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2013年4月 9日 (火)

「ラファエロ展」(6)~ローマのラファエロ 教皇をとりこにした美(2)

Raffaself2『友人のいる自画像』という作品です。最初は、ラファエロの作品とは思えませんでした。展示会場に居並ぶ作品の中で、これは異彩を放っていました。他の作品との違いが大きいんです。華やかでないし、暗いし、繊細さも感じられないし…、これが聖母像を書いた同じ画家の作品なのか、と意外に思わせル作品です。カラバッジォの作品と言われても、信じてしまいそうなほどです。

灰色の虚無のような暗い背景から浮かび上がるような二人の男性。二人とも髪の色は黒で髭を生やし、暗い(黒に見える)色の上着をまとっている。さらに、画面左から光が差し、その光と影の対照が際立たせられているため(まるでカラバッジォを思わせるほど、間一髪でわざとらしさを感じさせないギリギリのところまで対比的にしている)画面右手がほとんど陰になって暗くなっている。そのため、二人の顔の光のあたる部分と白いシャツ、そして手の一部を除いた以外の部分は、すべて黒い系統の色で塗り込められています。その黒だけで、ラファエロの作品にある明るさとは正反対の作品となっています。明るく、派手な中に、これ一作ポツンと置かれていると異様な感じすら受けます。

そして、構図を見て下さい。この絵の中心は背後に立つラファエロと思しき人物です。しかし、彼は画面の中心に位置せず、しかも最前列ではなく、中景で左側に一歩退いたような位置にいます。その代わりに画面中央にいるのは若い男性で画面全体に占める面積はこの男性が多くて、左側から差し込んでいる光は専らこの男性に注がれています。形式上ではこの男性が画面の中心を成しているはずですが、視線を背後のラファエロに注ぎ、画面での存在を自ら主張していません。その視線は、ラファエロに頼り切っているかのようでもあります。さらに続けると、それではラファエロが中心かというと、彼に注がれる光は弱く、中央の若者に比べて人物全体が薄暗いなかにいます。心持ち存在感が薄く感じられもします。何となく顔色などから生気があまりなく、目は虚ろな感じすらしているのです。これは、若者がラファエロに視線を投げかけているにもかかわらず、その視線の強さが分かるように描かれているようなのとは好対照です。そして、画面右側は影となっています。明らかに、左右の均衡を欠いたように、人物は左に寄っているのです。ラファエロという人は洋式とか約束事には比較的忠実な人だと思いますが、このような構成は珍しく破格です。おそらく、何らかの意図はあったのではないかと思いますが、私には想像がつきません。

そして、ここに描かれている二人の人物の顔の部分、黒い画面の中で、不自然なほど浮いていて、顔の描き方がわざとらしい、なんか濃いのです。他のラファエロの作品での人物の顔のさりげなさとか、慎ましやかな描き方と対照的な、きっちりと輪郭を際立たせて(特に若い男性の目鼻立ちがキッチリし過ぎて、眼がバセドー病患者のように飛び出したように見える)、単純化をして、それとわかるようなデフォルメを加えて、ラファエロ本人が描いたというのではなくて、ラファエロの描いた顔をあまりうまくない若い画家が模写したものを、今度はラファエロが繊細な筆致で写したかのような感じがします。

しかし、そういうものを跳び越えて凄いのは、例えば二人の人物の肌の艶とか張りとか、そういうものが描き分けられていて、ラファエロの存在感の薄さに対応するように顔色とか肌の生気とかが中央の若い男性との違いがはっきり分かることです。そして、黒という色の使い分け。画面の大半の部分が黒系統の色で塗り潰されている、その部分が一様ではなくて、その黒の変化、使い分けの見事を見ているだけで飽きることはありません。例えば、同じ黒髪でもラファエロと若い男性の髪の毛は同じではありません。その微妙な違いを、描いているのです。そこからも二人の人物の違いがまた判ってきます。

この作品については、中央の若い男性は誰なのかということから、二人の関係は何なのかといったことが議論されてきたと言いますが、私には、それはあまり重要なことではなく、若い男性を置いたことで、対比的にラファエロの未だ若いながらも、何となく影が薄くなってきている様子が(本人にも自覚があったのではないか、それゆえにこのような作品を描いたのではないか、と想像してしまいます)、明らかに分かるのです。そして、穿って見てみれば、画面右側が影になっているのは虚無として、画家自身が死期の近いことを予感していた現われと妄想したくなるほどなのです。

 

この後、展示はラファエロの継承者たちということで、ラファエロの弟子や彼の影響を受けた人たちの作品展示に続きますが、ラファエロ本人の作品を見た後で、比べるように見ると、そういう先入観があるからかもしれませんが、「落ちる」との感は否めず、とくに感想を書くまでのところではありませんでした。

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