無料ブログはココログ

最近読んだ本

« 濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(2) | トップページ | 濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(4) »

2013年4月13日 (土)

濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(3)

ここで筆者はアンチの問題は情報社会の居間に始まったことではないとして原始キリスト教に遡る。吉本隆明の「マチウ書試論」を取り上げる。吉本は新約聖書は、それまでのユダヤ教を中心とした宗教的テクストの寄せ集めから作られたパッチワークであり、メシア的存在をそれまでのテクストの要約にそってこじつけで捏造した、いわば二次創作に過ぎないと吉本は言う。なかでもマチウ書(マタイ伝)は剽窃書だと言って憚らない。しかし、吉本が着目するのは、マチウ書の作者がキリストという新世代のメシアを、いわば当時の時代状況における宗教的中心とするうえでキャラクターに込められた実存的設定である。それは、「預言者は、故郷や家では、軽蔑される」というものだ。しかし、それは単に中二病的な─つまり反抗期の青少年にありがちな─実存のあり方を、ただキリストに当て嵌めただけといえなくもない。重要なのはここからだ。吉本はこの近親憎悪を、当時のマチウ書が書かれた状況に敷衍する。つまりユダヤ教への近親憎悪として。またマチウ書は、既存の秩序に対する敵意を近親憎悪の形で告白している。ではなぜ、マチウ書において近親憎悪は、すなわち既存の秩序との鋭い対立は必要だったのか。それは私たちの言葉で言えば、「アンチ」がいなければ超越者は輝かないからだ。そこにあるのは、まさに「アンチがいるからこそスターが生まれる」というAKBのセンターをめぐる構図そのものである。しかし、キリスト教だって勝ち組になれば必ずその後偉そうに振る舞うではないかと吉本は身も蓋もない批判を突きつける。どれだけユダヤ教に対するアンチをぶっても、結局は第一座=センターになればかつて批判したものと同じになってしまうという。いいかえれば、誰もが立場次第でものを言うしかないということ。有体に言えば相対主義の問題。それをここで吉本は相対主義の絶対性を掴みとってしまうのである。どれだけキリスト教のような思想/宗教が優れて倫理的なことを訴えていたとしても、それはしょせんその場に置かれた状況のものでしかないということ。いいかえれば思想の絶対的な相対的性格。ぞれだけつよぃ人間の思想も意志も、「関係性」の前では無力である。関係性こそが絶対である。これは言い換えれば、アンチと対立する「関係性」を最も掻き集めたものこそが鋭く思想的に輝くということを意味している。思想の高貴さはその内容が決めるのではない。アンチがどれだけいるかに依存するのだ。宗教も思想も、相対主義からは決して逃れられない。どれだけ倫理的であろうとしても「疎外」は起こってしまう。つまり、本来であれば加担したくないようなものにも加担してしまう。だから、そのとき置かれた状況と人間関係のただななかにおいて、ただ「加担」するしかない。それだけが「絶対」的である。まさに実存主義的なアンガージュマンでもあり、後に席巻するポストモダン思想の「脱構築」を思わせるようでもある、この「関係の絶対性」という吉本の言葉、それは「思想」そのものではないが、しかし「思想」としか言いようのない、常に相対性の中で揺れ動く何かを捕まえた言葉である。そしてここでいわれる「関係の絶対性」は、まさにAKBにおいて生きられる形で作動している。

AKBには徹頭徹尾、メンバーをとヲタの間のコミュニケーションという「関係性」だけがある。だからあえてこう言おう。絶対的なまでに矮小化され、思想を失う形で純化され、しかしそれゆえに現に生きられた「関係の絶対性」の器、それこそがAKBであると。「関係の絶対性」においては、アンチがいるからこそスターが生まれる。キリストのような超越的存在が生まれる。情報社会/ポスト近代という、匿名のアンチが無数に蔓延るこの末法の世において、むしろアンチの存在をスルーするのでもなくブロックするのでもなく、正面から向き合うことによって誰よりも利他性と再帰性を帯びうることができるのが、AKBの「センター」なのだ。私達はその「可能性」の中心こそを捕まえる必要がある。彼女たちは、匿名のアンチに叩かれる。しかしその声を真摯に受け止める者だけがセンターの資格を持ちうる。そしてその者が発する利他性に満ちた言葉にこそ、センターの正当性が宿る。それはあたかも、ネットワーク社会の「原罪」、すなわち「匿名で叩く下衆な快楽」という匿名アンチの欲望を贖うかのようだ。それを誰よりも実現して見せたからこそ、あっちゃんは絶対的エースたり得た。筆者の考えでは、AKBのセンターは情報社会における新たな宗教的/超越的存在である。そしてAKBという宗教が凄まじいのは、おそらくあっちゃんだけを生み出して終わるわけではない点こそにある。数年単位で超越的存在を「転生」し続けるAKBの可能性。センター一人一人の規模で言えば、到底キリストにはかなわないとしても、小さなキリストを常に生み出し続けるとしたら、私達はいまそうした未曾有のシステムを目の前にしているのだ。

« 濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(2) | トップページ | 濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(4) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(2) | トップページ | 濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(4) »