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2013年4月12日 (金)

濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(2)

1章 前田敦子はキリストを超えた

AKBのドキュメンタリー映画『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on─少女たちは傷つきながら、夢を見る』は、AKBが宗教であるとすれば、間違いなくその聖典の一つとなる作品である。そして前田敦子がキリストを超えた瞬間が、収められている。一つは総選挙である。2011年に行われた第3回選抜総選挙の場で、一位に返り咲いたあっちゃんが発したかの有名な言葉、「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」。この言葉に充溢するあっちゃんの利他性こそがキリストを超えたアルファにしてオメガのポイントである。

もう一つは、同年夏に西武ドームで開催されたコンサートのドキュメンタリー『AKB48 よっしゃ~行くぞぉ! In西武ドーム』での一場面である。二日目、あっちゃんは極度の緊張から過呼吸に襲われ、担架で運ばれてしまう。なんとか本番開始前には間に合うものの、また途中で過呼吸に襲われ、舞台裏も身動きも取れない状態となる。しかしそれでも、息を吸うこともたつこともままならないような状態でありながら、彼女は『フライングゲット』のためにステージへ向かう。それは総選挙で彼女がセンターを勝ち取った大事な曲である。センターの責任とプライドが、彼女をステージへと駆り立てる。だが、どう見てもまともな状態ではない。イントロがはじまった瞬間、スポットライトの光愛華に浮かび上がるのは、先ほどまで苦渋に満ちていたはずのあっちゃんの、ぎりぎりの状態でつくられた精一杯の笑顔だった。そしてあっちゃんは立ち上がり、手を広げる。この瞬間、私は十字架のキリストを超える姿を見た。

あっちゃんは、なぜ「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」という言葉を発したのだろうか。まずはその背景から探ろう。ここで、AKBの特徴である「アンチ」の存在について触れる必要がある。AKBには二種類のアンチがいるとされる。まず一つ目は、AKBの存在自体が気に入らない「AKBアンチ」の存在である。AKB自体に批判的な一群である。しかし、AKBヲタの間では、もっと大きな存在感を持ったアンチの存在が知られている。それが二つ目の「AKBヲタ内アンチ」とも言うべき、AKB各メンバーに張りつく「アンチ」である。AKBヲタコミュニティの内部においては主要なメンバーごとにアンチの一派が存在しており、そのメンバーに対する罵詈雑言を2ちゃんねるなどで展開しているのだ。しかし、アンチは特定のメンバーを叩くのか。その理由は一つに限られる。秋元の「ゴリ押し」である。あっちゃんは絶対的エースと言われるように、初期の頃からセンターのポジションを任されてきた。そのポジションを決めるのは総合プロデューサーの秋元である。そして他のメンバーを推しているヲタから見れば、それは実に気に食わない事実である。秋元率いる運営の「ゴリ押し」と、AKBヲタたちの「推し」の対立。AKBにおいては、ゴリ押しから必ずこぼれるメンバーが存在する。どれだけ人気がなかったとしても、そのメンバーを推すヲタは必ず少数でも存在する。そしてその中から、憎しみに満ちたアンチが生まれてくるのを決して避けることはできない。そもそもAKBの総選挙が始まったのも、こうしたアンチたちの声があったからだ。

あっちゃんは、絶対的エースという立場ゆえに、アンチの標的に誰よりも長く晒されてきた。さらにあっちゃんの場合「前田アンチ」の存在を直接に知る機会にも遭遇していた。第二回の総選挙で、あっちゃんは大島優子に一位の座を譲った。その次の第三回総選挙で、一位の座に返り咲いた。それは祝福されるべきことである。しかし彼女は、自分の存在を快く思わないアンチたちがいることを想わずにはいられなかった。だからこそ彼女は、AKBとしてのセンターの責任を引き受けながらも、「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」と発したのだ。その徹底した利他性に感染せざるをえないのだ。AKBが凄まじいのは、そしてあっちゃんがキリストたり得たのは、このアンチがあり得たからなのだ。

ネット上にいる有象無象。口汚いアンチなぞまともな人間ではない。だからアンチはスルーするなりブロックすればよい。どこにいてもアンチの攻撃にさらされるリスクを帯びたこの日本社会において、いまもっとも標準的で賢いネットリテラシーとして推奨されているのは、アンチに直接向き合わないという態度である。しかし、あっちゃんはアンチに正面から向き合い、むしろ自分こそが最大のアンチになろうというのだ。アンチからの声に耐え、いやむしろ自らをさらに鍛えるという、まさに超人の所業というほかない。AKBのメンバーたちは、たとえあっちゃんのような絶対的エースであろうとも、誰かに推されていなければ、アイドルとして活動し得ない。アイドルという資本主義における「商品」である限り、彼女は主体としては不確かで、あやふやで、か弱い、半透明の主体であらざるを得ない。それはAKBのヲタも同じだ。匿名掲示板でなければ言いたいことも言えないような言葉を持つ人間としてはいかにも中途半端な弱者。しかしAKBにおいては、つまりメンバーとヲタという半車体同士がつながりあうことで、あっちゃんのような「弱者なのに超人でもあるような存在」を生み出してしまうのだ。ここれは、多くのAKBメンバーにもある程度共通している。匿名のアンチに対してクリティカルな態度をとっている。自分の気づいていないことを指摘されるのはありがたい。つまりは匿名のアンチからの声を、無意識からの批判として活用する。それは、大きな鏡に映しだされた自分の姿を自分で見て反省的/再帰的に捉えるよりも、はるかに強力な反省たり得るのではないだろうか。匿名のアンチが跋扈する「再帰的近代」における、新たな再規制の可能性はここにある。その可能性の中心にいたのが、まさにAKBの絶対的エース、あっちゃんなのだ。

 

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