題はここでは生じない。しかし、実際には企業は所有と経営が分離し、様々な利害を持つ参加者の連合体であることから利潤最大化を行うことは不可能であり、企業行動は完全合理的ではない「限定合理性」である。すなわち人間は従来の経済学で仮定されてきたようなで完全合理的な経済人ではなく、人間の情報収集、処理、伝達能力は限定的であるため、限定された情報の中で意図的に合理的にしか行動できないと考えられるに至ったのである。さらに経営者が裁量可能な範囲に限定して利益を最大化するという経営者の「効用最大化」により株主の利益を犠牲にする可能性も指摘されている。このような仮定に立てば、従来の市場機能に関する理論にも限界があることになる。

企業を単一の経済主体とみなすのではなく、企業内部の複雑な組織制度の形成や発展に着目することが必要になってきた。それが組織の経済学といわれるものである。組織の経済学によって、限界ある情報と能力により完全に合理的な行動を採れない

企業は、経営者、株主、債権者、従業員、取引先などのステークホルダーによって構成される共同組織である。これらステークホルダーは別個の利害を持ちながら企業活動に参加し、それぞれの目的を達成する。このように企業を契約関係の集合体として理解する限り、企業を単一の経済主体とはみなさない。企業の一定の行動とは、これら経済主体がそれぞれの目的を持って行動した結果の均衡ということになる。エージェンシー理論では企業をこのように理解し、さらに各経済主体間の契約関係をエージェンシー関係として把握する。即ち、ある経済主体が自らの利益のために自分に代わって特定の業務を遂行するという契約を他の経済主体と締結しているとき両経済主体はエージェンシー関係にあるという。例えば、株主と経営者の間には契約関係が存在するとはいえ、通常エージェントである経営者に一定の自由裁量権が与えられているため経営者の採る行動の結果が、必ずしもプリンシパル(依頼者)である株主にとって常に望ましいものとは限らない。これは株主にとっては企業価値の低下と捉えられるものもある。このようにエージェンシー関係によって低下した企業価値を回復させるための方策に必要とするコストの全てをエージェンシーコストと定義している。

このようなエージェンシー理論では、企業価値の拡大について大きな鍵を握る経営者は株主と異なる利益を追求する独立した経済主体と解される。そりため経営者の行動を株主の利害と一致させ、企業価値最大化に向かわせる仕組みが必要となる。コーポレート・ガバナンスの目的はエージェンシーコストを如何に削減できるような仕組みを作るかということになる。エージェンシー理論では、経営者の行動を企業価値最大化に向かわせるため経済活動全体における株主の役割が重要である。そのため株主には企業の所有者として法的にも強い権限が与えられている。株主には経営者に対する自身の交渉力を高める選択肢を与え、経済全体の効率性を目指しているのである。

コーポレート・ガバナンスの目的は企業の所有者である株主の利益を最大化する仕組みを検討することにある。この場合の「所有」は法学で定義された意味合いとはやや異なる。経済学における所有権理論では所有権を財の物理的側面ではなく、財が持つ特性に着目する。そこから、所有権には、財の所有者には財を自由に使用する決定権を持たせる役割があるという考え方が生まれた。

では、株主は企業の何を所有しているのだろうか。株主は企業資産そのものを所有しているわけではない。株主が企業を所有しているというのは、資産そのものの所有権ではなく、企業に帰属する資産の使用についての決定を行う権利(残余コントロール権)と企業に発生する純収益を受け取る権利(残余請求権)の二つの権利によって裏付けられている。

しかし、株主は企業の所有権を持っているとしても、常にその権利を適切な形で行使することが可能かどうか、あるいは妥当かどうかの疑問がある。企業の資産といった場合、物的資産のみではなく、人的資産や知的資産などの目に見えない無形資産も含まれている。このような資産の使用方法を株主が決定するのは困難である。つまりは株主に企業の所有権があったとしても、現実的には株主がその権利を行使して企業を完全にコントロールすることは不可能な場合が多い。ただし、どのようなケースが可能で、どのようなケースが不可能かという取り決めが事前になされているわけではない。そのため株主と経営者との間には所有権の行使をめぐって様々なコンフリクトや外部性が生じるのである。両者は交渉を行う必要があるが、まず交渉にかかるコストが企業価値を毀損し、両者の交渉は必ずしも企業価値にとって効率的な意思決定には帰結しないことが多い。このようなプロセスによってコーポレート・ガバナンスの問題はさらに複雑化することになる。所有権理論を背景とすれば、企業の所有権を株主に完全に帰属させ、株主の支配力を強化するという方向性が必ずしもコーポレート・ガバナンス制度として効率的とは言えないことが明らかなのである。

一方、取引費用理論にとって重要な前提は、先の合理性に加えて特に機会主義という人間の行動特性である。機会主義はこれまで述べてきた個人効用最大化という概念に異なる視点をあてている。人間はしばしば自分の利益を実現するために意図的に他人の不利益を引き起こしたり、社会的規範を無視したりする。このような人間の自己利益追求の仮定を機会主義という。機会主義的な人間の行動が市場取引におけるコストとなり、本来市場が持つべき資源配分の場としての機能を他の組織が代替するという考え方が取引費用理論の骨子である。エージェンシー理論では企業を経営の束という概念で表現した。取引費用理論では、企業を価格メカニズムに取って代わる存在としている。つまり、市場はより中の資源を価格メカニズムによって配分する場として存在しているが、時として企業は市場と同様に資源配分を行うシステムとして機能するというのである。重要なことは、市場と企業という資源配分システムにはいずれもそれを利用するためも費用が掛かり、取引の都度いずれか費用が安い方のシステムが利用されると考え点である。市場における価格メカニズムを利用するためには個別に取引相手を探索する費用や個別に契約を締結する時の費用が掛かる。さらに契約を行った場合には、個別に相手を監視し、また個別に税金を支払うことも費用となる。このような費用を組織化することによって節約することが企業の存在理由である。もちろん企業を組織化し、経営者が従業員を配置することにも様々な費用が掛かる。そこで経営者は組織内で生じる費用を最小限に節約することを目的に企業の適正規模を調整する。このように、市場の取引費用と組織化する費用を比較しながら科ずれかを選択するため企業を「価格メカニズムのとって代わる」存在とし、取引費用の側面から企業の行動を観察しようとしたのが取引費用理論である。限定された合理性の仮定では人間には情報の収集、処理、伝達の能力に限界があるため、取引を行う場合に費用が生じることが説明できる。さらに機会主義的な人間行動を仮定すれば、限定合理的で機会主義的な人間同士が取引を行うためには、お互い相手に騙されないよう取引相手を調査しなければならないし、慎重な契約内容を取り決め、契約後も取引相手を監視しなければならない。これら一連の手間を取引費用発生のメカニズムとするところに取引費用理論の特徴がある。

2013年4月22日 (月)

宮川壽夫「配当政策とコーポレート・ガバナンス~株主所有権の限界」(3)

第2章 ファイナンス理論からのアプローチ

コーポレート・ファイナンス理論の立場からは、コーポレート・ガバナンスの問題が提起される必然性について単純明快な説明が可能である。コーポレート・ファイナンス理論における企業の目的は企業の所有者である株主の価値最大化であり、その目的達成のカギを握っているのが経営者である。経営者は株主から経営という役務の委託を受けているが、経営者は様々な理由から必ずしも株主の価値最大化を優先する行動を選択することができない。そこで、経営者を企業価値最大化に向かわせるための仕組みが必要となる。

企業は様々な異なる目的と利害を持った人々に取り巻かれている。一般的にステークホルダーと呼ばれ、どのステークホルダーも企業経営にとっては欠かせない存在であり、企業経営の成果を何らかの形で享受しているのがステークホルダーである。コーポレート・ガバナンスの問題は企業とステークホルダーの間に複雑な形で存在している。

私有財産制度は資本主義社会の根幹をなす制度の一つであって市場主義を実現する前提と言える。なぜこのような制度が必要なのだろう。

自由主義経済においては、誰もが所有する財を市場に持ち込み、取引を行うことができる。完全競争を前提とした市場では需要と供給を市場価格の変化によって調整し、やがて一致することによって財が交換される。市場は価格メカニズムを通じて、財を最も有効に活用できる経済主体に配分し、最終的には社会における財がすべての経済主体の効用を最大化する形で保有されている理想的な状態になる。それが市場主義型経済の目指している姿である。経済主体が財の効用を最大化する形で保有している状態というのは、自分にとって必要な財のみを市場から買ってきて不要な財は市場で売却してしまうことができるため、すべての人が必要なもの以外を保有していないという意味である。市場は経済主体を淘汰しながら最適な資源配分を行う。結果として、社会に存在する財はその効用を最大化できる人に効率的に帰属し、無駄な財は存在しない。かつ人は誰でも無駄な財を持たないという理想の姿が実現する。この状態のことを経済学ではパレート効率性と呼んでいる。

完全競争が実現する市場においては、どの財が自分にとって必要か不必要か、どのくらいの価格で売買すべきかという判断は各経済主体が瞬時に行うことが前提となる。したがって、どの財をどれくらいの価格で売買するかという判断の責任と財の瑕疵に関わるリスクはそれぞれの経済主体本人に帰属することになる。売買におけるリスクを帰属させる主体があらかじめ決められていなければ市場での取引自体が成立しない。

ある人は、人間が取り引きしようとしているは財そのものではなく財がもつ特性であり、財の特性に所有権があることを明らかにしている。このような所有権を理論的に説明することによって財がもつ不確実性いわば取引のリスクを負う人を財の所有者と規定していることが明確となる。つまり、「所有」とは取り引きの「リスクを負う人」であるという取り決めが存在するために市場が成立しているわけである。

さて、企業も市場で取引される対象であるから取引のリスクを帰属させる所有者が必要となる。結論を先んずれば企業のリスクを負うのは最終的な残余請求権を持つ株主のみであると考えられている。その結果、企業の所有権は株主に帰属する。株主とステークホルダーの立場は明確に異なる。企業の損益計算書を見てみても、株主への残余請求権に対して取引先への代金支払いや従業員の給与、債権者への利息といったものはそれぞれ契約によって決められており、利益を計算するための費用となっている。株主と株主以外のステークホルダーは明らかに立場が異なることが分かる。しかし、株主は投資家を想定しているので他の銘柄に投資を行うことによってリスクを分散することが可能である。また、株式を市場で売却さえすればいつでも株主の地位を他人に譲渡することができる。株主にはリスク分散の機会と退出のオプションが与えられており、他のステークホルダーに比較してリスク許容度が高いと言える。リスク許容度が高い経済主体にリスクを帰属させることは極めて経済合理性が高い。このことからも株主が企業の所有者であることの合理性を説くことができる。

本書は、企業の目的が所有者である株主の価値を最大化することにあるという厳然とした前提を出発点とする。株主は自分の利益を最大化する期待できる企業に投資を行う。そこから事業が開始される。投資を受けた経営者はプロジェクトを達成するために必要な従業員を雇うことになる。その企業が原材料調達するための取引先を開拓することになれば取引先も潤うことになる。生産設備を置く地域の自治体も潤う。得られた利益の一部は納税という形で政府が受け取ることになる。こうして株主が経営者に投資を行うことによって一国の経済成長が実現することになるのである。結局のところ企業が株主の利益を追求することは厚生経済と矛盾しない。これが資本主義の目指している仕組みである。この時、株主価値が拡大し、ステークホルダー全体が価値を共有するためには無能な人が経営者になってはならないし、怠惰な人が経営者であってはならない。また、株主には出資するに値する事業と経営者を見極める能力が求められるし、経営者の能力を最大限に引き出す必要がある。株主価値が唯一無二の絶対的概念であるかどうかは別としても、企業が組織全体として創出する経済的価値を少なくとももっとも反映しやすい指標であるということはできそうである。

現在、株主といった場合、親会社や取引先との株式持ち合い等を除けば金融機関や投資顧問会社等の機関投資家と個人投資家である。要するに一般個人の金融資産を運用している主体であって、年金や保険に加入したり、を金融商品を購入したりすることによって誰もが形を変えて無意識のうちに株主になっているとも言える。つまり、年金制度が充実した現代では日本でも米国並みにピープルズ・キャピタリゼーションが進んでいるとも言える。その中には一般勤労者の将来生活を担保する莫大な資金が現代における重要な実質株主なのである。そもそもステークホルダーという概念は企業と関わる経済主体を利害によって分類し、けづぃ活動におけるそれぞれの役割を表わした符号に過ぎない。株主に所有権があると考えることは各ステークホルダーを株主よりも下位に見ているということではないのである。ピープルズ・キャピタリズムの世界においては、ステークホルダーという分類の仕方に果たして意味があるのかどうかが疑わしい。

また、仮に株主の利益かステークホルダーの利益かという対比関係が存在するとすれば、それは企業がもたらす利益の配分において問題となってくるものである。コーポレート・ガバナンスの議論は企業がいかに効率的に経営され、社会への分配を最大化するかということを目的としているかステークホルダーが所有する権限や負うべき責任や受けるべき報酬をいかにして分配すべきかという議論は手段に過ぎず、コーポレート・ガバナンスの議論が目指す目的とは言えないのではないだろうか。従って株主のために経営を行っている企業は同時に各ステークホルダーのために経営を行っているのであって必ずしも両社が対比関係にあるわけではない。このことは株主上主義を主張しているのではない。企業は株主のために経営されるべきかステークホルダー全体のために経営すべきという二つの考え方は議論として必ずしも対立関係にないのではないかと考えているだけである。

また、株主価値の最大化は株式会社の目的であるとしても、顧客や従業員や取引先などステークホルダーの価値を創造することは当該目的を達成するための重要な手段である。株式会社が株主のために経営されているのか、ステークホルダー全体のために経営されているのかという問いかけそのものにあまり大きな意味はないように感じられるのである。

こうなると、企業の所有者である株主によって企業の統治が必要であるというコーポレート・ガバナンスの問題は一企業の問題にとどまらない重要性を帯びてきているのである。能力の低い人が経営者であったり、経営者が目的達成を怠ったり、あるいは株主が経営者への監視を怠るということは社会全体の損失を意味している。そこで、経営者が株主の価値を創造しているかどうかを測定するために客観的なモノサシが必要となる。それが株主価値もしくは企業価値という概念である。企業価値とは企業が将来獲得する予想フリーキャッシュフローを資本コストで現在価値に割引くことによって算出する。分子となるフリーキャッシュフローは株主・投資家が予測し、資本コストは資本の機会費用として株主・投資家が経営者に要求する。これがステークホルダーを含めた経済全体にとっては企業に求めるべき正当な収益の水準であり、同時に経営者にとっては課せられたハードルの高さということになっている。企業の競争優位も経営者の能力も優れた経営戦略も全ては企業価値によって具体的に反映される仕組みになっているのである。

2013年4月21日 (日)

宮川壽夫「配当政策とコーポレート・ガバナンス~株主所有権の限界」(2)

筆者は実務感覚として、これらの議論に対する疑問をあげる。一つ目の疑問は、果たして経営者はそれほど単純に自らの私的利益ばかり追い求めているのだろうかというものである。株主による規律のみではなく、かつての日本企業には何らかの自立や牽制といったものが存在していたのではないだろうか。別個の経済主体だからといってそもそも株主と経営者の立場を対等、同列に扱う前提にも疑問が残る。株主と経営者は仕組みの中で役割が分かれているが、その役割に求められる行動や能力は異なるように思う。

二つ目の疑問は、エージェンシー関係は、コストを発生されせる一方で何らかの効果を生むのではないかというものである。フリーキャッシュフロー仮説は、企業が必要以上に手元資金を保有してしまうと経営者がこれを私的利益に費消してしまい、企業価値の毀損を招いてしまうということを前提にしている。しかし、この主張は、結局のところプリンシパルの利益最大化のためにエージェントの裁量を極力奪うという帰結しか生まない。筆者にはエージェンシー関係の負の効果ばかりが強調されているように思えるのである。そもそも人は何故人はコストのかかるエージェンシー関係をわざわざ締結するのだろうか。プリンシパルとエージェントが結合することによって生じる正の効果も存在する筈である。エージェンシーコストの発生を犠牲にしつつも株主が特定の経営者にエージェントとして経営を委託する動機という問題はこれまでの実証研究においてあまり使われてこなかった。仮に株主と経営者の役割が単純な仕組みとして分かれているとして、両者の関係には少なくとも分業によるリスクシェアリングの効果を認めることができるだろう。エージェンシー関係を締結することのそもそもの動機に着目することが有効であると考える。

三つ目の疑問は、現代の複雑な企業経営においてエージェンシー問題がそのまま応用できるのかというものである。株式会社の運営が巨額な資金調達を可能にした資本家から巨大な資産をコントロール下に置く経営者の行動に委ねられることになったということから、資本依存から経営者依存の流れを説明したが、もうひとつの問題は経営者のコントロール下に置かれている資産の性質である。技術の高度化が進んだ現代の企業においては物的資産より人的資産すなわち経営者の能力や情報、従業員の技術力や知識、ノウハウ、ネットワーク等の企業の競争力となっていることが多い。しかも、これらの人的資産は相互依存しており、切り離して企業価値を拡大するためには人的資産による努力インセンティブが必要であり、さらには人的資産の価値を客観的に評価することは困難である。このような複雑な経営を株主が正確にモニタリングすること自体が困難である。さらに経営者の機会主義的行動ばかりに焦点を当てたモニタリングの強化は人的資産のインセンティブを低下させてしまい、必ずしも企業価値拡大に直結しない可能性もある。

 

本書の実証研究を通して問いかけたいことは、株主はどこまで強い支配力を行使することが合理的なのかという難題にある。この問いに対してディジットな解答が出たわけではないが、次のような意義をあげる。第一の意義は、エージェンシー関係の負の側面(エージェンシーコスト)を抑制する手段としての配当という一面的な従来の配当観から、エージェンシー関係の便益面(結合効果)をも維持・促進する手段としての配当という両義的な配当観(すなわたコストと便益の双方の考慮)に基づくことで企業行動のより現実的な分析を可能にしたことである。第二に、エージェンシー関係を締結することの動機付けの背景を所有権理論に求め、株主の所有権行使に馴染まないケースが存在することを実証的に明らかにしたことである。第三に、安定配当の合理性に対して科学的根拠を提示したことである。第四に、配当政策を単に株主の効用を満たす還元策であるという側面ではなく他の財務的意思決定と深く関与する企業の総合的意思決定として捉え、企業の財務的特性や事業特性との関連に着目した点である。最後に、大きな結論として株主の支配権を強化することが必ずしも合理的ではないとの考え方を科学的根拠として示したことに意義がある。そのために経営者の経営能力や企業特化した特殊性資産という概念を持ち出し、企業の人的資産が配当政策とコーポレート・ガバナンスに与える影響を実証した。企業の行動は理論整合的で一貫性を持つべきである。筆者はそのような行動を示すことが市場からの信頼を得ると考えている。

2013年4月20日 (土)

宮川壽夫「配当政策とコーポレート・ガバナンス~株主所有権の限界」(1)

第1章 問題提起と仮説の概要

多くの場合、株主になると期末に配当という形で企業から一定額の現金を受け取ることができる。配当は自己株式取得と並ぶ企業による株主への利益還元の手法である。配当支払や自己株式取得を行うための資金は、企業が獲得した利益と外部から調達した資金の和から投資差し引いた残余が源泉となる。企業がどれくらいの配当を支払わなければならないか、あるいは配当を支払うかどうかについては何か決まりごとがあるわけではない。ただ、企業内の現金を社外に流出するのであるから、企業活動を継続維持するためにどの程度の資金を企業内部に留保するか、新たな成長のためにどの程度の資金を企業内部に留保するか、新たな成長のためにどの程度の投資を新規に行うか、そして株主への当期の利益配分としてどの程度を還元するか等、企業は多様な要素を検討しなければならない。そのように下す配当と自己株式取得の意思決定をペイアウト政策あるいは代表して単に配当政策と呼んでいる。

しかし、考えてみると配当という制度には謎が多い。そもそもなぜ特定の現金を期中に株主に支払う必要があるのだろうか。投資の回収を主にキャピタルゲインとして享受することが可能な投資家にとって、配当として払われる現金には一体どのような意味があるのだろう。果たして高い配当は投資家にとって本当に喜ばしいことなのだろうか。配当が高ければそれだけ企業価値が高まるかと問われれば、コーポレート・ガバナンス論の実証研究においてはいまだその証拠は明確にはつかめていないというところが現実なのである。

にもかかわらず、投資家は一見高い配当を好むようではある。しかし、考えてみてほしい。高い配当といったところで投資金額に占める配当額など通常は2%にも満たない。にもかかわらず多くの株主・投資家が投資先企業の配当政策に高い関心を示している。つまり、配当が企業価値に与える影響には配当が株主にもたらすキャッシャフローの多寡そのもの以外に何か別の意義があると考えた方が自然なのである。

そこで経営者の行動に注目する必要がある。経営者は彼が経営者としての地位を維持する以上、企業価値の最大化という不確実性の高い要求と重圧を課せられることになる。仮に配当政策が企業価値にわずかでも営業すると考えるならば経営者は自らの目的と株主の要求をバランスさせ、企業価値の最大化を目指すために配当政策に対して何らかの積極的な機能を見出すだろう。

本書では日本企業の配当政策を分析対象としている。日本企業の有配企業比率は欧米企業に比べて圧倒的に高い。日本企業にとって配当には何らかの特別な意味が存在するようである。

 

コーポレート・ガバナンスは日本語で「企業統治」と訳されることが一般的である。「統治」には特定の統治者と統治される多数の被統治者の存在が前提とされている。しかも統治者には一定の権利を背景として被統治者の集団を秩序付ける目的が与えられているとの印象がある。古典的な経済学において企業統治の問題は起こらない。なぜなら企業内に複数の人間の意思決定が混在するとは考えられないからである。しかし、企業に対する古典的な考え方には限界がある。現実には企業は経営者を含め、株主、債権者、従業員、取引先、顧客など様々な異なる利害を持つ人々すなわちステークホルダーが各自の目的を持って集まることで成り立っている。ここに一つの解釈を与えたのがエージェンシー理論である。企業という単一の経済主体が行動しているのではなく、株主と経営者を利害が異なる別個の経済主体と考え、企業の行動は両者が契約関係に基づいて行動した結果であるとして理解するところにエージェンシー理論の特徴がある。企業はステークホルダーそれぞれが締結している「契約の束」によって成り立っているとしている。では、企業は複数のステークホルダーによる契約の束であるとして、一体誰の利害を優先するのか、すなわち「誰のために統治が必要なのか」という前提を共有する必要がある。

本書では企業の所有権は株主に帰属し、企業の目的は所有者である株主の価値最大化にあることを動かせない前提としている。ただし、株主価値最大化の前提は他のステークホルダーを株主より下位に見たり、他のステークホルダーの利害を無視したりすることではない。株式会社における所有権とその目的を所与のルールとしてみなすという意味である。そもそも株主というのは特定の人間を指しているのではなく企業という仕組みを成り立たせるための機能を意味しているに過ぎない。ステークホルダーのうち誰の利益を優先するかと言っても、人は従業員であるとともに株主でもあり、株主であるとともに顧客や取引先でもある。また、機関投資家はあくまでも受託者であって勤労者の将来の生活を保証する年金からの委託によって株主なっている。株主や従業員や取引先といったそれぞれの存在は株式会社の仕組みを前提とした機能に過ぎす、特定することに大きな意味はない。「企業は株主のものかどうか」という議論に、あまり大きな意味はなく、「株主は企業の何をどのように所有しているのか」という問題に視点を置くべきである。

エージェンシー関係が存在するために無駄なコストすなわちエージェンシーコストが発生していると考えられている。エージェンシーコストが存在するために本来の企業価値は常に毀損されているという。そこで、エージェンシーコストを削減して企業価値を拡大するための方策として、コーポレートファイナンスでは、エージェンシーコストの大半を占めるものとしてモニタリングコストが経調されてきた。このコストはエージェントである経営者がプリンシパルである株主の利益に反する勝手な行動をとらないよう監視(モニタリング)するために支払われるものである。一方、株主と経営者の利害を一致させるために経営者にインセンティブを与え、経営者の行動が株主利益に向かうように自己統治させる方向も検討されてきた。コーポレート・ガバナンスの仕組みもこの二つの観点から議論されている。

これに対してフリーキャッシュフロー仮説は企業の投資政策と財務政策に着目してエージェンシーコストの解決策を提示した現実的な理論である。企業の余剰の現金を配当や自己株取得によってペイアウトさせ、経営者の自由な行動を制限するというアイディアである。経営者は配当を支払うことによって株主からのモニタリングを逃れることが可能になり、株主にとっては増配はモニタリングの成果である。すなわち、配当とはモニタリングの代替手段として理解することができる。

2013年4月19日 (金)

濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(8)

現代において宗教が「生きる意味」を与えるという時、そこにカルト的いかがわしさの問題は避けられない。大田俊寛は、オウムが単なるカルトというよりも、近代社会が必然的に生み出した存在だとする。近代社会は、「神」のような超越者を想定することなく、自由な個人を前提とする。近代的主体は、神にすがることなく自己判断できる人間のことだ。しかし当然のことながらそれに耐えられない者たちが現われてくる。だから近代社会は、必然的に反-近代的な思想を生み出す。それがロマン主義、全体主義、原理主義である。オウム真理教は、これらの反-近代的志向のアマルガムとしてある。これに対してAKBは筆者の考えでは、オウムを乗り越えた、資本主義と結託した宗教のようなものと捉えられる。オウムとコギャルを巧妙に合成した。いうなればAKBとは、いわば制服を着た少女を「推す」という関係性を根拠とした宗教である。狭い「現場」で起きている、世の中から奇妙がられているカルト現象という意味ではAKBはオウムのようでもある。AKBは制服を着て踊るアイドルなのだから、コギャルそのもののようだ。ファンにお金で投票させて夢を叶えるというのは、ある種の「マイルドな援助交際」といえなくもない。オウムとコギャルというモンスターを、むしろ資本主義の力も借りて統合し、国民的現象にしてしまったのがAKBではないのか。

私の考えでは、現代社会が「大きな物語」を失い超越者を失っている社会であるという時、そり処方箋は、「サリンを捲かないオウム」を生み出すしかないと考えている。生きる目的も、この世界が存在する意味もないままで、人は生きられない。しかしそれがオウムのように反社会的なものであってはまずい。AKBのように、「近接性」と「偶然性」という何一つ超越的な要素がないものを通じてでも、生きる意味とこの世界が存在する意味をつくり出すしかない。「誰かのために」生きる。それを少なからず提供している時点で、AKBは立派な宗教である。また別の角度からこういうこともできる。超越的存在の摩耗した現代社会では「あえてくだらないものとわかりつつもハマる」というアイロニカルな没入しかありえない。それはオウムに限らず、子供向けのアニメや漫画に大人になってもハマり続けるオタク達も同じことだ。しかし、AKBのオタク達はこうした心理からは程遠い。AKBにはアイロニカルな没入という感覚はない。ただ押しメンが好きなだけだ。どこまでも世俗的なつきあいに近いようなものがベースとなって、AKBに没入する動機付けが生まれている。それはどこまでもベタな次元の没入である。だから極端に反社会的な発想に行き着きようもない。

 

誰かのために生きること。しかしAKBの宗教としてのステージはそこにとどまらない。総選挙があるからだ。そして総選挙を通じて、あっちゃんはアンチからの攻撃に耐え、ある種の自己犠牲をAKBのために果たした。「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」AKBというものがもし宗教であるとすれば、それはこのあっちゃんという超越的特異点がそれを完成させたといってもよい。「推す」よりもさらに強い信仰の力。あっちゃんにはそれがある。私はまだ<世界宗教>という観点から見れば大変に規模の小さなAKBの総選挙も、今後も続いていけば、世界を一つにする可能性があると信じている。劇場公演を見て、握手会に足を運び、総選挙で投票する。こうしたメンとヲタの間の関係の絶対性のゲームを回し続けることで、あっちゃんのような小さなキリスト的存在をリザレクションさせるシステムとして、AKBはキリスト教を超える可能性がある。それはいってみれば、一神教への信仰による世界平和とは全く違う道である。AKBのファンにとって、あくまで信仰/推しの対象は一人一人のメンバーであり、それは異なっている。しかし総選挙の場を通じて、年に一度超越者を、センターを選ぶ。その瞬間、AKBという共同体はまさに一つになる。こうなれば民主的に超越者を決める多神教。それがAKBという<宗教>なのである。「推しメン」は偶然性で決まるが、「センター」は必然性で決まる。

 

私はこの本の中で様々なことを「論じ」てきた。しかし、それよりも何よりも、実際に「すること」、つまり現場に行きメンバーを「推す」ことに勝るものはないとも痛感している。「存在することの静かな感動を分かち合うだけでいい」まさにこれほどAKBを祝福する言葉があるだろうか。AKBにおいては、「思想を実践する」などという倒錯的な形とは違って、「論じることが、すること」でもあるという形で緊密にくっついているということだ。私はAKBについてみんなもっと論じるべきだと思う。たかがアイドルごときで、いやたかがアイドルだからこそ、人々は言葉の不毛な争いから逃れられない。リベラルではあり得ない。しかし、そうでしかありえない。そのことこそが、まさに「自分にとってものの見え方が、周りの人々にとってのものの見方と、どうしようもなくズレている」ということを否応なく知らしめるからだ。その矛盾をたしかめながら積分していく方法こそが、AKBという巨大な<宗教>なのだから。

 

 

AKBという現代に特徴的に見える現象を分析しているのだけれど、私には現在の社会で伝統的と思われている日本の組織の特徴の分析とダブって見える。たとえば、空虚のような、しかし、必然性がある前田敦子というセンターを超越者のように祀り上げるのは、停滞する日本の有名企業が無能な経営者を社長として空虚なリーダーに祀り上げ、個々の事業部がそれぞれの「推しメン」を好き勝手に追求し、全体の調和がとれてしまっているように見える。また、結局、AKBメンバーの個性というのは横並びのメンバー間の差異でしかなく、取り換えの利くファジーなパーツのようで、これは大企業で働く社員の存在に重なる。また、近接性という疑似的な直接的コミュニケーションの強調は「無縁社会」というテレビのメッセージに敏感に反応し、「三丁目の夕日」にありもしない原風景のようなノスタルジー幻想を抱いてしまう動きと妙に適合的ではないか。だから私は、これを読んで筆者は社会の停滞を生み出している既存の組織と同じような特徴を持っているAKBだけをなぜ積極的に取り上げようとしているのかを分析してもらいたいとおもった。それこそが筆者が最も語りたかったことで、実は、この本では、その外堀だけが書かれていて肝心なことが何も書かれていない。そして、その外堀だけを読んで時点では筆者の議論には説得力がない、という空回りをしている。

濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(7)

第4章 AKBは世界宗教たりえるか

AKBは普通に考えれば宗教ではない。当然である。それはアイドルに過ぎない。たしかに、たかがアイドルのようなものに、ある一定量の人々が深く没入しているという点で言えば、ある種のカルトや新興宗教に似ているところがなくもない。しかし、私が本書を通じて言いたいことは、そうした印象論のレベルでAKBが宗教に似ているということではない。いや、印象論も間違いではない。ひっくるめて、AKBは何か宗教のようなものとしかいいようがないコミュニケーション・システムなのだ。それは世界観をまるごと書き換えてしまうようなものとしてある。

AKBの特徴は第一に「近接性」である。会いに行けるアイドルをコンセプトにするAKBにおいては、劇場や握手会といった場で、極めて近い距離でメンバーとコミュニケートすることができる。たったそれだけのことである。この「近接性」こそが現代における救済としての意味を持ちうる。現代社会の隅々まで行き届いている資本主義は、人々を疎外するからだ。それはそして難しいことではない。お金というものが絡んだ瞬間、本当のコミュニケーションは失われ、お金だけで判断されるドライな関係性しか産まなくなる。誰もが直感的に理解していることである。そうした疎外は出来ればないに越したことはない。だが市場経済は極めて便利だし、だから地球全体を覆っている。ここからの丸ごとの救済を志向したのが、かつてのマルクス主義であった。だが、AKBは違う。AKBの特徴は、あくまでCD販売を主としたアイドルグループとして徹頭徹尾資本主義に乗っかった「商品」でありながら、近接して会うことのできる権利を、メンバーとファンとの間で過形成を築くことのできる権利を、販売している。それは見ようによっては、本当の人間と人間の関係性からの疎外にしか見えないだろう。しかしそれは違うのだ。AKBでなければ生まれない関係性があるのだ。劇場や握手会といった場で、日々、AKBのメンバーとファンの間では、無数の小さな関係性が生み出され続けている。いま、AKBのような関係性そのものを商品として売るアイドルが出てきたのだ。いわば資本主義を批判するのではなくパックする形で、疎外を近接に置き換えていく宗教的装置。それがAKBなのである。

AKBの特徴は第二に「偶然性」である。劇場抽選、入場順抽選、コンサートチケット抽選展。AKBにハマるということは、偶然性に多くの部分を左右されることを意味する。もちろん推しメンを誰にするかは自由だ。しかし近接性あふれるAKBの現場においては、偶然性がいたずらをする。ハーバーマスによれば、資本主義のようなシステムは人々を疎外する。生活世界、つまり近接した距離における、人と人とが向き合った打算のない、対等でフラットな関係性こそ確保しようとしなければならないと。ハーバーマスはそれを開かれた理性的討議のルールという形で確保しようとした。しかしAKBは違う。劇場である。討議ではなくレスのようなコミュニケーションを通じて、人々の間に「生活世界」を出来る限り確率的に分配すること。それは認知資本主義における、コミュニケーションを平等に分配するというリベラリズムの実践なのだ。この「偶然性」こそが現代における救済としての意味を持ちうる。現代社会の特質はリスク社会にあるからだ。現代社会は高度に発達した科学技術とグローバル経済資本によって、常に強大なリスクを抱えるようになった。そしてそのリスクは個々の人々がばらばらに自己決定した上で引き受けるしかなくなる。こうして放射能のような確率論的リスクは、人々をバラバラにしてしまう。もちろんAKBは、こうしたリスク社会や再帰的近代の問題を正面から解決するものでは当然ありえない。むき出しの「偶然性」に身を晒すとはどういうことか。それは劇場におけるBINGOのような偶然性に身をゆだねて、推しメンに導かれて、「誰かのために」生きることだ。それは未来を予測したり、過去を振り返ると言った、普通の人間であれば当たり前に持っている時間の感覚を無化することである。ただ目の前にある「いま・ここ」を全力で生きるということ。これである。

では果たして何がAKBを特異な宗教たらしめているのか。それが「推す」ということである。推しメンのために、生きるということだ。AKBにおける一つ一つの「現場」は、「近接性」と「偶然性」を掛け合わせた刹那的空間に過ぎないかもしれない。しかしそれを入口のきっかけに、「推す」ということ。AKBの少女たちは、結局のところはアイドルである。つまり商品である。だから、彼女たちの「関係性」を買うという形でしか、彼女たちアイドルの存在を「推し」支えることはできないのだ。基本的に。AKBという宗教において、私達はメンバーの誰かを「推す」ために生きている。たまたま偶然出会った少女たちに、そこまで思い入れることができるということ。この時点で、もはやAKBは宗教というほかない。それは神が失われたこの社会において、端的に生きる意味を「近接性」と「偶然性」のもとで与えてくれるのだ。

2013年4月17日 (水)

濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(6)

第3章 人はなぜ人を「推す」のか

あっちゃんすでにAKBを卒業したが、AKBというシステムは続いて行く。今後AKBは、あっちゃんのような小さきキリスト的存在をリザレクションさせるシステムしていくだろう。AKBの宗教的システムとしての真価は、あっちゃんが卒業した今こそ問われている。そのキーワードとなるのが、「偶然性」である。AKBにおける偶然性は、前章で述べた「近接性」と並び、AKBという宗教的システムの柱となる要素である。そしてそれは、従来の宗教とは全く異なる宗教的機能を有している。本来宗教は「超越性」を志向する。現世とは遠く離れた「ここではないどこか」を志向する。この世界そのものを超えた超越者=神を信仰する。しかしAKBはそうではない。徹底して、いま・ここにある、目の前のメンバーとの関係性だけが絶対である。つまりAKBは超越性なき近接性のみを貫いた宗教的システムなのである。これと同じことが、AKBにおける「偶然性」についても言える。ここで言う「偶然性」とは、死・不運・災害といったネガティブな事柄を指している。この世界においては、なぜかどうしようもなく訪れてしまう不幸がある。その不幸がなぜ自分にもたらせるのか。なぜ他の誰かではなく、たまたま、この自分なのか。別ようでもあり得たという不確実性。これが偶然性である。そして人間は、むきだしの偶然性には耐えられない。そこで人間がすがるのが宗教である。例えば神のような超越者を持つ出し、これは予め神が決めた運命なのだと理解すれば、「偶然」の不幸が突きつける「なぜ?」からは逃れられる。宗教は偶然を必然に置き換えることで受け入れ可能にするメカニズムとしてある。では、AKBの場合はどうか、このように見てきたような宗教のあり方とは全く異なる。AKBにおいては、「偶然性」は受け入れ可能な形で飼い馴らされるのではない。むしろAKBという宗教的システムにおいては、端的な偶然性がむき出しになって宗教的体験をもたらすのだ。偶然性こそが、AKBにおいては推しメンとの関係性を決定づける。関係の絶対性としてのAKBにおいては、偶然性こそがメンとヲタの関係性を決定づける最大のファクターとなる。筆者は、メンバーとの出会いは一目ぼれのようだという、そこに「偶然性」が作用している。

AKBにハマるきっかけというのは、劇場でのメンとのレスがもたらす一目惚れのように、極めて刹那的な瞬間からはじまる。それは教室での恋のはじまりとさして変わることのない、ごくありふれた「恋」の感情にすぎない。普通の恋愛であれば、こうした些細な衝動から入って、愛という永遠の関係へと昇華していくことが夢見られる。しかしAKBはそうではない。そこで夢見られるのは、自分が恋している/推しているメンバーの人生の成功である。そこでは、メンバーへの愛情が投票という疑似政治的な行為に置き換えられる。はじめは劇場のような場所で、「偶然性」の作用に誘われるままに一目惚れの経験をする。するとCDを買って握手会に行くようになる。一目惚れした相手だ、会いたいと思うのは自然なことだ。そしてどんどんそのメンバーと親密になりたいと思って、あれこれ考えるのも自然なプロセスだ。そうして握手会に通い詰めているうちに、どんどんメンバーとの関係性は親密になる。さらにその子のパフォーマンスを追いかけて見ているうちに、「成長を見守る」という感覚が芽生えていく。そしてそのメンバーが抱いている夢も知るようになる。ファンとしては、その子の夢を叶えたいと思うようになる。それを叶えてあげるためにファンができる手段は何か。その一つが、選抜総選挙での投票である。

このようなアイドルを愛するということには、普通の恋愛と比べれば、なんの見返りもない無駄な行為である。しかしそうではないのだ。AKBはたしかに疑似恋愛である。それはアイドルという形態をとっている以上、むしろもっとも主要な要素と言ってもいい。だが見方を変えれば、それはかつての宗教的性格を強く有していた時代の恋愛に、先祖返りしているといっても過言ではない。もともと西欧で恋愛(ロマンチックラブ)が始まった背景には、キリスト教的な神への愛をベースに、貴婦人への情熱的に愛を訴える、というものがあった。階級が異なる貴婦人だから、本当は自分と恋愛などしてはいけない対象。そんな恋愛不可能な相手だからこそ、ますます自分の衝動は燃え上がる。自分の理性では抑えられない情熱が湧きあがってしまう。それがロマンチックラブというものであった。しかし、残念ながら、高度にコミュニケーション手段が発達した現代情報社会において、そうした「不可能な愛」に燃え上がる等ということは、なかなか誰にもできることではない。そこに現われたのがAKBである。それはひとことでいえば、ゲーム感覚で気軽に参加するにも拘らず、いつのまにか「不可能な愛」のようなロマンチックラブの理念に限りなく近い経験を得ることができる、極めてきとくなシステムである。もちろんそこでは、AKBのメンバーと本当に恋愛をすることはできない。しかしそれは言い換えれば、AKBにおいては、まさに不可能な愛が大観できてしまうということでもある。

AKBは疑似恋愛である。しかしAKBのメンバーを「推す」ということは、決して恋愛感情だけに還元されるわけではない。AKBのメンバーを推すということは、AKBの子コンセプト「成長を見守れるアイドル」にある通り、成長を見守るということの喜びでもあるからだ。それは有体に言えば、子供の成長を見守る親心に近い。つまりAKBは、疑似的な家族愛に近いものすら提供してしまうのだ。成長を見守る愉悦。それはほとんど人間にとって、動物的にインストールされている快楽なのだろう。人間は誰しも未熟な存在として生まれる。特に人間は他の動物に比べ、独り立ちするまでの期間が長い。だから人間は未熟な存在を見守らなければならない。そのために未熟な人間を見守ることに本能的に喜ぶような感情を進化させてきたのだろう。それは本来であれば家族つまり自分の子ども達や親族に向けられる感情だった。しかしAKBは、近接性と偶然性の元に、本来であれば血のつながった存在に抱く感情を、「推しメン」である未熟な少女へと差し向ける。

2013年4月16日 (火)

濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(5)

これは資本主義を考えるうえでも重要な示唆を与える。資本主義の特徴は、今も昔も、マルクスが言ったように疎外と搾取である。AKBにおいてもこの構図は厳然と存在する。夢を見る少女たちの性的魅力を搾取し、運営と呼ばれ大人たちが安価な労働対価で働かせて、CDなりを売りさばく。恋愛弱者のヲタクという消費者に、アイドルの少女たちに疑似恋愛をさせてあの手この手で金を巻き取る。たかがアイドルでしかないAKBにおいては、どれだけそこに「愛」があると言っても、所詮は疑似恋愛的なものにとどまる以上、メンもヲタも、「本当の愛」からは疎外されてしまっている。それは否定しようのない構図である。しかしこれまで何度も見て来たように、AKBのシステムの特徴は近接性と、そこで生み出される関係の相補性にある。だからそれは、資本主義がもたらす疎外からは半分だけ遠いのだ。AKBはCDという商品に「会いに行ける」という近接する権利を添付している。資本主義的商品を通じて、本来ならば疎外しているはずのメンとヲタを近接させ、そこに絆や愛を育むという逆説。吉本は「関係の絶対性」を資本主義を打破するためのマルクス主義への加担に結び付けて解釈したが、むしろ資本主義そのものとダイレクトに結びつけたAKBこそが、「関係の絶対性」のポテンシャルを放ちうるのである。

AKBにおいては、ヲタの側も「誰かのために」つまり推しメンのために「利他性」を働かせる。だからそれは搾取とは言い切れない。いや正確に言えば、搾取と贈与が緊密なまでに結びついてしまっている。その「贈与の一撃」があるからこそ、メンバーたちは、総選挙の舞台でマジの言葉を吐き出すしかない。そしてそれにヲタの側は感染する。しかしそれは「利他性」といっても、「隣人愛」とは程遠い、ひたすらに自分の好みの相手だけに絞られた、えこひいき丸出しの、極めてエゴイスティックな行為でもある。これは利他性や贈与の観点から見ても興味深い問題を含んでいる。贈与は根源的なパラドックスを抱えている。なぜなら純粋に「誰かのために」行うボランタリーな行動というのはあり得ないからだ。贈与は必ず相手に負い目を与える。だから見返りをパフォーマティブに求めてしまう。つまり、同余は常にすでに「偽善」に見えてしまう可能性を孕む。あるいは何かに利用されてしまっているといったことがありうる。人間と人間の社会的な関係あるいはコミュニケーションが時間的なズレをはらむ限り、純粋なる贈与はあり得ない。これは言い換えれば、純粋なるコミュニケーションというものはあり得ず、なんらかのシステムに利用されてしまうと言い換えてもよい。だから贈与は「最初の一撃」でしかありえない。それをなしうるのがキリストのような超越的身体だった。しかし、AKBが行っているのは、むしろ贈与の手段をシステマチックに細分化し、握手券や投票券といった商品のオマケとして添付し、ばらまくというやり方だ、そこにはどう見ても搾取しかなく、贈与など這い込む余地が無いように見える。しかしAKBにおいては近接的なコミュニケーションの場がある。だからそれは搾取とは言い切れない、メンとヲタの間の絆を、いや愛を否応なく生み出してしまうのだ。

以上の考察を通じて私が言いたいのは、AKBにおいてアイドルは「二つの身体」に引き裂かれているということである。AKBのアイドルたちは、リアルの現場では近接性において承認される。しかしネット上では匿名性においてアンチに真っ向から叩かれる。この二つの矛盾を止揚し、AKB内における序列を定めるのが総選挙である。近接的承認に晒されるリアルの身体と、匿名的批判に晒されるネットの身体。それはレオニード・カントロヴィチの有名な言葉「王の二つの身体」をもじれば、情報社会における「アイドルの二つの身体」ということができる。カントロヴィチが言ったことは、中世ヨーロッパにおいて王は、「自然的身体」と「政治的身体」という二つの身体を持っているということだった。前者の「自然的身体」は、いわゆる人間としての身体である。死ぬということもある。しかし後者の「政治的身体」は見ることも触れることもできない超越的で抽象的な身体である。後者があるからこそ、王権社会は安定的なものたりえた。これとよく似た図式が、情報社会においては「リアルの身体」と「ネットの身体」の間で、すなわちAKBにおいて立ち上がってくるのだと言ってよい。ネット上に無数のアンチがいるから、その無意識の批判を経由して、何でもない普通の少女が自らの輝きを増すことができる。しかしネット上のアンチがいるだけでは、とても成長していくだけのエネルギーを確保できない。そのために彼女たちは劇場や握手会のようなリアルの現場に降臨し、ファンとの近接的関係において承認を得る。勇気を得る。そして握手や投票の実売によって「ここにいること」の正統性を獲得する。だからこそ彼女たちはアイドルの王、すなわち超越者たりえる。

この点こそが、前田敦子が「キリストを超えた」といいうる可能性の中心でもある。そもそも新約以前の旧約聖書から抱えているのが、唯一神という超越論的審級のもんだいである。存在しているが、存在していない。いるのかいないのかわからない。いや、むしろいないというような形でしか存在しているとしかいえないような超越的存在。哲学的には否定表現でしか神を語れない「否定神学」と呼ばれてきた問題系である。この「否定神学」という無限の問いを触発する構造こそが、唯一神型宗教の知的練度を飛躍的に高めてきた。何となく身近のありがたい者にすがる多神教型宗教よりも、いるかいないかわからないものの存在に賭ける唯一神型宗教るそのことの強みが、長くキリスト教をベースにした西欧近代の強みであると理解されて来たのだ。そしてその「否定神学」における特異点こそが、キリストその人だった。それが世界宗教としてのキリスト教の強さの源泉だったことは、いうまでもない。しかし、今、規模的には到底小さいとしても、それに論理的には匹敵し得る可能性のある「ねじれ」が、AKBのセンターなのである。あっちゃんもまた「否定神学」的な中心だった。「なぜあの子がセンターなの?」AKBを良く知らない者たち、あるいは前田アンチは言う。AKBを良く知り、あっちゃんを愛する者たちの間でも、彼女の魅力は「一言では言えないところが魅力なんだ」という、ある種の「否定神学」的な言説や身振りが一般的だったのである。あっちゃんもまた、AKBコミュニティにおける極めて規模の小さい否定神学的象徴だったのだ。

しかしあっちゃんは、ただ否定神学的な意味だけで、最終的にセンターたりえたのではない。AKBというシステムが為し得ているのは、カントのいう「アンチノミー」の新たな展開とすらいいうるだろう。純粋理性としてはどちらの命題も証明可能であるようなねじれた問題系、すなわち「アンチノミー」を通じて、超越論的な批判を加えること。それがカント的な近代的主体の用い得る批判の手段だった。哲学も思想も、この否定神学のロジックをいかに洗練させ、批判的に乗り越えるかに終始してきた。しかしAKBはもはやそこから遠く離れている。リアルのヲタ(支持者)とネットのアンチ(批判者)の間の「二律背反」をともに活用することで、情報社会における超越者を生み出すこと。その「ねじれ」をまたぐ隘路こそが、AKBの実現した「アンチノミー2.0」とでもいうべき何かである。私達はいま「否定神学」をクリティークいるのではなく、AKBがなしえた「否定神学」のイノベーション/リノベーションにこそ目を向けるべきなのだ。

2013年4月15日 (月)

1000回目の投稿

おかげさまで、今回が1000回目の投稿です!!!

今年は10万アクセスも行ったし、ひとつの節目になりました。

一番、うれしかったのは、今年から何人かの方とブログを介して

お友達になれたこと。

継続は力なり! です。

2013年4月14日 (日)

濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(4)

第2章 なぜアンチに耐えられるのか─AKBのコミュニケーションシステムを読み解く

私の考えでは、AKBの凄さは、あっちゃんのような超越的存在を生み出すに至ったシステムの側にある。そこで、以下では、AKBの諸システムについて見ていくことにしよう。

注目すべきが、劇場公開や握手会といった、リアルの「現場」でのメンバーとヲタの間の交流機会である。そもそもはAKBの活動の中心は、「会いに行けるアイドル」というコンセプトが当初から掲げられているように、劇場ではほぼ毎日行われる公演や、CDが発売されるたびに開催される握手会である。そこでは、極めて近接した距離において、メンとヲタの二者のフェイス・トゥー・フェイスのコミュニケーションが行われる。宗教の比喩に置き換えるならば、ここでいう「現場」とは、ヲタ=信者にとっての聖なる信仰の対象としてのメン=神に出会う、教会のミサのような場所である。しかしそれはこれまでの宗教とは決定的に異なっている。なぜならそれは徹頭徹尾「近接」していることに意味があるからだ。つまり、「この世ではない超越的などこか」という宗教的領域とそれは全く異なる。ただ近づいて見ること、接すること。コミュニケートすること。AKBがもし仮に宗教だとすれば、それはどこまでもこうした「近接性」の力に拠っている。だひたすら近い距離で見る・会うということが、テレビや雑誌といったメディアを介して見るのとあまりに違うということに、衝撃を受けるのである。

そして結論を先取りすれば、AKBのメンバーたちがネット上での匿名のアンチに耐えられるのは、リアルの現場でのヲタからの承認の声を存分に浴びているからだ。劇場や握手会といった近い距離。AKBのヲタたちは、その近接性において見るメンたちに祝福と歓喜の声を上げ、AKBへの信仰を深める。その声を間近に受けるからこそ、AKBのメンバーたちは太陽のように輝く。つまり、「現場」があるからこそAKBは宗教たり得ているのだ。

そこには全くといっていいほど、神秘的な要素はないのである。AKBの場合は、これが「ゲーム」化されることで、よりメンバーとヲタの間の関係性を強化するように作用している。AKBヲタの間で使われる言葉に、「良対応」というものがある。これはメンバーと握手したときに、とてもうれしくなるような対応をしてくれることを指す。握手会に行くヲタの側からすれば、せっかくCDを買って握手する権利を得たのだから、どうせならこの「良対応」を相手から引き出したいと、「費用対効果」を考えることになる。ここで問題になって来るのが、握手会では握手券一枚当たり、数秒程度しか握手できないという「制約」の存在である。握手会に行くにあたっては、メンバーに何を言ったら「良対応」を引き出せるのか、知恵を絞って考えることになる。それはまさにゲームの攻略の喜びに近い。また、握手会はメンバーの側にとっても真剣勝負の場である。なぜならAKBにおいては、握手会の人気が、そのメンバーの序列に直結するからだ。だからメンバーの側も握手会では気が抜けない。なるべく多くのファンに気持ち良く帰ってもらえるよう、「良対応」を心がけているメンバーが多い。ゲームと言う言葉は、およそ宗教的な何かとは遠いという印象を読者に与えるであろう。しかしそうではない、ゲームだからマジでハマってしまい没入してしまうような、経験のアーキテクチャがここにはある。ここで興味深いのは、握手会というものが、アイドルとの接触という、ある種、疑似性的な商品を販売する場に過ぎないにもかかわらず、メンとヲタの間のマジな関係を生み出す場にもなっている、と言う構図である。それは所詮金儲けのビジネスの上に乗っかったものに過ぎない。それはたとえば「自由恋愛」のような、自由な個人同士の対等な関係性とは程遠い。だからそれは偽物のコミュニケーションである。そう考える人も多いだろう。もちろん、それはそのように見てしまえば、そのとおりである。ハーバーマスの言葉を使えば、AKBはコミュニケーションを商品として販売するビジネスである以上、どこまでも経済合理性を突き詰めた戦略的行為にすぎない。AKBヲタの用語を使って言い換えれば、それは「釣り」である。ヲタが喜びそうな言葉や行為を提供することで、自分への握手のリピーターとなってもらい、自分の営業成績を高めることを意味する。だからそれは、対等な個人同士がなんら騙す目的を持たずに自由に対話しあうコミュニケーション的行為ではありえない。人間にとって本来的な関係性とは当然後者であり、資本主義は人間同士の対等な関係を疎外する。これが従来からの左翼の発想である。しかし、AKBにおいては、そうではないのである。むしろ戦略的行為(釣り)がそのコミュニケーション的行為でもありうるような、逆にコミュニケーション的行為がそのまま戦略的行為にもつながるような、そんなあやふやな相補性が成り立っている。なぜなら、ヲタの側から見たとき、たとえそれが営業成績を上げるための釣りであろうとも、推しメンのマジの夢を叶えるためには、握手会だろうか投票券だろうが、CDを買うしかないからだ。逆にメンの側から見たとき、自分の夢を叶えるには、握手会だろうか投票券だろうが、CDを買ってもらって自分所に来てもらうしかないからだ。そしてそこでのコミュニケーションが、匿名のアンチに立ち向かう際の勇気の糧となる。ネットワーク社会となり、どれだけ離れていても、誰とでも無料でいくらでもコミュニケーションできる時代だからこそ、お金を払ってまで数秒での会話に行くと言う行為に、正義の感覚が、利他性の感覚が宿るのだ。それは免罪符の代わりに握手券をばらまく宗教といっていい。どこまでも自分たちと近い、そして自分達よりも弱いかもしれない、か弱い少女たちに、元気や承認をもらうこと。

AKBという「会いに行けるアイドル」の特徴は、メンとヲタが互いに顔が見えて認識できる「近接した距離」があるからこそ、メンとヲタの関係の相補性が生じる。これこそがアンチに負けない強力な絆を生み出しうる。その相補性の極北はゴルゴダの丘としてのAKBの総選挙に最も強く立ち現われる。AKBの総選挙と言うのは、非常に冷たく突き放してみれば、ただアイドルタクたちが自分の推しているメンバーをランクインさせるためにCDを買っている販促イベントにすぎない。だから、これほど現代における資本主義の搾取が見事に発動している光景もない。これが一般的な見方であろう。しかし、AKBの稀有な特徴は、こうした市場と共同体、あるいはネオリベラリズムとコミュニタリアニズムの奇妙な接合形態にある。そもそも票が金で買えてしまうという点において、それは政治と経済、あるいは選挙と市場という、これまで人類史上決して相容れることのなかった二つのシステムが合わさっている。普通の感覚であれば、金でいくらでも票が買えてしまっては不公正な選挙結果になってしまうと思われるだろう。しかし、AKBの総選挙はそうではないのだ。金で票が買えるからこそ、ファンが共同体のように団結できる。ファンの団結した思いが大量の票に変わり、「干され」と呼ばれる普段日の目を見ないメンバーのランク入りという夢を叶えることができる。そこでは、「金で買えるからこそ清い一票になる」という痛快なまでの逆説が成立しているのだ。個々に立ちあがっているのは、いうなれば見知らぬ他者への無限の隣人愛ではなく、メンとヲタの間の財力が尽くす限りの票数愛。CDに添付された握手券や投票券を購入し、少女たちを推すという利他性を巻き取りながら、資本主義が行き着いた果てに生み出した新たな宗教的愛。それがAKBなのである。

2013年4月13日 (土)

濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(3)

ここで筆者はアンチの問題は情報社会の居間に始まったことではないとして原始キリスト教に遡る。吉本隆明の「マチウ書試論」を取り上げる。吉本は新約聖書は、それまでのユダヤ教を中心とした宗教的テクストの寄せ集めから作られたパッチワークであり、メシア的存在をそれまでのテクストの要約にそってこじつけで捏造した、いわば二次創作に過ぎないと吉本は言う。なかでもマチウ書(マタイ伝)は剽窃書だと言って憚らない。しかし、吉本が着目するのは、マチウ書の作者がキリストという新世代のメシアを、いわば当時の時代状況における宗教的中心とするうえでキャラクターに込められた実存的設定である。それは、「預言者は、故郷や家では、軽蔑される」というものだ。しかし、それは単に中二病的な─つまり反抗期の青少年にありがちな─実存のあり方を、ただキリストに当て嵌めただけといえなくもない。重要なのはここからだ。吉本はこの近親憎悪を、当時のマチウ書が書かれた状況に敷衍する。つまりユダヤ教への近親憎悪として。またマチウ書は、既存の秩序に対する敵意を近親憎悪の形で告白している。ではなぜ、マチウ書において近親憎悪は、すなわち既存の秩序との鋭い対立は必要だったのか。それは私たちの言葉で言えば、「アンチ」がいなければ超越者は輝かないからだ。そこにあるのは、まさに「アンチがいるからこそスターが生まれる」というAKBのセンターをめぐる構図そのものである。しかし、キリスト教だって勝ち組になれば必ずその後偉そうに振る舞うではないかと吉本は身も蓋もない批判を突きつける。どれだけユダヤ教に対するアンチをぶっても、結局は第一座=センターになればかつて批判したものと同じになってしまうという。いいかえれば、誰もが立場次第でものを言うしかないということ。有体に言えば相対主義の問題。それをここで吉本は相対主義の絶対性を掴みとってしまうのである。どれだけキリスト教のような思想/宗教が優れて倫理的なことを訴えていたとしても、それはしょせんその場に置かれた状況のものでしかないということ。いいかえれば思想の絶対的な相対的性格。ぞれだけつよぃ人間の思想も意志も、「関係性」の前では無力である。関係性こそが絶対である。これは言い換えれば、アンチと対立する「関係性」を最も掻き集めたものこそが鋭く思想的に輝くということを意味している。思想の高貴さはその内容が決めるのではない。アンチがどれだけいるかに依存するのだ。宗教も思想も、相対主義からは決して逃れられない。どれだけ倫理的であろうとしても「疎外」は起こってしまう。つまり、本来であれば加担したくないようなものにも加担してしまう。だから、そのとき置かれた状況と人間関係のただななかにおいて、ただ「加担」するしかない。それだけが「絶対」的である。まさに実存主義的なアンガージュマンでもあり、後に席巻するポストモダン思想の「脱構築」を思わせるようでもある、この「関係の絶対性」という吉本の言葉、それは「思想」そのものではないが、しかし「思想」としか言いようのない、常に相対性の中で揺れ動く何かを捕まえた言葉である。そしてここでいわれる「関係の絶対性」は、まさにAKBにおいて生きられる形で作動している。

AKBには徹頭徹尾、メンバーをとヲタの間のコミュニケーションという「関係性」だけがある。だからあえてこう言おう。絶対的なまでに矮小化され、思想を失う形で純化され、しかしそれゆえに現に生きられた「関係の絶対性」の器、それこそがAKBであると。「関係の絶対性」においては、アンチがいるからこそスターが生まれる。キリストのような超越的存在が生まれる。情報社会/ポスト近代という、匿名のアンチが無数に蔓延るこの末法の世において、むしろアンチの存在をスルーするのでもなくブロックするのでもなく、正面から向き合うことによって誰よりも利他性と再帰性を帯びうることができるのが、AKBの「センター」なのだ。私達はその「可能性」の中心こそを捕まえる必要がある。彼女たちは、匿名のアンチに叩かれる。しかしその声を真摯に受け止める者だけがセンターの資格を持ちうる。そしてその者が発する利他性に満ちた言葉にこそ、センターの正当性が宿る。それはあたかも、ネットワーク社会の「原罪」、すなわち「匿名で叩く下衆な快楽」という匿名アンチの欲望を贖うかのようだ。それを誰よりも実現して見せたからこそ、あっちゃんは絶対的エースたり得た。筆者の考えでは、AKBのセンターは情報社会における新たな宗教的/超越的存在である。そしてAKBという宗教が凄まじいのは、おそらくあっちゃんだけを生み出して終わるわけではない点こそにある。数年単位で超越的存在を「転生」し続けるAKBの可能性。センター一人一人の規模で言えば、到底キリストにはかなわないとしても、小さなキリストを常に生み出し続けるとしたら、私達はいまそうした未曾有のシステムを目の前にしているのだ。

2013年4月12日 (金)

濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(2)

1章 前田敦子はキリストを超えた

AKBのドキュメンタリー映画『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on─少女たちは傷つきながら、夢を見る』は、AKBが宗教であるとすれば、間違いなくその聖典の一つとなる作品である。そして前田敦子がキリストを超えた瞬間が、収められている。一つは総選挙である。2011年に行われた第3回選抜総選挙の場で、一位に返り咲いたあっちゃんが発したかの有名な言葉、「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」。この言葉に充溢するあっちゃんの利他性こそがキリストを超えたアルファにしてオメガのポイントである。

もう一つは、同年夏に西武ドームで開催されたコンサートのドキュメンタリー『AKB48 よっしゃ~行くぞぉ! In西武ドーム』での一場面である。二日目、あっちゃんは極度の緊張から過呼吸に襲われ、担架で運ばれてしまう。なんとか本番開始前には間に合うものの、また途中で過呼吸に襲われ、舞台裏も身動きも取れない状態となる。しかしそれでも、息を吸うこともたつこともままならないような状態でありながら、彼女は『フライングゲット』のためにステージへ向かう。それは総選挙で彼女がセンターを勝ち取った大事な曲である。センターの責任とプライドが、彼女をステージへと駆り立てる。だが、どう見てもまともな状態ではない。イントロがはじまった瞬間、スポットライトの光愛華に浮かび上がるのは、先ほどまで苦渋に満ちていたはずのあっちゃんの、ぎりぎりの状態でつくられた精一杯の笑顔だった。そしてあっちゃんは立ち上がり、手を広げる。この瞬間、私は十字架のキリストを超える姿を見た。

あっちゃんは、なぜ「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」という言葉を発したのだろうか。まずはその背景から探ろう。ここで、AKBの特徴である「アンチ」の存在について触れる必要がある。AKBには二種類のアンチがいるとされる。まず一つ目は、AKBの存在自体が気に入らない「AKBアンチ」の存在である。AKB自体に批判的な一群である。しかし、AKBヲタの間では、もっと大きな存在感を持ったアンチの存在が知られている。それが二つ目の「AKBヲタ内アンチ」とも言うべき、AKB各メンバーに張りつく「アンチ」である。AKBヲタコミュニティの内部においては主要なメンバーごとにアンチの一派が存在しており、そのメンバーに対する罵詈雑言を2ちゃんねるなどで展開しているのだ。しかし、アンチは特定のメンバーを叩くのか。その理由は一つに限られる。秋元の「ゴリ押し」である。あっちゃんは絶対的エースと言われるように、初期の頃からセンターのポジションを任されてきた。そのポジションを決めるのは総合プロデューサーの秋元である。そして他のメンバーを推しているヲタから見れば、それは実に気に食わない事実である。秋元率いる運営の「ゴリ押し」と、AKBヲタたちの「推し」の対立。AKBにおいては、ゴリ押しから必ずこぼれるメンバーが存在する。どれだけ人気がなかったとしても、そのメンバーを推すヲタは必ず少数でも存在する。そしてその中から、憎しみに満ちたアンチが生まれてくるのを決して避けることはできない。そもそもAKBの総選挙が始まったのも、こうしたアンチたちの声があったからだ。

あっちゃんは、絶対的エースという立場ゆえに、アンチの標的に誰よりも長く晒されてきた。さらにあっちゃんの場合「前田アンチ」の存在を直接に知る機会にも遭遇していた。第二回の総選挙で、あっちゃんは大島優子に一位の座を譲った。その次の第三回総選挙で、一位の座に返り咲いた。それは祝福されるべきことである。しかし彼女は、自分の存在を快く思わないアンチたちがいることを想わずにはいられなかった。だからこそ彼女は、AKBとしてのセンターの責任を引き受けながらも、「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」と発したのだ。その徹底した利他性に感染せざるをえないのだ。AKBが凄まじいのは、そしてあっちゃんがキリストたり得たのは、このアンチがあり得たからなのだ。

ネット上にいる有象無象。口汚いアンチなぞまともな人間ではない。だからアンチはスルーするなりブロックすればよい。どこにいてもアンチの攻撃にさらされるリスクを帯びたこの日本社会において、いまもっとも標準的で賢いネットリテラシーとして推奨されているのは、アンチに直接向き合わないという態度である。しかし、あっちゃんはアンチに正面から向き合い、むしろ自分こそが最大のアンチになろうというのだ。アンチからの声に耐え、いやむしろ自らをさらに鍛えるという、まさに超人の所業というほかない。AKBのメンバーたちは、たとえあっちゃんのような絶対的エースであろうとも、誰かに推されていなければ、アイドルとして活動し得ない。アイドルという資本主義における「商品」である限り、彼女は主体としては不確かで、あやふやで、か弱い、半透明の主体であらざるを得ない。それはAKBのヲタも同じだ。匿名掲示板でなければ言いたいことも言えないような言葉を持つ人間としてはいかにも中途半端な弱者。しかしAKBにおいては、つまりメンバーとヲタという半車体同士がつながりあうことで、あっちゃんのような「弱者なのに超人でもあるような存在」を生み出してしまうのだ。ここれは、多くのAKBメンバーにもある程度共通している。匿名のアンチに対してクリティカルな態度をとっている。自分の気づいていないことを指摘されるのはありがたい。つまりは匿名のアンチからの声を、無意識からの批判として活用する。それは、大きな鏡に映しだされた自分の姿を自分で見て反省的/再帰的に捉えるよりも、はるかに強力な反省たり得るのではないだろうか。匿名のアンチが跋扈する「再帰的近代」における、新たな再規制の可能性はここにある。その可能性の中心にいたのが、まさにAKBの絶対的エース、あっちゃんなのだ。

 

2013年4月11日 (木)

濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(1)

序章 AKB48は「いま・ここに」ある宗教である

筆者はウェブサービスの「アーキテクチャ」を社会学的な分析対象として選んできた。ウェブサービスやアプリなどは、その人工環境をどのように設計するかによって、ユーザーの行動やコミュニケーションのあり方をかなりの程度、操縦・誘導することが可能である。そのアーキテクチャのちょっとした違いが、そのサービスや製品の成功/失敗を大きく左右することも珍しくない。ただしこの「アーキテクチャ」は、これまでソフトウェア工学やユーザビリティ・デザインの範疇で扱われてきたにすぎなかった。これを社会学的に分析してみようというのが筆者の狙いであった。なぜなら2ちゃんねるやニコニコ動画といった日本から生まれ、大きく成長したソーシャルメディアのアーキテクチャは、それを生み出す社会特有の要素が反映されるからだ。たとえば「日本の匿名性の強いウェブサービスが普及するのは、日本社会が「個」の弱い集団主義的性質をいまだ抱えているからだ」というようにである。これまでのアメリカの後追いを目指す情報社会論やネット社会論には不満で、日本ならではの情報社会論の確立。それが筆者の狙いであった。また、情報社会論における技術決定論と社会決定論の交通整理を行うための道具立てとしても、アーキテクチャという概念装置は有効であった。ミクロで見たとき、ウェブサービスのアーキテクチャは人の行動・振る舞いを決定するが(技術決定論)、マクロで見るとどのようなアーキテクチャがその社会で受け入れられるかは、その社会の特質を反映したものになる(社会決定論)。技術が社会を変えるのか、社会が技術を変えるのか、その問いを整理するうえで、アーキテクチャという分析対象は有用であると筆者は考えたのである。

筆者はなぜアーキテクチャに着目してきたのか。それは筆者なりに、社会学への限界を感じていたからだ。いや、より広く言えば、哲学でも思想でも批評でもなんでもよいのだが、ともなくもこの社会/世界の全体性を把握しようとする知的試みのすべてに、圧倒的なまでの不満を抱いていたからだ。社会というものを捉えるのに様々なアプローチが試みられてきたが、社会全体を捉えることはできない。そこで社会システムそのものを捉えるのではなく、むしろその外側の環境/アーキテクチャから社会の作動を観測するアプローチ。このいわばコロンブスの卵的な発想の結果として、筆者はアーキテクチャに着目するに至ったのである。それはいってみれば、高度に専門分化した近代社会システムにおける、「壁抜け」的な知的アプローチを可能にするものとして、筆者はアーキテクチャを選び取ったのである。

これは筆者がAKBに着目するに至った理由と完全に一致する。筆者はこれを<宗教>と捉え、分析することにしたい。近代以降、宗教はその役割を終えて失墜した。生きる意味はもはや神から与えられることなく、孤独な群衆が生み出された。それは近代社会が高度に専門分化したサブシステムを張り巡らせ、全体性を見渡すこと自体を放棄したからだ。逆に言えばそれ以前の社会は、宗教によって世界の全体性=世界観が用意されていた。世界がどのように構成され、どのような因果関係が世界を支配し、何に従っていけばどこへたどり着けるのか。そうした世界を捉える因果法則、あるいはこの世界を超えたメタ的次元を把握し、迷える子羊たちに生きる意味を与えるのが、宗教の役割だった。AKBは、まさに現に生きられる<宗教>としてある。それは近代が生み出したサブシステムを縦横無尽につなぎあわせ、さらには情報社会が生み出した様々なインフラの力を借りることで、私達はどこから来てどこへ行けばいいのかを指し示す。しかし、AKBは、これまでの宗教とは違って、何一つ超越的な次元を生み出すことがない。AKBとう宗教には徹頭徹尾、近接性あるいは内在性としかない。つまり、「ここではない・どこか」としての超越的次元を希求することなく、どこまでいっても目の前にある「いま・ここ」の近接的現場だけを通じて、超越的なもの/全体的なものを備給する、そんな手品のようなトリックを実現してみせるシステム。それがAKBなのだ。

2013年4月 9日 (火)

「ラファエロ展」(6)~ローマのラファエロ 教皇をとりこにした美(2)

Raffaself2『友人のいる自画像』という作品です。最初は、ラファエロの作品とは思えませんでした。展示会場に居並ぶ作品の中で、これは異彩を放っていました。他の作品との違いが大きいんです。華やかでないし、暗いし、繊細さも感じられないし…、これが聖母像を書いた同じ画家の作品なのか、と意外に思わせル作品です。カラバッジォの作品と言われても、信じてしまいそうなほどです。

灰色の虚無のような暗い背景から浮かび上がるような二人の男性。二人とも髪の色は黒で髭を生やし、暗い(黒に見える)色の上着をまとっている。さらに、画面左から光が差し、その光と影の対照が際立たせられているため(まるでカラバッジォを思わせるほど、間一髪でわざとらしさを感じさせないギリギリのところまで対比的にしている)画面右手がほとんど陰になって暗くなっている。そのため、二人の顔の光のあたる部分と白いシャツ、そして手の一部を除いた以外の部分は、すべて黒い系統の色で塗り込められています。その黒だけで、ラファエロの作品にある明るさとは正反対の作品となっています。明るく、派手な中に、これ一作ポツンと置かれていると異様な感じすら受けます。

そして、構図を見て下さい。この絵の中心は背後に立つラファエロと思しき人物です。しかし、彼は画面の中心に位置せず、しかも最前列ではなく、中景で左側に一歩退いたような位置にいます。その代わりに画面中央にいるのは若い男性で画面全体に占める面積はこの男性が多くて、左側から差し込んでいる光は専らこの男性に注がれています。形式上ではこの男性が画面の中心を成しているはずですが、視線を背後のラファエロに注ぎ、画面での存在を自ら主張していません。その視線は、ラファエロに頼り切っているかのようでもあります。さらに続けると、それではラファエロが中心かというと、彼に注がれる光は弱く、中央の若者に比べて人物全体が薄暗いなかにいます。心持ち存在感が薄く感じられもします。何となく顔色などから生気があまりなく、目は虚ろな感じすらしているのです。これは、若者がラファエロに視線を投げかけているにもかかわらず、その視線の強さが分かるように描かれているようなのとは好対照です。そして、画面右側は影となっています。明らかに、左右の均衡を欠いたように、人物は左に寄っているのです。ラファエロという人は洋式とか約束事には比較的忠実な人だと思いますが、このような構成は珍しく破格です。おそらく、何らかの意図はあったのではないかと思いますが、私には想像がつきません。

そして、ここに描かれている二人の人物の顔の部分、黒い画面の中で、不自然なほど浮いていて、顔の描き方がわざとらしい、なんか濃いのです。他のラファエロの作品での人物の顔のさりげなさとか、慎ましやかな描き方と対照的な、きっちりと輪郭を際立たせて(特に若い男性の目鼻立ちがキッチリし過ぎて、眼がバセドー病患者のように飛び出したように見える)、単純化をして、それとわかるようなデフォルメを加えて、ラファエロ本人が描いたというのではなくて、ラファエロの描いた顔をあまりうまくない若い画家が模写したものを、今度はラファエロが繊細な筆致で写したかのような感じがします。

しかし、そういうものを跳び越えて凄いのは、例えば二人の人物の肌の艶とか張りとか、そういうものが描き分けられていて、ラファエロの存在感の薄さに対応するように顔色とか肌の生気とかが中央の若い男性との違いがはっきり分かることです。そして、黒という色の使い分け。画面の大半の部分が黒系統の色で塗り潰されている、その部分が一様ではなくて、その黒の変化、使い分けの見事を見ているだけで飽きることはありません。例えば、同じ黒髪でもラファエロと若い男性の髪の毛は同じではありません。その微妙な違いを、描いているのです。そこからも二人の人物の違いがまた判ってきます。

この作品については、中央の若い男性は誰なのかということから、二人の関係は何なのかといったことが議論されてきたと言いますが、私には、それはあまり重要なことではなく、若い男性を置いたことで、対比的にラファエロの未だ若いながらも、何となく影が薄くなってきている様子が(本人にも自覚があったのではないか、それゆえにこのような作品を描いたのではないか、と想像してしまいます)、明らかに分かるのです。そして、穿って見てみれば、画面右側が影になっているのは虚無として、画家自身が死期の近いことを予感していた現われと妄想したくなるほどなのです。

 

この後、展示はラファエロの継承者たちということで、ラファエロの弟子や彼の影響を受けた人たちの作品展示に続きますが、ラファエロ本人の作品を見た後で、比べるように見ると、そういう先入観があるからかもしれませんが、「落ちる」との感は否めず、とくに感想を書くまでのところではありませんでした。

2013年4月 8日 (月)

「ラファエロ展」(5)~ローマのラファエロ 教皇をとりこにした美

ラファエロはローマに移り、ヴァチカンでみるみるうちに頭角を現し、多くの壁画を手掛けます。この展示では壁画を持ってくるわけにはいかず、複製版画や他の画家による模写が展示されていました。たぶん、美術史なんかで言えば、壁画はラファエルの中心的な仕事なのでしょう。でも、ここで展示されているものは、形骸、ぬけがら、としか私には感じられず、ラファエロがどのような画面構成をデザインしたかを想像することはできる程度のもの、別に見なくてもいいようなものに思えました。それは裏を返せば、ラファエロという画家の作品が仕上げということに、多分の細部の表現とか、そういうところの要素が如何に大きなものかということを、改めて分らせてくれるものでした。その意味で、地味な作品ですが、ラファエロが自身で仕上げたと考えられる肖像画を見ることができたことが、今回の展示における最大の収穫だったと思います。

Raffaeki話を肖像画に持っていく前に、『エキゼキエルの幻視』という作品を見ていただきたいと思います。小さなサイズの油絵の作品です。サイズは小さな作品ですが、構図は壮大で神話的なストーリーをあらわしたもので、言うなれば壁画で扱うようなものを、求めに応じて小さなサイズにして描いたものではないかと思います。考えられた構図で、当時としては革新的なデザインだったのではないかと思います。ラファエロらしく細部まで丁寧に描かれています。しかし、それが何っていう感じなのです。私には。今回の書き込みを通してラファエロには辛口と思われるかもしれません。正直に申せば、ラファエロに対するイメージは、ピッグネームでたしかに上手だけれど、優等生的というのか卒がないとは思うけれど、心の琴線に触れてこない。そういうイメージでした。表面的な美しさといったものを否定するつもりはさらさらなく、そういうもので、あまりに美しくて、危うさすら感じさせられてしまう作品は、それだけで魅かれてしまうものです。ラファエロは、よく言えば中庸だが、そういう突出したものがない。そう思っていました。この『エキゼキエルの幻視』もそうなのです。当時としては斬新だったのかもしれませんが、それを除くと何が残るか。何か、とても偏見に満ちた言い方ですが、そう問いたくなってしまうのです。喩えは変ですが、よく高級官僚の人の記者会見で受け答えのような、優等生的で無難なんですが、何のリスクもとっていない、聞くものに迫るものがない、そういうもののようなのです。ただし、これはラファエロだから言えることで、普通の画家なら、こういう作品を卒なく仕上げること自体がたいへんなことであることくらいは認識していてのことです。

Raffadoviziこういう話はこのくらいにして、肖像画のうちのひとつ『ベルナルド・ドヴィーツィ枢機卿の肖像』を見てみたいと思います。私にとって、今回の展示会の目玉は『大公の聖母』でも大作でもなく、この作品とこの後に紹介する2点の肖像画なのです。ヴァザーリの列伝やら伝記等に書かれているラファエロという人物は誰にでも好かれて、教皇から枢機卿、あるいは貴族から市井の庶民にいたるまで、だったそうです。気難しく人間嫌いなダ=ヴィンチやミケランジェロのような人とも親しく付き合って教えを受けたりと。それには、ラファエロという人物がもともと社交的な人だったのかもしれませんが、相手によって巧みに合わせることのできることのできる人だったのではないか、と思わせるものがあります。ラファエロの作品は多様で、様々な様式に対応しているように見えます。これは注文主のニーズに対応できるだけの柔軟性、いくつかのパターンを重層的に持っていたのではないかと想像してしまうのです。血液型のタイプでいえばAB型のタイプでしょうか。ラファエロの作品に、私が感じる“冷たさ”は、そういうところにあるような気がしています。そして、大規模な壁画のようなパブリックな場所で儀式とか不特定多数に見られるもの、あるいは多数がいる貴族の邸宅の広間で飾られるものは、そういうものとして描いたのではないか。『エキゼキエルの幻視』に感じた物足りなさなどは、そういうものとして私が見てしまったためかもしれません。それに対して、肖像画はもう少しプライベートな面があります。但し、この時代では肖像画は個人的に所蔵しインティメートに見入るものとは違い、公的な場とは、別の面で貴族個人の威光を示したりする公的な目的で使われた物でもあったと思います。しかし、例えば、この『ベルナルド・ドヴィーツィ枢機卿の肖像』でのラファエロには優等生的な要領の良さなど感じる余裕を与えないものであったと思うのです。かつてヴァルター・ベンヤミンが「複製芸術の時代」というエッセーの中で、現物のもつアウラ(オーラ)が複製になると消えてしまう、ということを言っていました(このエッセイ自体は、それを時代の変遷とし芸術そのものが変わることを説いているものですが、そうでなくては現代の文化はありえなくなります。)ラファエロのこの作品などは、カタログの美麗な印刷でもネット上の画像でも(当然、ここで貼り付けている画像でも)その良さは、上手く伝わらない体のものだと思います。それだけでなく、実物に触れても気づかない人は気づかないものだと思います。こんなことを書くと、そういうことに気付く俺は偉いと言外に言っているようですが…(実は自慢してます)その理由は何か問えば、圧倒的な情報量ではないかと思います。ラファエロの作品に全般的にいえることですが、作品の単位面積当たりの情報量が恐ろしく多いのです。それを印刷のドットやパソコンのディスプレイの粒子では粗すぎて情報が伝わりきれないのです。それは、あまりに微細な陰影とか、色の使い方のニュアンスとか、気が付かないと見落としてしまうものです。そのあたりに、もしかしたらラファエロは見るひとを試しているのかもしれない、などと想像を膨らませたりするのです。その細かさはいくら高精度の印刷でも追い付かないものです。そうなのです、それに気づいてしまうと、そういう細部が画面から溢れそうに見えてくるのです。例えば、画面の手前、長そでの衣装から出されている両手です。右手で書状を握る、その両手の指の表情。目は口ほどにものをいうという言い方がありますが、この絵を見ていると手は口ほどにものを言う、いいたくなるほど表情が豊かです。今までの展示を見てきて、他の作品では気が付かなかったのですが、この作品で気付かされて、遡って他の作品を見てみると皆、手に表情があるのです。例えば、アッシジの聖フランチェスコを描いた小品など、慎ましやかに描かれている指が異様なほど緻密に描かれ表情が感じられるのです。『ベルナルド・ドヴィーツィ枢機卿の肖像』にもどると、フランチェスコの小品で気が付かず、この作品で気付いたのはなぜかということなのですが。おそらく、ラファエロのバランス感覚によるものではないかと思います。つまりは、この『ベルナルド・ドヴィーツィ枢機卿の肖像』を書いたころのラファエロの成熟と画家としての知名度の高さがあってはじめて、細部が独走するほどのことを出来るようになった、ということではないかと思います。画家としての成熟が、多少細部が独走しても作品をまとめ上げることが出来るようになっていた。そういう細部がある程度、思うがままにえがかれることで以上に充実した情報密度の濃い作品ができてきた。このように細部の突出が起こった。別の例で言えば、着ている衣装の材質が肌触りの違いとして、目で見ているだけなのに、着ている感覚肌合いとして触覚で実感できるようなのです。それは、生々しさにも通じるものです。

しかし、作品全体を見ると何か変なのです。人物の頭部と上半身の身体のバランスが不釣り合いな感じがしますし、頭部が前に出過ぎな感じもして、どこかしっくりこないのです。これはラファエロの肖像画のほとんどに言えることで、こうなると下手というそういうことではなく、画家が意図的であったとしか考えられません。ラファエロが意識的だったかどうかは分かりませんが、ダ=ヴィンチのような解剖学的なリアルというものを、現代の私は常識として見ていますが、この時代はそうでなかったのかもしれないというのが第一で、第二には、ダ=ヴィンチ的なリアルさからズレていることは、細部で異様なほど緻密に描き込まれているものが全体の構図としては日常の視線からズレたものが入り込む、いわば異化という効果が生まれる、そこに通り一遍では納まりきれないような何かが、そこにあるかのような印象を見る者が受けてしまうことになるわけです。

そこで、全体として感じられるのは見るものを翻弄させようとでもいうような画家の悪意の視線です。そこにもはや優等生はいません。

2013年4月 7日 (日)

「ラファエロ展」(4)~フィレンツェのラファエロ(2)

今回のラファエロ展ではポスターやチラシで目玉として聖母像がフューチャーされていましたし、ラファエロのブランドの一つが聖母像というこがあったり、レオ10世等といった当時のローマ教皇に信頼されていたことからヴァチカンの壁画を多数手がけたということから、そういうレッテルも貼られていたと思います。「アテネの学堂」のような壁画が美術とか歴史の教科書に載せられたというこが、ラファエロという画家の一般的イメージが作られているのではないかと思います。今回の展示では、そういう壁画のコピーや模写が展示されていましたが、画集のような複製でなく実物で見ると、ラファエル本人による自筆の聖母像やその他の作品の筆遣いや色遣いの微妙なものと比べてしまうと平版で、勢いというのか覇気が見えてこず、単に構図を確認するのが精一杯という印象でした。ラインアップとしてフューチャーされて、それなりに紹介されていましたが、私なら見ても素通りしてしまう程度のものでした。

Raffarirattoそれよりも、今回の展示で印象深かったのが肖像画でした。とくに、この後のローマ時代のものに印象深い作品がありましたが、それはその時ということにします。このフィレンツェでの作品にも印象深いものがありました。ラファエロという画家は肖像画でも、上手い画家だったということが、あらためて印象付けられた次第です。ラファエロの肖像画を見ていて特徴的なこととして見つけたことは、この時、彼が多くのことを吸収したであろうレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロといった巨匠たちに比べて、細かいところまで丁寧に細かく描かれているということ、というより細かいところの描写とか表現の比重が、他の2人に比べて高い、というよりも突出して、時には作品全体が細部に引き摺られてバランスを失するギリギリのところまで行っているようなものもあるということです。

例えば『リンゴを持つ青年』と題された作品。全体をみていて何か変です。人物のバランス、というのか辻褄が合っていない感じが強くします。なんか左右の釣り合っていないし、顔と首と胴体の位置関係がちぐはぐだし、手と指が不釣り合いに小さい。多分、こんなデッサンを描いていたら、現代の美術学校では及第点をもらえないのではないか、石膏素描からやり直せといわれるのではないか、と思うほどです。当時は、ダ=ヴィンチ等の解剖学の要素を取り入れたデッサンといったような写実の手法は一般化していなかったという状況だったと思います。しかし、赤系統の衣装で茶の毛皮との取り合わせの色遣い、とくに赤地に金色の小さな四角の柄の鮮やかさの、その描き方、またそれぞれの生地の柔らかさの違いを描き分けてみせる所などは、この画家の真骨頂が出ていると思います。そして、リンゴを持つ手とその指を丁寧に描いているのは顔と同じくらい力が入っているかのようです。

Raffaelisaそして、すごいのは『エリザベッタ・ゴンサーガの肖像』です。まず、モデルの四角い顔の輪郭を強調して、そして着ている衣装の四角を組み合わせた模様もそうなのか、長方形をベースにデザインしたような作品全体の画面構成になっていること。モデルの顔のつくりが四角い輪郭で彫が浅い平面的なものであるのを、真正面という角度で、しかもデザイン的にデフォルメしたような描き方で、さらに平面的にして、額にサソリの飾りを配することでアクセントをつけるという演出を施している。近代の画家の手法で描いたら抽象画かデザイン画のようになりそうな構成をしているように見えるのです。このような平面的なアングルを選んで、しかし顔を描くのに、図案化とは程遠く顔になっているのは、色遣いと細かなデッサンによるものとは思いますが、すごい力技を見せつけられた思いです。これに対して、髪の毛は様式化され。図案化されたように描かれているではありませんか。たとえば、型に被さっているところなどパターン化されています。また、首から下の肌が露出している胸部にかけての身体の凹凸を正面から見て肌の色の変化と首飾りの曲線の変化だけで表現してしまっている、微妙な細かさ。おそらく、モデルの女性は豊満な胸を強調できるような体型ではなかったでしょうが、首から肩そして胸にかけての曲線がこれだけで想像できる。そして、衣装の肌触りの描き方、肌との質感の違いの描き分け。その丁寧な仕事ぶりというのは、実物を見て初めて分かるもので、群を抜いています。今回の展示を見ていて、強く感じたのは、ラファエロ自筆の作品と、他の模写やフォロワーの画家たちとの違いは、この展示を見る限りでは本人自筆の圧倒的なほどの丁寧さ、細かいところまでの気遣い、労力のかかっているところです。これは、うまい下手という質的な違いというよりも、手を抜くなどいう次元ではなく、単位面積当たりに筆が触れた回数がけた違いに多いという量的な違いです。これを見ていると、ラファエロという人が37歳の若さで身体を酷使して疲れて亡くなったというのは納得できるほどです。こんなに丁寧すぎる仕事をずっと続けていたら、そりゃ体だった壊すと思えるほどの愚直さといっていいものが見て取れます。

Raffamutaそして、『無口な女』という肖像画。レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ=リザ」とよく似たポーズで、ラファエロがダ=ヴィンチをよく勉強した成果がよく現われているという作品だそうです。「モナ=リザ」と比べて背景は『大公の聖母』と同じように黒く塗られています。しかし、こちらは幻想的にならずに現実の女性が描かれています。しかも、美人ではない。さっきの『エリザベッタ・ゴンサーガの肖像』のそうですが、決して美人ではなく、美人に描かれてもいない。当時は、現代の写真のようなリアルさは求められてはいなかったでしょうが、聖母像で定評ある画家ですから、モデルの女性をそれになぞらえて描くこともできるでしょうに、そういうことはされておらず、注文した側も、それでよかったのか、ラファエロというビッグネームだから文句を言えなかったのかは分かりませんが、そんなものなのでしょうか。この作品では『リンゴを持つ青年』にあったアンバランスさやちくはぐさは消えて、しかも、立体性が増して人物としての存在感の表現が大きくなってきています。相変わらず細部の丁寧さは変わりませんが、それが作品全体の中で突出せず、うまく納まっている感じです。ラファエロに特徴的な手の丁寧な描き方ですが、これは実用的要素もあって、手そのものの美しさを表現するものであると同時に、精妙に描写された宝石をはめ込んだ指輪を誇示するための手段ともなっているということです。つまり、富と地位を象徴するものとしての指輪を丁寧に描き込んで誇示したい、そしてそこに注目してもらうために、指輪が嵌められた手、指に見る人の視線を集める必要があった。そのためには、手が表現豊かに、丁寧に描かれるニーズがあった。ラファエロは、図らずも、そのニーズに最も応える画家の一人であったということでしょう。

そして、この3点の肖像画がわずか2~3年の中で描かれていたということなので、ラファエロが肖像画において短期間で長足の進歩を遂げたということが分かります。

2013年4月 6日 (土)

「ラファエロ展」(3)~フィレンツェのラファエロ

Raffamadonna_2ラファエロがウルビーノの地だけに止まらず、フィレンツェにもたびたび出かけ、その地でレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロと出会い、様々なものを吸収し、大きく自身の芸術を飛躍されたとされている時期のものを集めたということになっています。

この美術展の目玉にもなっている『大公の聖母』です。暗闇に浮かび上がるような聖母子像が何とも幻想的に映ります。青いマントのようなものを被るマリアの輪郭はマントの青が真っ黒な背景に融け込んでしまうように曖昧にされています。それに対して背後の光輪はくっきりと描かれ二人の金色の柔らかな髪や肌がそのなかで浮かび上がる様は神々しいという畏怖すら抱かせるものです。しかし、この背景の黒と人物の輪郭は後世の加筆ということだそうです。ラファエロの真筆では背景が描かれていたということですが、私は、別にこれはこれでいいと思いました。というのも、この作品を見ていて感じられたのは、重力がないかのような描かれ方をしていることでした。それは、キリストを抱くマリアの腕に力が入っておらず、抱かれたキリストもマリアの腕に支えられた部分に身体の荷重がかかっている感じがまったくなく、キリストがマリアに抱き着いている手の描写も単に添えられているだけで、しがみついているものにはなっていない。つまりは、キリストはマリアの脇を浮遊していて、それをマリアが遠くへ飛んで行かないように手でつなぎとめているかのような描かれ方になっているのです。そのような非現実的なあり方の背景には、暗闇の方がむしろ相応しい。というよりも、背景が暗闇であることによって、視線が二人に集中することによって、そRaffamadonna2の不自然さが際立ってきて、それが非日常性に気が付かざるを得ず、人間を超えたさりげない神々しさに気付かされるという構成に結果的になっていると思いました。普通の人間ならば、“地に足がついた”というような重力の呪縛から解放され、浮遊するというだけで、日常の風景がどれだけ異質なものとなってしまうかというのは林ナツミ(左下図)という写真家の浮遊する人物の写真を見ていると明らかです。ラファエロのこの作品では、キリストという幼子が、はっきりそれとは分らないながら、それとなく想像できるような感じで、結果的に普通の人の子でないところが見えてくる、ということに結果的になっていると思います。(ついでに書き添えれば、キリストの足の部分の描き方、とくにその小ささや足の指の不自然なほどの長さを執拗なほど精緻に描いているのは、この画家の偏執さを感じます。多分、そこにラファエロという画家の特徴が表われていると思います。それにしても、このような足では体重を支えきれないだろうと、しかし、神の子は宙に浮いていると考えれば、それなりに納得できます。)これは、似たような構図のペルジーノの作品(右図)と比べると、その違いが分かります。Raffamadonna4_3

また、同時展示で大公の聖母のためのスケッチ(左下図)の一つが展示されています。これを完成した作品と比べて見ると、明らかに印象が違います。その一番大きな違いはマリアの視線ですスケッチでは、こちら向いて、こちらを見ている、見返しているように描かれています。これに対して、完成した作品では、マリアは俯いて視線を落としています。眼差しの違いだけで、こうも違うのかと驚かされるほどですが、スケッチのマリアでは、こちらを見つめることで表情がハッキリわかるのですが、完成した作品では、彩色もされているのにマリアからは具体的な表情、あるいは感情の動きが消えてしまっているかのようです。そこにあるのは抽象化された一種の神々しさというべきおだやかさとでいうべきものでしょうか。悪く言えば、曖昧な呆けたような顔になっています。よく考えてみれば、赤子を抱いていて、視線をそちらに向けないというは不自然です。しかし、そこで自然なものにしてしまったら、単なる普通の母子像になってしまい、それはスケッチに描かれた姿で、聖母子の超越的な姿にはならない。そこで、さりげなく普通の姿からズラシを行っている。それは、ラファエロが学んだであろうダ=ヴィンチの聖母子像のマリアが赤子の方を向いているのに対して、あるいはラファエロ自身の描いた聖母子像の多くとも、その点でこの作品が特異な点かもしれません。むしろ、ルネサンス以前の伝統的な構図に近いのではないか、例えば、ピエロ・デッラ・フランチェスカの作品などのようか。しかし、これともキリストの描き方がまったく違っています。決然とこちらに視線をおくるフランチェスカに対して、ラファエロのキリストはマリアに倣うように穏やかに視線を落としています。

Raffamadonna3_2あえて深読みすれば、絵を見るということで、こちらからの視線を向けても、描かれた聖母子は、それに対して視線を返さない。ということで、信仰を捧げてもユダヤ、キリスト教の神はそれを返してはくれません。旧約聖書、たとえばヨブ記の中で、ヨブは何度も神に問いかけますが神は何ら答えることはありません。そういう超越的で、抽象的な存在として神があるというキリスト教の伝統から考えれば、この『大公の聖母』での、こちらに視線を合わせないで、何も答えない、曖昧に穏やかそうな顔をしているだけ、ということは伝統的な神のあり方に近いものかもしれません。

それもまた、暗闇という背景とうまくマッチしているように感じられてしまいます。

2013年4月 5日 (金)

「ラファエロ展」(2)~画家への一歩

Raffayoungラファエロのウンブリアでの時代の作品を集めた展示ということでした。以前にも書きましたが、私は絵でも音楽でも、取敢えず作品を単独に取り出して見たり聞いたりするアプローチをする人です。ただし、作品の背後の情報を切り捨てるつもりはありませんが、作品を成り立たしめている背景くらいにしか考えていません。だから作者という存在は、一連の先品の系統をまとめるブランド程度のものと考えています。ここで言えば、ラファエロと言う人物の伝記とか、エピソードから人物像を推測して、そういう人の作品だからと、エピソードを作品に投影して、それを確認するような見方をしていません。だから、美術館でも、レシーバーで説明してくれる機器を借りることはありませんし、展示についている作品解説は、作品タイトルと製作年代と素材の材質以外は見ません。そこで、実際の作品を見てみて、印象とか感想が浮かんでくるのを後で思い出して、ここに描き込むと言うのが基本的姿勢です。

展示の目次の順番に書き込みをしているのは、もう一つ、展示の切り口というのか、美術展では作品の展示について、ひとつのプログラムをたててそれに基づいて展示しているわけです。それを見る私は、無意識のうちに、その視点の上で作品を見ていることになるので、それについても、私が違和感を持つこともあれば、自然に受け入れることもあるわけです。それは、ここに描き込んでいるのは画家に対する私の考えではなくて、あくまでも美術展の印象だからです。だから、ここで私が書いているのは、作品に対する感想であり、そこから演繹される画家のイメージ、そして展示への感想でもあるわけです。そして、無意識のうちにあらわれてくる、そういう私自身の絵画へのアプローチということになると思います。少し読みにくいことを書きました。このことは、私としても、上手く説明できるほど自分を掴み切れていないので、徐々に考えをはっきりさせたいと思っています。

Raffaperuj_3『若い男の肖像』(左上図)と言う作品です。前回の『自画像』とポーズなどがよく似ていると思います。自画像と同じように何かアンバランスな印象を受けます。顔ですが左側の輪郭を見ると瘠せているように見えますが、右側は面積が広くふくよかです。このアンバランスさは長い髪の毛が耳を覆うように描かれているので、それほど目立つことはありません。しかし、その髪の下の首は極端に太く長くなっています。その首の下に肩がハッキリせず、さらに左腕は肘の位置が不明です。つまり、リアルな人体としての辻褄が合っていないと言えます。これは、ダ=ヴィンチ的な解剖学に則ったような写実ではなくて、肖像画の型に従い従来の手法での効果にのっとったためかもしれません。ここでは、それよりも男性の赤い衣装と背景の青を主体とした色調とのコントラストといった色の効果的な使い方が魅力なのかもしれません。展示にはありませんでしだが、当時のラファエロが一時通っていた、師匠の一人にも数えられるペルジーノの若い男性を描いた肖像(右上図)も比較のために見てもらうと、一応、ラファエロは師を超えて巨匠になっていくことになっていますが、二つの絵を見比べてみて、どちらが生き生きとして写実的かと言えば断然ペルジーノの方です。若描きの作品で比べられてはラファエロも可哀そうですが、早熟で若いころから天才的な絵を描いたという伝記を取り上げるつもりはありません。ま、そういうこととして、ここで両者を比べて見ると、薄ぼんやりながらラファエロの志向しようとする方向性のようなものが薄々感じられるような気がします。「優雅」と一言でいってしまえばそれまでですが、ラファエロなりの見えないものを形にしようとしていた努力が見えてくる気がします。それは、色の使い方だったり、女性っぽい男性の雰囲気だったりなどとしか言えないのですが。

Raffasevaそれが、一つの作品に一応形になっていたのが『聖セバスティアヌス』(左下図)と言う作品ではないかと思います。ペルジーノの『マクダラのマリア』のマリアの顔と似ているように見えますが、ペルジーノの方がリアルな女性の顔になっています。ラファエロの作品では、男性の聖セバスティアヌスが女性のようにえがかれ、真丸の顔の輪郭やふくよかすぎるくらいで、造作を中央に集めたような顔立ちは、中世のイコンの形式的な顔を、写実的な表現技法を施して人間の顔らしく生気を吹き込もうとしたかのようです。聖セバスティアヌスは体中に矢を打ち込まれた殉教図で描かれるケースが多いのですが、一応矢は手に持っていますが、このような穏やかな図柄と言うのは珍しいかもしれません。ふくよかな顔立ち、そして矢をもつ右手の指の描き方や黒地や赤字に金色の刺繍が浮かび上がる描き方が細かく丁寧に施されています。作品自体が小さなサイズで、そこに細かく描き込まれていることや、画面に対する顔の大きさ、田園風景のような背景まで描き込まれていて、かなり力の入った作品であることが分かります。それだけに、見えないものを完璧に作り出そうという野心を感じています。比較のためのペルジーノの作品(右下図)と比べてもらうと、肖像画のパターンを踏襲しているのは分かります。それをペルジーノは当時の現代風である写実的な仕上げにしています。これに対して、写実的な技法をラファエロも用いているようですが、効果は逆の方法を志向しているように感じられます。これは、ラファエロが写実以外の選択肢を持つ可能性があったのか、それともピエロ・デラ・フランチェスカのように写実に行こうとして細部では細密な表現を突き詰めるようなところまで行きながら、全体としては中世の構図から出られなかったというような折衷的なポジションにいたからか、何とも言えません。ただ、ここに見られるラファエロは、ダ=ヴィンチともミケランジェロとも違う方向性の作品を作り出していたことが分かります。もしかしたら、この方向性で技法の習熟と成熟により、写実に近い作品を作り出しながらも写実とは紙一重で異なる見えない世界を作ろうとしたのが、ラファエロの絵画の世界かもしれない。そういうことを考えされる作品ではあります。そう言う想像を促すのが、他に飾られた天使を描いた作品などに見られる様式性です。

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2013年4月 4日 (木)

「ラファエロ展」(1)

Raffaposta2「ラファエロ展」国立西洋美術館 2013年3月6日(火)

都心で、証券取引所主催のセミナーがあって、出かけました。上場会社にとっては、強制ではないのですが、ある程度、そういうのに顔出ししておかないといけないこともあるのです。たまた、終了が中途半端な時間を予定していたので、どうしようか(直帰してしまうか、会社に戻るか)迷っていたのですが、終了予定が大幅に遅れたため、会社に戻るのをあきらめ、気が付くと時間的に、上野の西洋美術館なら閉館の1時間前に着けることがわかり、思い立って行ってきました。

最近、美術展を見て、感想を書き込むことが習慣のようになってきているようで、ある程度は美術館の予定はチェックするようになり、また作品を見る場合にも、後で言語化することを意識するように変化してきているような気がします。

とは言うもののラファエロか…、と我ながら思ってしまうわけです。私はいつからミーハーになったのだろうか、と多少自嘲気味に上野の駅に降り立ち、西洋美術館に向かうと、美術館からは大量の人々が吐き出されるようにでてきました。大変な混雑が予想されました。止めようかとの思いが一瞬よぎりましたが、気を取り直して、券売所で、残りが1時間しかないことを念押されながら、「別に1時間もかかることはないだろう、何せラファエロだから」などと意味もないことを考えていました。美術館は、5時を過ぎると大半の客は帰ってしまい、閑散まではいきませんでしたが、予想された混雑はなく、静かに作品を、時には立ち止まることで可能で、見て回ることができました。

ルネサンスの三大画家などと高校の授業で習った記憶があります。とはいっても、他の二人、ダ=ヴィンチとミケランジェロに比べると影が薄い印象でした。彼ら二人に比べて圧倒的な代表作がない、シンボルマークを欠いたようなもので、しかも、「これがラファエロだ!」というのがありませんでした。ラファエロが語られる時、私も、高校自体以降、彼について書かれたものに触れたことは何回もありますが、その際の書かれ方、「優雅」ということを特徴としていることは共通していたようですが、その「優美」さというのが具体的に、どのようなもので、作品のどのようなところに見つけることができるのか、という説明は一切なく、その「優雅さ」の説明については、ミケランジェロにはできなかったとか、そういう他の画家との比較のうえで、比較される画家の否定という形で語れることが殆どでした。つまり、ラファエロのことを語る場合には、絶対的なラファエロを持ち出して、その特徴や卓越している点をポジティブに並べていくという行き方ではなくて、他の画家に比べて、その比較の上でラファエロを紹介するというものでした。

例えば、名高いヴァザーリの紹介は、ラファエロをミケランジェロの激烈さと比較してラファエロの上品さを紹介しています。ラファエロの「優雅さ」は、「美」というダ=ヴィンチ以降のルネサンス美術を特徴づける、大きさや色彩、性質の調和、規則に基づく合理的な性格のものとは区別され、ラファエロと言う画家の主観的な判断力、センスに由来する、規則に基づく美の中の自由さ、とでもいうような比例などのような美の規則を測らなくても、多少規則を逸脱したとしてもあるものということです。しかも、このような「優雅さ」は努力によって獲得できるものではなく、天与のものと考えられていたようです。そこにもラファエロという人物に備わった上品さとか優雅さと作品を結びつけて考えることが、行われていたようです。とすれば、その点に、ルネサンスからバロックへの糸口があったのかもしれません。

実際、今回の展示を見て、ラファエロの個性というのか、これがないとラファエロではない核心のようなものは、ついぞ見極めることはできませんでした。かりに、この美術展をペルジーノ展だと言われも、私は何の違和感もなく作品を見て回るのではないか、と思います。ヨーロッパでは歴史上の巨匠として絵画のスタンダードになっているということですが、いわゆる教科書とか優等生というようなイメージを慥かに感じるのではあります。作品を見て回って、どれもそう思いました。実際のところ優等生であるということは大変な努力を伴うものではあるのですが、それはほとんど認識されず、通り一遍に、苦労を知らないだの、人間的な面白みがないだの、冷たいだのという先入観で見られてしまう、少しだけ印象をもちました。とは言っても、掴みどころのない、個性を見つけ出せない画家という先入観は崩せませんでした。ということは、こういう画家というのは言葉にしにくいわけです。「こうだ!」と言葉で明確化しにくいからです。なので、今回の書き込みは、私にとって挑戦になるかもしれません。

Raffaself例えば、展示の最初に飾られている『自画像』です。画家20代前半ときの姿と言われ、フィレンツェに移った初期の頃の作品と説明されています。顔とその周辺は長めの栗色の髪の毛や肌合いの微妙な感じとかが丁寧に仕上げられていて、陰影のつけ方も細かく、スケッチも丁寧にされたのが分かり、非常に技術の高い画家が丁寧な仕事をしているのが素人目にもハッキリわかります。それに、若々しい肌の色の明るさを引き立てるような黒いベレー帽と黒い衣装、その中で、襟元からシャツの白がアクセントのようにのぞかせて、若々しさとともに落ち着きを漂わせています。ただ、この若者はどちらを向いているか分かりません。まっすぐ、こちらを向いているのか、こちらを振り向いているのか。それは首から下が顔ほどに丁寧に描かれていないためです。証明を向いているには首の位置が斜めすぎるし、振り向いているには首が捻じれていないし太すぎる。

絵画がリアルな写実的表現を獲得したのは、おそらく革命的に全面展開したのは、レオナルド・ダ=ヴィンチによる解剖学的なスケッチを基に描かれた絵画作品が一つの大きな転機になっているのではないかと、個人的には思っています。そもそも、絵画は見た目そのものを描くものではないし、人が見た目といっても現代の写真と同じ光景を人が見ているとは限りません。リアルな写実と言うのは、一つの見方でしかなく、それを機械的に追求したのが写真というものです。(写真と言う言葉にそのままでていますが、事実の姿が映されているという人々の意見が一致しているから、写真というものが成立しているので、そういうコンテクストが成立してはじめて受け入れられているものです)。比例とか、遠近法とか自然科学の法則のように規則化により、美と言う基準をつくり、それによって絵画を制作して行こう方法論です。ここでの、ラファエロはこの自画像で顔を描く際に、その影響を取り入れているようです。しかし作品全部ではなく、そこで生まれるギャップが顔の首が上手く繋がっていないように見えることではないかと思います。この『自画像』から見えてくる一つの姿勢は、折衷的、あるいは中庸志向ということです。革命には全面的には参加しないけれど、新しい波は取り入れる。しかし、従来のものも残しながら。これは本人の性格なのか、顧客である注文者に混乱を与えない配慮であるからなのか、わかりませんが、その点が、逆に後世の私などから見ると、個性が見えてこない、物足りない、という感じを持ってしまうことになってしまうのです。

展示は、したのプログラムで行われましたが、ラファエロ本人によるもの以外、あるいは工芸品には、私は興味がないので、ラファエロ自身によるものと紹介されているものを中心に見ていきたいと思います。

.画家への一歩

.フィレンツェのラファエロ

.ローマのラファエロ

.ラファエロの継承者たち

2013年4月 3日 (水)

あるIR担当者の雑感(117)~資本政策への挑戦

日本人は勤勉だなんてウソだ。自分の頭で考えずに、前例や横でやっている奴の真似をして、仕事をしている振りをしているだけだ。

また、ネガティブな始まりですね。こういう、みんながこう言っているけど、違うんだよ、っていうようなオレはメジャーな流れに埋もれていないんだ的なスタンスって、結局はそういうメジャーにぶら下がっているのを、そう言っている当人が気づいていないという恥曝しのようなものなので、やりたくないのですが、地が出てしまうのは避けられないようです。もうちょっとだけ、我慢していただいてお付き合い願います。

先日、あるセミナーで、決算短信や有価証券報告書の配当政策の記述について、安定配当を謳っている企業が多い。しかも、そのほとんどが配当性向30%と判で押したように書いている。まるで他の会社の文章をコピー・アンド・ペーストしたようだ。なぜ30%なのか、なぜ安定配当なのか、その理由を説明しているものに出会ったことが無い。とその講師は話していました。そう言っている講師の人も、ある企業のIR責任者なんですが、その会社も明確な説明はしていませんでした。

投資家や株主といった人々も、実は、このことを知りたいのではないかと思います。これは、配当のみに限定されるだけでなく、株主還元策の一環として、あるいは資本政策との関連の上で、企業がどういう方針かということ、もっと追求すると、企業が株主価値を高める一環としてどう考えているか、ということではないかと思います。

そこで、IRということで貢献できないか、と思うわけです。従来の一般的なIRの理解では、それは逸脱と考えられてしまう可能性が高いと思います。むしろ、私には米国のIR協議会のIRの定義を読んだりしていると、こういうことが、本来の機能なのではないか、とも思うこともあります。このような事なら、前例や横並びのコピー・アンド・ペーストはできないでしょうから。

では、実際に考え始めましょうということで始めてみると、自分の勤め先がなぜ安定配当なのか、という疑問でまず暗礁に乗り上げました。誰もが知っているようで知らない。現に、今、配当を決めている人たちですら、そういうものだから、として判断停止になっている。おそらく、大半の企業でもそうなのではないかと思います。

これ以上は、あまり大言壮語できませんが、(言うだけならいくらでもできますが、それを企業の中で実際に取り上げ、考える、あるいは考えさせる、というのは安易にできることではありません)試してみるだけのものではあると思います。

それで、色々調べてみると、安定配当は15年戦争(満州事変から日中戦争、太平洋戦争へと連なる一連の戦争をまとめて、このようにいう言い方があります。)の戦時体制として、市場経済から国家管理の計画経済に転換させられたのを契機として、戦後は、その時の革新官僚たちによる傾斜生産といわれる生産体制。そしてまた、いわゆる日本的経営により人工的に資本コストを低く抑え、収益率が低くても、アメリカ等の海外市場での市場拡大によりパイを大きくして、経済を成長させるという、経済政策、それを支えた個々の企業の経営の一翼であったということが分かります。だから、それは、一時的な、ある特殊な状況に対して適合的であったというのは良く分かりますが、それが規制緩和や門戸開放が進んだ、現在の日本企業に対して、果たして適合的かどうかというは、また別だということです。日本的経営といわれた要素、メインバンク制とか従業員の終身雇用とか年功序列の賃金制度とか株式の持ち合いとか、それぞれに再検討され廃れたり、変質したりしましたが、安定配当に関しては相変わらず続いているようです。それらのことから、それぞれの企業の経営現場で、その意味を考えるということを、してもいいのではないか、むしろ、すべきではないか。

その際に、経営者が考えるのは違う視野でのものが考えられるのではないかと思います。そこでは、日本経済の経緯のなかに自社の現状を位置づける、あるいは国内外の市場の広がりのなかで自社の特徴を洗い出す、というような企業内の人間でありながら、企業から一歩離れた立場で見ていく。それは、株式市場の投資家ともつながる立ち位置であろうと思います。そこで、経営に対して強くコミットできる、と同時に企業の外部に対しての説明の手がかりを作ることができる。そういう試みをしようとしています。いま、暗中模索の中であるので、筋道の通った書き込みはできないでいますが、とりあえず、ホームページで配当政策や資本政策に関しての説明のためのページをつくって、一部をアップし始めています。また、セルサイド・アナリストとのミーティングで少し話してみて、反応をうかがったりと手探りを始めています。いまのところ、静かな水面に小さな一石を投じて小さな波紋がひとつ生まれたというところです。

2013年4月 2日 (火)

あるIR担当者の雑感(116)~株式市場への畏れ

アベノミクスが喧伝されてアナウンス効果というのでしょうか、昨年の暮れごろから日本の株式市場は活況に方向に転換したようで、日経平均株価は連日値上がりが続き、海外投資家だけでなく、国内の個人投資家も国内株への関心が高まっているということです。先日、ある中小の証券会社の人と話したら、この3ヶ月はとても景気がいいということで忙しいと話していました。

私の勤め先ではどうかというと、市場での出来高は例年よりも増えたような感じはあります。しかし、個人投資家セミナーが盛況とか日経平均が連日更新とか新聞で報道されているような盛況な感じはありません。ただし、何もなければ日経平均は上がらないわけで、そういうところもあるのだろうと思います。何か、冷めているなと言われそうです。私は性格が天邪鬼なのかもしれません。しかし、私の勤め先が徐々にIR活動を進めてきたこの数年間、国内の株式市場として現在に比べればどん底と言っていい時期ですが、この時に私の勤め先のような地味な企業にミーティングをしてくれたような投資家方たちというのは、厳しい状況でも日本の中小型株の地味な会社の話を聞こうというのですから、市場に対して真摯というのか、前向きな姿勢を崩さない(他が控えているこの時期に攻めようというヤマッ気があるのかもしれませんが)人達だと思います。そういう人達とミーティングをして話をしたことは、株式市場が厳しい環境があるということとは別に日本企業に対する厳しい視線でした。それは、国内株市場が厳しい中でも国内企業への投資姿勢を維持して、ハフォーマンスをあげるのは大変なことで、その厳しい戦いを続けながらも日本株に投資を続けるのは期待があるわけで、その期待があるからこその厳しい意見を持っていたと思います。それはまた、彼ら自身もまた、彼らに資金を投資してくる海外の投資家からの日本企業に対する厳しい見方に対して、企業の間に立って板挟みのような状況に立たされていたわけです。そのことは、ミーティングの席で直接的なことを話してくれたファンドマネージャーの人もいらっしゃいました。そういう実態の状況というのは、現在の一見活況を呈している国内株式市場で、大きく変化したのかと問われれば、私には、何も変わっていないと思えるのです。つまり、投資家からの厳しい要求に対して、企業が何も応えていないという状況は何も変わっていない、と。ネガティブといわれればそれまでです。

だって、昨年秋までポロクソだったのが、新年を迎えて瞬間的に一新できたのでしょうか。そんなに一朝にして変われるなら、なぜそれまで変われなかったのでしょうか。ということで、そう簡単に変われるものではないです。では、厳しく企業が求められているものとは、何かと言えば株主を向いた経営、市場へのリスペクトです。シンボリックなことを挙げればROEの数値でしょうか。

また、ある人の話によると、現在の日本株に対して投資をしている海外投資家は以前から継続して投資をしている日本株を良く知っている投資家ではなくて、市場の活況に目をつけた新たな投資家が多いという話です。だから、そういう海外の投資家が日本株、日本企業の実体が変わっていないことに気付いたとき、それに失望した場合には、このような投資家は二度と日本株には戻ってこないのではないかという悲観的な思いを抱いてしまうのです。つまりは、あるムードから日本株に投資をしてみたところが、基本的に日本企業は株主を向いた経営をしていないし、内部留保とか言って現金を溜め込んで、いざという時のためなどといってチャレンジングな経営をしようとしない。こんなベストを尽くさない経営者がのうのうとしているのに、ガバナンスが機能していないため、クビにできない。こんなにエージェンシーコストがかかる投資はごめんだ。といって、投資家に愛想を尽かされてしまう。また、今まで辛抱強く見守ってくれていた投資家たちも、このような状況で反省のポーズをとっていた日本企業が掌を返したように開き直るのを見て、やはり愛想を尽かされてしまう。そんな悲観的なシナリオを誰かから聞かされたような記憶があります。

年度はしめ早々になんかネガティブにことを書き込んでいますが、今、中小型株のIR担当者としては、むしろ、危機感を感じているということです。もしかしたら、杞憂でしかなく、私が個人的に、妄想に捉われているのかもしれません。その方がいいのですが。数日前の日経新聞で、IRが転機にあるというコラムが続きましたが、私個人としては、たしかに転機と思っていますが、それ以上に、厳しく問われるのではないか、と考えています。

2013年4月 1日 (月)

あるIR担当者の雑感(115)~1票の格差を巡る違憲判決への疑問

いつも書き込んでいる話題に比べて違和感があるもしれませんが、学校で法律の勉強を生半可ではありますが受けた者として、また仕事の中でも会社法や金商法といった法律に関係した業務に携わっている者として、法に対する姿勢とかセンスということに関して、どうしても鈍感ではいられないし、リーガルマインドという考え方はIRの業務に携わっている場合もベーシックな姿勢となっていると考えている者なので、そこで見られる今回の違憲判決とその報道に接していると、疑問を感じてしまっているので、今回は、いつもの趣旨から少しずれるかもしれませんが、書き込んでみたいと思います。違和感を持った方は、このまま、ページを移っていただきたいと思います。もしかしたら、不愉快な思いをされるかもしれません。

先ずは、そもそも論というのか原則論から考えます。民主主義という政治のあり方において、選挙で代表を選出して議会で議論をして物事を決めていくという、議会制民主主義といわれるシステムは、これしかない唯一無二というものではありません。例えば、古代ギリシャのポリスでは直接民主主義の形態がとられていました。だから、民主主主義イコール選挙ではないということ、あくまで便宜的に選択されている制度であるということです。近代民主主義の議論の中で、議会制民主主義の正当性というのが、だから何度も議論されています。たとえば、選挙で選ばれた代表が多数決で物事を決めても、それは多数意見というだけで正しい結果にはならないというのが、その一つの大きな議論です。例えば、実は多数の人々が嫌うような負担を強いるような施策が実は一番やらなくてはならないことだという時、多数の意見に従ってしまえば、手をつけられなくなる。そういう時にあるというものです。実際、歴史を見返してみても、ナチスを率いたヒトラーは人々の圧倒的な支持を受けて合法的に政権を握ったわけです。だから、多数の意見を代表したものが正しい結論を導くとは限らない。この時に、代表というのは多数の意見と切り離されるという議論が生まれます。つまり、選挙で選ばれた代表というのは、選んだ人々の利益とか縁とかに束縛されてはいけないということです。具体的には、地域の代表というのではなくて、国家全体のことを考えて、時には一地域(自分の選出地域であっても)に不利益となることも敢えて決断しなくてはならないということのわけです。だかに、議会制民主主義において選出された議員というのは、そういう国家レベルのことを考えられる人が選出されて、その人たちが、選ばれたという束縛から自由に議論をすることで、正しい結論に近づくことができる。というのが議会制民主主義の正当性を担保する議論となっていったわけです。それが衆愚政治に堕すことに対する歯止めとして働くということです。

そこで、一票の格差という議論に移ります。一票の格差というのは、選挙区によって人口に対する選出される議員の数の比率が違っていて、それが平等でないという議論です。しかし、議会制民主主義の原則を単純に当てはめて考えてみると、この議論は衆愚政治の議論に限りなく近いことが分かります。選挙区から選出された議員が選挙区の利害に束縛されず国家レベルでものを考え議論するならば、選出される議員の票数に格差があっても、国政ベルの決定に影響力はない筈です。その結果、選挙区においてたとえ議員一人に対する人工に格差があっても、結果として得られるものにその格差は反映しないのが議会制民主主義のあるべき姿のはずです。

もし実態がそうなっていないということなら、そうなるようにシステムを考え直すべきというのが本質的な議論のはずです。そこで、そうなっていない実態を認めて(実態を客観的に認識するのは必要なことです)、それを追認するかのような議論を進めてしまうのは、本質の取り違えではないかと思います。実際のところ、そんな暇はないということなら、そういう議論をすべきが、それが本質的な議論とすり替えられてしまっている。つまり、今の一票の格差の議論の前提に議会制民主主義は議員は選出された地域の利害を代表して議論をするということがいつの間にか前提されているということです。そうでないと、一票の格差という議論が成立しません。つまり、じっさいに都市部の人口の多い地区と地方の周辺地域の人口の少ない地区とを比べてみると議員一人当たりの人口が大きく違うというのが、実際の一票の格差です。裁判というのは、抽象的なことでは始めてくれないので、そこに実質的な利益が必要です、条文の哲学的解釈だけでは裁判は起こせません。そこから実際に不利益が生まれ、それが被害となった時に、それを是正するために初めて裁判を起こすことができるのです。だから、この一票の格差の裁判でも、実際に被害が生じているはずです。それは何かと考えれば、その前提として、国会での決定が、地域の利害を代表した議員によってなされていて、その議員は都市部の人口の多い地区よりも地方の人口の少ない地域のほうが人数が相対的に多い。国会の議論の方向を見ていると都市部と地方の利害が対立する場合、都市部に不利な決定がなされている、そこに不平等が生じている。そういうことが不利益ということのベースとなる考えになっているように見えて仕方がありません。実際のところ、このことに対して説明している判決文も、学者の解説も、マスコミの解説もありません。

実際のところ、各地の裁判所で沢山の違憲判決が出されているということは、その訴訟を提起した人々は、実際にその不平等をうけ、それによって不利益を受けているか、あるいは何かの要求を政治に対して行いそれが、不平等が原因で受け入れられなかったということがあったということのはずです。しかし、新聞やテレビの報道ではその一つ一つの事情が何一つ説明されていません。また、政治というのは実際面では利益調整の要素もあるわけですから、人々が要求を通すということ、あるいは不利益を是正させるということについては政治に対しての様々の働きかけを行った結果、どうしても何も変えられなかったということの結果、やむを得ず裁判という手段を使わずにはいられなかったはずです。そうでなければ民主主義での基本的なルール、権利の上に胡坐をかくなということをする、そうでなければ民主主義の政治システムは民意を吸い上げられず機能しなくなりますが、それを十分にしているのか。そのあたりが十分に伝わってこない。というよりもまったく伝わってこないのです。マスコミの報道だけを見る限りでは、単に手続き上で1票当たりの不平等があることだけが問題となって判決が出たようにしか読めないのです。

これは、今まで述べてきた立場で考えれば本末転倒としか言えないです。私の考えている民主主義という政治システム、それを基につくられた憲法という法律の人権条項の条文の文言を読む限り、一連の違憲判決の判決文には、その根拠が読み取れません。まして、そこから裁判官が憲法とそのベースである民主主義という政治システムの原則をどうとらえているのか全くイメージできません。これはまた、別の面で大きな違和感を持たさせるものです。

それは、そもそも三権分立、そして違憲立法審査権とはなにかという原則論です。三権分立論として歴史上有名なものはモンテスキューの「法の精神」という著作であることは社会科の教科書にも書かれていることです。その以前、憲法の源流の一つである英国の「マグナ・カルタ」は当時のジョン王の専横に対して貴族が歯止めをかけるものでした。それが象徴的なのですが、もともとヨーロッパにおいて議会というのは強大化し専横に走る王権を如何に抑えるかの手段の一つとして機能してきたものと言えます。だからヨーロッパにおける権力分立のシステムというのは権力を執行する王権に対して、貴族あるいは市民の代表による議会を対置させて王権の独走を抑えるためのものといえます。もともとは、この二本の対立関係が中心でした。しかし、王権の独走は議会で決めた法を度々無視するというわけで、法官貴族であるモンテスキューはこの対立関係の中の議会を補助すべく司法を加え三権分立としたというのが内容と言えます。そして、時代は大きく下って、20世紀になったところでヨーロッパに民主主義が生んだ奇形児ともいえるファシズム、その代表例としてヒトラーとナチスが現われます。前にも言いましたように彼らは合法的に権力を握り、合法的に議会を無力化し、合法的に独裁体制を作り上げました。このとき、ドイツにはドイツ国法学という輝かしい憲法学の学統がありました。ゲオルグ・イェリネックやハンス・ケルゼンといった憲法学者たちの法実証主義といわれる憲法学は、日本の戦前から戦後にかけての憲法学の源流でもあります。その輝かしい憲法学もナチスに対して何の歯止めにもならなかった。それはナチスが形式的に合法的だったからです。手続きは民主的だった。民主主義というのは少数意見を尊重しなければなりません、そのなかで当然民主主義自体を否定する意見も尊重せざるを得ないのです。形式上、民主主義はすべての意見を肯定せざるを得ない。その隙をナチスは衝いたと言われています。それには学問も議会も無力だった。その深刻な反省の中から生まれたのが、戦後の西ドイツのボン基本法と憲法裁判所と言われています。つまりは憲法判断はたんに手続きが法律の条文に形式的に適合しているかという解釈だけではないはずなのです。そこには民主主義という政治システムそのものを問うという繊細で微妙な議論があるからこそ慎重で、しかも大胆な議論が求められているはずです。このようなそもそも論で、今回の一連の違憲判決を見てみると、手続きで平等率の数字を満たしていればいいのか、という議論になってしまっているように見えて仕方がありません。

それは、これらの判決に対して、国会議員の人達が言っていることは、程度の差はあれ数を調整すれば形式的に違憲ではなくなるということです。それが司法の権力分立、あるいは違憲判決のそもそもの原則から考えて、そんなものでいいのかということなのです。

そして、そもそも(またそもそもです、訴訟を提起した人々の不利益は解消されるのかというと、別問題ではないのか。そうです。そこでまた、別の方面に行きますが、実際的な話として、都市部の人口に比べて割り当てられる議員の数が少ないのはなぜかという現実的な話です。なぜなのかということを、政治学者やマスコミはどうして議論しないのか、これも分かりません。だって、その原因が分かれば、何も裁判など起こさなくても、議員に働きかけて議員自身に直させるインセンティブを与えられるわけです。それもやられていない。単純に考えれば、都市部の議員定数を増やすことが、自民党にしても民主党にとしても、多分いずれの政党にとってもメリットがないからではないでしょうか。端的に言えば、投票率が低い、組織化されていない、傾向が不安定で読めない、などのことから議員を確保しにくい。つまりは政党の立場から見て選挙の効率が悪いということではないか。これに対して、地方では、共同体とか農協とか組織が維持され、あるいは議員の後援会と選挙民とのネットワークがあるといったことではないか。ということは、都市部の住民に比べて地方の住民はそういうものを維持させる努力をしているということです。政治に要求を届けるために、日常的に政党にとってメリットのあるようなことを維持するという努力をしているということです。これを都市部の住民がしているのか、単なる競争で言えば地方から取り返すということを考えれば地方以上の努力が必要なはずです。実際、自民党が小泉政権の当時、小泉首相は「自民党をぶっ壊す」といって、地方型から都市型へと自民党の性格を変えようとしました。それが続けば自民党は大都市に基盤を置いた都市向けの政策を展開する政党になって行ったかもしれないのです。そうなれば、議員構成も都市が中心となって選挙区構成も、それに合わせて変えていくインセンティブが生まれる。しかし、その後の選挙では自民党は都市部を中心に大敗北をうけ政権を譲り渡します。議員としては努力しても報われない事例を作ってしまったわけです。別に民主党に投票したのが悪いという単純なことではなくて、政治を変えようという継続的な努力を、選挙を利用したインセンティブという点でやっていたのかということなのです。これは一種の市場原理と考えてみてください。議員をこちらに誘導するためにニーズを掴み努力を真剣に続けたものが市場で勝つのは当然ことではありませんか。それをやっていないで、不公平だというタテマエをいうのはズルです。平等というのは機会の平等のことで、結果の平等ではないはずです。今回の違憲判決については、努力をするということをしないで、結果の平等を求めるという反則をしているように見えて仕方がないのです。

異常に長い書き込みになりましたが、もしこれを読んで不愉快な思いをされた方がいらっしゃるようでしたら、ご勘弁願います。たんなるいちゃもんではないかと怒りを覚えた方もいらっしゃるかもしれません。ただ本人はロジカルなつもりでいます。もし、論理が破綻していると考えられた方がいらっしゃるようでしたら、お手数かもしれませんが、ご指摘いただければ幸いです。私自身、できれば、これは誤解である、あるいはここに書いたことは理不尽であると思い、自分を納得させたいという思いもあります。

また、一連の雑感をお読みいただいている方には、ここに書き込んだことは、IRということに置き換えて読み込めると思っていただいた方が抵抗感は少ないかもしれません。

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