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2013年4月19日 (金)

濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(7)

第4章 AKBは世界宗教たりえるか

AKBは普通に考えれば宗教ではない。当然である。それはアイドルに過ぎない。たしかに、たかがアイドルのようなものに、ある一定量の人々が深く没入しているという点で言えば、ある種のカルトや新興宗教に似ているところがなくもない。しかし、私が本書を通じて言いたいことは、そうした印象論のレベルでAKBが宗教に似ているということではない。いや、印象論も間違いではない。ひっくるめて、AKBは何か宗教のようなものとしかいいようがないコミュニケーション・システムなのだ。それは世界観をまるごと書き換えてしまうようなものとしてある。

AKBの特徴は第一に「近接性」である。会いに行けるアイドルをコンセプトにするAKBにおいては、劇場や握手会といった場で、極めて近い距離でメンバーとコミュニケートすることができる。たったそれだけのことである。この「近接性」こそが現代における救済としての意味を持ちうる。現代社会の隅々まで行き届いている資本主義は、人々を疎外するからだ。それはそして難しいことではない。お金というものが絡んだ瞬間、本当のコミュニケーションは失われ、お金だけで判断されるドライな関係性しか産まなくなる。誰もが直感的に理解していることである。そうした疎外は出来ればないに越したことはない。だが市場経済は極めて便利だし、だから地球全体を覆っている。ここからの丸ごとの救済を志向したのが、かつてのマルクス主義であった。だが、AKBは違う。AKBの特徴は、あくまでCD販売を主としたアイドルグループとして徹頭徹尾資本主義に乗っかった「商品」でありながら、近接して会うことのできる権利を、メンバーとファンとの間で過形成を築くことのできる権利を、販売している。それは見ようによっては、本当の人間と人間の関係性からの疎外にしか見えないだろう。しかしそれは違うのだ。AKBでなければ生まれない関係性があるのだ。劇場や握手会といった場で、日々、AKBのメンバーとファンの間では、無数の小さな関係性が生み出され続けている。いま、AKBのような関係性そのものを商品として売るアイドルが出てきたのだ。いわば資本主義を批判するのではなくパックする形で、疎外を近接に置き換えていく宗教的装置。それがAKBなのである。

AKBの特徴は第二に「偶然性」である。劇場抽選、入場順抽選、コンサートチケット抽選展。AKBにハマるということは、偶然性に多くの部分を左右されることを意味する。もちろん推しメンを誰にするかは自由だ。しかし近接性あふれるAKBの現場においては、偶然性がいたずらをする。ハーバーマスによれば、資本主義のようなシステムは人々を疎外する。生活世界、つまり近接した距離における、人と人とが向き合った打算のない、対等でフラットな関係性こそ確保しようとしなければならないと。ハーバーマスはそれを開かれた理性的討議のルールという形で確保しようとした。しかしAKBは違う。劇場である。討議ではなくレスのようなコミュニケーションを通じて、人々の間に「生活世界」を出来る限り確率的に分配すること。それは認知資本主義における、コミュニケーションを平等に分配するというリベラリズムの実践なのだ。この「偶然性」こそが現代における救済としての意味を持ちうる。現代社会の特質はリスク社会にあるからだ。現代社会は高度に発達した科学技術とグローバル経済資本によって、常に強大なリスクを抱えるようになった。そしてそのリスクは個々の人々がばらばらに自己決定した上で引き受けるしかなくなる。こうして放射能のような確率論的リスクは、人々をバラバラにしてしまう。もちろんAKBは、こうしたリスク社会や再帰的近代の問題を正面から解決するものでは当然ありえない。むき出しの「偶然性」に身を晒すとはどういうことか。それは劇場におけるBINGOのような偶然性に身をゆだねて、推しメンに導かれて、「誰かのために」生きることだ。それは未来を予測したり、過去を振り返ると言った、普通の人間であれば当たり前に持っている時間の感覚を無化することである。ただ目の前にある「いま・ここ」を全力で生きるということ。これである。

では果たして何がAKBを特異な宗教たらしめているのか。それが「推す」ということである。推しメンのために、生きるということだ。AKBにおける一つ一つの「現場」は、「近接性」と「偶然性」を掛け合わせた刹那的空間に過ぎないかもしれない。しかしそれを入口のきっかけに、「推す」ということ。AKBの少女たちは、結局のところはアイドルである。つまり商品である。だから、彼女たちの「関係性」を買うという形でしか、彼女たちアイドルの存在を「推し」支えることはできないのだ。基本的に。AKBという宗教において、私達はメンバーの誰かを「推す」ために生きている。たまたま偶然出会った少女たちに、そこまで思い入れることができるということ。この時点で、もはやAKBは宗教というほかない。それは神が失われたこの社会において、端的に生きる意味を「近接性」と「偶然性」のもとで与えてくれるのだ。

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